アクマのささやき
怒鳴り声が今日も耳に入って来た。
支離滅裂な言葉の暴力は頭に響き、精神的な苦痛へと変わって行く。
最初こそその痛みは大きかったが、徐々に感じなくなってきたのは、毎日のように浴びているからだ。
よく言えば鍛えられている。悪く言えば……はて、なんと言えば良いのか。
「聞いているのか目黒!」
「はい……すみません」
正直、聞いていない。
いつも上司の昔の話や自慢も混じった説教。そして今回発生した小さな出来事。
この小さな出来事をまるで大きな損害かのように言って、怒鳴り散らかす好機に変え、上司のうっぷん晴らしへと変わる。
時代が変われば教育の方法は変わる。別の企業では家で仕事を行い、会議室には椅子を置かず立って打合せをする。そして説教をしない。
説教をしないことが良い事というわけでは無いだろう。例えば『本当に』取返しのつかない事をした場合、それを正すための説教は理解できるし反省もする。
が、うっぷん晴らしで大声を出すという行為は説教とは言わない。ただの奇声である。
「俺が若い頃は客先に出向いて謝罪した。お前はそれを電話で済ませた!」
「ですが、大村商店はここから新幹線で二時間の場所で」
「そんなもの、行けば良いだろう!」
「ちなみに交通費は……」
「お前……自分でやったミスだぞ?」
ズルい質問だ。
ここで『会社が払う訳が無い』とは言わない。あくまでも本人が払うと言わせる誘導。
そして、今回俺がやったミスというのは、渡さなくても良い手土産を新幹線内に忘れてしまったということだ。
とは言え、その手土産は会社の経費で支払った物であり、俺が悪いと言えば悪い。が、毎回渡していた手土産を今回だけ渡さなかっただけで、ここまで怒る沸点の低さに驚いている。
「楽園堂の和菓子はお世話になっている企業にしか渡していない。今回渡さなかったからお客様がショックを受けた可能性を考えなかったのか!」
「すみません……ですが、事務所の奥に同じ箱が二つあったので、もしかして余らせているのでは?」
「それは偶然ほかのお客様が渡した可能性もある。もしかしたら全て空き箱で食べきった可能性もある。大事なのは渡したかどうかだ!」
反論するだけ無駄。というか、お菓子一つで何故ここまで顔を赤くできるのだろう。
そもそもお客さんも同じお菓子で飽きてるんじゃね?
しばらくして上司は満足したのか、ようやく解放してくれた。
ため息をついて席に戻ると、俺の隣の席の花田さんがそっとお茶を置いてくれた。
「お疲れ様です。災難でしたね」
「はは、いつもの事です」
先ほどの説教を忘れて苦笑すると、ふと花田さんのスマホのストラップに目が入った。
……えっと、なんというか、すっごいキモイ。
ビー玉一つ分くらいの大きさのリアルな目玉に、後ろにはコウモリの羽のような物が生えているんだけど?
「その……それ、なに?」
「え? ああ、娘からもらったんです。高校受験に合格したから、あげるって言われました」
待って。
花田さん、ご結婚されてたんだ!
すっごい優しいし、相手がいる雰囲気とか無かったから、もしかしてーって思ってたのに、すっごいショックなんだけど!
「へ、へー。娘さんに。高校合格おめでとう……って他人の俺が言っても変かな?」
「ううん、離婚して金銭的につらい中、公立高校に入ってくれたから、正直娘には感謝しているの。ふふ、目黒さんのお祝いの言葉は伝えておくね」
なんか色々な情報が入ってきて、上司の説教より頭が混乱しそうだ。
「それにしてもこの『空腹の小悪魔ちゃんキーホルダー』って、どこで売ってるのかしら。街をよく見ると女子高生は結構つけているんですよ?」
「そうなの? その……かなり個性的なデザインだと思うけど」
「そこが良いらしいの」
そう言って俺にスマホごと渡してきた。
うわー、なんかモナリザの絵みたいに、ずっとこっちを見てるような錯覚がするんだけど。
そして翼も造形にこだわっているのか、シワとか爪っぽい部分もかなり細かい。
どこのメーカーが作ったという刻印やタグは無い。もしかしてハンドメイド?
