7・花の陰
「お父様……うちのディローザの苗をレオカディオ四位にお贈りするのはどうでしょう」
訪問の後、エウフェミアは父親にそう提案した。アルフォンソが花で困っているのは明らかだったからだ。
この家でいま花を必要としているのはたった二人。花には十分余裕がある。親花から取った種や、側枝から株を増やした苗もある。一株でも苗を贈れば、きっと喜ばれるのではないかと思った。
後から思えば、この時の彼女は訪問後すぐだったため、気持ちがひどく浮かれていた。帰宅した父親が難しい顔をしたことに、すぐには気づけなかったくらいには。
「エウフェミア……お前はレオカディオ四位との結婚を望んでいないのか?」
「え?」
それは予想外の問いかけだった。花の苗を贈ることと結婚を望まないことにつながりを見出すことが出来なくて、彼女は首を傾げるしかできない。
「エウフェミア……お前は自分が何故レオカディオ四位と婚約できることになったか、きちんと理解したのだろう? 結婚もしていないのにディローザの苗を渡した場合、婚約破棄をされてもおかしくはないのだぞ」
今回の婚約の一番重要なものは、ディローザの株の交換である「花の婚姻」だと父は考えているという。結婚前にディローザを渡してしまうと、それだけで相手が目的を達成し、婚約は不要と判断される可能性があるというのだ。離婚の手続きや外聞の悪さはとてつもないものがあるが、婚約破棄ならば向こうには大した重さはない。元々身分の合わない婚約なのだから。
「それはお前には、大きな傷になるのだよ」
花だけ取られて娘は捨てられるという、最悪の事態は避けるべきだと父は言う。
「そんなことは……」
アルフォンソはしないのではないかと言いかけたが、エウフェミアはその口を閉ざした。もし彼が本気で花だけが欲しいのならば、ディローザを寄越せと父に圧力をかければいいのである。そんな横暴なことはせず、きちんと手順を踏んでエウフェミアと結婚すると言っているのだから信頼してもいいのでは。
そんな思いを彼女は父にうまく伝えることができなくて、歯がゆく感じた。
けれど外の世界はきっとエウフェミアが考えているよりも、ずっと大変なものなのだろう。父を不安にさせてまで苗を贈るのは、やはり間違いなのだと思い、エウフェミアはため息をついた。
ディローザの花が、彼女が考えるよりも重い存在だと、もっと胸にしみることになったのは、数日後のことだった。
突然、叔母が訪ねてきたのである。父の弟の妻に当たる。
無作法なことには厳しい人が、連絡もなしにいきなり訪ねてくるのは、何かよほどのことがあったのかと思い、エウフェミアは中へと通した。父親は仕事に出かけており、家人は彼女しかいない。側仕えのカリナにお茶の準備をさせていると、何とも言えない目でカリナを見ている。
「突然訪ねてきて驚いたでしょうが、わたくしも驚いたのですよ」と、叔母は口火を切った。
「貴女がレオカディオ四位と婚約したなんて……義兄さんももっと早く教えてくれればよいのに」と続けられて、エウフェミアは訪問の理由を知った。
父と叔父の職場は近くはない。互いに忙しい仕事の中、ようやく昨日顔を合わせて話をしたらしい。そこで叔父宅にエウフェミアの婚約の話が正確に伝わったのである。
エウフェミアの知らないところで、婚約の噂というのは広まっていたらしい。王の覚えめでたいアルフォンソだ。彼の動向や結婚話など、周囲は気になってしょうがなかったようである。
「それでね、エウフェミア」
こほんとひとつ咳ばらいをして、叔母は姿勢を正す。その胸の真ん中にはディローザの花。その色と艶の陰りを見てしまった彼女は、心の中で小さくあっと声をあげていた。とても嫌な予感がした。
「今日来たのはね……ここのディローザを分けて欲しくて」
そして嫌な予感は的中した。
「あの……父と相談しなければ私の一存では……」
「そんな大げさに考えなくていいのよ。苗を少し分けてもらうだけでいいの……親戚だしいいじゃないの……花師だって共同じゃない」
叔母は身を乗り出して、エウフェミアに訴えかけてくる。胸元のディローザも近づいてくるので、はっきりと間近で花を見ることになった。あまりよい花の状態ではないのが分かる。花びらの縁は変色しかかっていて、艶もない。花の具合がよくないのだろうかと表情を曇らせながら見つめる。
