第7幕 ホームズ・オン・ザ・レインジ
『お前の迷路には三本、余計な線がある。ギリシアの迷路を知っているが、これは一本の直線だ。その線のなかで、じつに多くの哲学者が迷った。一介の刑事が迷ったって、ちっともおかしくない』
――ホルヘ=ルイス=ボルヘス『死とコンパス』
振りかぶって、ナイフを放り投げる。
くるくると廻りながら飛ぶ白刃は、真っ直ぐに壁へと突き立ち、ボロボロと白い粉を、赤い絨毯へと撒き散らす。……わざわざ強調して言及してみせたのは、既に砕けた漆喰が、ユタ州の冬の雪のように一面を覆って赤が殆ど見えなくなってしまっているからだ。私は歩み寄ってナイフを引き抜くと、またも自分で定めた立ち位置へと戻り、またも振りかぶってナイフを投げつける。今度はさっきよりやや上の位置に突き刺さり、『L』の字を完成させる。
やや距離をとって、ようやく出来上がった代物をじっくり眺め、その出来栄えに満足しつつ、同時に相反するように徒労の溜息が湧き出てくるのを止め得ない。いったい何をやってんだろうかと、そんな想いが止まらないのだ。
私が投げナイフを使って壁に刻みつけたのは『R』『E』『L』の三文字で、我らが北ヴァージニア軍を率いた偉大なるロバート=エドワード=リー将軍のイニシャルだ。それをナイフ投げだけで壁に描くという遊びだ。……なんでそんなことをこの状況でしているのかだって? そんなもの、決まっているだろう。
ヒマだからだ。
暇で、ひまで、ヒマだからだ。
チェネレにすらこの有閑は持て余すものであったらしく、さっきから延々と馬たちの毛繕いをしている。既にライトニングにレインメーカーに対しては全身隈なく済ませてしまっていて、今はオプの乗ってきたワトスンにブラシをかけている。ワトスンは実に気持ちよさそうにしているが、相方のレストレードや、ライトニングにレインメーカーはと言えば、彼らもまた手持ち無沙汰とばかりにフラフラ部屋の中をぶらつている。床は絨毯だから喰む草もなく、いよいよやることがない格好だった。
最初からこうではなかったのだ。
ちゃんと銃の手入れや再装填、持ち物の確認などなど、予期せぬ事態や何者かの奇襲に備えつつ、真面目に出口を探していたのだ、私らは。
けれども。
けれどもだ。
開けても開けても、延々と続く同じ景色、代わり映えしない風景。終わりはまるで見えることもない。
お手上げである。諸手を挙げて降参である。切った張ったは人並み以上に得意だし、深い森や乾いた荒野で生きる術ならば誰よりも詳しいと豪語できる。だが、月も星も見えず、風がひとそよぎもせず、土はおろか砂粒も見えないこんな謎めいた屋敷――オプの言う所の迷宮――より抜け出す術など知るわけもない。いかに私が人一倍優れたガンマンであっても、出来ることと出来ないことってのがあるのだ。
果たしてこの状況に対して私は、余りにも場違いで門外漢であったのだ。
出来ることもすることも無くなり、次に打つべき手も思い浮かばない私には、子どもみたいな遊びに耽って時間を潰すぐらいしか、もうすることもなくなっていた。
チラと、開け放たれた扉の一つに眼を遣る。
その扉の真ん前には、目印代わりなのか、やっこさんの荷物一式がでんと置いてある。やっこさん――すなわちオプの姿は見えない。私らが途方にくれる一方で――と言ってもチェネレは仮面みたいに表情が動かないので、飽くまで私のような馴れた人間に解る雰囲気の変化でのみ察することが出来る程度にだが――、オプはと言えば突然に、鞄から色々な道具類を持ち出してきたかと思えば、熱心に床を調べ始めたのだ。右手に何やら手持ちの眼鏡を――虫眼鏡だとか拡大鏡だとか言うらしい――携えて、犬のように地面に這いつくばりながら、しきりに何かを探している。
やっこさん、私が訊くのにも答えないでどこかに行ってしまったので、何を探しているのやらサッパリわからない。だが現状、やっこさん以外になにがしか現状をどうにかする手立てを持っている者もいないわけだし、オプに任せて我々は暇している他はないのだ。
私は大あくびをすると、改めてオプの旅行鞄に視線を向け、ふと開かれた口から覗くペーパバックに眼を留めた。
取り出してみると、それは道すがらの汽車のなかでオプが読んでいたやつで、表紙には『シャーロック=ホームズ』のタイトルが踊っている。
私は余り読書を好む方でもない。
父のおかげで西部の流れ者にしては珍しく読み書きの出来る私ではあるが、書く方は相当に怪しく、読むほうにしたってお世辞にも出来が良いとは言い難い。だから読み慣れた聖書や、情報収集のための新聞は読んでも、本を好んで読むことはない。せいぜい、無聊の慰みに三文小説に時たま手を伸ばす程度だった。
だが自分自身の無法者人生を振り返った得た教訓は、何だかんだで読み書きは出来たほうが役に立つってことだ。近頃では西部でもあのいけ好かない、お勉強がお得意でお高く止まった北部紳士どもがやって来て幅を利かせ、エゴを振り回している様を見るに、余計にそう感じる。だからこそチェネレにはちゃんと先生をつけてやったりしているのだが、生憎、当の私はと言えば新たに学び直すには齢を取りすぎている。
