3・花の男たち
「ようこそおいでくださいました」
迎えの馬車を下りてエウフェミアが見たものは──傷だらけの屋敷だった。
緊張に緊張を重ね、昨夜あまり眠れなかった彼女は、目の前に広がるそのひどい有様を見て目を見開き、息を止めた。
王宮からさほど遠くないここで激しい戦いがありましたと、屋敷が雄弁に語っている。淡い白だった壁には大きな傷が多数残っているし、壁材がはがれたままの場所も多い。何かとにかくとてつもない力で抉られただろう壁は一応補修はされているものの、建材の種類の違いか、色がはっきり変わっている。屋根の色もところどころ違う。窓と扉はことごとく新しい物になっているのが、むしろ恐ろしくもあった。外とつながる部分は、何もかも使い物にならなくなったと家が教えてくれるからだ。
その屋敷の不気味さに、エウフェミアは思わず後ろに一歩下がった。自分がとんでもなく危険なところに来たのではないか、そう身体が感じたからだ。
「どうぞこちらに」
同行したカリナが、怯みきったエウフェミアを促す。彼女はそっと自分の胸に咲くディローザの花に手を添えた。勇気が必要だった。アルフォンソに贈られた赤いデイ・ドレスは、襟から胸元まで赤いディローザが映えるようにと白いレースで飾られている。その中心でディローザは美しく咲き誇っている。
心の中で花に祈りを捧げ、エウフェミアは震える足で一歩ずつ前に進んだ。建物をあまり直視しないようにして。
「ようこそいらっしゃいました、エウフェミア様」
中も外と大差なかった。彼女の家の何倍もある広間は、大きな高窓から明るい光が差し込んでいるし、綺麗に磨かれてとても清潔だ。しかしやはり壁も柱も傷だらけ。破壊されたであろう部分を補修した違和感は、とても拭えるものではなかった。家具は新しいものばかり。さすがに入れ替えたのだろう。
更にエウフェミアは、不気味な視線を感じた。ひとつではない。花の夜会でも感じた、人を値踏みする時の視線とよく似ていた。それがあちらこちらから向けられている気がする。
しかし視界の範囲内にそれらしい人の気配はな──あった。
広間の奥の方。一人の女性が曲がり角の近くでこちらをじっと見ている。乱れた赤い髪の、エウフェミアとおそらく同じくらいの年と思われる女性だ。衣装から貴族だとは思えない。メイドだろうかと考えたが、お仕着せを着ているわけでもない。
そんな女性が、じっとじっと瞬きもせずにエウフェミアを見つめている。何事か分からずにエウフェミアもそちらを見てしまうと、黒髪の若い執事がちらと視線を動かしたのが分かった。感情の読みにくい暗い瞳に咎めるような色がほんの少しよぎる。
次の瞬間、赤毛の女性が誰かに引っ張られて、壁の陰に連れて行かれるのが分かった。
「お見苦しいところをお見せしました」
「いえ……」
何一つ非の打ちどころのない執事と比べて、この家そのものが不安定に感じてならない。やはり父についてきてもらえばよかったと、応接室に案内されながらエウフェミアは後悔しそうになった。
しかし彼女の父は、多忙を極めている。安心して国を任せられる貴族たちが減ったせいで、残った者たちへの負担がとても大きくなっていた。家に帰っても父が仕事をしていることを、彼女は知っている。娘が家に一人でいるために、毎日必ず帰るようにしてくれていることも知っている。
だからこそエウフェミアは、今日は一人で失礼のない訪問をやり遂げようと思っていた。後悔を振り切り彼女は応接室へと入った。そして新しい家具だけを見るようにした。
「まもなく旦那様がお越しになります」
赤いディローザをモチーフにした、細かく美しい刺繍で彩られたソファに腰かけると、執事が退出していく。部屋にはカリナと二人で残された。
応接室は春の午後の柔らかい日差しが差し込んでいた。窓から外を見ればディローザの温室がきっと見えるだろう。覗いたところで半透明の膜でうっすらとしか分からないだろうが。
それよりも──
再び緊張がぶり返してきて、エウフェミアは膝の上の手を震わせた。どんな方だろうか。いやどんな方であろうとも、親が承諾した以上はよほどのことがない限り嫁がなければならない。この傷だらけの屋敷に。
不安と緊張で押しつぶされそうになりながら、エウフェミアがため息をもらそうとした時。
「旦那様がお越しです」という執事の声が扉の外でかけられて、ぐっと息を止めて立ち上がった。
側仕えのカリナが扉を開けにゆく。突然彼女が、こちら側の味方でなくなった気がする瞬間だった。アルフォンソから与えられた側仕えなのだから当然と言えば当然なのだろうが、不安がさらに上乗せされる。
扉が開かれた。
入ってきたのは三人の男性。
そして驚いた。その内の一人は、先ほどエウフェミアを案内した執事だったからだ。しかし服装が違う。三人とも気楽なラウンジジャケットにベスト姿で、みな胸にディローザを飾っている。飾れる身分──貴族の血筋ということである。
