~葵の独白編 その1~
続きまして、葵サイドから起こったこと、感じたことを書いていきます。
栞よりも文面がボリューミーでびっくり。
俺は、樫村栞のことが好きだ。
初めて彼女に出会ったのは、俺が26歳の時。
俺の働いている職場に中途採用でやってきた彼女は、今までに会ったどの女性よりもグッとくる何かを持ち合わせていた。それが何なのかは俺にも上手く言葉にはできない。ただ恐らくあの感覚が女性に対して、「心を奪われる」、「好意を抱く」ということなのだろう。
俺には許嫁がいる。俺の実家は欄間彫刻の職人の家系で、俺が実家に居続けるということは彫刻家になるということであり、それはつまり、伝統工芸の跡取りになるということだ。俺は一人息子で、家業を継ぐ血縁者は俺しかいない。幼少期から欄間彫刻を間近で見せられ、レクチャーされるという、その道を目指す人からすると至極羨ましい環境には恵まれていたが、俺の手先が絶望的に不器用であり、彫刻のセンスも血筋を引いている割には平凡…というかはっきり言ってセンスがなかった。俺は「この欄間彫刻を継ぐのは、俺には絶対に無理だ」と幼いながらに察していたし、両親も後継者問題に頭を抱えていた。
許嫁とは幼馴染の腐れ縁だ。俺とは違い、手先がとても器用で、隣に座っていたあいつにたまたま彫刻をさせてみたら、俺よりもあいつの方が圧倒的に上手く、センスもあったのだ。両親同士が仲が良かったこともあり、幼いころから「この2人が結婚したら、跡取り問題も万事解決ね」と、催眠術でもかけられるかのように言われ続けていた。その頃はそれがどういうことか理解できなかったし、親も本気で言っている訳ではないと思っていたのだが…まさか本気にしていたとは。
俺はあいつからは一方的に好かれているのだが、今日に至るまで俺は、あいつに対して一度も好意を抱いたことがない。あいつは世間一般から見れば、一応可愛らしい部類の女性に分類されているようで、俺の友達も何人かあいつに好意を抱き、愛の告白をしていたが、全員ものの見事に撃沈していた。
あいつの断り文句は決まって、「私は葵君のお嫁さんになるから!」俺からすると至極迷惑な話である。
あいつは俺のストライクゾーンには該当しないし、生粋の箱入り娘だからなのか良くも悪くも世間知らずで、お嬢様気質が強く、強情で、世間的には可愛らしいはずのルックスが人間性には一切反映されていない。正直俺は許嫁のことを、よほど何か衝撃的な出来事が起こらない限りは今後も好きになれないし、愛すこともできない思う。
俺は今まで、「人あたりの良さそうな人」を装いながら、なるべく周りに敵を作らないよう、当たり障りのない人間関係を構築してきた。妙な世渡りの上手さは、自意識過剰かも知れないが自覚しているので、俺があいつに対して好意どころか何の興味も抱いていないことは、恐らくあいつには気づかれていない…はずだ。
親から敷かれたレールの上に乗っかり続けて、許嫁と結婚して家業を継ぎ、子どもを作って、今度は自分の子どもに家業を継がせて…そんな人生の何処に楽しみがあるというのだろうか?少なくとも俺には、その人生に楽しみがあるとは到底思えない。一度きりの人生、俺がやりたいことを決めたって良いじゃないか。
俺は親から敷かれたレールから少しでも外れたくて、両親に「家業を継ぐよりもやりたいことがある」と説得した。当然両親には激怒され、反対されたが、それでもここで引き下がってしまったら俺は、このレールから外れるチャンスを逃してしまうと思い、「社会人になって企業に勤め、社会に順応する経験は、きっと家業を継ぐことにもプラスになって生きてくるから」という、弱めの説得を両親にした上で、就職先を自分で決めた。両親に対して俺が自分の主張を伝えたのは、多分これが初めてのことだったと思う。
地元を離れたがらない許嫁に会う機会が減るようにと、慣れ親しんだ地元を離れ、東京に出てきた。そうして手にした親からも親戚からも許嫁からも口出しされない環境が、俺にとっては快適で仕方がなかった。
彼女に出会った時、俺は社会人4年目。仕事にも慣れ、幸い人間関係にも恵まれ、とんとん拍子で仕事をこなしてきた。その当時いた部署では一番仕事ができるという認識を上司からは持たれていたようで、転職したての彼女の教育担当を任された。
彼女との関わりはあくまでも「教える側」と「教わる側」だった。彼女が色目を使ってくることもなかったし、俺もそういう対象として彼女を見ていた訳ではない。彼女は特別に可愛い訳でも、特別に仕事の呑み込みが早い訳でもなかったが、彼女と接していると、他の女性では感じたことのない不思議な安心感があった。