「こら! 仕事中に私語はするな!」
「は、はーい! ごめんね」
上司の大声に花田さんは急いで俺からスマホをスッと取った。
そしていつも通りの日常が始まった。
ただ、あの目玉だけが忘れられない。そんな日だった。
☆
仕事が終わり暗い夜道を歩いていると、路地裏から女子高生らしき人が出てきた。
笑いながら出てきたが、正直この時間帯にここを歩くのは危ない気もする。
と、よく見ると鞄には目玉のキーホルダーがついていた。
「へへーん。これでタカ君はウチのだね」
「私もヒロ君とー」
そんな会話をしながら遠ざかって行った。
路地裏に何かあるのだろうか。そう思い、俺は女子高生が出てきた場所に入った。
入り組んだ道。何か所も曲がる箇所があり、すでに十分は歩き続けていた。
すると、ようやく行き止まりにたどり着いた。
そしてそこには小さなプレハブが一つ。薄暗い光が出ていて、小さく『寒がり店主のオカルトショップ』という看板があった。
オカルトショップ……もしかしてここで買ったのだろうか?
中に入ると、鈴の根が鳴り響く。そして店の中はかなり精密に作ったお化け屋敷を凝縮した感じになっている。
狼のはく製にコウモリの羽。トナカイの顔も店に飾っている。
「いらっしゃいませ」
「ぬああああああああ!」
急に後ろから声が聞こえた。
「失礼ですね。別に驚かすつもりは無かったんですけどね」
「へ、女の子?」
頭と首元にはマフラーをぐるぐる巻きにして、服装もまるで冬服。いや、それ以上に厚着に着こんでいる。
顔だけが少し見えている状態で、表情がわからない。
「成人男性とは珍しい。最近は女子高生が多くて、若い方の言葉を覚えるのに苦労していました」
「はあ、えっと、ここは?」
「迷子ですか? ここはざっくり言うと雑貨店ですよ。扱う商品は全て個性的な物ばかりですけどね」
そう言って店主さんは棚から商品を取り出した。
「それは……確か『空腹の小悪魔ちゃんキーホルダー』?」
「おお、ご存じでしたか。ワタチが作った一品です。一個二百円です」
……思ったより安かった。
「あ、その目は『うわーキモチワルイ』って目ですね」
「いや、それもあるけど、思った以上に安いと思ったんで」
「おや、そう思います? これは暇なときに片手間で作ったモノなのですが、それ以上の値段をつけてくれるとは。嬉しいですね」
そう言って店主さんは空腹の小悪魔ちゃんキーホルダーを透明な袋に入れた。
「褒めてくれたので、これは差し上げますよ。これからごひいきにしてくれれば嬉しいです」
「え、いや、ただでもらう訳には」
「では、他の商品をお安くするので何か買いませんか? そこにこのキーホルダーをおまけします」
何かと言われても……。
「例えばこの『十秒だけ無意識になり、別人格の自分が怒りの矛先を殴る錠剤』なんてどうでしょう」
「何その嘘の塊りを固めた錠剤は!」
思わず初対面なのに突っ込んじゃった。
「これの弱点は、怒られている最中に飲まないといけないので、相手によってはその行動にさらに怒ってしまうことです。とは言え、飲んでしまえば脳のリミッターが解除されるので、次に目覚めた時は……あ、これ以上は言わない方が良いですね」
デメリットまで教えても、買わないからね!
そもそも薬事法とかその辺引っかかるでしょ。ただの小麦粉とかを固めたお菓子とかだと思うけども!
