プロローグ
懐かしい夢を見た……
暗く冷えきった空間の中、幼い頃太っていた私の容姿を揶揄する声。
何も言い返すことさえできずにうずくまり泣いてばかりいる私に、小さな手がそっと差し出された。同時に柔らかな声が耳朶を擽る。
「泣かないで。成美ちゃんはそのままでもとっても可愛いよ」
見上げるとそこには日の光に照されキラキラと輝く猫っ毛をなびかせながら、緩く垂れた双眸を細めニコニコと笑う男の子の姿があった。
「僕は成美ちゃんが凄く優しい子だってことも知ってる。成美ちゃんがどんなに見た目の事を気にしてたって、僕はどんな成美ちゃんでも大好きだよ」
途端―
私を覆う暗闇は晴れ、心の底から温かい気持ちが溢れてくる。
彼はその柔らかな声で、笑顔で、態度でいつも私をドン底から引っ張り上げてくれる太陽のような人……
私の初恋の人……
――『トン』くん
――ピピピッ ピピピッ カチッ
「んーっ」
けたたましく鳴るアラームを止め、いつものようにベッドの上で伸びをして眠気を覚ます。
久々に嫌な夢見たな……
脳裏に焼き付いた昔の自分の姿に表情が暗くなる。
それを振り払うように頭を振り、勢いよく起き上がった。
パジャマからジョギングウェアに着替え、簡単に身支度を整えた後、一階のリビングに向かう。するとトントンとリズミカルな包丁の音が聞こえてくる。
「あらっ、成美おはよう。もうちょっとでご飯できるからね」
そう言いながらママはお皿にメンチカツを並べていく。
その様子を一瞥しながら私は玄関の方へと歩みを進めた。
「要らない。私ジョギングしてくるから」
「えー! 今日は高校の入学式でしょ? しっかり朝ごはん食べなきゃ」
「しっかりって…朝からそれは重すぎでしょ」
「でも成美好きだったでしょ? ダイエットは悪いことじゃないけど、あなた最近食べなさすぎよ?」
ママの心配する表情にチクりと胸は痛んだが、私には決意したことがある。
「大丈夫だって!ちゃんと栄養は摂ってるし。もうあの頃には戻りたくないのっ」
行ってきますっと私は逃げるように家を後にした。
家を出るとそこは小さな商店街のアーケード。私はこの商店街で精肉店を営む、安堂精肉店の一人娘だ。
アーケードを進んでいくと朝早くから開店準備をする昔馴染みの人達に次々と話しかけられる。
「成美ちゃんおはよう。今日も可愛いね」
「今日から高校生だって? しかも良いところの進学校って凄いじゃない」
「もうこんなに大きくなって…牛大のやつも寂しがってんじゃねぇの?」
牛大というのは私のパパの名前。
精肉店の息子だからって牛は安直すぎる……
たくさんの声に答えながら私の足はある一軒のお店の前で立ち止まる。
店の入り口はシャッターが閉まっており、テナント募集の広告が貼ってある。
見上げると住居になった2階の窓から、いつも私を優しく呼ぶ声が今にも聞こえてくるようだった……
同い年で幼馴染みのトンくんの家は昔この場所で手芸屋さんを営んでいた。
でも9年前に挨拶もろくにしないまま突然引っ越してしまったのだ。
当時は精肉店の娘である宿命なのか、家の食卓にはいつも茶色い食べ物達が並んでおり、それらを気にせず好きなだけ食べ続けた結果……
お世辞にも痩せているとは言い難かった私。
だってしょうがないじゃん!
うちのお肉美味しいんだよ!
ママの味付け最高なんだよ!
いつも太った容姿のことで意地悪を言ってくるから、男の子は苦手。
でもトンくんは違った。
どんな私でも受け入れ、好きだと言ってくれた……トンくんは私にとっての王子様。
そんなトンくんが居なくなってしまって、私は絶望した。
でも、もしもまた会えるなら……
トンくんの隣に堂々と立てる女の子になりたい!
そうして私はダイエットを決心したのだ
大好きだったトンカツを断ち、毎日運動もしてやっと手に入れたこのスレンダーボディー!
時にはティーン向けの雑誌を読み漁り、流行りのファッションやメイクを勉強した。
そして時には少女漫画を読み漁り、女の子らしい仕草や話し方を研究した。
すると中学校に上がる頃には周りの態度が明け透けに変わった。
私を虐めてた男の子の達も掌を返したように優しくなった。中には告白してくる子もいたが、勿論断った。
だって私にはトンくんが居るから!
トンくんは私の運命の人……
こうして努力して理想の女の子に近づけば、またいつか再開出来るに違いないという謎の確信を胸に、初恋を拗らせた私は今日まで生きてきた。
そんな彼との再開が、思い描いていたものとは違うものになることなど私はまだ知らなかった……