4日目(上)
この作品は日本によく似た世界です。
「しゅんくん、もうっ、だめっ」
誰もいない山の中でニーナが僕に涙目でしがみついている。息遣いは「はぁはぁ」と荒く、熱を持った吐息が服越しに伝わってくる。
今は日が少し傾いてきたあたりで、木々の葉に遮られて光があまり入ってこない。要は薄暗い状態である。
「我慢、できないっ」
ニーナは体を震わせて僕に助けを求めてきた。どうやら立っているのも限界なようで、体を完全に僕に預けている状態だ。つまり、完全に密着しているということである。お互いの心臓が交互に振動し、興奮を加速させる。
助けを懇願するニーナの目はとろんとしていて、体の熱も相まっていまにも溶けてしまいそうだ。
――ここからいったいどうすれば……。
*** 4時間前 ***
「着いてから言うのもどうかとは思うんですけど、足は大丈夫なんですか?」
「大丈夫だって。ひねりなれてるから」
月光についた僕たちはその足で目的地である湖へ向かう。2時間のハイキングコースだ。荷物はやや多いがニーナといればあっという間だろう。
今日の天気も完全な快晴で、現在の気温は37度だ。一番熱い時間とはいえさすがに暑すぎる。虫対策で僕もニーナも肌をあまり出していないが、こんなに暑いならいらないのではと思ってしまう。
今日のニーナの服装は『ハイキング 服装 夏』で検索したときに出てくるようなものだ。こっそり調べて僕が選んだ。
上はグレーのTシャツに青のパーカーを合わせた。下はベージュのパンツ、黒いストッキングで歩きやすそうな靴もなんとなく選んだ。帽子もいつもの麦わら帽子ではなく、サファリハットと呼ばれるらしい紺色の帽子だ。山に行くならと昨日買っておいたのだ。そのおかげでアトラクションには乗れなかった。
まあ、予定的に明日はいけないが、いつでも行けるのでそれはもういいだろう。
昨日は少し子どもっぽい服装だったが、今日はアウトドアが趣味の大人な女性スタイルだ。どんなスタイルのニーナもかわいすぎて言葉にならない。だが、夫婦円満の秘訣は何でも言葉にすることだと聞いたことがある。ならば、ちゃんと伝えなくては。
「今日はいつもより大人に見えてカワイイよ。帽子もよく似合ってる」
「急に何ですかっ! からかうのはやめてください」
「昨日は強気だったのに、今日はだめな感じなの?」
「昨日は、気まぐれです。次からかったら今日はもうおしまいですからね」
なるほど。昨日は僕を励ますために頑張ってくれていたのか。でも、気負わないでと言った手前、気を使ったとはいえないから気まぐれだとはぐらかしているんだな。
少し前を歩くニーナに僕は笑いかけた。
「……でも、かわいいって言われるのは嬉しいので、また言ってください……」
振り向かずに独り言のようにニーナがつぶやいた。帽子を深くかぶって顔を見られないようにしているが、後ろからだと耳が真っ赤なのがまるわかりである。
やっぱりニーナはカワイイなと僕は単純にそう思った。
そう思う僕の耳も、まだ夏真っ盛りなのに赤色に染まっていた。
***
「ごめん、待たせた」
「もう、ただでさえしゅん君が寝坊して遅くなってるんですから。このままじゃ歩いてる間に夜になっちゃいますよ」
「それはもう言わない方向でお願いします……」
ササっとトイレを済ませたが小言を言われてしまった。もともとは朝早くに家を出る予定だったが、起きたらもう10時だった。朝起きれないのはしょうがないよね。
ということで予定より4時間ほど遅れてハイキングが開始した。
ハイキングといっても、ほとんど山登りのようなものだ。山登りをしたことがないので、この表現であっているのかはわからないが。
「いい山ですね。駅よりも涼しいですし、思っていた以上に静かです」
「わかる。もっと暑いと思ってた」
