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エゴイズムと偏屈と

作者: 森 日和

「もしもしリヒーさん、今私はどこにいるのですか?」

一人、白いマフラーを無造作にぐるぐる巻きにした女の子が、ぽつんと立っていた。彼女はよく訳の分からない事を言ったり、聞いたりだってする。歩く姿はまるで人形のように笑顔を絶やすことなく歩幅を崩さない。目の前で蝶々が飛べば心を奪われ、気の済むまで、体がガタつくまで追いかける。朝になっても夕方になっても商店街は相変わらずシャッター街であり、毎日そこを呑気に通る彼女の姿を、きっと目にする事ができるだろう。

彼女は姓を松平、名を直美という。近所の高校に通っており、自由奔放な少女である。十六歳ながら子供心を絶やさぬ振る舞いと頗るの天然ぶりには誰も敵わず、彼女の悪口を言う者は皆無だが彼女に近づこうとする者も皆無であり、クラスでは一人でずっと上の空である。

そんな彼女の唯一の友達といえば、それこそ、この世界そのものだった。

「もしもしリヒーさん、今私はどこにいるの?」

いつも通りの可笑しな呪文を唱えながら彼女はスキップしていた。かと思うと突然立ち止まり、今度は茂みの方に目を凝らす。

彼女の視線の先には、ガサガサと確かに物音がしていた。もしかして蛇が出てきたら、手をガブリと噛まれるかもしれない。はたまた猿が出てきたら顔に無惨な引っ掻き傷が残るかもしれない。それでも彼女の好奇心はやはり止まらない。

「誰かいるのかな…?」

彼女は茂みに入った。そこは赤煉瓦の色をしたマンションの脇の茂みで、駐輪場の隣にあるちっぽけな緑だった。彼女は泥塗れになろうと、傷だらけになろうと好奇心に一念してひたすら茂みへ深く、深く入り込んで行く。やがて彼女の手はパクッと甘噛みされた。

それは蛇でも、猿でもない

「わんちゃんだ!」

掻き分けられた茂みからひょっこり顔を出したのは、泥塗れで乱れに乱れた白い毛で覆われた球体のような、犬か猫かも判断がつかないような得体の知れない生物だった。しかし犬(ここでは犬としておく)の目は水晶玉のような艶やかな輝きを放っており、吸い込まれるような目をしていた。まるで直美に語りかけているようだった。

「どうしたの、わんちゃん?」

直美が語りかけると、犬は尻尾を振り子にして舌を出した。犬の顔は、泥んこになるまで遊んだ子どもを彷彿とさせた。

「うーん、分からないなぁ」

犬は何かを語りかけていた。直美は犬が何を話しているのか分かるわけがない。しかし犬は何かを必死に訴えかけている様子だった。僕を連れて行って!

そう言っているようにも見えた。

「可哀想だけど…家では飼えないし…ごめんねわんちゃん、私は悪くないんだよ。これは仕方のない事なんだよ」

しかし、幾ら直美でも犬を無言で持って帰ることがどれだけ重大な事かは承知していたようである。直美は犬に言い聞かして、泣きそうな顔になりながら背を向けた。

「じゃあね…ばいばい」

立ち上がり、直美は背を向けた。彼女の笑顔は絶えてしまい、肩をすぼんでいた。彼女には、今にも涙を零しそうな静かな美しさがあった。しかし振り返ると、眩しすぎる犬の笑顔に目を瞑りそうになる…

「やっぱり…可哀想!」

直美は犬を抱えた。抱えられた犬はあり得ないほど大人しかった。まるで直美と長年暮らしているかのように人間慣れしていた。それが大層可愛く見えたのだろう、直美はいつも以上に目を輝かせ、いつも以上にゆっくりとしたペースで、犬を抱えて歩いていた。