「……」
パラパラとページを捲って見るに、どうやら固い本ではなく読み物であるらしい。私は他にすることもないので、とりあえずこのオプの本で時間を潰すことに――。
「……見つけたぁ!」
――はならなかった。
それは彼方からの声であったから、私の耳でもかろうじて聞こえるかどうかという、遠い響きであったが、しかし確かに聞こえたのだ。チェネレも同じものが聞こえたらしく、毛繕い止めて、聞こえてきた方へと視線を向けている。
「……遂に見つけたぞぉ!」
私は『シャーロック=ホームズ』をオプの鞄に戻すと、チェネレに付いてくるように顎でしゃくった。
左右のウェブリーを、改めてホルスターから抜き差しして具合を確かめてから、声のするほうへ歩き出そうとして、読みそこねた『シャーロック=ホームズ』をチラと見る。……やや中身が気になり始めていた所だったので、なんとも梯子を外された感じだが、まぁ良い、別の機会に借りて読めば済む話だ。
オプのもとへと向かうのは、比較的簡単だった。やっこさん、道標として通った部屋に目印を描き込んでいてくれていたのだ。それなりの距離を歩き、相当な数の部屋と扉を潜り抜ければ、オプと再会することが出来た。
「――」
オプはと言えば、私達に目もくれず、相変わらず犬のように地面に這いつくばりながら、例の『虫眼鏡』とやらで絨毯床を覗き込んでいる。傍から見れば気でも触れたのかと思う所業だが、だが私はよぉく知っている、このタフで狡猾剽悍なピンカートンの探偵殿は、この程度の突拍子もない事態程度で正気を失くす程度の、可愛らしい人間には出来ていないと。
むしろオプの有様に対して私が抱いたのは、なぜか既視感だった。こんなオプに出くわしたのは今度のことが初めてだが、はてさて――などと思い巡らす内に、直ぐにその源に気がついた。何ということはない、ついさっき読みそこねたばかりの小説の挿絵に、今のオプそっくりそのままな姿が描かれていたのだ。……ちゃんと読んだわけではないので断言しかねるが、あの小説はどうも探偵ものであったような。よもやオプがデイビー・クロケットやダニエル・ブーン、ワイルド・ビル・ヒコックのごっこ遊びに興じる子どもみたいなことを知てるんじゃあるまいなと、よからぬ疑いが膨れ上がるが、これを頭を横に振って振い落す。相手はピンカートンの探偵だ。そんな馬鹿な真似はすまい。
「……やはり! やはりだ! やはり見つけた! 見つけたぞ!」
「で、何を見つけたんだ?」
出し抜けに問えば、私達が背後に立っていたことに初めて気づいたのか、珍しくギョッとした顔で慌てて振り返る。しかしその表情は直ぐに喜色満面のものに転じて、実に気色悪いことこの上ない。
「手がかりだ! ここから抜け出す手がかりを見つけたんだよ!」
そう言ってオプが指差したのは、扉にほど近い絨毯の一角で、良く見ると何やら土で汚れているのが解る。
「……」
私は背後を振り返り、自分が歩いてきた道に刻まれた足跡を見た。ブーツにこびりついたニューメキシコの砂や土が、豪奢な絨毯を見事に汚して見せている。
「土や砂の足跡がなんだって言いたいんだろう? でもね――“You see, but you do not observe. The distinction is clear.”さ。コイツで見ると解るが、こっちの足跡はその砂や土の元が違うのさ」
「!」
私は訳のわからない引用は聞き流しつつ、オプから虫眼鏡を借り受けると、同じように這いずって足跡をつぶさに眺めた。……なるほど、確かにこの赤土はニューメキシコのものとはあからさまに違うのが解る。私だって猟師の端くれだ。足跡や痕跡で姿もまだ見えぬ獲物を追うのは初めてではない。
「この足跡がはたしてこの館の住人のものなのか、はたまた僕ら同様に迷い込んだ者たちのものなのか――いずれにせよ、ここにこのまま居ても手詰まりだろう?」
得意げに笑うオプの面には、実に腹が立つが、やっこさんの言うことが正しい。ならばひとまずやることは、置いてきたライトニングたちを連れてくることだった。
――かくして1時間ほど、地道な探索を続けたあとのことだった。
「!」
「!」
「――」
一斉に、私たち三人は顔を見合わせた。
「聞こえたか?」
「聞こえた」
「……」
チェネレもこくこくと頷いている辺り、幻聴ではないらしい。音のしたほうの扉を開けると、更にハッキリと聞き取れるようになる。私達は這いずり回るのを止めて、今度はそば耳を立てて進み始める。新たに五つ程扉を開き、新たに6つ目の部屋に入った時、それまでは朧気にしか聞こえなかった音の正体が、遂にハッキリとした形で聞き取れるようになる。
果たして、それは歌だった。
間違いなく女の声の奏でる、実に実に美しい歌だった。
来よ、これ黄なる真砂に、さて取れや手と手を。
会釈し終えて、接吻して、荒浪も和ぎぬ。
しなよく踊れ、ここに、そこに。
はしき精霊よ、歌へ、囃せ。
聞けや、聞けや! 犬こそ吠ゆれ!
