3.庭の魔物
昼間はそれなりにロサ属の歴史や作法を学ぶ時間が設けられているが、午後は大抵何もない。次期長老の妻と言っても政治的には何も期待されていないどころか「政治向きには口を挟んでくれるな」という空気が見え見えだった。
アケイシャは自分に何が許されていて何が御法度なのか見当もつかないので、その都度侍女頭にお伺いを立てる羽目になる。これは女主人(の位置に一応いるもの)としてなかなかつらいことだ。
「ねえパトリシヤ」常にそばに控える年嵩の侍女頭に声をかける。「わたくし、庭園でお茶を飲みたいわ」
「さようでございますか、奥方様。せっかくのご希望でございますが、本日は風向きが悪うございます。お茶でしたら温室になさいませ。すぐに準備をさせます」
侍女頭は全く表情を変えず穏やかな声音で答えているにも関わらず侮蔑の色を潜ませるという技術を駆使してくる。
苛立つ気持ちを表に出さぬよう気を付けながら立ち上がったアケイシャは、侍女頭の手が届かないうちにバルコニーから外に飛び出した。
「ちょっと散歩してくるわね! お茶の用意ができたころに温室へ行くわ」
「あれでヒリアーエ様の奥方とは……先が思いやられますわね」パトリシヤがため息をつきながらほかのメイドたちに目配せをした。
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「ちょっとくらい息抜きしないとこんなところでは暮らしていけないわ。それにしてもよく手入れされたお庭ね。余計な草花や飛び出した枝なんかひとつも見えない」
刈り整えられた広い芝生、美しく配置された花々。所々に木陰を作るよう木も植えてあるが、死角ができにくいように草木の密集した場所はない。おそらくこうして歩き回るアケイシャの姿も邸からは丸見えだろう。
白蝶草の一叢を見ながらさらに奥へ歩くと、赤い針状の花が房状にモリモリとついた木々の向こう、背の高い黄色の花が勢いよく茂っている一角を見つけた。これは庭園に植えるような草花とは違うのでは? 訝しみながら近づくと、整備された庭園の向こう、レンガの壁が途切れる辺りをズズッ、ズズっと這う何ものかが見えた。
薄茶色に少し濃い茶色のまだら模様、動くときちらりと見える側面はやや白っぽい。牛ほどもあるそれはぬらぬらとした体表を鈍く光らせ、こちらに向かって動いているようだ。
アケイシャは立ちすくんだまま動けない。どこを見ているかわからない目がこちらを睨んでいるような気がして目がそらせない。
「何をしているんだ、逃げろ!」
不意に誰かに突き飛ばされ、たたらを踏みながら振り返ると長い黒髪に黒装束の剣士がひらりと飛び上がってあのぬめぬめした生き物を切り伏せるところだった。
それでも動けずにいたアケイシャの手を黒装束の剣士が引っ張り、邸の近くまで走る。息が上がってもう動けないと思ったとき、「奥方様! まあ、何をしておいでです!」叱りつけるような侍女頭の声が飛んできた。
「パトリシヤ殿。こちらの令嬢がナメクジに襲われそうになっていた」
剣士が侍女頭にアケイシャを引き渡した。侍女頭はとたんに声を震わせ「ナ、ナメクジが、出たのでございますか!?」今にも倒れそうに真っ青になっている。
「奥方様、ご無事でございましたか!? おケガは、どこも齧られたりなどしておりませんか!?」
「ナメクジに齧られる前に私が倒した。ケガがないか、しっかりと見てやってくれ」
ぼうっとしていたアケイシャもやっと我に返り剣士を見た。ハッとするほどの美貌、新緑色の鋭い目。背が高く均整の取れたすらりとした立ち姿に黒い騎士の制服が良く似合う。
「あの、ありがとう。わたくしはアケイシャ・ディアラベータと申します。この御恩に何をもって報えばいいのでしょうか」
「ヒリアーエ殿の奥方か。今後は外に出る際は護衛を付けるようになさるとよい。ロサ属の地域は肥沃な良い土地が多いだけに魔物が多い。これほどひとの住む近くに出るようになったのは最近だが」
「旦那様に進言しておきますわ。アリディフォリア様、部下の方を推薦していただけませぬか」パトリシヤが剣士に縋らんばかりに口を出す。
「よろしい、ヒリアーエ殿から依頼があれば応じよう」
アリディフォリアと呼ばれた剣士はあっという間に去っていった。
「いつもながら鮮やかなお方……。奥方様、さあ邸へ。ほんとにもう、勝手に外になどお出になるからこんな災難に遭うのでございますわ。でもアリディフォリア様にお会いするなんて、災難が転じて幸運の女神様を捕まえたようですわね」
さっきまでブルブル震えていたのにパトリシヤときたらもう立ち直っている。剣士に気を取られてお小言も大した切れ味がないのでほっとした。