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2・花の娘

「エウフェミア」

「お父様、どうなさったの?」

 ずっと暗い表情が多かった父が帰宅するやいなや、抱きしめてきたことにエウフェミアは驚きの声をあげた。こんなことは、修養学校の寄宿舎に入る時以来だ。

 新しい服の仕立てもせず、香水ひとつ振ることもしない父は、働く男の匂いとディローザの花の香りを彼女に与えてくる。

「でかした、エウフェミア」

「お父様、花が……花がつぶれてしまいます」

 感極まったようにぎゅうぎゅうと抱きしめてくる胸の中で、彼女は父のコートの左胸に咲く赤い花に顔が当たらないように何とか動かそうとしていた。

「あ、ああ……すまぬ。嬉しさのあまり花のことを忘れておった」

 ようやく我に返ったのか、父は軽く咳ばらいをしながら娘を解放する。そして乱してしまった娘の栗色の髪を軽くなでた。父譲りの髪と緑の瞳。


 貴族とはいえ九位の、土地も持たぬ文官の家。いまここに住む家族は二人だけだ。父が毎日無事に家に帰ってくるだけで、エウフェミアは神に感謝をしていた。

 国は少し前まで王位継承にまつわる内戦で荒れに荒れた。ようやく新しい王が戴冠し、内戦は終結したと宣言されたものの、いまだその傷跡は大きく残ったままである。

 この家が戦いに巻き込まれなかったのは、偏に都の中でも山寄りの鄙びた地区にあったおかげだ。仕事に通うにはとても不便ではあったが、結果的に財産と人命は守られた。地域そのものの荒廃も少なかった。

 時々聞こえてくる恐ろしい話や発砲音などに、エウフェミアはまたしても血生臭い戦いが起こるのではないかと心配するしかできない。

 だから彼女は、毎日父が帰る馬車の音を待ちわびる日々をおくる。四十を超えたばかりだというのに、髪がどんどん白くなっていく父の姿は、家で守られているエウフェミアでさえ外の苦労を感じることができた。


 父の上着から赤いディローザの花を受け取るのは、エウフェミアの仕事だ。母は内戦の終結を待たずに、花の世界へと旅立った。妹と弟はいるが、ようやく再開した学校の寄宿舎に入っている。

 ディローザの管理は娘や妻の仕事だ。修養学校でもいかにこの花を美しく育て、保てるかを重要事項として学ぶ。だからどんな下位の貴族であろうとも、「花師」を雇わなければならない。

 エウフェミアは父の胸から受け取った、美しく豊かな花びらを持つロゼット咲のディローザの切り花を両手で大切に捧げ持った。大事な帰宅の祈りである。

「花とは命。花とは希望。花とは愛。御身への祈りであるディローザが、安らかにお休みいただけますように」

 祈りを光に変え、エウフェミアは自分の両の手を輝かせる。ディローザの花がゆっくりとつぼみに戻っていくのを見守り、大事な仕事を安堵と共に終えた。


「ところでお父様、何があったのですか?」

 数少ない使用人にコートを預けている父に、蕾のディローザを握ったままエウフェミアは問いかけた。うむ、と父が顔を輝かせて頷く。

「お前の婚約が決まったのだよ」

「婚約、ですか?」

「そうだ……落ち着いてよく聞きなさい」

 父の方が落ち着いていないのが明らかな上ずった声を、エウフェミアはどこか他人の話のように聞いていた。

「アルフォンソ・ファン・レオカディオ四位だ……先の“花の会”でお会いしたのだろう?」

 熱っぽい父の言葉にエウフェミアは首を傾げた。内戦終結後、初めての花の会が催されたのは先日のこと。それは確かにおめでたいことではあったが、十七歳のエウフェミアにとっては幸せな時間とは言いづらいものだった。

 内戦の後始末で「それどころではない」家も多く、満足な準備が整わない中で開催された花の会は、あちらこちらに痛々しさを残したままだった。新しいドレス姿の女性は少なく、消えない傷を残した男性も多い。

 そんな中でエウフェミアは、修養学校で仲良くなった同じくらいの家格の友人と静かに壁の花になっていた。恥ずかしくない程度の衣装しか用意できないエウフェミアは、友人がいなければ早く帰りたいくらいの肩身の狭さだった。

 踊りに誘われなかったわけではないが、彼女を誘うのはどちらかというと年齢の高い男性が多かった。エウフェミアよりは父の方に年が近いだろう。ギラついた目とねばつく手の感触といやな息遣いを感じながら踊るのは、彼女にとっては苦行以外の何物でもなかった。