「家には駄目なの、ごめんね。だから、今から私の秘密基地に連れて行ってあげるよ!」

直美の笑顔を、犬は静かに見守っていた。犬はその時、落ち着きのある顔をしていた。


風が飄々と吹く中、直美は犬を抱えたまま松林の中に立っていた。どうやら直美の言う秘密基地とはこの場所の事らしい。

「はい、ここよ」

茂みを奥へ奥へと進んで辿り着いたのは、ちっぽけな草むらだった。

「ここでいい?」

直美は膝を曲げて腕を下げた。犬はその下げた腕からすり抜けるように地面に降り立った。平地で見ると、改めて小さくて、そして汚い犬だった。

「洗ってあげようか?」

そう言って直美は学校鞄からタオルを取り出し、優しく毛を繕ってあげた。犬は微動だにせず、犬とも何とも分からない顔をタオルにしぼませていた。

泥を拭き取っただけだが、見違えるほど毛は綺麗になった。

「へへ、よかった!」

直美も嬉しそうに笑った。そして立ち上がって手を振った。

「じゃあね、時間がもうあれだし…また明日ね」

直美は走ってその場を立ち去った。とびきりの笑顔を置き土産にして…その後ずっと、犬はいつまでも直美の去っていった方向を見つめていた。

いつまでも、いつまでも…




「もしもしリヒーさん、今私はどこにいるの?」

翌日の朝、まだ空は赤く染まっている中、制服姿でスキップをしながら直美はやって来た。楽しげな鼻歌が今にも聞こえそうだった。

「やっほー!」

直美は学校への登校途中に寄って来たのだろう。これから学校だと言うのに茂みを勢いよく掻き分けた。そして片手には魚肉ソーセージを握りしめていた。

犬は…ちょこんとそこに座っていた。直美の顔を合わせると、犬は目をまん丸に大きくした。

「おはようわんちゃん、これどうぞ!」

直美はしゃがんで、魚肉ソーセージの封を切って与えた。犬は直美の手のひらの上で、とても美味しそうに食べた。直美はずっと、母のような慈愛に満ちた顔をしていた。

「そういえば…」

ふと、直美が上の空になった。

「名前を決めていないね」

犬の頭を撫でながら、直美は言った。

「早く決めなきゃね…」

直美はそう言って視線を犬の顔にやった。そして不気味とも取れる視線を、まるで百の目全てで見つめるように強烈に犬に向けた。相変わらず犬はそれでも動じずに、しばらく直美と犬は顔を見合わせていた。

そして

「決めた!」

沈黙を破るように、直美がポンと犬の首のあたりを叩いた。

「この子は、マーライオン!」

そう言って直美は学校鞄の中を漁り、犬用の首輪を取り出した。

「マーライオン、よろしくね!」

取り出された首輪に、マッキーペンでしっかりした字体と濃い字で“マーライオン”と書かれた。そして直美はそれを犬…マーライオンの首にかけてやった。マーライオンはまたもや微動だにせず、ただ一つ言えるのは、マーライオンから溢れんばかりの嬉しさが垣間見える…そんな顔をしていた。

しかし次の日から、直美はばたりと来なくなってしまった。





「あ、可愛い子犬さん」

道行く人に目線を注がれながらも、マーライオンは運河沿いを歩いていた。直美がいなくなってから長い時間が経過したが、直美は帰って来ない。その日の運河の海風はとても激しく、吹き飛ばされそうになる。しかしマーライオンは頑張って歩き続けた。食べ物も無い、飢えかけの体を必死に動かした。何かを求めるかのようにマーライオンは彷徨っていた。

夕暮れの光がマーライオンを照らしている。夕日は向こう側の工場地帯の後ろにひっそりと隠れながら、やがて日没を迎える。日没を迎えたら、今度は星がぽつぽつと見え始める。丁度冬の大三角が見え始めた。

「野良犬かな?」

運河を歩くマーライオンに、話しかけた人影があった。マーライオンは立ち止まった。

「珍しいなぁ、こんな夜に野良犬なんか」

「あー、かわいい!」

マーライオンに近づいたのは、三人組の青年の男女だった。彼らは有無も言わずマーライオンの毛に触れては、マーライオンに甘噛みされた。

「かわいい!」

「何なんだこのかわいい生物は…」

「うわ…もふもふや凄い!」

マーライオンは三人に触られる事を嫌がっている様子ではなかった。三人はしばらく、マーライオンのもふもふの虜になっていた。

「ん?」

一人の男が、首に付けられている首輪に気づいた。

「何か書いてる」

男が言うと、もう一人の男と女も首を覗かせた。そしてスマートフォンを取り出してライトを付けた。

「マーライオン…秀逸な名前やな」

「言われてみれば…分かるかも」

「だよね!」

白い体に全てを包み込むような毛皮。マーライオンは三人の会話を、微動だにせず聞いていた。三人はずっとマーライオンを囲んでは、見たり撫でたりしていた。

「あ、別の名前もある!」

やがて、女が首輪の端に書かれた名前に気がついた。暗くてよく見えないので、スマートフォンを近づける。

「松平直美…誰だろう?」

三人はしばらく海風に吹かれて呻吟した後にとうとう結論を出したようで、マーライオンを抱えながら立ち上がった。

「どこに行くの?」

男が二人揃って聞くと、女は答えた。

「警察署に行って飼い主を探してもらうの」



「ああ松平さん。なら多分ここに住んでいらっしゃるよ」

警察の人は地図を持ちながら、指を使って三人に説明していた。女はマーライオンを抱えながら地図の真正面で警察の人の話を聞いていた。後の二人はその地図を両隅から覗き込んでいた。

