8・花の風
「わざわざありがとうございます……」
「いえいえ、花につく虫は早めに駆除しないといけませんよねー。まあ今回は僕の手はいらなかったみたいですけど」
応接室の客が叔母からセシリオに代わり、戸惑いながらもエウフェミアは彼の相手をする。本当はそのままカリナが彼を帰そうとしたのを、慌てて止めたのである。わざわざ来てくれたらしいアルフォンソの側近を、事情も分からないまま追い返すのは失礼ではないか、と。
カリナはそれをあまり賛成しない表情で、しかし意向を尊重してセシリオを迎え入れた。
そして分かったのは、カリナが窓を開けた時に魔法で信号を送った、というものだった。カリナ自身は魔法の能力はない。あらかじめ魔法の道具を預かっていたという。
叔母が家長不在の時にエウフェミアにディローザの花の苗を要求したということで、カリナは救援が必要だと認識したようだ。結局はエウフェミアと叔母との我慢比べとなって、石のように固くなった彼女に憤慨して去って行ったのだが。
「エウフェミア嬢は甘いから、花の苗を渡すとカリナに思われたんだよ」
セシリオの笑い声が、胸にしみる。事実、父親とディローザの話をしていなければ、彼女はそうしたかもしれない。しかし婚約者であっても花の苗を渡すというのは、とても重い意味があると知った後では、いくら叔母であっても頷けるものではなかった。とても辛い時間だったが、ディローザを彼女は守り抜けたことに安堵していた。
「もしもの時の壁は必要でしょう」と、カリナは静かに最小限語る──かと思いきや、「でもあまりの遅さに、もう来なくてもいいと思っておりました」と、不満を隠しきらずに追加されて、エウフェミアは驚いた。これまでの彼女とは、本当に必要最低限の会話しか交わしてこなかった。教育係として必要な、側仕えとして必要なこと以外、いわゆる雑談などほとんどなかったからだ。
決してでしゃばることのないカリナが、セシリオ相手には遠慮を感じない。相手はディローザを胸につけられる人だというのに。
「あの……カリナ……あなたは……」
「カリナは猫かぶるの上手ですよ。兄とそういうところはそっくり」
エウフェミアの意識がカリナの方に向いたことに、セシリオは便乗してきた。
「兄?」
「そう、エウフェミア嬢も会ったでしょ? 黒髪の真面目くさった忠義馬鹿」
「セシリオ様」
疑問、笑い、制止。三人三様の言葉の流れの後、エウフェミアの中でようやく一つの糸が結びついた。
「執事……いえ、ウィルフレド様の……妹君ですか?」
さぁぁっと血の気が引いていく。ディローザを付けられる人の妹を、呼び捨てにして側仕えとして使っていたのである。いくら正体を隠していたとはいえ、あまりに失礼がすぎた。
「あくまで兄が認めてくれているだけで、家に認められているわけではありません。余計なことはおっしゃらないでください、セシリオ様」
厳しい叱責にも近い声音で、カリナが魔法使いの口を封じようとする。しかしそんな言葉で封じられるような男ではなかった。
「だってもうその家、ウィルフレドが獲りましたよね?」
「兄が決めて手続きがすめば考えますが、私はまだ側仕えにすぎません」
何か複雑な事情があるのは、二人の会話を聞いていると分かる。少なくともこの兄妹の間には、現時点でディローザの溝があるということだ。
「エウフェミア様」と、カリナがこちらを向き直る。
「これまで通り、どうぞ私をお使いください」
「そうだよ、遠慮なく使うといいですよ。カリナはすっごく役立ちますから」
「黙っていただけますか?」
どうやらカリナにとってセシリオは、大変相性の悪い相手のようだった。
「あー、お茶のおかわりがほしいですね」
セシリオは空になったティーカップを持ち上げて、行儀悪く振って見せた。カリナはだんまりを押し通そうとして、それには答えない。しゃべるとまた彼に茶々を入れられるからだろう。
「あの……カリナ……」
カリナさんと呼ぼうとしてやめさせられた経緯を乗り越えたエウフェミアは、その空気に耐え切れずに控えている彼女に呼びかける。
「エウフェミア様……おかわりを用意するには、お湯を取りに退出しなければなりません。その意味はお分かりですか?」