と、色々とツッコミ箇所が満載だが、ふと置いてあったペンに目が入った。
「これは……」
凄く立派な万年筆。先端は白い獣の歯のようなもので、持つ部分は木でできている。
近くの紙に書いてみると、インクは赤色らしい。
「この万年筆は?」
「あー、それは『元気な人であればすらすらと書ける万年筆』です。かなり造形にもこだわったので贈り物とかにはちょうど良いのですが、あまり売れないのですよね」
「なぜ元気?」
「物を書くのは体力が必要……という意味です。まあ、願掛けくらいに思ってください。勉強がはかどるーくらいに」
「へー」
一目惚れとはこのことだろうか。凄く綺麗なインクだし、形も良い。
「これ買います。いくらですか?」
「それなら千円です」
「安!」
「全然売れないのですよ。それに、作ろうと思えば作れますからね」
百貨店で売れば絶対に数万はするであろう立派な万年筆が、千円である。ブランド物の偽物でもここまで安くはないだろう。
「じゃあこれで」
「ありがとうございます。あ、空腹の小悪魔ちゃんキーホルダーは約束通りおまけです。大事にしてくださいね」
「ははは」
貰ってしまった。とりあえず鞄の中に入れた。
「さて、今日はそろそろ店じまいです。ここは迷いやすいので気を付けて帰ってくださいね」
「はい。ではお先に」
そして俺は走ってその場を去り、何とかギリギリで終電の電車に飛びついた。
☆
翌日。
文房具が変わると気分が変わる。
自分用の書類は昨日購入した万年筆を使い、それ以外は普通のボールペンで作業を進めていた。
「あ、目黒さん。万年筆ですか?」
隣の花田さんが話しかけてきた。そうだ、確か鞄の中に……。
「花田さん、俺もつい買ってしまいました」
「あ! 空腹の小悪魔ちゃんキーホルダー! どこで買ったんですか!?」
「路地裏に売ってたんです。まあ、ちょっと不気味な店でしたけどね」
「へー、娘は譲ってもらったって言ってたけど、売ってる店はそういう店なんですね!」
目を輝かせて話す花田さん。するとそこに上司がやってきた。
「五月蠅い。花田。目黒」
「す、すみません!」
「すみません」
頭を下げた。と、同時に上司は俺の万年筆を見た。
「何だそのペンは」
「これは万年筆です。最近新調しまして」
「生意気だ。没収」
「は!?」
没収!?
「いやいや、どこが生意気なんですか!?」
「君はまだ若い。ボールペンでは無く万年筆なんて使っていたら、悪目立ちするだろう。ほれ、俺が使ってやるから渡せ!」
そう言って手を出してきた。
この上司に逆らえば後々面倒になる。
幸いにもこの万年筆は千円。それほど痛い値段では無い。
「わかり、ました」
「目黒さん!?」
花田さんが驚く。しかし俺は苦笑して上司に万年筆を渡した。
「それで良い。まあ、さっきは騒がしかったから注意したが、これに免じて許す。今後も気を付けるように」
そして上司が去ると、花田さんが小声で話しかけてきた。
(良いんですか?)
(うん。元々千円だから。また行って買いに行けば良いしね)
(まあ、そう言うなら)
どうやら千円という値段を聞いて驚きつつ、納得はしてくれた。これがもう少し高かったら、俺も抵抗しただろう。
と、
次の瞬間
「きゃああああああああああああああああ!」
大きな悲鳴が上司の机の方から聞こえた。
全員が上司の方を見ると、すぐに花田さんの目元に手を被せた。
「め、目黒さん!? 何も見えないです!」
「見たら駄目だ! あれはヤバイ!」
「え!?」
そう。
上司の机の上は、まるで色を染めた水が沢山入ったバケツをぶっかけた感じに、赤く染まっていた。
左手には俺が渡した万年筆。そして、上司は机に突っ伏していた。
「きゅ、救急車!」
「早く! 人命救助!」
「無理無理無理! 近寄れない!」
今も血は流れ続けていた。まるで机のどこかに蛇口があるかのように出てきている。
口から血が出ているわけでは無い。なのにどうして?
