第7夜 救いとなるもの
今夜も変わらず森の入り口へと向かい、自身を抱くように両腕を腰へと回していた大上さんに声をかける。
「こんばんは」
「あぁ、こんばんは」
くびれた細い腰を少しばかり捻り、振り向き美人の様相でこちらに視線を流す。
「では、行こうか」
「はい」
2人で森の中へと歩を進め、送り狼に狙われる時間が始まった。
今夜は新月のため、月は暗闇に身を潜めている。森を照らす貴重な光が失われているので、木々や草葉の影が多い。
「……」
それに反比例するように、大上さんの口数は少なかった。いつもの微笑は浮かべているのだが、ただそれだけだ。
普段はふとした拍子によく夜空を見上げているのに、今日は1度も見上げていない。姿が全て見える満月が好きだと言っていたから、反対に新月はあまり好みではないのだろうか。
心なしか気分が沈んでいるように感じられる大上さんに、俺は単刀直入に問いかける。
「今日はあまり元気が無いようですね。月が見えないのが原因でしょうか?」
「そんなつもりは無かったけれど……そうだね、キミが言うのならそうなのだろう」
問われてようやく自分の状態に気が付いた大上さんは、思案顔で左の手のひらへと視線を落とした。
そのまま調子を確かめるように2回ほど握っては開いてを繰り返し、何かに納得したのか言葉を続ける。
「べつに、月が出ていないと力を出せないなどといったことは無い。体の調子はいたって正常だ。あくまで、どうにも気分が乗らないだけらしい」
「やっぱり、狼と満月は関係が深いのでしょうかね」
「どうだろうか。少なくとも、そういった因果関係は認められていない。関係があると思われているのは、人間が勝手に関連付けてそういった創作物を書いたことが原因だ。とはいえ、私が個人的に月を好きなのも事実だよ」
「まぁ……狼全体での話は置いておくとして、好きなものが見えているのと見えていないのとでは気分が変わりもしますよね」
「こんな一面があったことに、自分でも驚いているさ」
大上さんはいつもの自分を確かめるように、顔をついと上げて夜空へ視線を向ける。しかしどれほどその姿を探そうとも、暗闇に隠れる月が見えることはない。
寂しそうにまぶたをそっと細め、いつもの自分が空に存在していないことを嘆く。
「そこにあると分かっているのに見えないというのは、なんとももどかしいものだね」
「新月は、好きではありませんか?」
「そう……だね。存在しているということが、存在が伝わっているということにはならない。月に照らされて存在していた私は、今もここにきちんといるだろうか」
月に自身を投影する大上さんは、自分が俺に認識されているかと問いかけてきた。
もちろん先ほどから姿は見えているし、会話だって成立している。お互いが認識しあっているのは確認するまでもない。
けれどそれでも訊いてきた。大上さんが求めているのは、見えている今ではない。見えていないもっと別の何かを、確かめたいのだ。
儚げな瞳を浮かべる狼に、俺は誠意を込めて返答する。
「あなたにいなくなられてしまっては、俺はすぐにでも食べられてしまいます。もしもどこかに消えてしまったら、月の裏側まで探しに行きますよ」
「……ふふ。キミがいる限り、私は消えている暇も無さそうだね」
大好きな月のように姿を隠すことは叶わないと言われた大上さんは、不思議と嬉しそうな笑みを溢した。
気持ち元気が戻ったことに安堵した俺は、月から意識を逸らすために別の話題を口にする。
「そういえば、送ってもらうというのはどの範囲まで大丈夫ですか」
「どの範囲……とは?」
「目的地は家でなければならないとか、あまりにも遠い場所だと駄目だとか、そういった制約はありますか?」
「……考えたことも無かったよ。けれどそうだね、曖昧な言い方にしかならないが、私が望む範囲でならどこまでも送ってあげるよ」
「そう……ですか」
確認したかったことを聞いた俺は、視線を前に向けて思案する。大上さんが望む範囲、というのは、完全に気分で決められるものだ。なら機嫌の良い時にお願いすれば、少しばかり重たい要望も聞き入れてくれるだろうか。
そんな打算を考え始めたことを察したのか、大上さんは顔を覗き込んできて声を出した。
「キミはどこか、遠い場所へ送ってもらいたいのかい?」
「ええ。場所……というよりも、時間などで問題が出るかなと懸念しているんです」
「なるほど。では、具体的な相談に乗ろうじゃないか」
「それなんですが、まずはあなたの意思確認から始めなければならなかったんです。そこで断られてしまうと、そもそも計画を立てられませんでした。なので、この相談は後日改めてさせてもらえませんか」
「ふむ……。分かった、大人しく待っているとしよう」
「頼ってばかりですみません」
「気にする必要は無いよ。人間を救うことが我々送り狼の本望だからね」
大上さんは覗き込んでいた顔を戻し、曖昧な返答を一旦保留とした。
ともかくこれで、未来を決められる。
そんな先のことに気を取られていたのが悪かったのだろうか。計画を練るために頭を回していた俺は、地面に立っていたジュースの空き缶に足を引っかけてしまった。
「……!」
勢いそのままに前側へと倒れ込み、とっさに左手を突き出して地面につく。
送り狼の目の前で、転んでしまった。
左手と左膝を地面につき、片膝立ちの姿勢で硬直する俺の背中に声がかけられる。
「おや。キミは今、転んでしまったのかい?」
俺の半歩後ろに立つ大上さんは、禁忌を犯したのかと問いかけてきた。
星の明かりにぼんやりと映し出されるその影は、瞬く間に姿を変えて異形の狼へと変貌する。
引き締まった勇猛な足が、俺が引っかかってしまったジュースの空き缶をぐしゃりと踏み潰す音が聞こえた。
俺は決して振り返らず、思考を巡らせて言い訳を口にする。
「転んでません。いくつかゴミを見つけたので、拾おうとしゃがみ込んだだけです」
禁忌の質問に否と答えると、影は徐々に人の姿へと戻っていった。
「そうかい。それは失礼、疑ってしまって悪かったね」
俺は周囲にあった空き缶を1つ手に取る。
そのまま立ち上がって素知らぬフリをして口を開いた。
「これ……、ただ捨ててあるだけじゃなくて、地面に釘を刺して空き缶を被せてあるんですね。誰かのイタズラでしょうか」
「イタズラとみて間違い無いだろうね。おそらく、蹴飛ばそうとした者の足に痛みを与えようという魂胆だろう」
地面にしっかりと刺さっている釘は、靴の爪先で小突いてもビクともしない。俺が足を引っかけてしまった空き缶も、同様の罠となっていたのだろう。
他にも2ヶ所に空き缶があり、俺は悪質なイタズラに溜め息をつく。
「まったく……、誰が何の目的でこんなことをしたんでしょうね」
「それは分からないが、もし犯人を見つけた時は私がしっかりと釘を刺しておくとしよう」
大上さんは釘ごと踏み潰した空き缶を睨み付け、不届き者に対する怒りを口にした。
俺は近くにあった2つの空き缶を掬い上げ、釘も力を入れて引き抜く。こんな仕掛けのせいで、危うく足を掬われてしまうところだった。物理的には掬われてしまったが、ひとまずは食べられてしまう危機を回避したので良しとしよう。
俺が心中で一息ついていると、大上さんも潰れた空き缶を掬い上げた。次いで少しばかり瞳を細め、心を見透かすようにふっと笑みを向けてくる。
「掬うゴミがあって救われたね」
そうですねと言うと転んだと認めてしまうことになるので、俺は何も口にしなかった。




