お酒に弱い百合
初めて華貴先輩を意識したのは、私が今のバイトを始めてすぐの頃だった。
家の近くにある小さな学習塾で、私は初めての授業で全く思う通りの授業をできず、授業が終わった後一人で泣いていた。
そんな時に華貴先輩が声をかけてくれたのだ。
「どうしたの、そんなに泣いて」
まだ新米で交友関係も広くない私に、先輩が真っ先に声をかけてくれたのだ。
「私、全然、思う通りに、できなくて……」
「ふふっ、そりゃあ思い通りには行かないよ。子供は我侭で分からず屋だから」
柔らかい笑みを帯びた口元からは、けどちょっと毒もある厳しい言葉が含まれていた。
子供の成長を助ける、健全な方へ導く教師の仕事なのに、子供を悪く言うみたいで、驚いたことをよく憶えている。
でも先輩が言っていることは、その時の私にとって正しすぎて。
「まずは授業とか、そういうことを抜きにしてしっかり話し合うのがいいかな。同じ人間だからね、会話でなんでも解決できる。と思う」
楽しげな語調で、揺れる黒髪からレンズ越しの目を見て、私はその時の悲しみのすべてを忘れていたのだ。
「まあ、経験あるのみだよ。どうせ授業が進まなくても給料は入るんだし! 頑張ろう!」
三笠華貴、大学四年生の私の先輩だった。
華貴先輩とはバイト先の塾が同じなほか、家も近いということが分かった。
けれど私の方が三つ年下で、先輩が中高で私立の学校に通っていたり、大学も国立のいいところに行っていることから接点はまるでなかった。
いや、一度見たら忘れるはずもない、つやつやと光る黒い絹のように美しい髪、細い眼鏡のかかった白い耳から純真なまなざしを持つ目、先輩の美人っぷりは自他ともに認めるほどなのだ……。
……そのうえ、性格の残念なところも合わさって、とても忘れられないキャラをしている。
「うるさいクソガキだなぁ。受かりたいならいいから宿題こんだけやってこい」
「はは、小学生は恥ずかしがりだね。男の子がうんこぐらいで恥じらうんじゃない」
「そんな奴がクラスメイトにいるのか……ぶん殴りたいな」
「スマホたたっ壊すぞ」
黙って座って本でも読んでいれば、百人が百人振り返りそうな美人……は言い過ぎかもしれないけど、ともかく人を寄せ付けないような美貌の先輩は、人を寄せ付けないような性格で逆に人気をとっていた。
歯に衣着せぬ物言いというか、自分に正直すぎるというか、大胆すぎる。
私もあの慰めてもらった日から少しずつ仲良くなったけれど、やっぱり化けの皮が剥がれたというか、第一印象から随分イメージが変わった。
仕事中に愚痴を言いまくるし、社員の人にも平気で文句を言うし、挙句の果てに授業中にこっそりお菓子を食べているのも目撃してしまった。
流石にそういうのはどうかと、私も華貴先輩に注意したのだけれど。
「いいかーい蔵木さん、愚痴や文句を言えるというのはそれだけ良い労働環境だっていうことなんだよ。バイトの立場として社員に要望を出す、立派なことじゃないか。それにお菓子だってね、一時間以上に及ぶ授業で糖分の補給は必須! 大学の授業だってドリンク自由でお菓子ありの授業だってあるじゃないか。勉強のためだよ」
そんな風に論点をすり替えられて終わりだ。
とにかく、華貴先輩はどうにも性格が悪くて、そのせいで友達と呼べる人も少なく、恋人も一向にできないようだった。
「華貴先輩って恋人、作らないんですか?」
「藪から棒に蛇を出してきたね……」
地元の塾のすぐ近くにある居酒屋に食事に誘って、私は思い切って聞いてみた。
僅かな喧騒と食器の音が響く店内で、先輩の声は私の耳に直接届くようによく聞こえる。
「恋人か……作らないというかできないだけだ」
色恋の話題に少し驚いた風だったけれど、先輩は普通に答えた。
世間には非難轟々の愚痴を言う先輩は、意外にも恋人とかリア充とかクリスマスとか、そういう話題にはあまり触れない。よほどのトラウマがあるわけでもないし、別に恋人がいて満足しているからでもない。
「焦ったりは?」
「一度もできたことがないし、まだ二十二だからな。結婚もしばらくはしなくていいと思うし……。もしかして恋人ができたのか、それは普通に嫉妬するぞ」
「いや、そんなことは……」
私の目に映るのは、もう先輩だけなのだ。大学の男性といい雰囲気になったこともあるけれど、それはやんわり断った。
もうそれくらいに、先輩のことを思い続けているのだ。
「そもそも告白は男性からするものだ。私からどうこう考えるものではない。生き遅れたらこの世の男をすべて恨んで潔く生きる。以上」