「あちゃー。やってしまったんですね」
後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
振り返ると、頭と首にマフラーを巻いた、昨日のオカルトショップの女の子だった。
周囲は混乱していて、誰も少女に気が付いていなかった。
「君は……昨日の?」
「はい。昨日以来です『目黒様』」
何故俺の名前を?
「注意事項を言い忘れていたので、その空腹の小悪魔ちゃんキーホルダーを探りながらここへ来ました。ですが、どうやら間に合いませんでした。いやー、ここまで傲慢な人がいるとは思いませんでした」
「どういうことですか!」
「あれはワタチが作成した血液をそのままインクにする万年筆。指に切り傷を作って悪魔を召喚するという手間を省くために作った代物です。目黒様のような普通の人なら、毎日鼻血を出す程度で済みますが、ぐっと力を入れるとああなります」
ああって……じゃあ今も血が止まらないのって!
「あ、手遅れです。手が万年筆の上にあるということは、手の重さで万年筆を抑え込んでいる状態。つまり、ずっと血が吸われた状態です」
「だからって何もしないことは」
「何もしない方が身のためです。今あの男性に触れたら……目黒様が『殺った』と思われますよ?」
その言葉に、俺は動きが止まった。
「目黒さん、誰と話してるの?」
俺が目を塞いでいる花田さんが話しかけてきた。
「おや、貴女は花田さまのお母さまですね。高校の合格おめでとうございます」
「えっと、見えないんだけど、娘の知り合いですか?」
「直接会ったことはありませんが、貴女の事は知っています。これからも空腹の小悪魔ちゃんキーホルダーを大事にしてください」
そう言って店主さんは部屋を出て行った。
俺は花田さんをゆっくりと廊下に連れ出し、そして目を隠していた手をどけて、状況を説明した。
「え、上司が出血!?」
そして部屋をゆっくりと覗き、大量の血を見てすぐに部屋の中を見るのをやめた。
「うん、ありがとう、えっと……他の部署とか総務に連絡するね」
おそらく他の人が連絡などをやっているだろうけど、きっとこの場から逃げ出したいのだろう。だって、部屋の中は鉄の臭いがすさまじく、そして奥にはきっともう助からないであろう上司が倒れているのだから。
俺は軽く頷いて、すぐに会社の外に出た。
すると、頭と首にマフラーを巻いた少女が見えた。
「店主さん、待って!」
「はい?」
店主さんは足を止めた。俺は店主さんの所へと走った。
「これ、お返しします」
そう言って空腹の小悪魔ちゃんキーホルダーを渡した。
「いえ、無理です。これはすでに貴方の物になっています」
「へ?」
空腹の小悪魔ちゃんキーホルダーを見ると、ジッと俺を見ていた。
錯覚では無い。
本当にこっちを見ていた。
「ひっ!」
手放すと、空腹の小悪魔ちゃんキーホルダーは地面に転がった。
コロコロと転がり、それが止まると、こっちを見ている状態で停止した。
「それは誰かに譲渡しない限り、ずっと貴方の物です。安心してください。これは高校生の間では恋愛成就に合格祈願とか、色々な面で活躍してます」
「そんなのいらないから!」
「いえ、貴方には必要です。現に貴方は一度これに近い存在に救われています」
救われた?
俺が?
「空腹の小悪魔ちゃんキーホルダーで見えていました。あ、貴方のキーホルダーでは無く、花田様のキーホルダーから見えていました。あの上司という方はいつも理不尽に怒り、心を満たしていました。キーホルダーを持つ他の方も同じ悩みを持ち、家では家族やペットに相談しているくらいです」
あの部屋の中に花田さん以外にもキーホルダーを持つ人がいたのか?