駅は恐ろしいほど暑かったが、ここは体感で25度ぐらいだ。多分言いすぎな気がする。
道は意外と歩きやすく、怪我をしていてもたやすく登れている。ただ、大丈夫だと強がったものの、痛みが引いたわけではない。だから、ぐんぐん進めるわけではなく、いつもの速さの半分くらいだ。
ニーナはそれに合わせてくれている。それも黙ってだ。
おとといは天使で昨日は悪魔だったが、今日は長年連れ添った妻のように感じる。
――そんなものは見たことがないが。
「ありがとう、合わせてくれて」
「やっぱり大丈夫じゃないなと思ってました。でも、男の子が強がってるのを見て見ぬふりをするのが女の子の仕事ですから。お水貰ってもいいですか?」
「……はい、ジュースとかじゃなくて水でよかったの?」
「しゅん君がジュースを飲みすぎなんですよ。当分のとりすぎは体に悪いですよ」
水を飲みながらのお説教である。お小言を大事につなげてくるあたりが妻っぽい。
なんだか感じたことがない幸せと温かさを感じる。
こんな感じのやり取りや、くだらない勝負をしながら2時間ほど歩いた。
本当ならもう着いているころだが、僕のペースに合わせてもらったことで遅くなってしまったようだ。ここがどこかわからないが、半分の看板を見てから30分くらい歩いたところだ。
細い道なので僕が前で歩いているのだが、ふと振り返るとニーナが止まっていた。
「どうしたの?」
「いっ、いやっ何でもないですっ」
「僕のことを単純っていう割に、ニーナも単純だよね。その慌てようで『何でもない』は無理があるよ」
「うぅ……」
ここにきて忘れものにでも気づいたのだろうか。ちなみに僕はエアコンを切るのを忘れてきた。今も部屋を23度にするために頑張っているだろう。
「その、お耳を……」
「わ、わかった」
ゴニョゴニョ
「トイレに行きたい!?」
「せっかく小声で伝えたんですから、言わないでください! もうっ」
なんてことだ、ニーナのお手洗いシーンがみれるなんて……。じゃなくて、膀胱が限界だなんて。なんだか下品な言い方でニーナを汚してしまったような気がして急に気が重くなる。
「そんなことはいいですから! とにかくどこかないですか?」
「この辺は、ないっぽい」
「そ、そんな……」
まずい。このままでは昨日とおとといの二の舞だ。何かいい手はないか!
あたりを見渡すが、背の高い木と塊の葉っぱくらいしかない。ハイキングコースに簡易トイレの一つや二つは置いておくべきじゃないのか。
2時間程度で辿り着ける道を1時間半で半分だったのなら、あと一時間くらいかかってしまう。でも、もうそれ以外に方法はない。
「あと1時間くらいで着くから、そこまで頑張れる?」
「わかり、ました。しゅん君には申し訳ないですが、少し急ぎましょう」
*** 現在 ***
あれから30分。何とか歩いてきたが、ついに限界が来たようで今、こうしてしがみつかれている。
「しゅん君、しゅんくん!」
甘い声で名前を呼ばれて何も考えられなくなる。息遣いはどんどん荒くなり、目からは今にもあふれてしまいそうなほどに涙がたまっている。
――何とかしなくては。でも、もう何もない。
「もうさっきのペットボトルしか――」
「いやです! な、なに言ってるんですかっ!」
「だ、だって他にはもう何も……」
とにかくペットボトルよりも大きくて、ニーナが怒らないものをと僕はリュックを漁る。今日の夕食用の鉄板や食材くらいしか入ってないはずだ。あとは、テントと寝袋と着替え……! これは! でもどうしてこんなものが? いや、今はどうでもいい。とにかくこれで何とかなる!
「ニーナ! これを! 僕はあっちに行ってるから」
僕はそれを組み立てて、ニーナから離れるために荒れてるほうに入っていった。
あれを見つけてから離れるまで20秒もしなかった。