俺の周りにいる女性は、許嫁を含めて気が強かったり、自己中心的な女性が多い。俺がもしそういう女性を引き寄せている星の下に生まれているのだとしたら、それはもう悲劇でしかない。
あぁそうか。恐らく彼女は、前述した女性達とは違う性質を持っていたんだ。だから俺も妙に安心できたんだろう。
彼女は同い年の俺に対しても敬語を使っていた。確かに俺は勤務年数的には先輩にあたるし、教育担当でもあるが、同い年の彼女に敬語を使われると、背中がむず痒くなってしまうので、タメ口で話して欲しいと伝えた。まぁ、それでも暫くは彼女も遠慮しているのか使い慣れないからか、敬語とタメ口の中間を行ったり来たりしていたけれど。俺はそんな彼女の様子すら愛しく感じていた。
彼女が入社してから1年半後、俺は人事異動で彼女とは別の部署に移った。移動先の部署のスタッフの人間関係が上手くいかなかったようで、俺は緩衝剤のような役割を会社から期待されていたらしい。今まで「表面上」ではあるが当たり障りなく人間関係を構築してきた俺にとって、そういった理由の人事異動は特に違和感を感じなかった。
「今まで通りにやれば、何とかなるだろう」
それくらいの軽い気持ちで異動の話を受け入れた。その異動が、その後の俺をひどく疲弊させることになるとは知りもしないで。
異動先の部署は、俺以外は全員女性。客観的に見ればハーレム状態だが、ここでも俺の周りにいる女性はやはり、気が強かったり、自己中心的な女性が大多数を占めることになる。厄介なことに、仕事のでき具合にムラがあり、ろくに仕事をしない割には自己主張だけはしっかりしている。定時になれば自分の仕事ができていようができていまいがきっちり帰宅する。仕事の期日が迫っていようがお構いなし。きっと誰か(その誰かというのは俺以外いない訳だが…)が仕事を何とか済ませてくれるというスタンスで、娯楽程度の感覚で仕事をする奴ばかり。やんわりと注意しようものなら色目を遣って返される。そんな毎日が延々と続く。俺の生活は徐々に平穏ではなくなっていった。
厄介な女性達が残した仕事をこなしているときにふと思い出すのが、彼女のことだった。
「樫村がここで一緒に仕事してくれたら、きっと捗るのにな…」
初めて彼女と出会ってから、早3年の月日が流れた。
彼女に会う機会があるとすれば、出社するときのエレベーター。数か月に一度くらいの頻度で顔を合わせることがあった。お互い姿を見つけると、「おはようございます」と挨拶はする。まぁ、それ以上の話をすることはなかったのだが。
そんな軽い挨拶をするだけの関係に、ある日変化が訪れる。
俺は連日残業続きで、ここ最近、ろくな食事も睡眠時間も確保できなかった。
それでも納期は迫っている…何とかして仕事を進めないと…そんなことを思いながら、栄養ドリンクを片手にいつものようにエレベーターに乗った。そこに彼女がいた。
「おはようございます。…ていうかどうしたの?何か顔色悪いよ?」
いつもの挨拶よりも彼女が話しかけてくれている。
「いや……うん…大丈夫。って大丈夫ではないか。」
多分普段の俺なら、「大丈夫」までで話を終わらせていたと思う。本音が思わず出たのは、相手が彼女だったからだろう。俺の我慢も限界が近付いていたし、とにかく誰かの優しさに甘えたかった。
「どう見たって大丈夫じゃないでしょ。仕事忙しいの?」
「まぁね…何かいろいろと上手くいかなくてさ…」
「せめて最低限の食事と睡眠くらいは取りなさいよ。」
「だよな…」
彼女の言うことはもっともだ。なんかものすごく久しぶりにきちんと人に心配してもらえた気がする。
俺はこの会話をここで終わらせたくなくて、とにかく彼女と話がしたくて、ろくに頭も働かない中、必死で次の一言を絞り出した。
「なぁ樫村、一緒にメシでも行かない?」
一瞬沈黙があった後、
「あぁ…別にいいけど……2人で?他にも誰か誘う?」
あぁそうか。俺の許嫁のことを気にしているのか。許嫁のことは社内で周知の事実だ。
「そうだなぁ…仕事の話したいし、同じ部署の奴等は呼び辛いから…
呼びたい奴がいるなら連れてきてもいいし、そうでもないようなら2人でも。」
そうは言ってみたものの、俺は本当は彼女と二人きりで話がしたかった。
「わかった。じゃあ都合の良い日また教えて。前と連絡先変わってない?」