「誰もが思う事です。あの人が居なければ良い。あの人がどこかへ行けば良い。ですが、手を出せば自身に影響します。誰かがやってくれないかとあの場では誰もが待っていました」
「だからって、あれは誰も臨んだ結果では無い!」
「それこそ取返しのつかない事という物です。実際に思った通りの事が発生したらこうなります。倒れたから即時に幸せな状況ーなんてありえません。ですが、結果として今の状況は皆が望んだこと。『悪魔に願う』というのはそういうことです」
あく……ま?
呆然と立っていると、ふと、右手の中に何かが入り込んだ。
開いてみると、そこには『空腹の小悪魔ちゃんキーホルダー』があった。
「うわああ!」
思わず投げた。
遠くに転がって行くキーホルダーだが、またこっちを見る状態で止まった。
「恋愛成就に合格祈願。それを悪魔に願うなんて、日本人は餌です。上手く行く人もいますが、後悔する人もいます」
「どういうことだ?」
「恋愛成就に関しては、意中の相手の夢に毎晩願った人物が登場します。一生です。ああ、もしかしたら死後もです。合格祈願に関しては採点ミスが重なって合格になります。まあ、元々それが不要な人もいるので、契約が成り立たないことも稀にあります」
「そんなオカルトなことが起こるか!」
大声を出した。
周囲は驚きこっちを見る。が、俺は気にしない。今は目の前の少女に色々と言いたいことがあった。
「どいてください! 救急です!」
と、そこへ救急車が来た。
「おや、救急隊の方にお仕事を増やしてしまったことは、少しだけ申し訳ないですね」
「人を殺したんだぞ?」
「はて?」
少女は目をパッチリと開けて俺に言った。
「ワタチは何もしていません。説明不足ではありましたが、貴方が万年筆を渡さなければ良かっただけの事。むしろー」
―あなたが上司を殺したんですよ?―
その言葉が耳からでは無く、まるで頭の中に響き渡るように入り込んできた。
同時に、会社からタンカーが出て来て、上司が運ばれていた。
「別に良いじゃないですか。むしろ貴方達にとって一番都合が良い状態じゃないですか? 見てください、救急車には若い方が同行していますが、外に出てくる社員は……あ、やっと一人いましたね」
「何が言いたい」
「貴方は今回の出来事をワタチの所為にしたがっています。それは万が一、貴方が疑われるからという心配から来ています。が、それは杞憂です。万年筆を使ったから血が大量に出たなんてオカルトを信じる人はこの日本に存在しません。そもそも万年筆の持つ部分の吸血器官は現代の技術では発見できず、あの上司の指は他の箇所とほぼ一緒。つまり、今の技術では証拠が見つかりません」
「だからって見て見ぬ振りをするわけには」
「では質問です。あの上司について正直に証言して、貴方に得はあるのですか?」
……答えが出なかった。
仮にあの上司に万年筆を持たせて何らかの原因で殺したと言えば、ただ捕まるだけ。
一方で、何も言わなければ、持病か何かで突然亡くなったという事になるのだろう。
考えていると、もう一度、俺の右手に何かが入り込んでいた。
答えは知っている。『空腹の小悪魔ちゃんキーホルダー』だ。
店主さんはニコッと微笑んだ。
「もしも不要ならその辺の女子高生に譲渡するのをおすすめしますよ。そうすれば晴れて悪魔から解放されます。ワタチとしては貴方のその後の人生を見てみたいものですが、まあ、強制はしません。ですが……」
そう言って、俺の右手に指を刺した。
「それを持った人の恋愛成就率は百パーセントです。悪魔の契約はとても面白いですよ?」
☆
ビルの建て替え工事の為、俺達は別のビルへと移った。
悲劇的な事件から十年。今でも上司……元上司がいた場所の床は黒いシミが残っていた。
亡くなって二年。忘れることができない悲劇だ。
「智也さん……」
「美奈子?」
振り向くと、そこには花田さん……もとい、妻の美奈子が立っていた。
