エピローグ
「私の名前は大上ではないよ」
旅に出ようとしたその日、最愛の狼が住んでいた館の玄関で衝撃の事実が明かされた。
俺は戸惑う気持ちを抑えながらも言葉を紡ぐ。
「心の中ではずっと、大上さんって呼んでいたんですけど……。狼ですから、それに合わせた名前なのかと思ってました」
「狼だからおおがみだと? それは何ともまぁ、安直な発想だね」
「いやだって、表札に『大上』って書いてあるじゃないですか」
「それは、以前ここに住んでいた人間の名字だと思うよ。私は空き家となっていたここを、都合良く使わせてもらっていただけに過ぎないのさ」
大上さん……いや、大上さんと勝手に呼んでいた送り狼に、俺は当然の疑問を口にする。
「では、本当の名前はなんですか?」
「本当の名前などというものは無いよ。私達妖怪は、個体を識別する記号を持たないからね。送り狼という総称も、キミ達人間が勝手に定めたものじゃないか」
言われてみればその通りなのだが、名前を持たないのは想定外だった。思い返せば俺の名前を呼ばれたことも無いし、あまり固執しないものなのだろうか。
愕然としている俺に、送り狼の女性は言葉を続ける。
「けれどそうだね。せっかくキミが心の中で呼んでくれていた名前だ。今日から私は、大上と名乗ることにするよ」
そして大上さんは、大上さんになった。
「とはいえすぐに、大上ではなくなってしまうけれどね」
「それはどうしてですか……?」
曲がりなりにも自身がつけた名前がすぐに変わってしまうと言われ、俺は少しばかり傷心しつつも問いかけた。
それに対して大上さんは、清ました笑顔で理由を述べる。
「キミと同じ名字になるからさ」
気高く美しい狼の言葉は、生涯という長い旅路の始まりを告げた。
これは世界の片隅で繰り広げられる、いたって平穏な物語。
人間と送り狼が共に歩む、ただそれだけのお話だ。