4・花の園
「エウフェミア嬢に求婚した理由は、はっきり言っておこう……そのディローザだ」
応接室のソファのあちらとこちら。アルフォンソの大きな手のひらを向けられた先は、エウフェミア自身ではなく胸の真ん中を飾られた咲き誇る赤い花だった。
次の瞬間、彼女は視線を強く感じた。この応接室にいるアルフォンソ、ウィルフレド、セシリオ、そして側仕えのカリナでさえも、こちらに意識を向けている。
エウフェミアはごくりと息をのんだ。自分の細い首に何かが巻き付いているような錯覚を覚える息苦しさだ。
「いまこの国は、人もディローザも足りない。いかに早くその両方を取り戻して立ち直るかが課題だ」
緊迫感の中で語られるアルフォンソの声を、彼女は噛みしめるように聞いていた。内戦の影響は人だけでなくディローザにも深刻な影響を残した、と。
貴族同士が戦う時は、相手のディローザを最初に狙うと告げられる。胸につけているものではない。温室の中のディローザである。
「ディローザの花一輪に、命が一輪……」
思わず小さな声でもらした言葉に、そうだと彼が頷いた。
大地の魔力を吸って咲くこの赤く美しい花は、身に着けた者の命を一度守ると言われている。どのような形で守るのかはエウフェミアは知らない。命を失うような場面に遭遇したことがないからだ。
ただ、貴族が外出する時は必ず身に着けるのがしきたりであったし、貴族の娘たちは必ず花の手入れを怠らないように、家族からだけでなく修養学校で学ばされる。
ディローザは温室で隠して育てる。温室に入れるのは、その家の者か花師、あるいは高位の魔法使いだけとなる。ただし入り方が違う。
温室を作った者であれば、思うように温室の膜を動かすことができる。花師はただ自分の出入りが自由なだけ。魔法使いが強制的に温室を開けようとすると、温室の膜そのものが全て破壊され、ディローザは無防備になる。
内戦では多くのディローザが戦いによって踏みにじられたと説明され、エウフェミアは胸を痛めた。無意識に手を自分の胸の花に寄せる。
「エウフェミア嬢……」
呼びかけたアルフォンソが一度言葉を切った。そしてゆっくりとこう言った。
「貴女の家の花師は……共同花師だな?」
貴族として最底辺だと言われたも同然の言葉に、エウフェミアは小さく「はい、その通りです」と答えた。むしろそこまで知った上での話であれば、心配がひとつ減るくらいの気持ちだった。
「ではディローザの世話のほとんどを、貴女が行っている、で間違いないか?」
「はい、間違いありません」
共同花師とは、ひとつの家で花師を雇えるほどの余裕がない貧乏な貴族が、親戚などと花師を共用で雇用することである。家に花師は常駐せず、週に一、二回通ってくる。
裕福な貴族であれば世話のほとんどを花師に任せて、家人が様子を見るという形だが、共同花師の場合は逆になる。普段の手入れを家の者がして、花師が助言や補助をするという形だ。
温室の花の世話は、エウフェミアの大事な仕事である。側仕えのカリナさえも入れることはできない温室の中で、彼女が土の魔力を管理していた。ディローザの側枝を毎日切り落とし、たったひとつの花にすべての魔力が集まるようにしていた。そうして美しい赤い花を咲かせるのだ。
母がいないいま、彼女がやらなければならない仕事であったし、毎日仕事に通う父の胸を美しい花で飾りたかった。
そんなエウフェミアの家庭の事情は、本来であれば嘲笑の対象である。実際、修養学校の女生徒たちが「どんなに落ちぶれても、専属の花師だけは雇いたいものですわね」という会話を交わしているのを聞いたことがある。彼女は曖昧に微笑むしかできなかった。
「エウフェミア嬢。この国にはディローザが足りない。頼もしい人材も足りない……だから俺は貴女と婚約しようと決めた……意味が理解できるだろうか?」
母の花園に記憶を取られかけていた彼女は、アルフォンソの問いかけに目の焦点をはっきりと合わせた。彼の表情に嘲笑はない。知っていて婚約という話になったのだから、彼にとって共同花師しか雇えないことは、決して欠点ではないのだと分かる。
それならば。
「わたくしが……レオカディオ四位のディローザを、育てればよいということでしょうか」
エウフェミアはおそるおそる、そう答えた。この方は美しいディローザを求めている。そう理解したのである。
返答にアルフォンソがうーむと考え込む仕草をした。答えが間違っていたのだろうかと彼女は不安になった。
「もう一声」
楽しそうに笑いながら、魔法使いのセシリオが人差し指を立てる。答えが少し足りないということだろうか。
「で、では……我が家の最高のディローザを用意しておきます……“花の婚姻”のために」
貴族同士が結婚をする場合、互いの家のディローザの株を交換する。それが花の婚姻だ。違う家同士の花をかけ合わせ、次代のディローザが作られる。共同花師のエウフェミアの家では、婚姻の花も自分で準備することになるだろう。それを期待されているのだろうと思った結果の答えだった。
