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地獄道中

 深い、森の中だった。

 男の後ろに続いて、犬走はひたすらに歩き続けていた。いやに足が重く、思うように前に進めない。

 日の光がほとんど届かぬほど、木々は鬱蒼と生い茂っていた。時折聞こえてくる鳥の鳴き声がただただ不気味であった。どこか不吉な予感を誘うような、だみがかった声であった。

 ふと、男は洞穴の前で足を止めた。ひんやりとした空気が漂ってくる深い穴である。犬走は、それが地獄へと続く穴だとわかった。この穴をくぐれば、もう戻ってはこられないのだろう。

 男は、洞穴の入り口へと手をかけた。

 

「地獄に行けば、死んだ者たちにも会えるでしょう。……その者たちが、地獄に行くほどの悪業を、生前犯していればの話ですが」

「死んでいった者たちに、会う……?」


 足を止めた犬走を、不思議そうに男は見た。

 

「どうしたんですか? もうすぐ地獄に行けるというのに」

「……なあ、あんたは言ったよな。この世で生きている人間のどれだけが極楽に行けると思っているんだって。だったら、みんな地獄にいるに決まっている。あいつも、あの女も……」

「あいつ……? あの女……? 一体誰のことを言っているのですか? あれほど地獄へ行くことを望んでいたというのに。いまさらどうしたと言うんですか」

「俺は……俺は行かない。行かないぞ。地獄に行っても苦しまなくちゃいけないなんて……」

「どうして? 君は苦しむことを望んでいたというのに。自分を罰したくて仕方がないのでしょう?」

「俺は、違う、俺は……」

「僕にはわかる。君は、自分の犯した罪の重さに耐えることができないのでしょう」


 犬走は、男の言葉にぞっとした。この男はどこまで知っているというのだろう。どこまで知っている? この男は、ただかまをかけているだけなのだろうか。俺がぼろを出して、自分の罪状を吐き出すのを待っているのか? 知っているのか? いいや、この男は知るはずがない。

 

「君は、人を――……た罪に苦しんでいるのでしょう?」


 全身から、血の気が引いた。ばれていた。なぜ? いや、ばれるはずがない。あの場には誰もいなかった。この男は見ていたのか? この男は、俺の行いを天から見ていたのか。いや、この男は、地獄からやってきた――。

 男がにやりと笑いながら近づいてくるのを見て、犬走は後ずさりした。いつのまにか、二人は洞穴の中にいた。薄暗い土壁のなかに、閉じ込められていた。一本に続く道しかない。

 

「やめろ……近寄るな……」

「地獄への道案内をすると……そう約束したでしょう」


 男の唇の端が、奇妙なくらいに吊り上がった。白い前歯が、異常なほど大きく膨らんでいる。片目は笑っているように細まっているが、もう一方は額から鼻先まで広がっている。瞳孔は蛇のように縦長に伸び、ぎょろりと見つめてきた。鼻頭にしわが寄ったかと思うと、肌の色が徐々に茶褐色へと移り変わっていった。どんよりと暗い色に変色していく。――死人の色だ。

 男は大きな口で笑いながら、手を伸ばしてきた。顔と同じように土気色に変わり、枯れ木のようにしわしわにやせ細っていた。

 

「やめろ……!」


 犬走は、息を飲み込んだ。ひゅっ、と空気だけがのどを抜ける。

 ぼたり、と音を立てて男の右腕がひじからこぼれ落ちた。美しい男の容姿は、跡形もなかった。目の前にいるのは、ただの化け物であった。魔物だ。地獄の餓鬼だ。

 

「やめろぉ!!」


 叫びとともに押し返すと、ぐにゃりと嫌な感触が手のひら全体に伝わった。ずぶずぶと、手の甲まで男の身体に沈み込んだ。――気持ち悪い気持ち悪い!!

 手を引き抜くと、びちゃびちゃと音を立てて男の身体から何かが垂れ落ちた。

 

「ああぁああっ!」


 男に背を向け、一目散に入口へと駆け出した。足が、思うように動かない。一歩一歩がもどかしいくらいに重たかった。

 男は追ってきているのだろうか。確認することも恐ろしく、犬走はただひたすらに走った。途中でつまさきに何かがぶつかり、身体が宙に放り出された。揺れる視界に、赤色が映り込んだ。地に手をつき振り返ると、長い黒髪の女の後ろ姿が見えた。赤い襦袢に、黒髪が良く映えていた。嫌味なくらい、なまめかしい後ろ姿であった。

 ふと、鼻につくような甘ったるい香りが漂ってきた。気持ちが悪い。色を売る女の香りだ。

 女は何かにまたがっていた。女が組み敷いているものが何かははっきりと見ることができなかったが、犬走は反射的に気持ち悪いと思った。それは、とても気持ちの悪い行為だ。気持ち悪いものだと、犬走は知っていた。

