谷崎潤一郎の美
私は谷崎潤一郎の良い読者ではない。「細雪」を半分ほどと「少将滋幹の母」を読んだだけだ。
それでも読んでいる内にあるイメージが浮かんできたので、それについて記しておこうと思う。
「細雪」は四姉妹の物語だ。貴族的な生活が崩壊していく過程を細々と描いている。その中で、四姉妹に対しては谷崎のエロス的視点が当てられている。
「細雪」の中心人物は雪子である。雪子は無口で何を考えているのかわからないが、非常な美人であって、静かに存在感を発している。通常、無口でさほど特徴もないキャラクターが存在感があるというのは描きにくいものだが、この難題を谷崎は十分突破している。ここには日本人的資質とは何か、日本的なものをどういうものかへの谷崎なりの解答があると言ってもいい。この無口だが存在感のある美の形象は日本的なものの集大成かもしれない。ただ、よくわからない人から見ると、雪子はただの人形のように見えるかもしれない。
余談だが、作家の平野啓一郎が「雪子という人物がよくわからない」と書いていた。私は平野啓一郎という人は文学がわからないと思っていたので、平野の意見にはむしろ安堵した。彼と反対の意見ならそれほど悪くないだろう、という風に。
雪子は静かに動かないが、全体を動かす中心点である。「罪と罰」の中心点はラスコーリニコフだが「細雪」の中心点は雪子だろう。雪子の中には雪子自身にもわかっていない強い意志がある。それを彼女は最後まで掴む事ができない。谷崎はそうした自意識を客体化できる作家ではなかった。ドストエフスキーのような複雑な作家ではなかった。そうではなく、生活の中に静かに溶けていく人々を描いていく作家であった。
しかし、生活の中に溶けていく人々だけでは中心点がない。心底では、強いられた生活を逸脱しようとする意志を内蔵している雪子という人物の強さが、作品の底で静かに輝いている。それは毎日変わらない日常に耐えながら、密かにそれとは違う強い夢を抱いている精神とも言えるだろう。
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「少将滋幹の母」では、北の方という美人の女性が作品の中心に位置している。この美の極点を中心に、周囲の男達の姿(主に醜業)が描かれていく。
ある人がセザンヌの絵についてこんな事を言っていた。セザンヌが絵の対象としたサント・ヴィクトワール山は、年数が経るにつれて、あまりにも理想として高いものになってしまった為、描きにくくなってしまった。それは曖昧模糊とした形象に変化した。サント・ヴィクトワール山は理想として、画家の中であまりに高いものになってしまったので、雲の向こうに消え去ってしまった。
谷崎潤一郎にとっての、女性の美もそのように雲の向こうに消え去っていった、という風にも見る事ができる。「少将滋幹の母」において、北の方はほとんどその姿を現さない。言葉も発しない。どういう人物なのか、はっきりわからない。しかし、その空のポイントは不在であるのではない。谷崎が歩んできた道程が、自らの中にあったものをあまりにも高く捧げてしまった為に現れる道ではないか。私はそんな風に感じた。
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こうして書いていると、私が谷崎潤一郎を偉大な天才と褒め上げているように聞こえるだろう。実際には、そうした気持ちはない。
佐藤春夫が谷崎について「彼は天才ではなく、努力し得た能才だった」という意見を述べていたが、私も同じように感じた。谷崎は文体を見ても、平凡なものを発展させていったタイプに見える。平板な叙事性に年輪が加わり、次第に光輝を増してきた。
その光輝とはどういうものか。「細雪」に、花は桜、魚なら鯛、という日本の凡庸な美的形態が次第に実感を持ってわかるようになったと登場人物が述べる部分がある。谷崎は年と共にそうした変化を感じたのだろう。この場合、彼が瞬発的な天才ではないという事が良い方向に作用したのかもしれない。彼は凡庸な努力の果てに、凡庸さとは違う伝統的光輝を纏う事ができた。これは作家にとって僥倖だったが、望んで得られるものでもないだろう。こうした雅趣を私は例えば、絢爛な文体を人工的に作り上げた三島由紀夫には感じない。