聞けや、聞けや、啼くよ容態ぶったる庭鳥!
聞こえてくるのは、このような奇怪極まる歌詞だった。
私とオプは顔を見合わせるが、互いに首を傾げるばかり。
歌声は、私達からみて左の扉から聞こえてくる。オプが散弾銃に初弾を装填し、チェネレがマウザーに拳銃嚢兼銃床を取り付け、私は右手のドアノブを握り、左手にはウェブリー・リボルバーを構える。
五尋深き水底に、御父上は臥したまふ。
御骨は珊瑚、真珠こそ、その以前、君が御龍眼。
御體の一切朽ちもせで、寶と化しぬ海に入りて。
聞かずや海の女神らが、あれあれ、君を弔う鐘!
続く歌を聞き流しながら――実に美しいものであるだけに、それは実に困難を伴った――、その歌が切りよく途切れた所で、私は扉を開け放った。オプが、チェネレが、そして私もが、最初に見えた人影に銃口を擬し――そして揃いも揃って固まってしまった。
私らの視界は突然に開け、燦々とした陽の光が降り注ぐ、緑豊かな庭らしきものが広がっている様に出くわす。その庭の中央には、さっきまで響いていた歌の主と思われる女がひとり立ち、キョトンとした様子で私達を見ている。私達が動きを止めてしまったのは、急に目に飛び込んできた日差しの眩しさ故ではない。そこに佇む女の姿を見てしまったからだった。
未だ伴侶こそ無いものの、私だって色んな女とこれまで巡り合ってきた。その中で最も思い出深いのはやはりアラマだが、しかし彼女が私にとって特別なのは、単に容姿容貌を超えた、その強い心に惹かれるからだ。だが、単に見た目だけで言うならば、今相対したこの女ほどに美しい女に、私は出会ったことがない。
髪は緑がかった銀色で、風にそよぐ様は絹糸のごとく。
瞳は淡い青であり、光の加減によっては翠にも見える、不思議な輝きを放つ。
肌は抜けるように白く、しかも曇り一つとして無く、殆ど非人間的であると言っていい。
ほっそりとした腕や腹、それと相反するように豊かな乳房に腰、それらを覆うのは白い薄絹で、余りの薄さに素晴らしい肢体の全てが透けて見えていた。
「……」
『……』
手首や首に巻かれた、金鎖の飾りが揺らぎ、鈴のような音を立てた。
暫しの見つめ合いは、美しい女が言葉にならない声を小さく上げると、その口を両手で覆うやいなや、脱兎のごとく走り出したのだ。その身軽さは言葉とおり野兎めいていて、瞬く間にその背後の生け垣の向こうへと消えてしまったのだ。
呆気にとられた私達は、やや出遅れながらもその影を追って走り出す。
謎めいた館の外の、これまた迷路のような庭、その入り組んだ高い生け垣のなかを、足音を頼りに私達は追う。
迷路に次ぐ迷路が意識を幻惑するも、そこはガンマンたる私だ、猟犬のごとき直向きさで美しい女を追い駆け、遂に追いつくことができた。
『何者だ? どうやって入ってきた? そう易々と抜けられる我が屋敷ではないのだがな』
女はそこにいたが、独りでではなかった。
男だ、男がいた。女ほどではないが、これまた中々の美青年だった。
波打つ金髪。
鋭い目つきに太い眉、鳶色の瞳。
そしてメキシコ人の着るような白い上下は、恐らくは恐ろしく金のかかった仕立ての良いものとひと目で解かった。
『して……わたしのエアリアルに何のようかな? 来訪者、まれびとどもよ』
男は、驕慢な様を隠すこと無い、堂々たる声で私達へと問いかけた。
これが私達と、プロスペロ=“コンセリェイロ”=メディオラヌム――このトラパランダ島の主たる魔法使いとの出会いだった。
冒頭の『死とコンパス』の引用は、鼓直氏訳の『伝奇集』に拠っています。




