第8話 戦いの流儀、まことの勇気
耳先のひりつき、鼻腔刺す酸っぱい臭い。雨と雷の気配は既に間近に迫っている。
あの男の使っていた黒い粉――彼はそれを『火薬』と呼んでいた――、そしておれが使う火吹き粉にとって、水と湿気は天敵だ。最初の火花が点かない限り、エンフィールドにしろホイールロックにしろ、単なる棍棒にしかならなくなる。当然、そんなことは初めから解ってる。だから、涙ぐましい努力を重ねて水気への対策は重ねて来た。今、装填されている分は問題なく撃てるだろう。だが再装填は難しい。長い鉄の武器は雷を招く恐れもある。
つまりは手早く、できれば今撃てる五発以内で片付ける必要があるわけだ。
……まぁ一匹狼の賞金稼ぎなんてやってれば、こういう不利な状況は珍しくもないんだ。無論、そういう状況にならないように手練手管は用意もするが、そう何事も思い通りになるのならば、世の連中はもっとこの稼業になりたがるこったろう。そして世間は賞金稼ぎで溢れかえることだろう。だが実際はそうではないということが、現実のなんたるかを物語っている。
再装填を済ませたホイールロックはいざという時に備えて腰帯に差し込んだままにしておく。
酒筒についていた紐を左腕に巻き付け、落ちないようにすれば、ようやくエンフィールドを両手で構えられるようになった。
カットラスは――スューナの口に咥えさせる。おれはウェンデイゴ本体を狙うのに集中したいから得物の持ち替えは最小限にしたい。加えて、誇り高き神狼の裔たるボルグは、単なる犬っころや狼どもと違って強いだけでなく賢いのだ。刃を振るうなどお手の物、いやお口の物だし、今、彼におれが求めるのはウェンディゴ憑きどもを蹴散らすことで屠ることじゃあない(雑魚に構っている暇はない)。その点、スューナの爪はともかく牙はその手の仕事には向かないから――噛みつく動作は、飽くまで獲物が一匹の場合のみ有効なのだ――相手を薙ぎ払える段平のほうが都合が良いわけだ。
スューナが爪と刃で雑魚どもを相手している間に、彼に跨るおれは全体を見通し、本当に狙うべき敵を見定める。だが仮に本体を探し出せたとして、その名前をどうやって聞き出すのかは――まだ思いついていない。あの魔女に問うても無駄なことだろう(畢竟、魔女などそういうものだ)。あるいは当初の予定通り、エンフィールドに装填された銀の矢のほうを使うことになるやもしれない。
意識を、正面に戻す。
そこで対面するのは、わらわらと、湧き出てくるウェンディゴ憑きども。……いったい、何匹いるのやら。ひとむら丸々、取り返しのつかない程に狂わせた呪力には恐れ入る。いよいよ以って、手早く片付けなければ、こっちの正気も危なくなるだろう。
おれは目を見開き、耳をそばだてる。灰色の射手の瞳と、エルフの長い耳が、本当の敵を探る。だが、解ったのは目の前の連中のなかにはいないということだけ。スューナの反応が、おれの感覚の正しさを裏付けている。
恐らく、やつは何処かから様子を窺っている。雑魚どもをぶつけ、こちらが消耗したところでお出ましという算段だろう。今この廃村にいるのは術師ばかりだが、あの手の人喰い邪霊にとって術師は脂が乗って実に美味であるとのことだ。御馳走を手をこまねいて見過ごすことはしないだろう。
だがウェンディゴは恐るべき邪霊だが、百眼物見がごとき千里眼の持ち主じゃあない。視力的にはヒトやエルフと大差はないだろう。つまり向こうからこちらが見える距離は、こっちにとっても見える距離であって、エンフィールドの間合いの内側だというこった。
――ウェンディゴ憑きどもが、一斉に雄叫びをあげる。
「スューナ!」
グルルと唸れば、白刃煌めかせ黒い巨狼は走り出す。
手当たりしだいに斬り裂き薙ぎ斃し、それでも迫る相手には鉤爪をお見舞いする。次から次にと、輩は襲いかかるが、我らは一歩も退かない。ただただ衆に寡を以って敵し続ける。
おれはスューナの死角から迫る輩に、エンフィールドの銃床を叩き込みつつ、眼と耳だけは本当の獲物を探り続ける。必ず、見ている筈だ、おれのことを。そして、射手たるおれは、自分を狙うものに対しても誰よりも何よりも鋭敏な感覚を持っている。
「――っ!?」
果たして、おれは感じ取った。
自分を見つめる視線。餌食を狙う血塗られた殺気――スューナも同じモノを嗅ぎ取ったか低く唸る。
連なった廃屋のなか、地面に這いつくばるような荒屋が並ぶ中で、ひときわ目を引く二階建て。恐らくはかつて酒場兼宿屋兼万屋であったろうソレの二階、締め切られた鎧戸の、僅かに破れた隙間から、真紅に妖しく輝く双眸ひとつ。
