第1夜 食えないキミ
契約と言っても、何か契りを交わすわけではない。こちらが供物を捧げなければならないといった決まり事も無い。
とはいえ、無償で守ってもらうのも気が引ける。
森の中を歩く道すがら、俺は買い物袋からおにぎりを1つ取り出した。
「これ、お礼と言ってはなんですけど、どうぞ」
俺の手に軽く握られたおにぎりに視線を落とした大上さんは、ふふっと柔らかな笑みを浮かべてそれを受け取った。
「こんなことをしなくても、小腹が空いたからといってキミをつまみ食いしたりなんてしないよ」
「あなたを信用していない訳ではありません。純粋に、お礼の気持ちを表しただけです」
「そうかい。ならこのおにぎりに誓って、自慢の爪で鬼をも切り伏せてみせようじゃないか」
「そもそも鬼と遭遇しないことを願うばかりですね」
木々の間から多くの視線は感じるものの、決して何者も飛び出して来たりなどしない。
送り狼に狙われている状態の俺を、横取りしようとする妖怪はいないようだった。
そのまま森を抜け、自転車を回収しようと崖の上の道まで戻ってくる。
その自転車を視界に捉えた大上さんは、おもむろに口を開いた。
「キミの家はここから遠いのかい?」
「いいえ、川の向こうにある村に住んでいます。あなたの住んでいる館からは、走って10分もかかりません」
「そんな近いところに住んでいたとは驚きだ。キミが身に付けていたお守りは、それほど強力なものだったんだね」
「はい。多くの妖怪を……、それこそあなたをも、遠ざける効果がありました」
「なるほど道理で、今まで顔も合わせなかったわけだ」
このお守りがあったからこそ、俺は今まで生きてこれた。
そして古びた館に住む美しい女性を見たことが無かったというのも、正体が妖怪の送り狼だと知った今なら納得ができる。
けれど今は、妖怪から身を守る術を持ち合わせていない。俺の命運は大上さんの手のひらに握られていた。
話のついでにどうせならと、会話のできる妖怪に気になっていることを訊いてみる。
「俺って、そんなに妖怪好みの何かを醸し出しているんですか?」
「それは自覚していないのかい? そうだねぇ……、できるだけ簡単に説明するならば、とても美味しそうな雰囲気を纏っているよ。何かというのを具体的に答えてあげることはできないけれど、血の1滴まで旨味が凝縮されていると確信しているくらいさ」
「余すところなく全ての部位が美味しいとか、俺は食材として最高クラスに優秀ですね」
妖怪だって、むやみやたらと人を襲ったりなんてしない。
それは妖怪が人間からの報復を恐れているからではなく、ただ単に興味が無いだけだ。
世界の表側で暮らす人間と、世界の裏側で暮らす妖怪。通常であれば、混じり関わること自体がほとんど無い。
けれどどんな事象にも、例外は存在する。
どうやら俺は、食べ物として妖怪に好かれる体質らしい。幼い頃には何度も、妖怪に襲われて大変な目にあった。
しかし祖母にお守りを貰ってからは、俺に害を及ぼそうとする妖怪との関わりはほぼ断たれた。
だから、先ほど崖から落ちてお守りが破れてしまった時は、気丈に振る舞いながらも心の奥では死さえ覚悟していた。
もしあの場で怯え竦んでしまっては、恐怖を悟られてすぐにでも食べられていただろう。俺には、妖怪にハッタリをかますしか生きる道がなかったのだ。
妖怪に囲まれながら歩いていたあの時は、生きた心地がしなかった。
……けれどどんな事象にも、例外は存在する。
この送り狼のように、人間と友好的な妖怪も中にはいる。
大上さんと巡り会えたのは本当に偶然でしかないが、俺はまだ世界に見放されてはいないのだと安息を感じていた。
そんな油断がいけなかったのだろうか。俺は自転車を目の前に、先ほどタイヤを乗り上げた石に足を引っかけてしまった。
「……!」
勢いそのままに前側へと倒れ込み、とっさに左手を突き出して地面につく。
送り狼の目の前で、転んでしまった。
左手と左膝を地面につき、片膝立ちの姿勢で硬直する俺の背中に声がかけられる。
「おや。キミは今、転んでしまったのかい?」
俺の半歩後ろに立つ大上さんは、禁忌を犯したのかと問いかけてきた。
月の光が作り出す影に目を向けると、大上さんの体が徐々に変化していることに気付かされた。体格は一回りも二回りも大きくなり、3本目の腕かと思わせる立派な尻尾が揺らめいている。長く鋭い4本の爪は曲線美を誇り、最低でも5センチはあろうかという歯が大きく開かれた口の中に並んでいた。
風に靡くしなやかな毛並みには、妖艶という言葉がピタリと当てはまる。影によって映し出された異形の妖怪は、まさしく狼の形を表していた。
「……」
ここで素直に「転びました」と答えてしまえば、俺はすぐにでも食べられてしまう。決して振り返ることなく、思考を巡らせて言い訳を口にする。
「転んでません。自転車を起こそうとしゃがみ込んだだけです」
禁忌の質問に否と答えると、影はみるみるうちに小さくなっていった。
「そうかい。それは失礼、疑ってしまって悪かったね」
首を回して後ろにチラと目を向けると、先ほどまでと何ら変わりの無い大上さんがそこに立っていた。俺を食べようと構えていた妖怪などどこにもいないと、素知らぬ笑顔を浮かべている。
倒れていた自転車のハンドルを掴み、一息に起こして立ち上がる。失態を誤魔化しきったと満足する表情すら浮かべず、こちらも素知らぬ顔で口を開く。
「やっぱり小腹が空いているんじゃないですか? 一緒におにぎりでも食べながら歩きましょう」
「あぁ、そうするとしよう」
静かに輝く月を見上げた大上さんは、僅かにこちらへ首を傾けて言葉を紡ぐ。
「キミは意外と、食えないやつだね」
楽しげなその言葉には、何も返答しなかった。




