第11話 永劫なる彼方より
『この天地の間にはな……まるで人智の思いも及ばぬモノがあるのだ / There are more things in heaven and earth……Than are dreamt of in your philosophy』
――ウィリアム=シェークスピア『ハムレット』
『よく来た来訪者。お前に会いたかったのだ』
顔の無い黄衣の巨人が見下ろし、そう声をかけてくるや否や、おれは即座に懐へと手を伸ばした。指先に確かにある、我が愛しの『戦いの棘』――エルフは片刃短剣のことを時にそう呼ぶ――の柄の感触に、ほんのちょっぴりだけ安堵するが、それはもう髪の毛の先程のほんのちょっぴりだ。なにせ『ここ』ではエンフィールド・ライフルも鋼輪点火式短銃も頼りにはならない。常に肌身離さず持ち歩いている筈の得物たちが、今や影も形もないんだから。
――当然だ。なにせここは『夢の中』だ。
それも、これはおれの夢じゃない。おれの紡ぎ出す夢が、こんな景色であるわけもない。
心胆寒からしめる異様な色を放つ星々が、底しれぬ深淵の闇の向こうから、凍りつくような冷たい光で見下ろしてくる。殆ど灰に等しい砂漠が茫洋と広がり、彼方には反自然的角度に捻じくれた黒い柱が無数に連なっている。……こんな風景を描く手合はふたつにひとつ、イカれてるか、そもそもヒト――、人間であれ長耳であれ豕喙人であれ犬狼人であれ土侏儒であれ蛇人間であれ蜥蜴人であれ、そう呼びうる生きとし生ける者たち――を超えたるナニかであるかだ。そして今度の場合は、後者であるのはまず、間違いねぇ所だろう。
おれは確かに、アントニアから寝ずの番の仕事を請け負った。報酬はエスクード金貨であるし、何よりおれだって玄人の端くれだ。晩餐でも酒は唇を湿らす程度にしか飲んでいないし、寝惚けるなんてことは、常ならば絶対にありえねぇ。そのおれが、しかし現にこうして寝惚けて、常ならぬ夢に迷い込んだとするならば、やっぱり、それは常ならぬモノの差し金にほかならない。
要するに今、おれは呪いにかけられてるってこった。恐らくは夢を通じて、こっちの意識に干渉してきてるんだろうが、今や完全に、仕掛けた野郎の術中に嵌っちまってるわけだ。
――“古の哲人の言うには、血と肉よりなるこの身体は、すなわち魂の牢獄だそうだが――君よ、忘るるなかれ、多くの場合、監獄とは同時に要塞だってことを、ね。”
師リノアからの教えを思い出す。先生の言う通り、確かにおれたちの魂は肉体に封じ込められてはいるが、同時に肉体は魂を守る鎧の役割をも果たしている。そして眠りは、その鎧にもまた眠りをもたらす。魂は自由の身となり夢中に遊び、また時を同じくして限りなく無防備となりはてる。そこを、突かれた訳だ。
『どうした来訪者? 面食らったか? らしくもない。死神と言われた男であろうに』
顔のない黄衣の巨人がかけてる言葉を無視して、おれは懐中のサクスの柄を強く掴んだ。ここは、この怪人、いや怪物が拵えた夢の世界であって、そこに引きずり込まれたおれには武器がない。夢の世界はその創り手の意のままであり、当然のように武器なんぞは、特に飛び道具なんてのは持ち込ませてくれるはずもない。
――そう、このサクスを除いては、だ。
その刀身の腹に刻まれた神代文字は見栄えだけの飾りなどではなく、実際に霊験あらたかなのであって、この手の呪いに対して一定の抗力を発揮する。例え夢のなかにあっても、おれの傍らに付き添い、身を守る上で用を成す。……さて、問題はこのサクス、どう使うかだ。
夢に忍び込まれたり、あるいは囚われた場合に、仕掛けられた側が採るべき手はふたつ。ひとつは仕掛けてきた相手を仕留めるか、あるいは夢の中で一度死ぬかだ。それで目覚めることが出来るが、出来るならば後者の手はとりたくはない。
命はひとつっきりであり、失われれば二度と戻っては来ない。それは、かくも魔導呪法妖術の発達したこの現世にあっても変わりはしない。だからこそ、復讐するは意味と価値を持ちうる。