 くすくすくす、と鈴のような小さな笑い声が聞こえてきたかと思うと、女は力を無くしたようにがっくりとうなだれた。途端に、女の首は折れるように真後ろに倒れた。ぼきり、と嫌な音が響いた。生き物ならばありえない折れ曲がり方であった。

 女の顔と向かい合い、犬走は悲鳴を上げた。女の顔はおしろいを塗っているかのように真っ白であった。肌という肌は、白く染まっていた。弧を描いている唇のみが、ほんのりと紅に染まっていた。女の両目は、風穴が空いていた。女に犬走を見る術はない。だが、女は落ちくぼんだ眼孔で犬走を見てはっきりと笑っていた。

 

 逃げようと地面を押し出したとき、震える手にひんやりとした感触が伝わってきた。地面から生えている枯れ木のような手につかまれていた。悲鳴を上げることもできなかった。心臓だけが恐怖を訴えるように激しく脈打っている。

 地面からごぼりと、腕が、肩が姿を現した。人の形をしながら、人としての容姿を保てていないものが現れた。極端にやせ細った身体をぼろ切れ同然の着物で覆った、老いた男であった。それは犬走の手を握りしめながら、畜生のように四つ足で起き上がった。干からびたしわしわの顔を犬走の鼻先まで近づけると、にたりと笑った。開いた口から、不ぞろいの黄ばんだ歯が見えた。舌は、薄汚く黒ずんでいた。

 握られた手の甲を、湿り気を帯びた何かが這う感触がした。化け物と自分の手の隙間から、一匹のなめくじが姿を現した。――気持ちが悪い。

 嘲笑うかのようにかちかちと歯を鳴らしながら、化け物は口の端を上げた。大きな口が、ゆっくりとのど元に近づいてくる。嫌だ。俺はこんなところで死にたくない。俺は――!

 

 

 ――ぱちり、と何かが弾ける音に、犬走ははっと目を覚ました。

 暗闇の中で、夕陽色の光がぼんやりとあたりを照らしていた。鼻腔に、焚火の焦げた匂いが広がっていった。ぱちぱちと火のはぜる音が聞こえる。時折思い出したように小枝で火をつつく男の横顔を、犬走はぼんやりと見つめた。男の横顔は、暗がりの中で一層美しく見えた。焚火の明かりが、男の色の薄い髪を輝かせていた。沈んでいく夕陽が地平線で揺らいでいるときの光を見ているかのようであった。

 この男の反面が、しわがれた枯れ木のように腐っていて、醜く歪んでいたら――?

 男は、犬走の視線に気がついたのか、ゆっくりと首をまわした。

 

「目を覚ましましたか? ……もう少し火の番をしていますから、まだ眠っていてかまいませんよ」


 流れるように言葉を紡ぐ男の唇も、鼻も、瞳も、腐り落ちていなかった。相変わらず、美しいままであった。

 のどがからからに乾き、うまく声を出すことができなかった。重苦しい身体を起き上がらせると、犬走は竹筒から水を一口含んだ。生ぬるい水が、口やのどを潤していく。

 

「なあ……地獄に行ったら、今まで悪業を犯して死んでいった人たちに、会うことになるんだろうか」


 男は犬走を見ると、小枝を火の中に放り投げた。

 

「会うことも、あるかもしれませんね。その者たちが、生前の姿をとどめているかどうかはわかりませんが」


 ぱちりぱちりとはぜる火を凝視し、犬走は下唇を噛んだ。闇夜にはまぶしすぎる光とまとわりつく煙に、目の痛みを覚えながらも、犬走は目をそらさなかった。

 

「あんたはさ……夜が怖いか? 暗闇を、怖いと思うか?」

「それは……怖いですよ。闇の中では、何も見えません。……闇の中には、恐ろしい魔物がうごめいていますから」

「……魔物なんて、いるものか。そんなの、人が勝手につくりだしたものだ」

「そうですよ。魔物は僕たちが生み出す。僕たちの心に巣食っている」


 犬走は口ごもると、男のそばにある小枝の塊の中から一本抜き取り火に投げ込んだ。空気を切る枝の勢いで火が揺らぎ、勢いを増した。だが、一瞬で火は落ち着きを取り戻しゆったりと揺らいだ。


「俺もさ、夜は嫌いだよ。……だけど、同じくらい昼も嫌いだ」


 指先に触れていた小石を手のひらに収めると、犬走は力強く握りしめた。

 

「昼は、太陽に照らされるから嫌だ。明るい日の下は……嫌なんだ」


 ――俺の罪が、暴かれる。思い知らされる。

 火に燃やされた枝がぼろ炭となり、重なり合っていた枝が音を立てて落ちた。

 犬走の瞳に映った火が、ゆらりと揺らめいた。

 

「……俺――人を殺したんだ」

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