そこまでのやりとりで、俺の部署がある階まで辿り着いた。
「変わってないよ。じゃあまた改めて。」
こうして俺は、彼女と何回かメールのやり取りを交わし、食事の約束を取り付けた。
俺はものすごく久々に、彼女と会話できたことが嬉しかった。ただ、この誘いは彼女にとって迷惑ではなかっただろうか…誘っておいた後で、ほんの少し不安がよぎった。
会食当日、約束の時間よりも随分早めに店に着いた。どれだけ楽しみにしてるんだ俺は。
ただ、もしかしたら彼女にも今、意中の相手がいるのかも知れない。入社した当初に比べ、彼女は随分と垢抜けた。「樫村さんに彼氏ができたんじゃない?」というような会話は、俺の部署の女性陣も何度か話題に出していたから、女性の目から見ても垢抜けたことは間違いないのだろう。
彼女は予定時間の5分前に現れた。うろたえる彼女に、俺から声を掛けた。
「おー樫村!こっちこっち!!」
俺は、彼女が1人で来たことに心底ほっとした。2人きりの食事会が始まる。
話したことといえば、殆どがお互いの仕事の近況。彼女は思うように仕事ができているらしい。
「入社したときに、前島君が教育担当でいてくれて、本当に良かったと思ってる。だから私は今、ちゃんと目的意識を持ちながら仕事できてるんだろうなぁ…って。」
俺はその一言が本当に嬉しかった。
気付けば話は俺のターンに移り、俺はここぞとばかりに今の部署での悩みを彼女に話した。彼女は終始頷きながら俺の話を聞いてくれている。
「仕事のこと、彼女さんには相談したの?」
許嫁とは、向こうから連絡が来た時にはそれとなく話はするが、俺からあいつに対して仕事の相談をしたことは一度たりともない。あいつに相談したところでろくな返事が返ってこないのは明白だったからだ。
ただそれでも表面上、許嫁とは良好な関係を築いていることにはなっているので、それなりの答えを彼女に伝えた。
「いやぁ…一応相談はしたんだけどさ…逆に怒られるんだよ。お前がしっかりしないからだって。」
嘘を伝えたことに罪悪感はあった。ただ恐らくあいつならこんなことを言うだろう。
「そっか…まぁ女性だらけの職場だとなかなか伝えにくいことはあるだろうね。でもなんか少しホッとした。前島君も人並みの人間関係の悩み、抱えることがあるんだなと思って。」
俺は俺の描いていた通りの「人あたりの良さそうな人」を、彼女の前でも演じていたようだ。
そんな話をしながら彼女と食事とお酒を楽しんで1時間程度経った頃、彼女が先に酔い潰れてしまった。
確かに彼女のお酒のペースは終始速かった気がする。ただ、今まで一緒に飲む機会がなかったせいで、それが普段通りのペースなのかどうか俺にはわからなかった。少し顔色を悪そうにしながら眠っている彼女をそのままにしておく訳にもいかず、俺は彼女の隣に座って背中をさすりながら、「大丈夫か?」と何度も声を掛けた。俺が声を掛ける度に、彼女は「大丈夫だよ」と穏やかな笑顔を浮かべながらこちらを見ては寝落ちる、そんなことを繰り返していた。
その時の彼女の穏やかな笑顔がものすごく可愛らしくて、俺は笑顔を向けられる度にドキドキした。
彼女のことをずっと見ていたいと、そんなことを思いながら背中をさすっていた。
そうこうしていたら閉店時間を迎えたので、とりあえず俺は、彼女を抱えながら店を出た。
店を出て暫く歩いていると、徐々に彼女の酔いも醒めてきたようで、いつも通りの彼女に戻りつつあった。
帰りのタクシーを拾おうとするが、流石土曜の夜、飲み会帰りの客が多くて、なかなかタクシーが捕まらない。
「とりあえず、何とかしてお互い家に帰らないとな。」
正直俺はこのまま2次会に行っても良いくらい本当に楽しいひと時を過ごせた訳だが、彼女が酔っているのは充分にわかっていたし、これ以上無理をさせるのも可哀そうだと思い、そう彼女に声を掛けた。
すると彼女は、
「…私まだ帰りたくない…帰りたくないよぉ。」
そう言った。
普段の彼女からは聞いたこともないふにゃっとした声で、ふと彼女の方を見ると、言葉では表せないくらい、最上級に可愛らしい顔でこちらを見ていた。
俺はもうどうしようもなくドキドキしていた。彼女をどうにかしてしまいたいとすら思うほどに。
「なぁ樫村、抱きしめてもいい?」
彼女の返事を聞くよりも前に、俺は彼女のことを強く抱きしめていた。
構想をしっかり練りながら書いていた訳でもないので、自分で書いていて「こうなったか!」と少し驚いています…笑
次は再び栞サイドに戻るかな。