「あれ……この子も花馬鹿?」
セシリオがうわ、という顔をすると、ウィルフレドが「失礼ですよ」とたしなめる。
「そうか……花馬鹿か」
しかしアルフォンソまでそう言って、噴き出すではないか。そのまま笑う口を大きな手で押さえながら、彼はつづけた。
「まあ及第点だろう……さすがはティアラが見つけたディローザだ」
及第点なのにさすがとはどういう意味なのか。
そしてまた──土が出てきた。
アルフォンソの持つディローザの温室は二つあった。その景色は、エウフェミアをほっとさせた。魔法で作られた温室は当然のごとく傷はなく、そこだけは戦いの痕跡を感じなかったからだ。
「開け」と言ったアルフォンソの言葉に動いたのは、魔法使いのセシリオだったからだ。
家人の女性が開けるのではと思いかけて、はたと彼女は言葉を吞み込む。いないのだ、と。この屋敷にはアルフォンソが信頼できる身内の女性がいないから、温室の魔法を魔法使いに任せているのだろう。
彼も言ったではないか。「頼もしい人材もいない」と。エウフェミアが想像するよりも、もっと現実は厳しいようだ。
魔法使いが温室を作ったのならば、おそらく家人が作ったのと同じように部分的に膜を解除できるのだろう。彼女は魔法使いの仕事をこれまで見たことがなかったので、そう思っていた。
しかしエウフェミアは、ここには自分の常識が通用しないことを目の当たりにする。
温室の膜に近づいてセシリオがそれに片手をつける。その口が「アビエット」という乾いた音を発した瞬間、温室の膜は──すべて吹っ飛んだ。
その時のエウフェミアときたら、後から思い出しても恥ずかしいほどに取り乱した。目を大きく見開き、頭が真っ白になった後、淑女としてあるまじき、「ひっ」という悲鳴をあげてしまった。自分でも信じられなかった。
中にこめられていた温度や魔力がすべて外に逃げていくのは、見ているだけでも分かった。ディローザの温室に対して、何と暴力的なことをするのか。
「は……はやっ……」
花を見つめるどころではない。エウフェミアはオロオロしながら、温室を元に戻させようとした。このままではせっかくのディローザが痛んでしまう。
「見たか?」
しかし周囲はまったく動じていない。アルフォンソが静かに、しかし厳しく問いかけてくる言葉にはっとして、彼女は瞬きを落ち着かせなければならなかった。アルフォンソもまた、すぐに温室の膜を戻したいと考えているのだろう。いまはこの見せ方しか「できない」のだ。その貴重な時間を無駄にするなと言外に伝えられた気がした。
どきどきする胸を抑えて、改めて花を見る。
ディローザは確かに咲いていたが、温室の広さの割に明らかに株が足りていないのが分かる。屋敷があれほど傷だらけだったことを考えると、ディローザの株もおそらくエウフェミアが失神するほどの被害を受けたに違いない。それをここまでようやく立て直したということだろう。
ディローザは美しくはあったが、美しさに溢れてはいない。栄養は行き届いているようなのに艶が足りない。花師がいても、まだ元に戻しきれていないようだ。
よその家のディローザを、こうして直接見る機会はほとんどなかった。それぞれが胸につけている花の美しさを見て、温室の様子を想像するだけに過ぎない。
だからこその違和感が、エウフェミアにはあった。彼女は視線を温室から、隣に立つ男──アルフォンソに向けた。彼の胸に咲くディローザに、だ。
いま温室で咲いているディローザと、彼の胸に咲き誇っているものとでは艶が違うように感じたのである。少なくとも同じ温室で育った花とは思えないほどに。
「閉じろ」
エウフェミアの視線の移動を、終了宣言だと理解したのだろう。アルフォンソが軽く手を振ると、彼の魔法使いが「セールカ」と軽く言った。再び温室は膜で覆われた。
ただの一言で、要するに祈りの言葉もなく一瞬で温室を元に戻す光景は、エウフェミアには刺激が強すぎた。
何か言わなければと思う気持ちばかりが焦って、彼女が目を白黒させていると、更に目を白黒させる事態が起こる。
隣の温室の膜から、頭がにゅっと生えていたからである。赤い髪の頭が。
「あれがティアラ……花師だ」
アルフォンソの紹介など聞こえていないように、温室から首だけ出した花師がセシリオを睨んでいる。
「こっちを開けたら……許さない」
低く唸るような声。いくら花師とは言え、胸にディローザをつけられる相手に使うべき言葉ではない。
「やだなぁ、ティアラ。僕が勝手に開けたわけじゃないよ? アルフォンソ様の未来の奥方に見せるように命令されただけさ。ほら、ティアラがほしがった子だよ」
セシリオは彼女の睨みにまったく堪えてはおらず、しかしその睨みの対象を速やかに自分以外に向けさせた。
そう、エウフェミアである。
温室から生えている女性の目は琥珀色。その琥珀色が、ぐぎっと首の角度を変え彼女を捉えたのだった。