【ショートショート】カグヤの君のフロンティア
「私、卒業したら月で働くの」
澄ました横顔が、いつもの挨拶みたいにけろりとこぼした言葉。
それをわたしは理解できない。
「え?」
「月で、働くの」
「ツキ」
「そう、月」
――――Moonよ、わかる?
可笑しそうに彼女が付け足す。
わたしは、ますます理解できない。
「どういうこと?」
「夢だったの」
「わたし、知らないわ」
「言ってないもの」
「どうして」
「どうしてもよ」
会話にならない。彼女はただあいまいに笑う。
わたしの困惑は深まる。
「卒業したら、花族と結婚するのが学則じゃないの」
「絶対じゃないわ」
「ほとんど絶対よ」
「何事にも例外はあるわ」
――――彼女はおかしくなってしまったのかしら。
わたしは不安に駆られる。
「わたしとあなたは、同じ家へ嫁ぐ予定だったわ」
「そうね」
「そうねって」
「予定は変わるものだわ」
「わたし、何も聞いてないわ!」
「だから、言ってないのよ」
同じ言葉をくり返す彼女。
「わたし……、わたしとあなたは親友だと思ってたわ」
「私は今でも思ってるわ」
「ふざけないで!」
「ふざけてないわ」
興奮して涙がにじむ。彼女は少し困ったように眉根を寄せる。
「真面目にずっと、考えていたことなのよ」
まるで、泣く幼子をなだめるような顔つきの彼女。嘘みたい。
「確かに、この学校は、花族へ嫁ぐ為の学びの場よ。蜂族の女なら、誰もがそれに憧れて夢見て入学するわ。最初は、私もそのつもりだった。でもね、人生一度きりなのよ。後悔したくないのよ」
「嫁がない方が後悔するわ! 女が! 月で! 働くなんて!」
ほとんど泣き叫ぶようになってしまう。それでも、彼女は穏やかだ。
「そうね。確かに不安ね。それでも夢へ挑む切符を得た幸運と比較するまでもないのよ」
なにかわたしの理解のそとを知るまなざしが、遠く、遠くへ向いている。
よく知ったはずの彼女の瞳が、まるで見知らぬ誰かようだ。
「ねえ、考え直してちょうだい。きっとあなた、騙されてるんだわ。そうよ。騙されてるわ。女が働くなんて、普通じゃないわ。月なんてとても遠いし、男だってあんなところへわざわざ働きに行くなんて正気じゃないわよ。第一、今まであんなに一緒に勉強したのは、何だったの。噓だったというの?」
「貴女との学校生活は、とても素晴らしい思い出よ」
「そんなことは聞いてないわ!」
ぼたぼたと涙がおちる。
「本当は冗談でしょう? 冗談だと言ってよ!」
「本気よ」
「嘘よ!」
思わず彼女のスカーフをつかんだ。それをゆっくり制した彼女のてのひらが、あたたかくて、それがかえって怖かった。
「決めたのよ。私は私の人生の舵を取るの」
「……舵?」
「そう、舵。全部私が自分で決めるの。家や親や夫は関係ないの」
「そんなこと、無理よ」
「無理じゃないわ」
「無理よ。女じゃ、やれやしないわ」
「それなら私が初めてやるわ」
「そんなこと許されないわ!」
必死に彼女を睨みつける。それが、彼女をここへ繋ぎとめてくれるというように。
「ぜったい、ぜったい、許されないわ!」
「だれに?」
「だれって」
言葉に詰まる。
「ねえ、貴女も一度くらい思ったことあるでしょう。そうね、貴女は刺繍がとても得意よ。その腕を振るえば、男に頼るなんて必要ないわ。貴女は、夫の添え物じゃなくて、家の一部じゃなくて、貴女として賞賛されるのよ」
「そんなの考えたこともない……」
「なら、今考えて。いい? 貴女の刺繍を皆が競って欲しがって、褒めたたえて、貴女のその技術に皆がお金を積むのよ。貴女は誰にも頼らないし、縛られないし、ただ『貴女』として必要とされるのよ!」
「やめて!」
彼女を思わず突き飛ばした。ギラギラと光る瞳が恐ろしかった。
「やめてちょうだい。恐ろしいこと言わないで」
「恐ろしくなんかないわ! 今にこれが普通になるわ。女だって働くし、もっと自由に生きるのよ!」
「いやよ! 一体どうしたの。なんで急にそんなこと言うの!」
「急じゃないわ。遅すぎるくらいよ」
彼女が祈るように囁く。
「ね、お願い。決めつけないで、一度だけでいい。真剣に想像してみて。脳裏に描いて。貴女の刺繍が世界の皆から注目されるの。周りは拍手喝采よ。羨望の的よ。それは貴女よ。中心で笑っているのは、貴女」
彼女のギラつく瞳の魔力に惑わされて、ぱっと視界に映像が散る。いつか授業で作った刺繍の柄が踊った。
先生に褒められたこと、友達にうらやましがられたこと、そのあと両親に、出来はよいけれど、嫁ぎ先では作るには派手だから控えなさい、とたしなめられたこと。
そのときわたしは少しだけ、ほんの少しだけ悔しかった――?
