宵の口 狼との出会い
森の奥にひっそりと佇む古びた館には、世にも美しい女性が住んでいると言われている。
けれど、噂は噂だ。
俺はその館の近くに住んでいるけれど、そんな女性など1度も見たことが無い。
見てみたいという気持ちはいくらかあるが、見たからといってどうにかなるわけでも無い。
特段なんの思いも抱かずに過ごしてきた。
「痛い……」
そんなことをぼんやりと考えていたある日の夜、俺は崖の上から転げ落ちてしまった。
買い物袋を片手に自転車をこいでいたのだが、道に転がっていた大きな石にタイヤを乗り上げてハンドル操作を誤ってしまったのだ。
そのままガードレールを越えて急斜面に身を放り投げ、重力に従って崖下まで落ちた。
「体は無事……、か」
不幸中の幸いというべきか、怪我は擦り傷や打ち身程度で済んだ。崖と言っても高さは2階建ての家くらいしかなく、草花が生い茂っていて転がった際の衝撃も大したことはなかった。
「よい……しょっと」
俺は膝に手を付いて立ち上がり、体に付いた土埃を払い落とす。その際に、あることに気が付いた。
「あちゃー……。ばあちゃん、ごめん」
亡き祖母から貰って首から下げていたお守りが、枯れ枝に貫かれて破れてしまっていた。幼い頃に渡された形見をこんな形で駄目にしてしまい罪悪感が込み上げる。
「後で修復すれば大丈夫かな……」
ひとまず枯れ枝を引き抜き、お守りをズボンのポケットに入れて辺りを見回す。
「……あった」
俺と一緒に落ちてきた買い物袋は、少し先の木の根元に放り出されていた。そちらに向かって拾い上げる。
「……!」
その瞬間、誰かに見られたような気がした。
バッと後ろを振り返ってみるも、暗い木々の中では辺りを見回すことも叶わない。
月明かりに照らされている僅かな空間以外は、黒い闇がどこまでも広がっていた。
「…………」
誰かに見られたというのは気のせいだろうか。暗がりにいることで、過剰に怯えてしまっているのかもしれない。
頭を振って気持ちを切り替え、俺は足を動かし始めた。
「さて、上に戻るには……」
自転車は落ちて来なかったのか、辺りを見回しても見当たらなかった。少しばかり億劫にも思えるが、崖の上まで回収しに行かなければならない。
崖は登って行けるほどの角度ではなかったので、仕方なく遠回りをして正規の道に出ることにした。
「……」
ジジジジと鳴く虫の声を聞きながら、方向感覚を頼りに夜の森を歩く。時おり吹き抜けるそよ風が、無防備な背筋を掬い撫でた。
「…………」
いや、それだけじゃない。確実に誰かに見られている。何者かは分からないが、歩を進めるごとにまとわりつくような視線が増えているように感じる。
「……」
立ち止まって辺りを見回すも、やはり何も見えはしない。森の闇は、そこに居るものも居ないものも全てを包み隠していた。
早くこの森を抜けてしまおう。そう思い、俺は歩く速度を少しばかり上げた。
焦るように走ったりはしない。早歩き程度に、無心を装って足を動かす。
そして追われる闇から逃れようと木の間を抜けた時、それは唐突に現れた。
「……!」
森の中にひっそりと佇むそれは、美しい女性が住んでいると噂の古びた館だ。外壁は所々塗装が剥げており、庭先は雑草が好き放題伸びている。美しい女性どころか、住みたいと思う人は誰もいなさそうな外観だった。
「……」
俺はそのまま歩を進め、館の入り口の前にある門へと近付く。
そこには錆びれた表札が下げられており、掠れ気味の文字で『大上』と書かれていた。
大上……、噂されている女性の名字だろうか。
こんなところに誰かが住んでいるなんてあり得るのか……? そう思いながら、窺うように玄関へと目を向けた。
その時。
「!」
ギィィ……と軋むような鈍い音を立てて、玄関の扉がゆっくりと開かれた。
思いがけない出来事に体が強張り、身動き1つ取れない。
その扉の内側のノブには手がかけられており、誰かが中から押し開いているのだと分かった。
そして完全に開ききった玄関には、1人の女性が立っていた。
「おやぁ。美味しそうな気配につられて出てみれば、なかなか素敵な人間がいるじゃないか」
女性は愉快げに笑みを作り、俺を見つめて口を開いた。
月明かりに照らされた銀色の長髪は輝きを放ち、野性的に跳ね広がって獣のようだと感じさせる。長いまつ毛に縁取られた黒い瞳が凛然と俺を映し、細身の体は指の先の爪1つに至るまでが鋭い美しさを形容していた。
噂に違わぬ見目麗しい女性が、そこに立っていた。
女性はじっと俺の目を見つめ、返答を待っているようだ。
俺は浅く深呼吸をし、ひとまず話題を合わせるべく言葉を返す。
「食欲を誘うようなトッピングなんて、何もしていないんですけどね」
「余計なものを付け足さず、素材そのものの味を活かそうという趣向かい? それはまた、ずいぶんとサービス精神が旺盛だね」
