13 情緒不安定
「佐々木せんぱぁい! 何処行くんですかぁ!」
駄々っ子っぽい藤堂の叫びに良心が刺激されたのだろう。第三会議室から半分以上出かかっている佐々木は、「う」と一瞬のとまどいを見せる。が。
「……便所!」
見えすいた、ヘタクソな言い訳を叫ぶ。一瞬迷った意味が全くない・すぐに嘘だとばれてしまう声色と表情だ。目が泳いでいる。
藤堂はパーマの髪を激しくなびかせて薫を振り返る。
「真野先輩!」
「……分かってるよ、」
さっさと執行部室からエスケープしようとしている佐々木を急いで追うのは薫の役目。これが日常茶飯事なので、藤堂が自分の名を呼んだときはだいたい佐々木の捕獲だと察しが付く。
大会の前々日の放課後。最終打ち合わせを行っているところだった。実行委員も中枢の役員なのだ、責任と自覚が欲しい。このまま会議から逃げられては、当日の進行に支障をきたすかもしれない。
話が少し堅くなってくると、佐々木は逃げ出す癖がある。
下級生はそれを面白がっては笑い、その上、彼らは佐々木に好意的だ。こんなふざけた人間が歓迎される訳が薫にはサッパリ解らない。
一方、そんな佐々木親衛隊の一人であった長浜の様子が変わった。最近では、気だるそうに窓の外を眺め、関心薄そうに振舞う。無関係なはずの薫に対してさえも(彼と同一視されているのか)敵意を感じる。佐々木と長浜の間で何かひと悶着あったな、と邪推しては頭を振る。それは彼らの問題であって、薫の係わるところではない。さわらぬところに祟りなし。
執行部室を出て数メートルも進まないうちに佐々木の腕をとらえる。
彼は珍しく顔をしかめていたので、思わずつかんだ手の力を緩めてしまった。佐々木はすかさず、思春期の子どもが親に対するような乱暴さで薫の手を払った。
「便所だっツーの! 何、薫ちゃん一緒に小便したいの? それとも。個室でこの前の続きでもする、」
一方的に不機嫌を撒き散らす。
普段陽気な佐々木が不穏な雰囲気を漂わせると、場の空気は極端に冷たくなる。こんな彼はなかなか目にしない。少し用心する必要がありそうだ。
しかし、やさしく背をさすってやる前に、言うべき事はある。
「……俊、あんまり藤堂を困らせるなって。生意気なのは解るけど、それは見た目だけだろ」
薫はいつの間にか彼を『俊』と呼ぶようになった。この一ヶ月、友情の上でも、それ以外の何かでも、彼らが接近した証だ。
何の前触れも無く薫に唇が塞がれた。やはり、相手の唇によって。
「ば、馬鹿! 人に見られたらどうすんだよ!」
彼は時々こうして不意打ちのキスを繰り出してくる。こんなことでは、避ける間もない。誰に目撃されていてもおかしくはなかった。
「別に、いいだろ。……なぁ、薫ちゃん、………藤堂の尻に敷かれてるんじゃねーの」
「はぁ? 尻に敷くも何も、あいつは委員長だ。指示を出すのが仕事だろうが」
佐々木は一歩踏み出し、薫の腕をひねり挙げて壁に縫い付けた。足も足で押し付けられてしまっている。
筋力では彼に敵わないので、早々に無駄な力を抜いて白旗宣言だ。
「わかんねーのかよ! あいつ、薫ちゃんのこと、絶対狙ってる。あんまり隙見せるなよ」
呆れてため息をつく。
「俊と同じ趣味の人間がそうそういてたまるかよ……。第一、俺は自衛力の無いお嬢さんでもなければ、お前は俺の恋人でもない。頼むから、情けないこと言うな」
男手に吊し上げられた格好では説得力に欠けるが。
「……へぇ? 薫ちゃん、みんなに裏でなんて呼ばれてるか知らないの?」
「なんだよそれ。苛めか?」
「苛めのほうがまだいいね。俺が守ってやれるから」
「お生憎。苛められっ子くらい経験してるから何とかできるぜ」
佐々木の目が、ギっと獣めいた目になった。殴られるのは嫌だな、と思いながら強張って目を閉じる。ところが、佐々木が手を挙げる気配は無い。
代わりに、首元にぬらっとした生暖かいものが走る。佐々木の舌先だと気づくのに時間はかからなかった。
強く吸引された痛みが走る。
「……消えたらまた付けてやる。俺のことちゃんと見るまで付けてやる」
薫は苦々しげに彼の瞳を見据える。しかし、強気な言葉の割りに佐々木のそれは不安げに揺れていた。
「なんだよ、その顔は、」
その純粋な球体から、彼に似つかわしくない涙が今にも零れてしまいそうで、思わず、薫は彼を抱き寄せてしまった。佐々木も応えるように強く腕に抱えた。廊下の壁の硬さから守るように、薫の背中には彼の腕が回されている。
「……見てるだろ、俺、お前のこと見てるじゃねーか、」
長い沈黙があった。佐々木の口が何度か開閉した。何かを伝えようと必死なのだ。
「……どうしよう、俺、薫ちゃんが好きだよ。……でも、友達でもいたいんだよ。『俺も好きだよ。』なんて言って欲しいんじゃない。『付き合う』なんてのも、全然違う。なのに、……エロいことしたいし、独り占めしたいし、苦しいんだよ。俺、おかしいんだろ? 気持ち悪いだろ?」
――それは、(多分)告白だった。
気を緩めたら涙に押し流されそうな程に、張り詰めた低い声だった。
「なんで……俺のこと好きじゃないって言ってたじゃねーか。……どうしてアホの佐々木がこんなに情けなくなっちまうんだよ……」
「そんなの、俺が一番困ってる、んだよ」