第4夜 変わるもの
今夜も変わらずに森の入り口へと向かい、風の音に耳を傾けていた大上さんに声をかける。
「こんばんは」
「あぁ、こんばんは」
大上さんはこちらに顔を向けながら、形の良い耳に指で銀髪をそっと乗せる。
「では、行こうか」
「はい」
2人で森の中へと歩を進め、送り狼に狙われる時間が始まった。
木の葉が風に吹かれてさわさわと音を立てる中、大上さんは微笑を浮かべて口を開く。
「キミは明日もこの森を通るのだったね。急いで家に帰らなければならない用事はあるだろうか」
「いいえ、べつに何もありません。明日は何かあったりするんですか?」
「もしキミさえ良ければ、私が住んでいる館に招待しようかと思ってね」
「……え?」
全く予想していなかった提案に、俺は間の抜けた声を出してしまった。
送り狼は個体数が少ないため分かっていることも少ないのだが、人間を住みかに招き入れるという言い伝えは聞いたことも無い。なのでこれは、純粋に大上さん個人の思惑で誘われているということだ。
意図の読めない提案に探りを入れるべく、返答になっていない言葉で会話を広げる。
「1人暮らしの女性が、安易に男を招き入れてはいけませんよ」
「私の身を心配してくれているのかい。それはつまり、キミは不埒なことをするという発言だろうか」
「あなたみたいな美人は気を付けたほうがいいですよ。男なんて皆、本性は狼なんですから」
「ほう……。私の前で狼を自称するとは、なかなかいい度胸をしているね」
大上さんは少しだけ瞳を細め、口の端を吊り上げて狂暴な笑みを向けてきた。
戯れ言にも付き合ってくれる愉快な送り狼に、俺は裏の思惑など無いと信頼して返答をする。
「まぁ、あなたが俺を謀る理由もありませんよね。妙な策謀を企てずとも、その気になればいつだって腹を満たすことができるのですから」
「それはまた後ろ向きな信頼だねぇ。私は気高く美しい狼だよ。腹黒い知略など、考えないどころか嫌悪するくらいさ」
どんな腹積もりなのかは分からないが、そもそも断るという選択肢は無いのだろう。
俺は腹を括って誘いを受ける。
「では、明日はお邪魔させてもらいます」
「ふふふっ、誘うだけのもてなしはするつもりだよ」
大上さんは期待通りの返事に満足し、楽しそうに肩を左右に揺らしていた。
今日この後にお邪魔するわけではないため、今はいつも通りの道を歩く。館は帰路から少しだけ外れており、普段は視界に捉えることもない。
あまり意識していなかったが、あの古びた館に大上さんは1人で住んでいるのだ。どんな私生活を送っているのかは分からないが、窓から差し込む月明かりを静かに浴びる姿は容易に想像できる。
そんな光景を脳裏に浮かべて、笑みを浮かべる大上さんに質問を口にする。
「あなたは普段、何をして日常を過ごしているんですか?」
「女性の私生活を探ろうとするのは感心しないな。けれどせっかく関心を抱いてくれたのだし、隠すような秘密も無い。いいよ、教えてあげよう」
大上さんは道の先へと視線を向ける。
しかし、笑みの失われた表情は何も見てはいないのだろうと思わせた。
「私は、何もしていない。たまにこの辺りをフラりと歩いたりすることもあるけれど、基本的には何もしていないんだ」
温度の下がった声音には、俺とからかいあっている時のような楽しさを感じさせない。
「窓辺の椅子に1人座り、ただ時間が過ぎるのを待つばかりの日々だよ」
大上さんが明かした日常は、先ほど思い浮かべた想像にピタリと一致していた。
それは決して、嫌いな時間ではないのだろう。
けれどそれはとても、寂しさを抱かせる言葉だった。
俺は想像通りのセリフを言わせてしまったことに罪悪感を抱きつつ、前フリとして必要だったと自分に言い聞かせて用意していた言葉を述べる。
「もし……、そんな日常を変えるようなきっかけがあれば、あなたはそれを望みますか?」
「……どうだろう。考えたことも無いね」
大上さんは唐突な質問に疑問を抱いていたが、胸の内に湧いた言葉をそのまま口にする。
「それでも、こうしてキミを送り届けるようになったのは嬉しい変化だよ」
「そう……ですか」
気持ちを誤魔化さずに伝えてくる狼に、俺は1つの指針を心に決めた。
そんな答えに安心したのが悪かったのだろうか。決心するために心ここにあらずとなっていた俺は、地面の石に足を引っかけてしまった。
「……!」
勢いそのままに前側へと倒れ込み、とっさに左手を突き出して地面につく。
送り狼の目の前で、転んでしまった。
左手と左膝を地面につき、片膝立ちの姿勢で硬直する俺の背中に声がかけられる。
「おや。キミは今、転んでしまったのかい?」
俺の半歩後ろに立つ大上さんは、禁忌を犯したのかと問いかけてきた。
月明かりに映し出されるその影は、瞬く間に姿を変えて異形の狼へと変貌する。
人間を一飲みにしてしまいそうな大きな口が、背中のすぐ後ろに構えている気配を感じた。
俺は決して振り返らず、思考を巡らせて言い訳を口にする。
「転んでません。変わった花を見つけたので、近くで見ようとしゃがみ込んだだけです」
禁忌の質問に否と答えると、影は徐々に人の姿へと戻っていった。
「そうかい。それは失礼、疑ってしまって悪かったね」
俺は右膝に手をついて体勢を整え、淡く白い花に目を向ける。
そのまま素知らぬフリをして口を開いた。
「これは……、月下美人ですね。道端で咲いているなんて珍しい」
「ふむ、確かに。誰かがここで育てていたのだろうか」
大上さんも月下美人に視線を向ける。この花は日本では自生していなかったはずなので、誰かが苗を植えたのだろう。
甘い香りを鼻孔に掠めながら、隣に立つ月下の美人に顔を向ける。
「この美しさが一晩だけのものなんて、ずいぶんと儚いものですね」
「一晩だけだからこそ、その美しさに価値が生まれるという見方もある。変わってしまうからこそ、見る者はその移り変わりに心を惹かれるのさ」
「願わくば俺は、変わらずに美しいものを見続けたいと思いますけどね」
「その美しいものとは、何を指して言っているのだろうか」
大上さんはついっと視線を外し、哀愁を帯びた瞳で半月を見上げる。
「私もキミも、いつかこの日常が変わってしまう時が来るのだろうね」
たくさんの意味を含めた言葉に安易な返答をするわけにもいかなかったので、俺は何も口にしなかった。