そんな叔母との間に、ふわりと風が通り抜ける。えっと思ってエウフェミアが窓を見ると、なぜかカリナが応接室の窓を少し開けていた。
「申し訳ございません……窓がきちんと閉ざされておりませんでした」と、窓を締め直す。
妙な気がしたが、叔母は側仕えのそんな些細な行動など興味もないように、エウフェミアに迫る。
「叔母上様の温室は、無事だったのでしょう?」
爵位は長兄である父が継いだが、叔父は同じく九位の跡取り娘である叔母と結婚したので同位となった。
「ええでも……花師が共同ではどうしても花の質が落ちてしまうものでしょう? それに夫の立場としては、上役に自分の花を差し上げなければならないこともあるのよ。義兄さんはうまくやってらっしゃるようだけど」
最後の方の話は、エウフェミアも知らないことだった。内戦の影響で勝ち残った貴族たちには、ディローザが足りない。だから自分よりきれいな花をつけている部下に、花を贈らせるという。ひどい上役によっては昇進の約束と引き換えに、苗を要求しているという。
彼女はまったく知らなかった。父親からそのような話は聞いたことがない。
「義兄さんは、毎日出仕したら約束している上役と花を交換しているそうなのよ。帰る時には返してもらうって……そのようないい方法があるのなら早く教えてほしかったわ」
叔母が大きなため息をつく。綺麗なディローザの温室を守るために、そんな苦労をしていた父を考えると、エウフェミアは胸が痛んだ。娘には心配をかけないように何も言わずにいてくれるのは優しいと思ったが、何も知らないままでいる自分を罪深く感じる。
「だから本当によいディローザが足りなくて困っているの……エウフェミア、助けてくれないかしら」
けれどそのおかげで、彼女は叔母の強い押しに対して首を横に振ることができた。
「やはり、お父様の許可がなければ、わたくしでは花のことを決めることはできません」
花が欲しいと説得するのであれば、娘であるエウフェミアではなくこの家の主である父にするのが筋である。
「まあエウフェミア……貴女は何て薄情なことを言うのでしょう。貴女は素晴らしい縁談が来て幸せでしょうけど、私の娘はこのままではとても幸せになれないかもしれないのですよ」
ディローザが美しければ、エウフェミアのように良い縁談が来るかもしれないと、叔母はとてもあきらめる様子がない。そして自分だけ幸せになろうとしていると、父に覚えたものとは別の罪悪感を植え付けてくる。
ただ、どうして叔母がこんなにも食い下がるかも、彼女は少し分かってきた。おそらくエウフェミアを説得するより、父を説得する方が難しいと知っているのだ。
わざわざ連絡なしで訪問した理由も、おそらくそこにある。父に知られずにエウフェミアだけを口説き落として苗を手に入れれば、さすがに後から返せとは言わないだろうと。
必死な叔母には同情したくもあったが、このような騙し討ちは身内として辛いものでもあった。
花はその美しさで人の心を晴れやかにするものであり、辛い気持ちを慰めるものでもあるというのに、こんな不和の種になってしまうなんてと瞼を伏せる。
「申し訳ございません、叔母上様」
エウフェミアは視線を下げたまま、叔母にそう伝えた。それ以降、決して視線を上げることはなく、叔母に何を言われても、彼女はただそう返し続けた。
憤慨して帰る叔母を見送ったのと入れ違いに、屋敷に馬車が入ってくる。
またしても約束なしの来客かと思ったら、馬車から降りてきたのは──魔法使いのセシリオだった。
「さっき帰ってったのって……あれ? もしかして僕、間に合わなかった?」
魔法の輝きに彩られたディローザをジャケットの胸に、金色の頭からハンティング帽を持ち上げながら、彼はおどけたように笑う。
何故彼が訪ねてきたのか分からないエウフェミアをよそに、側に控えていたカリナがこう言った。
「遅すぎます……本気でエウフェミア様を守る気があるんですか」
「いやーそんなこと言われてもね、ここ遠いでしょ?」
不満げなカリナとにやにやと笑うセシリオ。二人の間で、エウフェミアの知らない会話が交わされていた。