一体誰がアルフォンソなのか分からずに、彼女は視線を戸惑わせた。先ほどの執事役の男は違うだろう。しかし残りの二人とも想像よりは遥かに若かった。そしてどちらにせよ、見覚えがまったくなかった。
柔らかそうな濃い金髪に柔和な表情の青い目の男と、金茶の固そうな髪と赤味がかった茶の瞳にがっちりした身体の男。視点が定まらない中、ふっと元執事が笑って金茶の髪の男を見て「旦那様……エウフェミア嬢です」と紹介した。
「その姿で旦那様はやめろ、ウィルフレド」
苦笑いを浮かべながら旦那様と呼ばれた男は、頼りなく一人で立つエウフェミアの方を向き直った。
「エ……エウフェミア・デ・サリニャーナと申します。本日はお招きありがとうございます」
「アルフォンソ・ファン・レオカディオだ。人が足りず、無作法極まりない屋敷ではあるが、寛いでいってくれ」
アルフォンソは二十代半ばから後半くらい。灼けた肌と武官のような体躯を持っているが、一番目を引くのは頬から顎に向かう傷だ。古傷と呼ぶにはまだ痛々しいそれは、この屋敷の傷と同じものなのだと伝わってくる。
席を勧められ再びエウフェミアが腰を下ろすと、アルフォンソが向かいに座る。元執事は椅子の脇に立ち、もう一人の金髪はアルフォンソのソファの後ろに立つ。
「俺の右翼であるウィルフレドと、魔法使いのセシリオだ」
執事だと思っていたウィルフレドはわずかに瞼を伏せて会釈をし、セシリオは軽く手を振りながら片目を閉じて見せた。
「は……はぁ」
「他にも部下はいるが、いまはみなこの屋敷に住んでいる。何かあったら頼るといい……ウィルフレドに」
「お待ちください、アルフォンソ様。僕をお忘れですよ」
後ろのセシリオが自分の胸に手を当てて、それはもう魅惑的な微笑みを浮かべる。魔法使いというものは、もう少し気難しいものではないかと思い込んでいたエウフェミアは呆気にとられる。
「お前は駄目だ。今日ここに連れてきたのも、エウフェミア嬢に顔を覚えてもらい、無用に近づかせないためだ」
目の前で交わされる会話は上下関係こそあれ、とても気やすい雰囲気だった。その光景に、彼女は少しだけ緊張を解くことが出来た。
そうしている内にお茶が運ばれてくる。茶会が始まると、やっとエウフェミアの口も動かせるようになってきた。
「あの……こんなことを伺うのは……その……とても失礼なことかと思うのですが」
もじもじと彼女は膝の上の手の上下を握り直しながら、言葉を紡ごうとした。「先日の花の会で……その……」と続けると、ああとアルフォンソが頷き断定的にこう返した。
「俺とエウフェミア嬢は、これが初対面だ」
「そうですか……」と、エウフェミアは胸をなでおろす。顔と名前が一致しないだけならまだしも、まったく記憶にないなんて失礼にもほどがあった。
「それで……その……わたくしの顔もご存知ないのに……どうして……婚約ということになったのでしょうか」
「何か不満足なことでもあったか?」
アルフォンソが片方の眉を上げ、側に控えているカリナをちらりと見る。
「いえ、決してそのようなことはございません。贈り物も側仕えも大変ありがたく……だからこそ不思議でならないのです」
慌ててエウフェミアは彼の視線を取り戻す。何か不手際があったわけではないと否定し、婚約に不満などあるはずがないと伝える。
それ以前に、初対面ならなおさら婚約そのものがおかしい。てっきり花の夜会で見初められたのだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「アルフォンソ様は、乙女心は分からないのですね」
ふふふふとセシリオが悪い笑いを浮かべて、こう続けた。
「エウフェミア嬢は、“どうしてわたくしが貴方のディローザに選ばれたのですか?”と問いかけられておいでなのですよ?」
「気持ちの悪い女声を出すな」
左手を振り上げて後ろに立つセシリオにぶつけようとするが、金髪の男はそれをすっとよけ、肩を揺らして笑っている。少し苦い顔をした後、アルフォンソはこちらを向き直す。
「エウフェミア嬢を婚約者に決めたのは確かに俺だが……選んだのは俺ではないからだ」
選んだのは自分ではないというアルフォンソに、彼女は何度かまばたきをして、それからちらりと黒髪のウィルフレドを見たが反応はない。セシリオを見ると、小さく違う違うと笑顔で首を横に振られた。
視線をアルフォンソに戻すと、彼はちらりと窓を見てこう言った。
「君を選んだのは……ティアラだ」
ティアラ。それは人名とは思えなかった。人の名の発音ではなかったからだ。
アルフォンソがした発音のティアラの意味は──土。
その名の意味を考えるより先にアルフォンソがこう言った。
「ティアラは……俺の花師だ」
エウフェミアの脳裏に、何故かあの赤毛の女性が一瞬よぎっていった。