「少将滋幹の母」では、北の方は男達が近寄れぬ美の形象である。それは谷崎にとって「理想」の位置にまで高められた。恋愛、エロスといった感情を、文化的な価値あるものまで高める事。近代文学者はそうした事に対して努力した。これは低い感情を知性を介在させて、より高いものへと昇華させる作用だ。谷崎は日本の近代文学者らしく、そうしたオーソドックスな努力をしている。
こうした事は現在ではわからなくなっている…。その為に、源氏物語でも何でも、「昼ドラ」と同じ視線でしか捉えられない。高いものが消失し、高いものに昇華しようとする努力も見えなくなった。偉大な文学とつまらない文学とで、書いてある事象そのものは大して変わらない。漱石は三角関係の小説ばかりを書いた。全てが低俗化すれば、低俗そのものが高級に見えてくる。
谷崎はエロスに対する熾烈な興味を、日本の伝統と融合させ、高いものにまで高めた。だが「少将滋幹の母」と「源氏物語」で言えば、「源氏物語」のほうが優れた作品であると思う。その理由は、谷崎においては、男性性が自己のエロスを相対化する契機が欠けているからだと思う。「源氏物語」や「水滸伝」は、封建社会において苦渋する人間の物語であるが、谷崎潤一郎においては世界の相貌は見えない。それは谷崎は、「源氏物語」や「水滸伝」の作者ほどの苦渋を味わわずに済んだという事を意味するのだろう。それは欠点と言えるかもしれないが、こちらの求める所があまりに高すぎると見た方が至当なように思う。
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「少将滋幹の母」では、絶世の美女・北の方を奪われた老人、国経が無常観によって、元妻を忘れようとする描写が挟まれる。
国経は、夜明けまで死骸の近くで瞑想する事によって、人間の生の儚さを想い、自分の妄執から逃れようとする。それを少年の滋幹は眺める。
国経が死骸の側にいて、女への執着を断ち切ろうとする部分は文学的にも優れた描写になっている。だが、谷崎の興味は、こうした形而上的な方面を貫徹する方向には行かない。
「源氏物語」のラストにおいては、いつまでも恋愛を忘れられぬ男と、そうした妄執から離れた(離れようとする)女の対比で終わる。女は尼になる。女は、ここでは現実を廃棄する事によって、現実にしがみつく男に勝利する。現実に勝利するのは男であり、女は男に抱かれる一方であるが、女の方は自分の敗北を認め、宗教的境地、即ち彼岸に移行する事によって此岸の男性性に勝利する。
谷崎においてはあくまでも、女性は男性の手に届かない理想として彼岸にある。彼岸は現実的な場所にまで押し下げられた。…ここに谷崎の弱点があると共に、現代の我々にも近づきやすい側面がある。
女が、現実の存在ではない存在として描かれても、現実の女はあくまでも現実の女であり、生きた人間であるから、現実の女からすれば迷惑な話と言えよう。最も、谷崎は自分の理想を解明しようとしなかった。彼は執拗な性意識へのしがみつきによって文学的にも、現実にも延命した。
谷崎は決して女それ自体を解明したりはしない。それは男性のねっとりした視線を受け輝くあるものだが、その内面を、その本質を全面的に曝け出し、美そのものが相対化される事はない。ここに谷崎潤一郎という作家の場所がある。ここにおいて、我々は一つの断崖に接する。谷崎の理想がある一点で切れているのを確認する。
西洋の偉大な文学作品においては、彼岸の神がまず想定され、その反射としての人間存在が陰画として現れる事になった。しかし、明確な彼岸を持たない我々は、此岸のあれこれ、例えば「生きた人間」を神格化する事になる。ここに徹底性の不備が現れてくる。谷崎潤一郎は、ここでは微妙な立場に立っている。彼は西洋近代文学に通暁していた。だが、その彼岸への志向は、男から女への粘着的なエロスの視点によって、辛うじて繋がっているに過ぎない。