所詮は夢の中の仮初のものであろうとも、死とはそれだけ重いものであって、目覚めたところで魂の負う傷は決して浅からぬものとなる。夢より抜け出せても、気が触れていたでは笑い話にもなりゃしねぇ。
「……」
おれは怪人の言葉に応ずることなく、ただ視線のみを向けつつ一歩一歩、歩み寄る。夢の世界であるためか、足音一つせず、地面の感触も朧気で、地の上に在るにも関わらず、まるで雲の上にでも漂っているかのようだ。距離感もおかしい。目の前の巨人との間合いが上手く掴めない。向こうが常識外れの巨体なのに加えて、周囲の奇怪なる景色は、余りに幾何学的に狂っていて、縮尺を感じ取ることすら難しい。それでもなお、間合いだけは詰め続ける。
『――いやはや、前言は翻そう死神よ。夢の中にあっても、お前はやはり殺し屋だ。この姿に見えてなお、懐中に匕首を忍ばせるとは』
巨人はそう言うと、黄色いトーガ状の衣の内側から、異様に細長い腕を伸ばし、これまた奇怪に長細い指の先でおれを指す。まるで黄疸にでも侵されているか、硫黄でも塗りたくったような異様に黄色い肌は、よく見れば無数の鱗に覆われていて、その鱗と鱗の隙間には、木の幹に絡みつく蛇か蔓のように青く太い血管めいた筋が幾条も走っている。指は常軌を逸して長く、殆ど昆虫か蝦蟹の腕脚の如き有様であり、更にそれらの関節は、その全てが出鱈目な位置にてんでバラバラについていて、触手のように常に蠢いていやがる。
『だがだからこそ、お前を選んだのだ。お前にこそ、我が意を伝えるべき資格があるのだ』
名状しがたい声――リノア先生ならばそんな風に評したかもしれない。男のようであり女のようであり、嬰児のようであり翁媼のようでもあり、それは意味ある言葉でありながら、谷間を吹き抜ける風の唸りか、はたまた彼方にあって正体も知れぬ獣の遠吠えのようでもある。少なくとも、目覚めているときはには一度たりとも耳にしたことは無い類の代物だった。……実に、実に神経に障る。夢の中であるせいか、直に魂を穢れた手で撫でられるような、そんな不快感が五体を走る。
おれはかけられた声を無視して歩みを早め、巨人との距離を詰めようとした。しかし歩めど歩めど、間合いが狭まることはない。距離感がおかしい。何もかもが狂っている。
『されど言葉のみでは解すまい。然らば』
大いなる怪人は、その頭を若干持ち上げた。奇妙なことに――こういう言い回しをすること自体、既に虚しく感じているが、他に評す言葉もありゃしねぇ――、やっこさんはおれのをほうを見下ろしている筈なのだが、こちらからはその面を拝むことがまるで出来ない。不自然な靄めいた闇に覆われて、なんにも見えやしないのだ。だが、野郎がその頭をほんの少しだけ持ち上げただけで、僅かだけれどその闇が薄らいだ。ぼんやりと、顔めいたものが見えたが、その瞬間に不快感は倍になっておれを襲い、魂をやすりで削られるような悪寒が五臓六腑を駆け巡る。
あ。
コイツは。
マズい、ぜ。
『視るがよい』
その言葉と共に、無数の幻視幻影が脳漿そのものへと叩き込まれ、おれは迷わずおのが喉をサクスで掻き切った。
滝みてぇに流れる汗と、噴火寸前の火山めいた吐き気、吹雪にでも曝されたかのような寒気と共に、おれは目覚め、目覚めると同時に立ち上がり、肩に負ったエンフィールドを構えた。荒い息を噛み締めた歯の間から漏らしながら、銃口を左右に振って標的を探すも、既に夢は失せてここは現世、当然見当たる筈もない。
「――ッッッッ!」
頬に額に脂汗を浮かべ、おれはエンフィールドにすがりつくようにして立膝をついた。頭の中では妖精の類が――あの手の連中は、ヒトをおちょくることにすべてを掛けている――滅茶苦茶に破鐘を叩いているみたいに、凄まじい痛みと耳鳴りがおれに襲いかかってくるが、何とか意識を手放すことだけは堪えた。……仮にここでぶっ倒れたとしたら、三日三晩は目覚めない自信があったからだ。例え夢のなかのことであろうとはいえ、おれは一度死んだのだ。死ぬほどの思いをすれば、寝込むのもいたって自然なことだ。
