10・蜂の熱
「婚約解消を提案された……」
そして──アルフォンソ・ファン・レオカディオは唸っていた。毒見のセシリオそのものが猛毒となり、エウフェミアの信頼を深く傷つけたのである。
「アルフォンソ様、大変ですねー」と言うのは、書斎の隅の椅子に片膝を立てている毒の問題児。
これっぽっちも悪びれる様子のない金髪の魔法使いを殴りたくなるが、どう考えても八つ当たりである。セシリオはこういう存在だと、分かっていたはずだ。その代わり、どこにでも入り込める。今回は適材適所とは反対の毒材毒所だった。
はぁと深いため息を吐く。上位貴族間の駆け引きに振り回されないように生きてきたツケを存分にいま、アルフォンソは味わっていた。調べ、試し、内側に入れても問題ないか何度も確認してきた。内側に入れた人間に、刺されるのが一番面倒だからだ。毎日味方を疑う時間の無駄を、とにかく省きたかった。
相手が上位貴族なら、試すのも試されるのも慣れている。罠の掛け合いも日常茶飯事。その力は、九位貴族には強すぎた。自分でディローザの手入れをするような娘だというのに。
今日のアルフォンソは、本気で詫びた。エウフェミアとの熱愛の噂を流した効果か、彼女の叔母がやってきて花をねだったという。それを耐え抜いた直後のセシリオの毒の話を、カリナから飛ばされたカードで知ったアルフォンソは天を仰いだ。乱れることのない整然と並ぶカードの文字は、カリナが確実に怒っていることを伝えてきたし、エウフェミアが傷ついていることも分かった。
しかし、ひとつだけ予想外のことがあった。アルフォンソは目の前で本人に泣かれると思っていた。しかしそうではなかった。彼女はひどく辛そうではあったが、泣くことはなかったし声を荒らげて糾弾することもなかった。
それどころか──
「とにかく、もうエウフェミア嬢への毒見は絶対に禁止だ」
「それは別に構いませんけど、その禁止、する必要あります? だってもうダメでしょう? 婚約」
楽しそうな笑い声をあげながら、セシリオがからかう。
「いえ、まだ提案だけですから、婚約解消ではありません。そもそも彼女が花師になるなど常識外れです」
やっぱりセシリオを一発殴っておくかと思ったアルフォンソだったが、ウィルフレドの言葉に顔を顰めた。
「……そうでもない」
ひん曲げた口からアルフォンソが吐き出した言葉は、それだった。
「どういうことでしょう?」
「花師の養成学校が再開したら、ティアラを通わせるつもりだった」
ウィルフレドが言う常識外れというのは、女性が花師の学校に通うというところだろう。内戦で閉鎖されるまで、花師は男しかいなかったが、校則に性別が記載されているわけではない。「常識的に考えて」男しか通わなかっただけだ。
しかしアルフォンソは、そんな常識的なものに囚われる気はない。だからティアラを通わせるつもりだった。貴族の後ろ盾があれば学校は入学を拒めない。
エウフェミアも父親という貴族の後ろ盾を得られれば、入学できないことはない。彼女の場合は、女性で貴族という両方の意味で前代未聞なだけだ。
アルフォンソは胸の奥の方に火がついたような熱を感じた。有能な妻という彼の理想を、エウフェミアが一段高く超えてきた手応えだった。あんなに細くへし折れそうな身体で彼女はしっかりと立ち、過酷な森をかき分けて進もうとしている。
そんな彼女のことを考えると、勝手に心が燃え始めるのが分かった。初対面の時には想像もできなかった、沸き立つ感情。感情の名前など、何でもいいではないか。愛でも恋でも勝手にすればいい。けれど、確かにいまアルフォンソの中に生まれ育っているのは間違いなかった。
「なるほど……では女性が入学しやすいように、多少根回しをしておきましょう。花師の未亡人たちの中には入学したい者もいるでしょう。未亡人会が発足していますので、うまく使えないか調査します」
「何故そうなる」
ウィルフレドが突然、エウフェミアの花師への道を整備しだしたので、言葉で止める。エウフェミアの行く道を、反対しているわけではない。だがウィルフレドは難色を示すと思っていた。
すると、おやと暗い瞳を向けてくる。
「アルフォンソ様は、お好きでしょう?」
「何が、だ」
「“前代未聞”、です」
長年付き合ってきたせいで、アルフォンソの趣味嗜好は大体知られている。迷いのない真顔の指摘に、彼は自分の太い首をさすった。そこに走る甘く微かな震えと、我知らず上がっていく口の端を止められない。その震えの先に、あの娘が立っている。これから彼女を見る度に、この感覚を思い出しそうだ。
そんなアルフォンソの性格を知り尽くし、叶えることの方をウィルフレドが優先したこともまた、彼の感情を底上げする。さすがは俺の右翼だ、と。
「ああ……まったくゾクゾクするな」
ティアラを前代未聞にするつもりが、更に上を行く前代未聞が登場した。それがまさかの婚約者と来た。現在その関係は、風前の灯火となりかけていたが。
性質は「無毒」と評されたあのエウフェミアが、貴族の常識を踏み越えて行こうとしている。これがもし自分の娘や妹だったなら、アルフォンソはきっと高笑いをして送り出したことだろう。
「じゃあエウフェミア嬢とはお別れですねー」
ふふふと、セシリオが手を振っている。
「何故そうなる」
本日二度目の、何故そうなる。
「えー、だってエウフェミア嬢は花師になるんですよね?」
「なればいい」
「だからそうなったら……あー、そうですかー。アルフォンソ様、前代未聞が大好きですもんね。両取りする気ですか」
よいしょっと片膝を椅子から下して、反対の足を上げる。
「でも花師になった彼女と結婚できるかどうかは……まだ分かりませんよね? だってエウフェミア嬢はもうアルフォンソ様はいらないって思ってるし、カリナも相当おかんむりでしたから」
カリナに怒りの戴冠式を行った張本人は、完全に他人事の顔だ。
「何を言っている」
アルフォンソは上がりっぱなしの口の端を、自分で叩いて戻した。
「まだ俺は降伏していない……忘れたか? 俺はエウフェミア嬢への恋に狂って求婚した男だぞ? 簡単にあきらめるわけないだろう」
煙という噂を立てたところに火がつく分には、何ひとつ問題がない。それどころか大歓迎だ。
「えー、でも具体的にはどうするんです?」
興味はあるけど無責任、というセシリオらしい声音で問いかけられる。
「そんなのは決まっているだろう」
アルフォンソは力強く答えた。
「詫びて、口説く」
それにセシリオが返した。
「楽しそうですね、僕も同席しますっ」
ウッキウキな声で椅子の上に立ち上がるその姿は、いまにも空を飛びそうなほどだった。
「絶対来るな」
「絶対駄目です」
絶対の部分だけ、完全に主従の声が重なった。