第2夜 見上げた満月
自転車を回収して大上さんに家まで送り届けてもらった翌日、俺は再び件の森へと足を向けていた。
すでに太陽が沈んで辺りは暗くなっており、月明かりと街灯だけが夜の闇に光を注いでいる。
「やぁ、時間ピッタリだね」
森の入り口へとたどり着いた時、石段に座っていた大上さんが声をかけてきた。立ち上がって腰の辺りを軽く手で払い、土埃を落として俺に微笑みかけてくる。
「では、行こうか」
「はい」
用事があるため出歩かなければならないが、帰りはどうしても夜になってしまう。多くの妖怪を遠ざけてくれるお守りは、修復不可能だと判断された。
そのため家に帰るには、こうやって大上さんに護衛をしてもらわなければならなくなった。自転車を使って他の妖怪に怯えながら道を走るよりも、送り狼に狙われながら徒歩で森を抜けるほうがずっと安全だ。
大上さんは耳にかかった銀色の髪を掬い上げ、視線をこちらへと流してくる。
「毎日この時間に、キミを家まで送り届ければいいのだろうか」
「毎日……というわけではありませんが、結構な頻度でお願いすることになると思います」
「それはまた大変だね。帰宅時間を変える訳にはいかないのかい?」
「わざわざ変える必要も無いですよ。だって、あなたが送ってくれるんですよね」
「……あぁ。キミが望むなら、いつまでも。ね」
大上さんはハリツヤのあるピンクの唇を、細くしなやかな人差し指でツーっと撫でる。それはまるで、極上のご馳走を前に舌舐めずりをしているようだった。
徐々に気温が高まっていく初夏の夜。日を追って虫達の合唱が音量を上げていく中、負けず劣らない鬱々とした気配が草木の陰から漂ってくる。
チラとそちらに目をやれば、目を逸らすように異形の妖怪がカサカサと身を隠す。決して、俺に恐れをなして逃げ出した訳ではない。俺の側で淑やかに歩いている大上さんに恐怖を抱いたのだ。
無意識にでも妖怪を退ける狼に、ふと脳裏を過った疑問を口にする。
「あなたはとても強いので、他の妖怪は寄り付いたりしないですよね。そのことを、寂しく思ったりはしますか?」
「一匹狼という言葉もあるように、狼は単独で行動する者もいる。けれどまぁ、たまには誰かと言葉を交わしたいと思う日もあるよ」
「それは遠回しに、寂しいと感じることもある、と言っているんですよね」
「そうかもしれないね。けれど今は、寂しいなどとは感じていない。私はいつまで、寂しさを忘れていられるんだろうね」
「それは……、あなたが望むなら、いつまでも。です」
大上さんの問いかけるような視線に、俺は逃げ出したりしませんよと言外に返答した。
満足する言葉に気分を良くした大上さんは、空を見上げて楽しげな声を出す。
「今日の月は満月だね。まん丸とした形が実に美しい」
「そう……ですね」
つられて俺も空を見上げれば、夜空にポツンと浮かぶ満月が目に入った。
雲に遮られることなくその姿を十全に晒け出し、暗い森の中に光を降り注いでいた。
歩きながら丸い月を見つめ、素朴な感想をポツリと溢す。
「今は満月に見えていますが、明日になったら少し欠け、しだいに半月、三日月と形を変え、新月となって見えなくなる。見える形は変わってしまいますが、月は変わらずそこにあるんですよね」
「そうだね。私達からしてみれば変わっていても、月自体は何も変わっていない。物の美しさなんて、見る側の理由で変化してしまうものさ。それでもあえて順位を付けるなら、私は全てが見えている満月が1番好きだよ」
「俺はどれも同じですね。どんな見え方をしていようとも、月は月です。それぞれに違った思いを抱きますけど、根本では同じですから」
「姿形は、趣向の基準にならないと?」
「ただ単に、姿形だけでは好みの優劣を付けられないだけです。月も、狼も」
ちょっとしたきっかけで姿を変えてしまう付添人に、甘い言葉をプレゼントした。
そんな言葉を呟いたのが悪かったのだろうか。甘い考えで月を見上げながら歩いていた俺は、地面の石に足を引っかけてしまった。
「……!」
勢いそのままに前側へと倒れ込み、とっさに左手を突き出して地面につく。
送り狼の目の前で、転んでしまった。
左手と左膝を地面につき、片膝立ちの姿勢で硬直する俺の背中に声がかけられる。
「おや。キミは今、転んでしまったのかい?」
俺の半歩後ろに立つ大上さんは、禁忌を犯したのかと問いかけてきた。
月明かりに映し出されるその影は、瞬く間に姿を変えて異形の狼へと変貌する。
背後から、とてつもなく大きい妖気を感じた。
俺は決して振り返らず、思考を巡らせて言い訳を口にする。
「転んでません。月明かりに反射したガラスが硬貨に見えたので、拾おうとしただけです」
禁忌の質問に否と答えると、影は徐々に人の姿へと戻っていった。
「そうかい。それは失礼、疑ってしまって悪かったね」
俺はガラスの欠片を指先で摘まみ、ポケットからハンカチを取り出して包み込む。
そのまま立ち上がって素知らぬフリをして口を開いた。
「この森にも、ゴミが落ちていたりするんですね」
「マナーのなっていない人間は、ゴミと共に掃除しているのだけれどね」
大上さんも素知らぬフリをし、サラリと怖い言葉を口にする。
ちょっとしたきっかけ、けれど送り狼にとっては大きなきっかけ。その引き金となる転倒など起きていないと、平静を装って誤魔化した。
安息を求めて空を見上げれば、先ほどと変わらない満月が闇夜に佇んでいる。
大上さんも同じく満月を見上げ、溢すように言葉を口にする。
「臆せず平然と答えられるなんて、見上げた精神力だよ」
下手に返答するとボロを出してしまいそうだったので、俺は何も口にしなかった。