「もし?」
アントニアの寝所の、その扉が開いて中からメイドのトリンキュラが顔を出し、案ずるような顔をしておれを見る。栗色のウェーブのかかった髪に、同じ色の瞳、いかにもメイドらしいエプロンドレスを纏った、可憐で可愛らしい少女であった。
「随分と大きな声で急に叫ばれましたので、アントニア様が何事か、と」
問われて、おれは見たものを、いや、見せられたものを、否応なく思い出す。
割れた海。
大きく渦巻潮。
黒く淀む空、落ちる雷霆。
魚群に泡立つが如き水面、沖より陸に上がる魚人群。
浮き上がった邪なる大地、聳え立ち捻じくれた金字塔、そして。
彼方に、微かに、朧気に佇む、大いなる影。夢見るままに待ちいたる旧く大いなるもの。何処にても、何時にても、常に在りて常に在ると、全人に信じられしもの。
溢れ出す幻視幻影に頭が割れそうになるのを、『あの男』譲りの鋼の意志で抑え込むと、トリンキュラをそっと優しく押して道を開けさせると、アントニアの寝室へとズケズケと踏み込む。無論無礼は承知の上、とにかく今は時間がない。“永遠の相のもとに”――今やるべきことはひとつ。ここから一刻も早く逃げることだ。
「……まったく、つくづく野良犬ですわね。躾がなってない」
「生憎、こちとりゃ田舎の百姓の出なんでね」
天蓋付きのベッドの上で身を起こしたアントニアは肩もあらわな姿だった。豊かな双丘も解いて乱れた髪と薄絹とにかろうじて覆われているばかりで、ほとんど裸に近かった。その艶めかしい姿には、普段ならおれでも生唾を飲み込む所だろう。だが、今のおれの喉は焦燥と憔悴に乾き、痛みすら感じるぐらいだった。
しわがれた声で、おれは言った。
「すぐに支度してくれ。こっからズラかるぜ」
「こんな夜更けに?」
「こんな夜更けにだ」
訝しげな視線で理由を問われるが、おれにはどうにも、答えようがない。だが、何者かが確かに夢を通じて介入し、おれにアレを見せたのは間違いないことだ。そしてアレは……人智の及ばぬモノであることは間違いがなく、故に表すべき言葉がおれには見つからない。語るべき言葉もないならば、あとなすべきはひとつだけ。
「説明は後だ。船まで急ごう。ここは直に――」
……――TAGN
どこかから、奇怪な声が響いてきた時、部屋の中の空気が変わった。
アントニアは眉を顰め、トリンキュラは落ち着きなく左右を見渡し、そして部屋の隅に亡霊のように控えていたフェルナンは、腰に帯びた剣の柄に手を伸ばしている。
――FHTATAGN
――WGAH'NAGL FHTATAGN
――UMBRIEL、WGAH'NAGL、FHTATAGN
徐々に大きさを増す不気味な声は、全くもって意味不明な、聞いたことのない未知の言葉を喋っていた。奇怪なのは言葉だけでなく、その声の調子で、恐ろしく湿度に満ちた、ぴちゃぴちゃと水音のような響きを帯びている。
「トリンキュラ」
「はい!」
アントニアがメイドに着替えを手伝わせている間に、おれは得物をホイールロックへと持ち替え、フェルナンは静かに剣を抜き放っている。
――SETEBOS、UMBRIEL、WGAH'NAGL、FHTATAGN
――MGLW'NAFH、SETEBOS、UMBRIEL、WGAH'NAGL、FHTATAGN
――PH'NGLUI、MGLW'NAFH、SETEBOS、UMBRIEL、WGAH'NAGL、FHTATAGN
PH'NGLUI
MGLW'NAFH
SETEBOS
UMBRIEL
WGAH'NAGL
FHTATAGN
ひときわ大きく、その謎めいた言葉が響くのと、外へと通じる大きな両開きの窓――天井から床まで丈のあるやつ――が突き破られる。おれは迷うことなくホイールロックを向け乱入者へ、魚のような、蛙のようなその面を目掛けて、引き金を弾いた。