話はこれで終わりだといわんばかりに先輩はお冷を煽る。
けれど私はそれで終わらせない。
「じゃあ、先輩、好きです」
「……うん?」
先輩が告白されるのを待つつもりなら、私は踏み込む。そう結論を出した。
けれど先輩はそれを一笑に付した。
「女じゃないか、蔵木知子」
そのたった一言を、私は予期していなかったわけではない。
それでも、豪快な先輩があまりに普通なことを言う幻滅を――いや、ショックを先輩の悪口で隠すつもりなのだろう、ともかく私はショックで言葉を失って。
「さ、食べよう食べよう。モテない街道まっしぐらだな。わはは」
その日の食事は、味どころか何を注文したかも覚えていない。
だけど、ショックなのはそれだけじゃなかった。
「はぁ、お腹空いた」
一番最後のシフトまで働いて夕食をどうしようかと悩んだ日だった。
「蔵木さん、また一緒に食べ行く?」
普段通り、先輩の誘いに私は一瞬戸惑ったけれど――淡い期待があったから快く了承した。
他の人は地元が違うけど、先輩と私は電車に乗らず歩いて帰れるから、と食べる場所もわざわざ遠出しない、私が告白した時と同じお店で。
「ここはいいよね。仕事終わりで呑むに限る」
バイトの打ち上げなんかでもたまに使うことがあるけれど、二人きりになったのは告白以来初めてだった。
「蔵木さんもいつもの?」
私は恐る恐るうなずいた。先輩はいつもの調子で注文して、いつものように私に話しかける。
「今日なんか元気ないね?」
変わらなくて、あまりにもいつもと変わったことがなくて。
やっと私は、全く何もかも冗談や世迷言だと思われていて。
彼女の中で私の立ち位置が全く動いていないということに気づいた。
それがどうしようもなく悲しかった。
確かに一言だった。話して一分にも及ばない時間だった。
けどそれを確認すれば先輩はどう思うだろうか。何の意識もしていない先輩に改めて意識させて、それでどうなるというのか。
だから私は、ただ黙って呑んでいた。
「先輩、先輩寝ちゃったんですか?」
ジョッキを握ったまま机に突っ伏した先輩は、声をかけても反応しない。そんなに多く飲んではいないはずだけれど、そういえば普段の飲み会ではソフトドリンクをよく飲んでいた気がする。
お酒に弱い、と気づいたのはその時だった。
会計を済ませて先輩を引っ張り起こすけれど、熟睡してしまっているらしくて店員さんに手伝ってもらってなんとか立たせると、まさか私が背負って帰ることになってしまった。
「先輩起きてくださいよ重いですよ、っていうか家知らないんですけど!」
呼んでも起きないし、勝手に荷物を見て住所を調べて家まで送るのはすごく面倒臭い。
というか私も少し酔っていたから、特に考えず家まで連れてきたのだ。
出迎えてくれたお母さんは、それはもう驚いて。
「まあまあ、その子が例の先輩さん? 本当に美人ねぇ」
「美人? これが? あぁ……」
見られてなんだかばつが悪いけれど、黙って寝ている先輩は確かに人形のように可愛らしくて。
「お風呂沸かさなきゃ……」
「え、もういいよ。こんなのわざわざ入れなくても。反省させるから」
よく分からないことを言って、やっと自分の部屋のベッドの上に寝転がして、そこで状況に気づいてしまった。
酔って寝ている先輩が無防備に私のベッドの上にいて、全然起きない。
その時、私は間違いなく悪魔のささやきというものに身を捧げてしまった。
あくまで寝ている先輩を起こさないように、服を脱がさずにそっとシャツの中に手を入れてみる。呼吸とともに上下するお腹の温かさに触れるといけないことをしていると如実に思うが、まだ私はそれを始めてもいないのだ。もっとも、始めてしまったら途中で止まることはできないが。
どれくらいまでなら着崩した、という言い訳が通用するだろうか、そんなことを考えながらシャツのボタンを二つまで外すと、先輩の下着が見えた。
レースの白いもので、普段の横暴な物言いの先輩にしては少し可愛らしい。
黙ったままだとやっぱり先輩は美しい。寝ていて、その白い体が露わになると艶めかしさにめまいがしそうだ。
首元からなぞるように鎖骨に手を当て、それでも先輩の寝息のリズムが変わらないのを聞き届けて、すっと胸元にまで手を伸ばし、下着越しに胸を触ってみた。
柔らかい生地に触れはしたが、胸に触れている実感はない。下着を引っ張ると慎ましい頂点に二つの赤だけが自己主張していた。
性格のせいで告白されたことがない、なんて言ってたけど……この胸も理由じゃないかな?