 その中の一人だと思うと、エウフェミアの気も重くなる。どこかの家の後妻かもしれないと表情が暗くなる。しかしそんなことを、こんなに喜んでいる父に言えるはずもない。

「素晴らしいことなのだぞ」

 晴れやかな笑顔の父に、エウフェミアはつぼみのディローザを握る手に少しだけ力を込めて「ありがたき幸せですね」と微笑んだのだった。


 それからのエウフェミアは怒涛の日々だった。

 婚約者のアルフォンソからドレスや靴の仕立ての手筈が整えられたかと思うと、驚くことに女性の側仕えまで贈られてきたのである。カリナと名乗った黒髪の美しい女性は側仕えというより、完全に教育係だった。エウフェミアはカリナにみっちりと四位貴族の妻になるための淑女道を叩き込まれた。

「こちらは、修養学校で習っておいでではないでしょう」

 その中でも、エウフェミアが履修できなかった、学校の大事な最終年度の教育を施してくれるのはとてもありがたいことだった。内戦の影響は学校まで及んでおり、二年前に修養学校は一時休校になったのである。十三歳から三年間通うそこを卒業して、初めてこの国の貴族の娘たちは社交界へ出ることが許され、結婚も許されていた。

「後は母上にしっかりと教わり立派な淑女になりなさい」と教師たちに送り出されたが、エウフェミアは既に母はなく、親族も自分の家のことで精一杯の大きな変革の時代。ぽっかり空いた彼女の空白の時間を、カリナがてきぱきと埋めていく。婚約者と並ぶために足りないものを内も外もどんどん揃えられていく。

 これほど気にかけてくれる相手ならば、たとえ後妻でも問題はないのではないかとエウフェミアは思い始めた。いまは離れて暮らしている妹や弟の助けにもなるかもしれない、と。

「レオカディオ四位はどんな方なの?」とカリナに聞いてみたことがあったが、側仕えらしい返答は「大変立派な御方です」という、人となりを知る上でまったく参考にならないものだった。

 想像もできない男性に対して、エウフェミアはお礼の手紙を書く。カリナに渡せば届けてくれるという。手紙の添削をされるかと思っていたが、それはなかった。逆にエウフェミアは不安を覚えた。貴人への手紙の書き方は修養学校で習ったが、実際に男性に手紙を送る経験など、寄宿舎に入っている弟にしかない。

 相手の気分を害さないか心配で、その後のエウフェミアは本当に当たり障りのないお礼しか書くことができなくなった。いずれも返事は来たが本人ではなく、「旦那様はお喜びでした」という従者からの短いものだった。

 相手がどんな人か分からない日々が続いたが、身に余る贈り物の数々に、父が嬉しそうに微笑む姿を見るのが、エウフェミアは嬉しかった。


 そしてある日、父は彼女にこう言った。

「カリナに花を見せてあげなさい」

「はい、お父様」

 本気の心に応えなさいと言われたも同然だった。彼女は贈られた側仕えを連れ、決して広くはない奥の庭へと向かう。庭には薄い半透明の膜に覆われた小屋がある。

 中の緑と赤がうっすら透けて見えるそれは──ディローザの温室。

 温室に入れるのは家の人間と花師だけ。側仕えのカリナを中に入れるわけにはいかない。しかし花を見せるだけはできる。

 エウフェミアは半透明の膜に両手を当てた。

「花とは命。花とは希望。花とは愛。御身への祈りであるディローザとの再会をどうかお許しくださいませ」

 祈りを光に変え、エウフェミアが自分の両の手を輝かせると半透明の膜はゆっくりと触れたところから消えていく。土と緑と花と──魔力の匂いがぬるく混じりながら、彼女の身体に押し寄せてくる。目の前に広がるのは、ディローザの小さな花園。

 側枝をすべて落とした木立性の緑の茎に咲く、赤い一輪の花。つぼみのものも、これからつぼみになるものもある。まだ花には遠い成長途中のものも多い。

 それを側仕えのカリナに、温室の外から見せる。

 それぞれがそれぞれに茎の歪みも恐れず身を伸ばし、光を浴びようと艶やかな緑の葉を広げ、どんな女性の唇よりも赤い花が咲き誇る、エウフェミアが母から引き継いだ大事な花園だった。


 後日、アルフォンソから初めて直筆の手紙が届く。

『貴女に私の花を見せましょう』

 恋物語の口説き文句のような招待状だった。



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