潜伏
王都・ルーンチェスターの北部には、深い森が広がっている。
周縁部は、王都の民に薪を恵んだが、少しでも奥深くに入れば道を見失い、獣の餌食になる恐ろしい森だった。
「……気持ち、いいな……」
『黒の森』と称されるその森にも、ルースの故郷ほどではないにせよ、雪は深く積もっていた。
針葉樹と広葉樹が入り混じる、奇妙にねじれ曲がったような歪な森には、雪が恐ろしく似合っていた。
豊かに葉を茂らせる尖った樹の頂点に容易く昇ったルースは、雪に埋もれた森を見渡す。
口元から白い靄が昇っては、儚く空に溶けていく。
遙か彼方に、王都の高い尖塔が覗いていた。
それは別世界のような遠さだった。
目を落として王都を視界から外し、ルースは当初の目的である、狩りの群れを探し始める。
この季節は、獣も飢えている。
それでも、ルース一人が生き延びるには、三日に一度の狩りで事足りた。
背中から愛用の弓を取り出し、素早くつがえる。
森の民の矢は、平原の民が使う物よりずっと短い。
『そんな矢が当たった所で、痛くもないだろうに』
そう笑ったヘンリーは、木々が邪魔をする中で器用に飛ぶ矢の威力に目を見張った。
『……馬鹿じゃないの』
小憎たらしい返事しか、できなかった。
そんなルースの頭を、ヘンリーは朗らかに笑って大きな掌で撫でたのだ。
『すごいじゃないか、ルース!
さすがは『森の民』だな!』
小娘を、素直に褒めることのできる男だった。
それは、彼の仲間も同じで。
実力を示せば受け入れる度量のある男達ばかりだった。
『汚らわしい下賤の娘が』
兄でありながらそう吐き捨てる男が、『普通』だと思っていたのに。
そんな彼らが、仲間達が。
『所詮は女だ』
と呟く声に、痛みを感じなかったわけではない。
だが、それ以上に苦しかったのだ。
手の届かない男が、ルースのすぐ側で、他の女と笑い合っていることが。
手に入れたいと、思ったことはなかった。
ヘンリーはどこまでも『王様』で、ルースの手に届くはずもない存在だった。
それでも、一番近くにいたのだ。
いたと、思っていた。
『今日の手紙だ。
……おい、西が手薄になるぞ」
定期的に届けられていた、内通者からの手紙。
その手紙の主が、王女だったなんて。
ヘンリーが仕えていた相手が、王女だったなんて。
二人の間に、決して誰にも入り込めない絆があったなんて。
認めたく、なかったのだ。
離れていても確かに結ばれていた絆など、認めたくなかった。
一番側にいると思っていたあの瞬間でさえ、ルースの居場所はなかったなんて、認めたくはなかったのだ。
『元王女など、不要だ』
かつてルースを嘲り笑った兄は、赤い瓶をルースに手渡した。
『誰より側にいて、誰より勝利に貢献したお前が、王妃に相応しいのだ』
ヘンリーの心を、元から所有していた女性。
その女性への殺意に揺れたことは、間違いなくルースの罪だ。
「……いつまで、ここにいようかな……」
首筋を射貫かれた牡鹿を捌きながら、その臓物の臭いが湯気と共に立ち上るのを嗅ぐともなしに嗅ぎながら、ルースは独りごちる。
こんなに近くに、王都の、ヘンリーの近くにはいられない。
カーティスが提示した逃亡先には、奥深い森の中でありながらもしっかりした小屋があった。
この『黒の森』にどうやって用意したのか、平原の民でありながらその才覚には恐れ入るよりほかない。
それでも。
ここは……近すぎる。
ヘンリー達がルースの近くに来ることはないだろう。
けれど、ルースはいつでも行けてしまう。
……ヘンリーが愛する王女の、寝首を掻くことだって、いつでも。
「春になったら……」
捌いた鹿肉を小屋の屋根の下に吊し終え、ルースは血にまみれた手のまま、呟く。
「春が来たら……大陸に、渡ろう」
大陸にも、深い森と恐れられる場所があると聞く。
森があれば、きっとルースはどこでも生きていける。
愛する男の、愛する女性に殺意しか抱けないルースを、もっと遠い場所に追いやろう。
そこで、一人で生きていこう。
まともな恋など、きっと自分にはもうできはしないだろうから。