でも体に魅力がないわけじゃない。
小さく引き締まった体を、私は正面から抱きしめた。
強くて、勇ましい先輩だけど、体は私よりも小さいんだ。
でも、違う。
私は先輩の肉体なんてどうだっていい。
心がほしい。
ただ一度笑って、ありえないと言われて終わってしまう関係。
気の良い飲み友達だと思われたり、可愛い後輩だと思われたり。
そんなんじゃない。
好きだって言ってほしい。
私だけを見てほしい、のに……。
次の日、先輩は楽しそうに笑っていた。
「いや~ごめんごめん完全に寝ちゃってたね。家までお世話になってあっはっは。酒呑むと記憶飛ぶのほんとヤバいよね」
いつもと変わらない調子に、適当に相槌を打っていたけれど、内心は心臓がバクバクいって止まらなかった。
先輩は、なにも気付かなかった。どころか忘れてしまっている、というか何も知らない。
都合が良い、とも思えるけれど、むしろ気づいてほしい、とさえ思った。
私は、遊びのつもりでも、冗談のつもりでもないんですよ。
本気なんです。
それから、五回。
私は五回先輩を抱いた。
「ふぁ~あ。あれ、またここか」
先輩の間抜けな伸びに、私は再三の罪悪感を覚えながら、呆れた風に笑った。
「お店でいつも寝ちゃうんですもん。おんぶする私の身にもなってくださいよ」
「そこは、ほら、一蓮托生だよ。もし蔵木がお店で寝てたら私が持ち帰るし」
「……! 持ち帰るって、人を物みたいに……」
いつもの軽口で本気ではないと分かっているけれど、少し気になってしまった。でも、相手しても仕方がない。
「それで、今日はどうするんです? バイトもないけれど……」
だいたい二人で飲むのは金曜日の夜だった。レポートが忙しくてすぐ帰った日もあれば、一緒に遊んだ日なんかもあるけれど。
「考えていたんだけどな、蔵木」
考えていた、というのが先輩の言葉だから信用できないけれど、少し真面目な顔で俯いている先輩の雰囲気はどこかいつもと違うものがあった。
ベッドの上で胡坐をかいて座っているのに真剣、というのも先輩らしいが、際立ったのはその内容だ。
「……やっぱ時代だよな……こう……パートナーシップ、みたいな。恋愛相手は異性だけじゃないんだよ、うん」
何を言っているのか、全く理解できなくて、ただきょとんとしていた。
そんな私を見かねてか、先輩は弁明するように言葉を捲し立てる。
「いやほら蔵木、前言ってたよな!? 私のことが、その、好きだ、みたいなこと。いや私はそこそこ働く気だし、その辺り手伝ってもらったり、あとできれば実家からの逃げ込み先にさせてもらいたいなぁと思って」
「……はぁ?」
「うん。別に男に固執しないし、子供もいなくていいし……」
「私は、妥協案ですか」
「……蔵木?」
男性に告白されないのは、こういうデリカシーのなさが原因だろう。
そう、確信した。
「先輩は! 私のことなんか好きじゃないんですよねぇ!? 体よく家から逃げたり! 勤務先とか大学からちょっとでも近いとか! そういうことじゃないですか!! 私は……私は物じゃないッ!!」
思い切り怒鳴ったけれど、腹が立って、悲しいけれど、泣いてはいない。
これは説教だ。このバカに、教えなければならないことがあると。
呆気にとられた先輩を、今度は私が押し倒して、思い切りくちづけをした。
「こういうことですよ。私の好き、っていうのは」
嫌われるかもしれない、なんて恐れはこれっぽっちもなかった。
ただ投げやりに、怒りに任せて、先輩に思い知らせたかった。
気色悪がるだろうか。驚いて逃げたり、意外と泣いちゃったり、するだろうか。
けど、先輩は、少しだけ笑っていた。
「……前までは、酒を飲んで倒れると、どこか分からないところで、ゲロ吐いてたりしてさ、すごい酷い臭いがしてたんだよ」
何の話か、よく分からない。
戸惑っていると先輩は笑顔をこちらに向けた。
「でも、君の部屋で眠ると、不思議と体から君のいい匂いがするんだ。なんだか気持ちもいいし」
それで、私は言葉を失ってしまった。
「その……感情に関しては、確かに、少し考えなしだった。……あぁ、でもキスなら思ったほど嫌じゃない。君の良い匂いもするし」
だって、だってこんなの。だってこんなの。
「一緒に少しずつ考えてくれないか? ……こんなに仲良くしてくれるのは君が初めてで……今更離れられるのも、その、困る、から」
渡りに船、だ。
「せ……せんぱいっ!!」
再び、私は華貴を押し倒した。