そんなつもりは毛頭無い。少なくとも、つい先ほどまではなんの問題も無かった。
女性は扉から手を離し、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。下手に身動きをしないほうがいいと判断した俺は、警戒心を解かずに瞳を見つめ返していた。
俺とさほど変わらない身長のため、同じ高さに女性の顔がある。僅か3歩ほど離れた位置で立ち止まった。
「キミはよく、今まで生きていたね」
女性は俺の全身に舐めるような視線を這わし、俺がここに存在している理由を不思議そうに呟いた。
その疑問に答えるだけの理由は持ち合わせている。
俺はズボンのポケットに手を入れ、先ほど破れてしまったお守りを取り出して女性に見せる。
「俺はさっき、そこの崖から転がり落ちてしまったんです。その際にこのお守りに枯れ枝が刺さって、破れてしまったんですよ」
「……なるほど。確かに、それには何の力も感じない。キミは今まで、それに守られて生きてきたんだね」
「はい。夜に外出する時は必ずこれを身に付けろって言われていたので」
祖母と交わされたこの約束は、1度たりとも破ったことはない。けれど今は、お守りその物が破れてしまった。
女性は射抜くような視線を破れたお守りに落とし、ふっと息をついて俺の顔に視線を戻す。
「それで、ここに来たのは私の正体を知っていたからかい? それともまさか、死に場所にここを選んだとは言うまいね」
「どちらも違います。俺は偶然ここに来て、偶然あなたと出会ったんです」
「そうだったのかい、それは失礼。ではキミはこの後、どうするつもりだい。このまま私と別れて、偶然家にたどり着くつもりでいるのかい?」
「…………」
その言葉に、俺は何も返答できなかった。
わらわらざわざわと騒がしい視線が、時間と共にだんだんと増えているのを感じ取れる。
「キミも自覚しているだろう。まず間違いなく、キミはここから生きて帰れはしないだろうね」
女性は試すような言葉を投げてきた。
ならばこちらも、試しに言葉を投げ返す価値はある。
「俺もさすがに無理だと分かっています。……なので、一か八か訊かせてください。あなたの正体は、なんですか?」
女性の瞳をしっかりと見返して、決して怯えを感じさせないように努力した。いくら俺の立場が弱くとも、それを表に出してしまっては話し合いすらできない。
逃げ出した途端に食われてしまう。そう確信していた。
女性は俺の踏み込んだ言葉に口の端を少しだけ吊り上げる。
「ほほう……、なかなか肝が据わっているじゃないか。いいだろう。その気概に敬意を表して、キミの質問に答えてあげよう」
女性は物理的にこちらへ左足を1歩踏み込む。愉しげに開かれた口からは、キラリと鋭い犬歯が見える。
「私は、送り狼だ」
自身の存在を誇るように、その正体を堂々と明かした。
送り狼。
その習性は言い伝えや個体の性格によって差が生まれるが、夜道を歩く人に付き添うという点は共通している。それと、もう1つ……。
「キミが転んでしまわない限り、キミを守り通すと約束しよう」
とても強い力を持つ送り狼は、共にいるだけで他の妖怪から身を守ってくれる盾となる。
しかし、もしも目の前で転んでしまったら、その瞬間に送り狼に食べられてしまうのだ。
リスクは大きいけれど、その分とても頼りになる存在だ。転んでさえしまわなければ、実に友好的な妖怪なのである。
「私と契約するかい?」
女性は機嫌の良さそうな明るい口調で質問してきた。けれど俺に言動を選ぶ余地なんて無い。この契約は、受けざるを得ない。
ここで送り狼の力を借りないとすれば、俺は1人でこの森を抜けなければならなくなる。そうなるとすぐにでも、先ほどから周囲で様子を窺っている他の妖怪達の餌になってしまうだろう。
俺は軽く拳を握り、女性が求めている言葉を口にする。
「お願いします。俺を、家まで送り届けてください」
返答を聞いた女性は嬉しそうに、なおも口の端を吊り上げて狂暴な笑顔を作り上げる。
「そう言うと分かっていたよ。安心したまえ。私の存在に懸けて、キミを家まで送り届けると約束しよう」
そして、この約束には続きの言葉がある。
「キミが転んでしまったら、命がある状態でとはならないのだけれどね」
たったそれだけのことで人生が終わってしまうのだと思うと、この契約がひどく不釣り合いなものだと思えてしまう。
俺は自身の置かれた状況を振り返り、浅く嘆息をついて不運を嘆く。
「妖怪から身を守るために、もっと凄い妖怪の手を借りる……。まるで悪魔の契約だな」
「悪魔呼ばわりとは酷いじゃないか。私は気高く美しい、狼だよ」
強者の余裕を滲ませる声音に、心を内側から掻き立てられられるような不安と安心感に襲われる。
そして彼女……、大上さんとの奇妙な縁が結ばれた。
これは世界の片隅で繰り広げられる、いたって平穏な物語。
人間と送り狼が共に歩む、ただそれだけのお話だ。




