0日目
大学二年の夏休み。僕は一つ上のサークルの先輩とデートをしている。茶髪の大人っぽい雰囲気の美人系。今日の髪形はくるりんぱというらしい。身長は僕より少し小さいくらいで、サークル中には顔が近いことにどぎまぎしてばかりだった。
名前は北見春奈。僕は、はるさん、と呼んでいる。今は映画を見終わり、近くのファミレスに入っている。
「トイレから出てきたらマサルがいるシーンすごいびっくりしましたね!」
漫画でよく見る、映画の感想を伝え合うというものをやりたかったのだが、はるさんの反応は芳しくない。少し暗い表情をしている。
初デートでホラー映画はよくなかったのだろうか。
「……ごめんなさい」
突然はるさんが謝ってきた。
「――なんではるさんが謝るんですか! 僕の方こそ初デートでホラー映画とかよくなかったですよね……。すみません。そしたら次、来週とかにまたどこか行きませんか?今度はもっと――」
「そうじゃないの」
いやな空気を換えるために話を変えようと思ったのだが遮られてしまった。はるさんは暗い表情のまま続ける。
「ちょっと言いづらいんだけど」
「……何ですか?」
「罰ゲームだったの」
「……え?」
暗い表情のまま僕の目を見つめてくる。僕ははっきりと言われた『罰ゲーム』という単語で頭がいっぱいになり、言葉が出てこない。
そんな僕を見ながらはるさんは説明を始める。
「私とよく一緒にいる三人いるでしょ? あの子たちと飲みに行ったときにゲームをやったの。それに負けた私が君に告白するっていう罰ゲームをすることになって」
「……なんで……そんなことを……」
僕は独り言のようにつぶやく。
はるさんはそんな僕を見て少しため息交じりに話を続けた。
「彼女たちも冗談のつもりだったとは思うんだけど、お酒も入ってたからそのままの勢いでやっちゃったみたいな感じなの。ほんとにごめんなさい」
「……冗談……?」
――うまく頭が回らない。何か言いたいがしゃべろうとしても声が出ない。
隣のテーブルのカップルがこちらを見て笑っている。
「あいつ遊ばれた上にすぐに捨てられて泣いてるぜ。やばい、めっちゃウケるんだけど」
「かわいそうだからやめてあげてよー」
僕はいたたまれない気持ちになり、財布をテーブルの上に力強く置いて外へと走る。
ソファにぶつかって転んでしまい、また笑われたが振り返らずにひたすら走った。
***
僕は今、山の中にいる。
小学生の頃から嫌なことがあるといつも、この山に来て独り言を言いながら泣いていた。
そんな昔と変わらずに気持ちを山にぶつける。
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、嗚咽交じりに怒りや悲しみなどの今日の苦痛を吐き出した。
***
あれから一時間ほどが過ぎている。
でもまだここにいたい。
***
雨が降ってきた。十八時だ。
予定通りにデートが進んでいれば、「そろそろ帰りますか?」と切り出している時間だ。
そんなことを考えながら、ボディバッグから折り畳み傘を取り出す。
それをさして帰ろうとしたとき、切り株にとまっているせみの幼虫を見つけた。
ちょうど今、羽化しようとしている。
「君も自分に合っていない環境の中でも頑張ろうとしているんだね」
雨の中羽化しようとしているせみを、慣れない大学の中で必死に変わろうとしていた自分と重ねていた。
あの時ははるさん、いや、先輩が声をかけてくれた。とても嬉しかった。あの優しさも全部嘘だったのだろうか。
僕は持っていた傘を地面に突き刺し、せみが濡れないようにした。
「君は負けないように頑張ってね」
僕は力無い笑顔を作ってセミに言った。
「……」
帰り際、何か聞こえた気がした。
***
家に帰ると母さんに何かあったのかと心配されたが、特に何もないと答えてすぐにシャワーを浴びた。
夜ご飯を食べている時にも同じことを聞かれたが、ちょっと体調が悪いだけだと返事をしてご飯をかっこみ、すぐに自分の部屋に行った。
