まがいものの来迎
まったく、なんてみじめなんだ、と思った。我ながらあきれる。
笑えてくる。ああ、俺はこんなところで死ぬのかと、虚しくなった。
こんなところで死ぬのか? ならば、なんのために生まれてきた?
――この世は陰と陽でできているのさ。
なら、俺の人生の陽はどこにあった。いつが俺にとっての陽だった?
まったく、生きていたってろくなことがなかった。なあ、なんのために俺は生まれてきた。なんのために生きてきた。誰が答えてくれるっていうんだ。
真っ暗闇だ。生まれてから、光なんてどこにあったというのだろう。
――お前さんはなんだってそんな陰気な顔をして生きているんだ。
知るか、知るかよ。俺が聞きたいよ。どう前向きにとらえたら俺の人生がいいもんだったって言える?
……なあ、生まれる前の世界ってのは、どんな風なんだろう。こうやってまぶたを閉じているときみたいに、真っ暗闇だったんだろうか。俺が生まれる前の俺は、どこにあった。どうやって俺はできたんだ。こうやって嘆いている俺はどこから生まれた。もし生まれる前が無だとしたら、死んだ後も無か? 真っ暗闇か?
怖い、怖い怖い。怖い。俺は死にたくない。
生きるのがどんなに惨めでつらいかって、散々思い知っているというのに、どうして死ぬのがこんなに怖いんだよ。生きるのがしんどいのに、どうして死ぬことをこんなにも恐れている?
どうして、俺は生きたいと願っているんだ。
頭の中でぐるぐると思いを巡らせていたとき、ふと、耳に心地よい声が響いてきて意識が浮上した。
ああ、この音の連なりは何だろう。意味は知らないけれど、似たような音を聞いたことがある。いつだったか。
懐かしい心地がすると同時に、その音の連なりが意図することがわかった。そして、猛烈な怒りに襲われた。死に対する恐怖など、吹き飛んでしまった。
「おい、ふざけんなよ、クソ坊主」
渇いたのどに声が絡んで、かすれた。ちくしょう、思いっきり怒鳴ってやりたいのに。
「生きている人間に経なんて上げてんじゃねえよ、バカたれ」
心優しいクソ坊主の顔を拝んでやろうと、震えるまぶたを押し上げた。どこのどいつだ、こんちくしょう。
――観音菩薩様ってえのは、男も女もないみたいだぜ。俺たち衆生の者たちとちがって、性別なんて超越していなさるのさ。
視界に映ったのは、黒袈裟を被った若い男であった。袈裟の影に隠れていたものの、美しい顔立ちであることは一目でわかった。女みたいに綺麗な顔をした男であった。それにもかかわらず、びっくりとした様子で目を丸くしているのがなんとも間抜けで、笑いたくなった。なんて間抜け面をした観音菩薩様だ。
「なあ、俺はまだ死なないから、お迎えなんて御免だよ」
呆けたような顔をしている坊主が口を開く前に、犬走は言葉を紡いだ。
「恵んでくれるっていうならそんなお経じゃなくてさ、おまんまにしてくれよ」
すみません、だとかなんだかんだと坊主が口にした気がしたが、どうでも良いことであった。意味を拾うまで意識を掘り下げなかった。
懐の中に手を差し入れる男の動きを、じっと横目で見ていた。それと同時に、自分の意識や感覚が覚醒していくのが分かった。眠りから覚めていくように、感覚が研ぎ澄まされていく。
ああ、そうかよ、と思った。まだ、俺は死ぬことができないのかとがっかりした。俺の意思に反して、俺の身体は生きることを望んでいるようだ。どうして死ぬことを許してくれない。俺はまた、生きなくてはならなくなった。
男が竹筒と食べ物らしきものを懐から取り出そうとした瞬間、犬走は懐に入れていた小刀を抜き放った。身体を跳ね起こし、獲物の首筋を狙う。――獲った。男の首筋から血しぶきが飛ぶのがありありと目に浮かんだ。
犬走は目を見開いた。ぎりぎりのところで軌道が大いに逸れた。男の腕にいなされ、刃先が袈裟をかすっただけであった。驚いた。まさか防がれるとは。それと同時に驚いたのは、男の髪の色であった。それまで袈裟で隠れていた男の髪は、犬走が振るった刃によってあらわになった。
犬走は、それを何色と呼んでいいのかわからなかった。夕焼けの空の、暗みがかった黄色といえばいいのだろうか。男が袈裟を被っていたときは飾り物かと思っていたが、男の頭を覆っているそれは地毛であった。
瞬時に引こうとした手首は男につかまれた。犬走は反対の手で殴りかかろうとした。だが、それもあっけなくつかまれてしまう。互いに両手がふさがっている状態だ。犬走はにやりと笑った。
「驚いた。あんた坊主のくせに強いんだ。綺麗な顔してやるじゃん」
「僕も驚きましたよ。まさか、僕の読経が死にかけの人をこんなに元気にする力を持っているとは、思いもしませんでした」
「勝手に殺してくれるなよ。生きているか死んでいるかたしかめてから経を上げろよな」
「君もまぎらわしくこんな道端で昼寝なんてしないでほしいですね」
昼寝じゃねえよ、と犬走は眉間にしわを寄せた。ああ、自分の身体が嫌になる。なんだって自分の身体はこうも生きようとするんだ。死にたいときに死ねないなんて、生き物はなんて不便なんだ。
犬走は片足を滑らせた。膝を男の脇めがけて勢いづける。膝は外れたが、男が片手を離したことにより利き手が自由を得た。着物につかみかかろうとするが、押さえ込まれる。手首をひねりあげられ、小刀がこぼれ落ちた。そのままねじり込まれるように地面に組み敷かれた。背中から押さえつけられ、横面が土にまみれる。暴れようとしたが、目の前に小刀が突き立てられるのを見て、息を飲んだ。