「結局この黒いシミは落ちなかったわね」
「血は仕方がないよ。と言っても、建て替え工事でここも取り壊されるから、最後に黙とうでもと思ってね」
そう言って俺は目を閉じた。
すると左手にぬくもりを感じた。美奈子の手だ。
「不謹慎化もしれないけど、あの出来事で目を隠してくれたのがきっかけで、お付き合いをして、結婚をしたし、嫌な上司だったけど、今思えば感謝している……かな」
「そうしておこう」
完全な悪者にはできなかった。
死の原因は俺が万年筆を渡したから。いや、実際は万年筆を没収した上司の自業自得ではあるんだけど、もし万年筆がどういうものかを知っていたら、絶対に渡さなかっただろう。
とにかく、あの日の出来事について、俺は墓場まで持っていくつもりだ。
そして、もう一つ秘密があった。
「ねえ智也さん」
「ん?」
「よっぽどあの日の出来事がすごかったから、今でも夢に出てくるの。ふふ、起きているときも一緒で、夢も一緒って、すごく素敵だと思わない?」
そう。
俺は今でも鞄の奥底に眠っている『空腹の小悪魔ちゃんキーホルダー』に願ってしまった。
本当に店主さんの言う恋愛成就とやらが事実なのか、実験してみたくなった。
願った二日後くらいに、美奈子から相談があるということで食事に誘われた。当然相談事というのは夢の話。毎日俺が出てきて、いつも楽しい会話をしてくれるらしい。
現実の俺は夢の中の俺と比べてつまらないと言ったら、それでもかまわないと言ってくれて付き合ってくれた。
あの店主の売っている物は間違いなく本物だった。
報告というわけではないが、もう一度店に行こうと思った。
だが、当時の記憶があやふやで、路地裏に入っても店までたどり着けなかった。
それっぽい人は見かけたが、どれも人違いだった。
「あ、そろそろトラックが行く時間だよ」
「わかった。もう少ししたら行くよ」
「うん!」
そう言って美奈子は手を振って部屋を出た。
俺はため息をついた。
あの店主さんと出会ってから日常が一気に変わった。
憎い上司が亡くなり、美人な妻と血はつながっていないが可愛い娘ができた。
そして、毎晩夢に愛する妻が出てくるようになった。
了
はーい、こんにちはー!(超元気な挨拶)
暗いお話の後は明るい挨拶と決めているいと(作者)です!
いつも明るいお話を書いていると言いつつ、この作品の一つ前も少し暗めの作品となりました。いやー、心が疲れているのでしょうか?
さて、今回はパワハラや仕返しを別な角度で実行したような物語となっています。
そして店主さんをできる限り人の心を失わせて、『え? 幸せなら良くね?』という状態を貫き通してます。
実際学校や会社などで「あの人がいなければ凄く良くなる」と思う場合はあるともいます。
かと言って、究極の選択である「凄いパンチ」をした場合、法的にも社会的にも自分に罰が返ってきます。
究極の選択を別の人がやった場合、後味の悪さは残ります。
それらをすべて第三者が証拠も消した状態で実行したら……という感じのとても悪魔的物語となっています。とはいえ、主人公目黒と店主さんは一連の流れを知っているので、後味の悪さはがっつり残った状態ですね。
で、最終的に悪魔の力を知ってしまい、誘惑に負けてしまい、目黒は空腹の小悪魔ちゃんキーホルダーを使ってしまったというのが一つのオチ。
一方で、娘から譲渡された花田さんも、効果があるかどうかは置いといて、願ってしまったというのが二つ目のオチになります。
結局のところ、目黒は誘惑に負けてしまい、空腹の小悪魔ちゃんを使ってしまった。そして花田さんの夢に登場し、花田さんはいつしか惚れてしまって、空腹の小悪魔ちゃんを使ってしまった。因果応報と言いますか、いわゆる取り返しのつかないことですね。
今回も全体を通して明るいお話というわけではなく、そしてセリフが多めのお話となってしまいましたが、少しでも印象に残れば幸いです。
のびのびとこれからも創作活動していきますよー!