「ありがとうございます!」

三人は大きなお辞儀をして警察署を出て行った。そして十五分程歩いた辺りで松平の家の前へと辿り着いた。

「ここだね」

女はインターフォンを押すも、中からの返事は全くなかった。男の腕時計は既に午後八時を回っており、これ以上呼び出す事は流石に迷惑な事だと三人は結論付けた。三人は考えて考えて…その末に、仕方なくマーライオンを公園に戻すという結論に至り、また早足で公園へと戻って行った。公園の入り口でスーパーで買った魚肉ソーセージを頬張るマーライオンを見ながら三人がその場を後にした時には、腕時計は既に八時半を回っていた。




直美は夜の公園を散歩していた。

辺りには全くもって人影が無いが、それでも直美はいつも通りの、のほほんとした気持ちで歩いているようだ。

「誰もいないのかなぁ…」

そう呟く直美の顔は、何処と無く笑っていた。すると、遊具の側の電灯の側に佇む一人の男の姿が見受けられた。

「もしもしおじいさん?」

直美が話しかけると、男はゆっくりと直美に顔を向けた。その時のしばらくの沈黙を、真上にある電灯が象徴していた。直美は一向に反応の無い男の目をこれでもかと見つめていた。そして念を押すように言った。

「おじいさん、聞こえていますか?」

「………」

声は全く聞こえなかったが、男の口ははっきりと動いていた。電灯に照らされた直美は動き続ける男の不思議な口の動きを目で追っていた。

「…分からないよ、おじさん」

直美が寂しそうな声で鳴くような声を出すと、

「私に…近づかない方が良い」

男はようやく話した。直美は上目遣いで覗き込むようにして、更に聞いた。

「どうしてなの?」

「さあね」

「ひょっとして、あなたは幽霊さん?」

「…さあね?分からないな」

「だって、体が…透けてるよ?」

「…さあね」

男は微動だにせず言っていた。沈黙が余りにも余ったせいなのか、その後直美は不思議そうに男を見ながら

「じゃあ私もう行くね、ばいばい」

それだけ言って男に背を向けた。尚も男は微動だにしなかった。

「みんな…どこなんだろう」

歩く人、走る人、サイクリングする人、恋人、犬の散歩をする人、運河で雑談する人、スポーツをする人……普段は老若男女の声や活気で溢れている公園のはずが、今回ばかりはやけに静かだった。それこそ神秘的な程だった。

「みんな、どこ行ったのかな…?」

公園を後にしようとも考えた。しかし直美は公園を去らなかった。

「………しんどいな」

あれだけ元気な直美がとうとう弱音を吐いた。そして地面に座り込んで尻餅をついた。制服に泥がついて、じわっと地面の湿気が染み出してきたのか、直美はまたすぐに立ち上がり、松の大木の根の上に腰かけた。

「もしもしリヒーさん、今私はどこにいるの?…」

直美はうとうとして瞼を閉じ出した。まるで、このまま安らかに死んでしまいそうな顔だった。松の幹にもたれかかり、体は蝉の抜け殻のように形だけ保って動く気配を微塵も見せなかった。