「やめて、やめて。いやよ、いや」
――――こんな恐ろしいことを考えるなんて。
「怖いわ。許されないわ!」
「一体それは、誰に?」
「誰でもよ。みんなよ。世界が許さないわ!」
「なんだ」
彼女が残念そうに微笑む。
「せめて、『わたしが許さない』って言って欲しかったわ」
カッとほおが燃えた。自分でも理解できないどろどろした感情がみぞおちで焦げる。
わななくくちびるで、言い訳のように彼女を責める。
「あなたはおかしいわ」
混乱して、わたしはわたしがもうわからない。
「あなたは狂ってる……!」
「それでも、いいのよ」
乾いた声。その目はもうわたしと合わない。
「もう、常識にゆらぐほど、弱くいるのはまっぴらなの」
――――でも、貴女をずっと親友だと思っているわ。
さらりと言い残して、にべもなく彼女は踵を返す。
呆然と立ち尽くすわたしに、乾いた秋風が落ち葉を散らした。
「なあに、それ」
泣くこともできず、わたしはつぶやいた。彼女の言葉が反芻して、ただ胸が痛かった。理由もわからないままに。
* * * *
――――フロンティア・ムーンサイトより、新種のツル植物の結実に成功したという吉報が届きました!
この素晴らしい功績に、またしても貢献したのは、ミス・ムーンの字名で名高い彼女です……
穏やかな午後の日差しに、ラジオのかすれた音が重なる。
刺繍の針を止めて、耳を澄ました。
――――そしてなんと! 本日は特別インタビューで皆様にミス・ムーンの声をお届け!
月に関するいろんな秘密にぐっとせまりますよ!
――――秘密だなんて…ふふ。すでに公表している情報ばかりですよ
「せんせー、せんせーぇ」
「なあに?」
「ここのはじのとこ、どうやってぬったらいいかわかんないー」
「ああ、ここはねぇ……」
少女の刺繍を手に取って眺める。ふと、あの日の彼女の言葉を思い出す。
『貴女の刺繍が世界の皆から注目されるの。』
それはいくら何でも大げさだったわ、と笑いがこみ上げる。
「せんせぇ、にやにやしてるー」
「んー、ちょっと前のこと思い出したのよ」
卒業後、わたしは予定通りに花族の家へ嫁いだ。
けれど、2年とたたずにすぐ主人に先立たれてしまったのだった。
まだ子供もできないうちだったので、両親には帰るようすすめられたが、その頃にはもう実家に弟夫婦がいたからわたしとしては遠慮したかったし、足の悪い義父母のことも心配だった。
緊張して、主人とうまく話せないわたしを優しく励ましてくれたお義母様。主人の幼いころのアルバムを開いて『こんなの相手に緊張しなくていいでしょう』とおどけた。それがとても可笑しくて思わず吹き出した。なんて素敵な人なんだろうと心底ほっとした。
寡黙だけれど、わたしの作るお菓子を楽しみにしてくれた甘党のお義父様。食べ過ぎを注意されるお義母様には内緒で、ママレードジャムのタルトをよく頼まれた。『おお、これがうまいんだ』とほくほくと笑う。それがとても可愛らしくて思わず顔がほころんだ。なんてお茶目な人なのかしらと心底うれしく思った。
ああ、そしてなにより愛しい主人!
今でも彼の夢を見る。力強い腕。厚い胸板。低く豊かな声。柔らかな髪。光る長い睫毛。深緑の瞳。耳にここちよい鼻歌。わたしの髪を撫ぜる右手。『そうかもな』は彼の口癖。鶏の煮込み料理は必ずおかわりする。シャツの衿がなぜだかいつも右へよれる。わたしが直すと『ありがとう』と彼がはにかむ。それから、それから。
主人を忘れたくなくて、思い出の場所を、義理の実家を離れられなかったのだ。
帰らないと決めてからは、もう、死に物狂いだ。それまでの穏やかな暮らし――例えば主人の帰りを縫物しながら待っている――そんな甘やかさとはさよならだ。
なんでもいいから食べるために稼ぎが必要だった。下げられる頭はとことん下げた。使える縁故はとことん使った。ハンドオイルが美容の為だけにあるわけではないことを初めて知った。
主人にどれだけ守られていたことか。自分がどれだけ“箱入り”だったことか。
けれど、それを知らずに終える一生を選択しなかったことをわたしは幸福だと思う。
泣きじゃくって腫れた瞼が開かないような日もあったけれど、なんとか、どうにか食いつないで、生活が落ち着いた。
今は針物の手縫いの注文と小さな刺繍教室で生計を立てている。
――――それでは、次の質問です!
地上へ帰ることができたなら、まずは何をしたいですか?
――――そうですね。いつになるかわからないですが、もし地上へ帰れたら、一番の親友へ会いたいですね。とても刺繍の上手な子なんですよ――
「ほーら、できた!」
「せんせぇすごーい!」
刺繍を高く空に広げる。白い月が見えた。
ああ、きっと今夜はきれいな満月だろう。