谷崎の性的な視点は天道へ通じているだろうか? これは微妙な問いである。答えはイエスでもありノーでもある。ただ、現代のつまらない恋愛小説が、自分達の生活への満足と共に、その低劣化を免れていないという状況にあるのを見れば、谷崎潤一郎という作家は彼らとは別物であるとは言えるだろう。私は谷崎に留まらず、もっと過去に遡るべきだと思っている。というのは、谷崎よりももっと遠くに歩いた人間が過去にはいるからだ。
わかりやすく言えば、漱石・鴎外の二人は谷崎よりも先に行っている。漱石が「文章読本」を書く事は決してなかっただろう。なぜなら、問題は文学の技巧にあるのではなく、社会の中でいかに文学が生存すべきであるかという点にあったのだから。自身が文学を生きなければ、文学が消滅してしまうような状況において、信者らに技巧を教えている余裕はなかっただろう。
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谷崎の長い歩みは「少将滋幹の母」のような良作において、独特の頂点に到達した。ラストでは、滋幹が、老いた母の前に身を投げ出し、彼女を見上げる。リアリズム小説であれば、主人公は老いた母に、かつての美が消えているのを見て取り、幻滅するはずだ。しかし、母の顔ははっきりと見えない。母の顔は月明かりの中でぼかされている。理想は彼方に位置している。
少年の頃に戻った滋幹は、人生の円環を体感している。彼は少年に戻ったような気持ちになって、老いた母を頭上に見出す。老いた谷崎もまた、少年の頃に戻り、ついに自分が到達できなかったものを再び見上げる瞬間に再会している。人生が終端に近づき、終端は逆に始点に近づく。そこで谷崎は再び彼が到達できなかったもの、到達したくなかった理想の顔を見ている。ところがそれは月明かりでぼかされている。
ここに大作家の到達した場所があるとも言えるし、老作家が未だにエロで右往左往している馬鹿馬鹿しさがあると言っても良い。最も、文学は最初からそんなものばかり扱ってきた。北の方は理想として彼方に過ぎ去っていた。それが谷崎潤一郎の到達したある場所だった。これを読者がどう捉えるかは、読者の立ち位置によるだろう。私は谷崎の到達した場所を羨ましく思いながら、そうなれない「他者」としての自分を感じる。おそらく、理想は彼方に消え去っていったが、再び手元に戻ってくるだろう。彼が絶対化したものを再び相対化する文学が現れてこなくてはならないだろう。
女の顔が見えても、女の存在が暴かれても、暴かれた姿そのものが神秘に変わる一瞬があるだろう。つまり、そこでは真理が真理であるという理由によって、我々の凡眼にはそれ自体が神秘に見えてくる。人間存在の全貌が虚飾をまとわず現れてくるが、今度はそのような暴露を可能とした作品全体ーー作者の哲学自体が謎になってくる。世界の全てを暴いた方程式があるとして、その方程式そのものが、その発見者が、我々にはかつての世界そのものと同様の謎に見えてくる。真理というものはそこまで行かねばならない。
谷崎はそうした所まで行かなかったが、我々は谷崎潤一郎という形象を過ぎて戻らない羨ましい一回限りの現象と捉える事ができるだろう。彼が日本の伝統と融合して大家になる道があったのは、彼らの時代に限られていた。今の我々にはそのような贅沢は許されていない。我々は老大家になる事を許されていない。そうした統合をする契機が我々には奪われている。その例証としては、現代の日本の優れた作家、村上春樹が老大家になろうとしてなれない苦渋の姿を見れば良い。文豪の季節は去ったのだ。
谷崎が長い歩みの末に独特の光輝を抱いた事を、我々は過去の流星を眺めるように眺める。どんな人工的な努力によっても取り戻せない何ものかが、彼らと共に去ったのだった。彼らから目を離し、自分達に目を移すと、そこにみすぼらしい姿が映る。だがどのみち、このみすぼらしさから始めなければならない。月明かりにぼんやりする北の方は今は遠く霞んでいる。我々はそれを、今は存在し得ない夢幻の如く感じる。しかしまさにそれによって、谷崎のような老大家の作品は彼が生きていた頃より、一層美しいものに見えてくる。我々が決して手に取る事のできない一つの幻花として、それはますます光輝を増してくるのだ。