その時、場が閃光に包まれた。直美はそれを感じ取って、目だけを開けた。直美が見たものは、ある影だった。たいそう美しい女の影だった。

「君は…報われなかったんだね」

女は言ったものの、直美は微動だにしなかった。目を半開きにしてそれを見ているだけだった。女が歩み寄ってくる際も、もたれかかった体を持ち上げなかった。

女は座り込む直美の手を取った。そして念じるようにその手を額の上に持ってきた。

「……これで大丈夫」

女が言うと、直美は目が覚めビクッと驚いたような反応をした。そしてようやく辺りを見渡しながら、足を動かした。

「あなたは…?」

直美は不思議そうに問いかけた。その顔に恐怖は無かった。まじまじと何も考えずに女を見ているような顔をしていた。

女はクスクスと笑った。そして

「あなたは…彷徨っていますね?」

そう言って笑顔を絶やさぬまま顔を傾けて、直美の前にしゃがみ込んだ。直美は呆気に取られたようにそれを見ていた。

女は続けた。

「私について来なさい。あなたを在るべき世界へと、誘ってあげましょう」

「在るべき世界…?」

「ええ、あなたはこの場所に心残りがあるのです。それを無くして、在るべき形であなたを連れて行ってあげます、さあ」

女は手を差し伸べた。直美は不思議そうな顔をしながらも、女の笑顔に抗えないまま手を取った。女が手を握って直美を引っ張ると、糸で引かれたかのように直美は立ち上がった。そしてラジコンの如く歩き出した。

「あれ…」

女に引かれる直美の先には、赤く燃え盛る炎があった。その獄炎の中に入ると、見渡す限り燎原が広がっていた。しかし直美は熱そうには見えなかった。炎に身を任せるように直美は獄炎の中に揺られ、そのまま彼女の肉体は灰になって消えていった。

「…天の国で、暮らしなさい」

女がボソッと言ったその瞬間、辺りが突然明るくなった。まるで幕が取り払われた時のような眩い光が女を照らした。辺りを見渡すと、老若男女が混在し、活気に溢れるいつもの公園があった。太陽が昇っていた。ちょうど真南あたりだった。




「松平さんは…死んだよ」

三人に、ある老人が告げた。その老人は直美と随分親しい仲だったらしく、そして今回の事件の事を誰よりも悲しんでいた。

「一家揃って自動車事故さ…父母娘、全員亡くなった」

「そんな……」

三人はしばらく言葉を失っていた。すると一人きりで老人が長々と話し始めた。それを三人は、よく聞いた。

「直美ちゃんは、ここ最近とても嬉しそうな顔をしていたんだ。私に友達ができたって、とても嬉しそうだった。どんな友達って聞いたら、マーライオンって答えたから、ちょっとたまげたなぁ…そのマーライオンが、まさかお前だったとはねぇ、子犬さんよ」

マーライオンは差し出された老人の手に甘噛みで答えた。

「こりゃかわいいや」

老人の口から、無意識のうちに出たような言葉が溢れた。しかしその時、老人は涙を流していた。涙はどんどんと溢れ、乾飯ですらふやけてしまうくらい老人は泣いた。

「どうしたんですか?」

三人の内の女が老人に聞いた。老人は涙を拭って話した。

「マーライオンは友達を失った。大切な友達を神様に殺された。そしてね、帰る家を失った犬が果たしてどうなるかと言うと…保健所に連れていかれて、そこで殺されてしまうんだ。人間のエゴイズムによって殺されてしまうんだ。私はそれが許せなくてな…マーライオンだって、幸せに生きたいはずさ。人間は犬を見て“かわいい”だのどうこう言うけど、実際はどうなんだ…毎日鎖で繋がれているのが、私は可哀想でならない。毎日同じ味の食べ物が無造作に器に入れられるだけなんて、食べる楽しみを彼らは知らない。そりゃ今の世の中それが当たり前さ…だけど、私は人間は本当に弱い生き物だと思うんだ。犬と人との主従関係やら絆を誇張して扱っているテレビ番組とか…果たして犬はそれを見てどう思うのか…考えてみないといけないと思うんだ」

老人の心の内に秘めた思いがどっしりと伝わってくる、老人の話しには、勢いがあった。

「偏った私を許してくれ…じゃあね」

老人は尻目でこちらをみながら立ち去ろうとした。そして、それはまさに咄嗟の出来事だった。

「あの!」

三人の内の女が、老人を呼び止めた。老人はゆっくりと振り返り、

「なんだね?」

と尋ねた。

女は言った。

「私…マーライオンを飼う!」

それは決意に満ちた目だった。それは何者をも押し殺すような気迫に満ちていた。それは彼女の心からの言葉だった。だが老人は

「…残念ながら、そりゃ無理だ」

悲壮な顔をして言う。

「今の世の中、犬の生命がたったの数万円で手に入る…お前の母だって言うと思う。『なぜ犬を連れてきた』とな。まあ、そりゃそうなんだけどな」

弱虫老人の言葉は、三人を落胆させた。三人は微動だにせず、その場に立ち尽くしていた。

https://mobile.twitter.com/hiyorie3694

ついったーアカウント、作りました。

より一層皆さんに面白いと思ってもらえるような小説を書きたいです…書けるとは言ってません。

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