部屋に入ってすぐ布団を敷いて寝っ転がった。何か考えようとするとすぐにあの事を思い出してしまう。
僕は何も考えないように目を固く閉じた。
***
悪夢で目が覚める。今日のあの光景だ。
今の時間は夜中の一時。いつから寝ていたのかはわからないが、全く寝た気がしない。吐き気がする。
母さんはもう寝ているので起こさないように静かにトイレに行き、吐いた。
吐いている間、僕の耳元であの人が「ごめんなさい」と言い続けているような感覚に陥った。うっすら笑っているようにも見える。
――気持ち悪い。
食べたものをすべて吐き切ったのか、途中からは胃液しか出なくなった。
気持ち悪さそのままに洗面所へ行き鏡を見ると、僕の顔は見たことがないくらい青白くなっていた。
水を飲んで吐き気は少し治まってきたが、布団に戻っても眠れる気がしない。
僕は気分転換に散歩をすることにした。
外に出るとすでに雨は上がっており、デネブやベガなど夏を代表する星がちらほら見えている。雨上がりの涼しい風か心地よい。
今日の出来事をこれ以上思い出さないように、僕は一人しりとりをしながら駅へと向かう。
十分ほどで目的地の駅に着いた。うっすらと点いた電灯が少し不気味な雰囲気を醸し出している。
改札のそばにある自販機で水を買う。僕は自販機の光に集められた虫たちが好きだ。小さな希望を追いかける勇者パーティーみたいだからだ。
少しベンチで水を飲んでだいぶ気分が良くなってきたので、また一人しりとりをしながら歩き出した。
来た時と同じ道を歩いていると、駅と隣接している踏切の内側に少女が立っていた。
髪はプラチナブロンドのストレートで腰に届くぐらい長く、背は小さい。白のワンピースに麦わら帽子を合わせている。顔はよく見えない。
外国人だろうか。
いくら深夜とはいえ踏切の内側にずっといるのはどうなのだろうかと思ったが、外国語を扱えない僕は下を向いて通り抜けることにした。
「なんで部屋にいないんですか! 探しましたよ!」
いきなり聞こえてきた日本語に僕は思わず顔をあげてしまった。
空色の瞳が僕の目を見つめている。数メートル離れていて周りは暗いが、それでも少女がとてつもなくかわいいのが分かった。
「どうして何も言ってくれないんですか?」
僕の世界三大美少女に入るなぁなどと考えていると、少女が近づきながら問い詰めてくる。僕とは顔一個半もの差がある。あまりのかわいさに撫でたい衝動に襲われるが、なんとかこらえて返事をした。
「えっと、人違いでは?」
僕にこんな美少女の知り合いはいない。見かけたことすらない。
もし見かけたことがあったのなら、絶対に忘れない。それほどにかわいい。
「間違えるはずがありません。あなたは芹沢駿、しゅん君です」
「いいえ、違います」
――あっている。確かに僕は芹沢駿だ。だが、普通こんな美少女が僕に話しかけてくるなんてありえないことだ。
おそらく先輩の知り合いとかでまた僕をだましに来たのだろう。同じ手に引っかかってたまるか。
「どなたと勘違いしておられるのかはわかりませんが、こんな夜遅くに女の子一人でいるのは危ないですよ。僕はもう帰りますのであなたも早く帰ったほうがいいと思います」
そう言って僕は早足で少女の横を通り過ぎようとする。
「待ってください!」
「――ッッ!」
通り過ぎようとしたその時、少女が僕の腕をつかんできた。
かわいい。
腕だけではなく心までも掴まれそうになってしまった。
「……離してもらってもいいですか?」
僕は目をそらしながら少女に頼む。
「離したらきっと逃げてしまいます。だからだめです。」
後ろにきれいなエフェクトが出てきたかと錯覚するくらいの笑顔で拒否してきた。かわいい。
――いけない。相手は僕をだましに来ているんだ。あんなつらいことはもう嫌だ。
「……ちゃんと話を聞くので離してください。」
「ほんとですか?」