極力表情を変えないようにした無表情で紡がれる言葉は、固く厳しい。セシリオとエウフェミアを二人きりにしたくない、ということだろうか。アルフォンソも彼を危険だと言っていたので、何か問題があるのだろう。
カップを持ち上げるセシリオはおかわりをねだり続け、一向にあきらめる様子はない。カリナはそのまま放っておけばいいという立ち位置を変えない。
結果、間に挟まれるエウフェミアはとても居心地が悪かった。そうだと、手を打つ。
「では、わたくしが取って参りましょう」と、エウフェミアはソファから立ち上がった。カリナは目を見開き、セシリオも面食らった顔をした後に耐えられないように笑い出す。
「エウフェミア様……それは……」
カリナが真顔の中に苦悶をにじませながら、エウフェミアをソファに戻そうとする。
エウフェミアとセシリオを二人きりにせず、お茶のおかわりを用意するには、もう彼女自身が立ち上がるしかないと考えたのだが、どうやら間違いだったようだ。
「すぐに戻りますので……絶対にそのまま動かずにお待ちください」
ついに根負けしたカリナが、恐ろしいほどの真顔になってワゴンを押して出ていく。視線は最後までセシリオから離さなかったのは、彼に対する釘刺しなのだろう。
遠ざかるワゴンの音を耳で追いかけていたエウフェミアは、自分の身体が揺れたことに気づいた。さっきまで向かいにいたはずのセシリオが、隣に座っていたのだ。カリナの注意など、ほんの十秒ももたなかったし、最初から聞く気がないことが分かる。
「やっとお邪魔虫がいなくなりましたねー」
青い瞳を輝かせて、びっくりするほどすぐ側にいるセシリオが微笑む。さっきまでの意地の悪い気配はどこにもない。一体どれが本当の彼か分からなくなるほどの輝きだ。
「あの……」
座り直す形で、エウフェミアは少し彼から離れた。しかしその分、身を乗り出してくる。
「そう心配なさらずに。この距離で異性と語らうのは初めてですか? 見た目通り可愛らしいことですね」
瞳に浮かぶのは得体のしれない色。エウフェミアがこれまであまり経験したことのない、不安を掻き立てる色だった。
「あの……わたくしはレオカディオ四位の……」
「婚約者でしょう? 勿論知ってますよ」
ずいっとさらに近づく。にじるように逃げるが、すぐにソファの端に追い詰められてしまう。そんなまさかという気持ちと、きっとからかわれているのだという気持ちが交錯して、エウフェミアは首筋を震わせた。
「でも大丈夫ですよ」
しかし間近でにこりとセシリオが笑う。まったく笑っていない目のまま、口だけで笑う。
「僕のこの行動は、アルフォンソ様の許可済みです……だから何も心配せずに、僕に身を任せて」
そして、とんでもない話をする。自分の婚約者が、二人きりの親密な距離を許したというのだ。彼女には到底信じられなかった。
「本当ですよ……嘘だと思うのでしたら、今度アルフォンソ様に聞いてみるといいでしょう」
ふふふと笑っているのに笑っていない目が近づいてくる。エウフェミアは震えながら、それでも何とか身をひねった。背もたれの方ではなくテーブルの方に。そちらしか逃げ場がなかったからだ。
しかし彼女の行動は、自分の身体をソファから投げ出すものと同じだった。ソファとテーブルの間の隙間に、エウフェミアは落ちた。腕がテーブルに当たってガチャンと大きな音を立てる。
「ありゃ?」
セシリオが素っ頓狂な声をあげた。
次の瞬間──
「セーシーリーオーさーまー」
お仕着せのスカートを翻し、ワゴンも置き去りにしたカリナが扉を開け放つ。真顔なのに憤怒の湯気が見える。
「おっと、エウフェミア嬢、大丈夫ですか? 大きな地震でしたから驚いても仕方がありませんね」
一度あらぬ方を見た後、セシリオはこれっぽっちも悪びれた様子も見せず、丁寧に彼女を床から起き上がらせた。
一体この人は。
起き上がるなりカリナの方に逃げたエウフェミアは、世間一般的には許される行動だっただろう。
アルフォンソの許可という言葉のせいで、エウフェミアは自分の婚約に大きな不安の種を芽生えさせてしまった。
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