「まったく、こんなに僕の経に験力があると知っていたなら、もっと早く楽に世を渡ることができたというのに」
「……寝言は寝て言えよ。……ったく、あんたのせいで死に損なった」
ぼそり、と漏らした本音は独り言のつもりであったが、耳ざとく男に届いてしまった。
「君は死にたかったのですか。ならば、僕が楽にしてあげましょうか」
はっ、と思わず笑いがこぼれてしまった。
「坊主がすすんで殺生を犯すって? こりゃとんだ破戒僧だ。そんなことをすれば地獄に堕ち……」
言いかけて、首筋に当てられた刃に息を飲み込んだ。
「残念ながら、途中で修行を投げ出したならずものでしてね。それに、いまさら殺生戒を気にできるほど、この手は綺麗ではないんですよ。だから安心して頼んでかまいませんよ」
静かに落とされた声音に、思わず背筋に震えが走った。驚いた。殺されるのが怖いと思うなんて。あんなにも死にたいと思っていたのに。結局俺は、どっちを望んでいるというのだろうか。
「……ねえ、俺、痛いのとか苦しいのは嫌だよ。やるんだったら苦しまないように一瞬で終わらせてくれよ」
そうだ、何を意地汚くしがみつこうとしているのだろう。さっさと手放してしまえ。一歩踏み出してしまえば、怖いのも苦しいのもいつか終わる。多少なりとも坊主であるというのなら、欠片でもいいから慈悲を見せてほしい。
……なんで、俺は泣いているのだろう。驚いた。まだ自分の目から涙が流れ落ちるなんて。この涙にきっと意味なんてない。人生最後の涙だ。
「君は、死に場所を得たいですか」
男の問いに、しばし沈黙した。そして笑った。
「死に場所なんか、求めていないさ。俺が欲しいのは……きっと、この世からの逃げ場所だけだよ」
ふと、背中から重みが消え、犬走は振り返った。男は袈裟を被りなおすと、犬走を見下ろした。その瞳の感情が読み取れなくて、犬走は探るようにじっと見返した。
「死ぬ勇気もないのに死を望むというのなら、僕についてくればいい。地獄への道案内を買ってあげますよ」
ゆっくりと歩き始めた男の背を、犬走は座り込んだまま見すえた。
「ねえ、やっぱりあんたも俺は地獄に行くと思う?」
男は立ち止まると、首だけをまわした。袈裟の影の端で、男の口元が上がるのが見えた。
「逆に問いましょう。この世のどれだけの人間が、極楽にいけると思いますか」
この男は皮肉な心を抱えて生きているに違いない。犬走は、なぜか気が楽になって笑ってしまった。
「真砂の中に放り投げた一粒の砂を見つけるよりも難儀だろうな。あんたもこのまま歩き続ければ地獄に行くだろうさ。偸盗を犯したくないなら、俺の刀を返してくれよ」
「取り戻したいのなら、ついてくればいい」
「お腹がすいて立ち上がれないんだよ。何か恵んでよ」
男の表情にあまり変化は見られなかったが、どことなく訴えかけられているような気がした。当たり前だ、せっかく飯を恵もうとした瞬間に刀で襲いかかられたのだから。
「ねだるんだったらもう少し可愛げのある頼み方をしてほしいですね。腹をすかせた犬猫でも、もう少しくらい愛想の良い素振りを見せるというのに」
「犬っころみたいに尻尾を振ってねだれば満足か」
「……本当に君は可愛げがある」
男が犬走のそばに膝をつくと、瞳をのぞきこむように犬走を見つめた。かと思うと、犬走の額を指で小突いた。
「痛いな、何しやがる」
男は何も言わずに、犬走の目の前に小さな干し飯を差し出した。本当に鼻先に差し出され、犬走は口ごもった。何か言おうと思ったが、何を言えばいいのかわからずに乱暴に飯を奪い取った。小さな干し飯にかじりつきながら、自分がほっとしているのか、悲しんでいるのか、憤っているのか、犬走にはわからなかった。
「……なあ、本当にあんたは、俺を地獄へと案内してくれる?」
坊主は頬杖をつきながら、飯をついばむ犬走を見つめた。何を考えているのか、わからない瞳だ。
「君が望むのなら、かまいませんよ。道案内くらいなら、お安い御用です」
どうして自分に襲い掛かってきた相手に対し、そんな余裕綽綽で接していられる。
きっと俺が本当に聞きたいのは、道案内してくれるかどうかではないのだ。けれど、自分が真実何を聞きたいのか、犬走にはわからなかった。
犬走の脳裏には、昔目にしたとある虫が浮かんだ。はじめは、それが一匹の虫かと思っていた。だが、しばらく観察して、それは間違いだと気がついた。二匹の虫だったのだ。緑色の虫からうねり出ていた、蛇のような棒状の生き物。それを見たとき、ぞっとしたものであった。すでに亡骸となった緑色の虫を置き去るように這い出てきた虫。自らの捕食者を宿主とし、じわじわと身体の中で大きくなりながら、主を死に追いやり成虫となる。――俺はあの寄生虫だ。
俺はいつかきっと、この男を殺すに違いない。自分が肥え太ったら、男を食い破り、醜い姿を白日に晒すのだ。そして、亡骸を尻目に一人さまよい歩いていくに違いない。犬走は確信したようにそんな妄想に憑りつかれた。
そうなる前に、俺はきっと死んだ方がいいのだ。自分の醜い姿を思い知る前に、死んだ方がいい。
犬走は、目の前の男を見すえた。――どうか、そうなる前に俺を地獄送りにしてくれ。