ちゃんと話を聞くと目を合わせて訴えたら、上目遣いで返ってきた。
人生初のリアル上目遣いに僕はたじろいでしまう。
「……ほんと、です」
「うんうん、それでいいんです」
少女は満足そうにして僕の腕を解放する。
僕は、名残惜しさを感じている自分に対してため息をつきつつ、適当に話を聞いてさっさと帰ろうという決意をする。
「では、自己紹介をします。私はニーナ。先ほどしゅん君に助けてもらったせみです」
「……は?」
適当に話を聞くと決意をしたのに、まともに取り合ってしまった。
「むぅ、これは信じていないときの反応です。私はしゅん君に恩返しに来たんですよ」
僕の反応を見て信じてないと感じた少女、ニーナさんはほっぺを膨らませながら一歩近づいてきた。それに合わせて僕も一歩後ろに下がる。
「どうして逃げるんですか! ちゃんと話を聞いてくれるって言ってたじゃないですか」
「いや、思っていた以上に変な話だったのでつい」
「そもそも、私を見てわからないんですか?」
「……いや、何も」
畳かかけてくる不思議ちゃん系美少女だったが、僕の答えを聞いて得心がいったようだった。
「そういえばこの姿で会うのは初めてでしたね。私はしゅん君のことを昔から見てるので忘れてました」
ニーナさんは、膨らんでいたほっぺをしぼませて笑顔に戻った顔で言った。
さっきから表情がころころと変わっていてとてもかわいい。
だが、かわいいと信用性は反比例する。目的が何なのかはよくわからないが、僕は早く切り上げて帰ることにした。
「本当にせみだというのなら何か証拠はないんですか? 証拠があればあなたの言っていることを信じますし、あなたの言うこと何でもを聞きますよ」
絶対に出せないだろうと思った僕は調子に乗って付け加える。するとニーナさんの表情は今までで一番明るくなった。
かわいい。
「証拠があればいいんですね?」
「……え?」
「そしたらお昼に証拠を持ってお部屋に伺いますね。その時はその固い敬語をやめてもらいます。では、おやすみなさい」
そう言うと走って行ってしまった。
本当に証拠があるのだろうか。いや、ない。普通に考えてありえない。
ニーナさんのあの反応で少し不安になったが、冷静に考えてありえないと言う結論に至り、だいぶ遅くなってしまったが帰ることにした。
家に着いてすぐに着替えて布団に入ると、一瞬で眠りに落ちた。
帰り道から寝付くまでニーナさんのことで頭がいっぱいで、先輩のことを思い出すことはなかった。
***
コンコン。
何かをたたく音で意識を眠りから呼び起こされる。しかし、寝たのが遅い時間だったため覚醒するまでには至らない。
コンコン。
もう一度たたく音がして僕は薄目を開けてその方向を見た。しかし、薄目だとよく見えないので目をこする。その時、今度は何かをたたく音ではなく、声が聞こえてきた。
「おはようございます。ってまだ寝ていたんですか? だらしない人ですね」
「……ふぇ?」
間抜けな声が出てしまった。
目をこするのをやめて窓を見ると昨日の少女、ニーナさんがいた。寝ぼけていた僕の意識は一気に覚醒へと至った。
「なっ、なんで⁉」
「お昼に伺うと言ったじゃないですか。もう十二時ですよ」
「そうだけど、そうじゃなくて……」
「とにかく、これを見てください! 証拠、持ってきましたよ」
状況を呑み込めていない僕をよそに、ニーナさんは後ろから折り畳み傘を取り出して差してみせる。
「どうですか、これ。見覚えあるでしょう?」
くるくると楽しそうに傘を回しながら尋ねてくる。
あれはあの時雨に当たらないようにと置いていった傘だ。昨日じっくり選んで買ったものだからよく覚えている。
「どうですか? これで信じてくれますか?」
ニーナさんは弾んだ声で問いかけてくる。
あの傘は山の中に置いてきた。それを知っている人などいないだろう。
ならばもう信じるしかない。
――彼女がせみである、ということを。