『――』
視線がぶつかりあった時、おれは確かに感じた。
単なる呪われた狂気に憑かれた者にはありえない、真に邪霊の宿った者のみが持ちうる、明晰にして邪悪なる意志の輝きを。
「書け! 記せ! 記録せよ! 牢記せよ!」
魔女アルカボンヌも屋根の上でそれに気づいたか、唐突に、狂ったような甲高い声で呪文を紬ぎ始める。
「しかして述べよ! 告げよ! 世に遍く在りて在らぬ風の精霊どもよ! 同類なれど同胞ならぬ、邪なる者の名を!」
おれとスューナの気配、魔女めの呪文に自分の居場所が悟られたことを、ウェンディゴも感づいたらしい。その走狗共の動きが、あからさまに変わる。遮二無二襲いかかるのピタと止めて、射線を塞ぐように群れなし陣を成し始めたのだ。
「東風よ! 西風よ! 南風よ! 北風よ! その名を呼べよ! その者が何者にあるにせよ! 男にせよ、女にせよ! 生き物にせよ、そうならざるにせよ!」
魔女の絶叫を背に、おれは一瞬悩んだ。逡巡した。鎧戸の裏の標的は、今にもその姿を隠さんとしている様子だ。ここで壁越しないし鎧戸越しに相手を穿ち抜くか、あるいはよりヤツの姿があからさまになるまで待つべきか否かに、惑った。今、ここから狙えば当たるも当たらぬも半々といった所だが、されどここを逃せばウェンディゴは身をくらませるやもしれぬのだから。ひとたび逃せば、次のチャンスはないかもしれない。だが、ここで一発撃って外した場合、再装填する暇はないだろう。それほどまでに、相手も数だけは多かった。
引き金に掛かった指を絞るか、絞らざるか、それが問題だった。だが、ウェンディゴ憑きどもは群れなし組みなし、肉の防壁を築きつつある。迷っている時間は、無い。
――『良し。援護しろ』
――『見ての通りさ。今度こそ死んでる』
ふと、脳裏を過る声。懐かしい声。
スツルームの魔法使いに、一切の躊躇いもなく挑んだ、本物の戦士の声。
おれは魔法はリノア先生から学んだが、戦い方は『あの男』から学んだ。
『彼』は決して、特別口数の多い方ではなかった(寡黙という訳でもなかったが)。声として教わったことは限りがあるが、しかし彼はその生き様を通しておれに失せぬ何かを刻みつけた。戦いに勝って生き残る為に何が必要なのかを、そして本当の勇気とは何なのかを。
勇気とは前進することであり、そして、前進せざる者に勝利はないのだと。
「――ふっ!」
揺れるスューナの背中で、おれは息を止めてエンフィールドを構えた。
揺れるのは視界のみならず、標的もだった。やはりというか、やつはこちらの照準から逃れるべく、鎧戸から身を離してしまった。だが、僅かに見えた残像、深紅の瞳の軌跡から、動いた向きは解っている。だがそれも、この瞬間に限ったこと。
今しかない。おれは、引き金を、弾く。
心地の良い衝撃が銃床に当てられた肩と頬とにぶつかり、漣のように全身へと広がる。
最初の雷鳴が、銃声に唱和する。稲妻が闇を照らす中を、銀の矢はキラキラと光りながら空気裂いて走る。
ウェンディゴ憑きどもが跳び上がり、山を成し、射線を遮らんとするが、無意味だった。 薄紙を破るように肉の壁を貫き銀の矢は突き進み、乾ききった土壁をぶち抜いて、その向こう側の標的へと突き立つ。
――絶叫。
――雷鳴。
二度目の稲妻と、人ならざるものの叫びが合わさり、耳を劈かんばかりだった。
俄に驟雨が降り出すのと、腐った藁葺き屋根を突き破って、『ソレ』が姿を現したのは、ほぼ同時のことだった。三度目の雷と降りしきる雨粒とが、ウェンディゴの姿をあらわにする。
「――ッッッ!?」
おれさえもが、その姿のおぞましさには、思わず息を呑んだ。
強いて言えば、それは鹿に似ていたが、しかし本質的に動物とは異なる何かだった。
頭には雄のヘラジカに似た巨大な角が生えてはいるが、細長く尖った無機質な顔は蜥蜴のようでもあり、波打つ毛の生えていない場所は、まるで肉を削ぎ落としたあとの骨のように、気色悪いぐらいつるりとしていた。逆三角形の上体をしていて、その腕に鉤爪生えた手は不自然なほど膨れ上がっているが、相反するように腹や腰は病的に細く、それでいてその両足は地均し厹――象に似た獣、オリファントのことだ――が如く、末広がりの円錐形で、特にその蹄もない両の足裏は、扁平でいて雨粒と雷光なくば不可視であったろう呪術の火に覆われていた。
――再度、絶叫。
ウェンディゴは苦しみ藻掻き、風にのってこの場より逃れようとする。
おれは弾の切れたエンフィールドを左手に持ち替え、空いた右手でホイールロックを抜き放とうとした。装填されているのは通常の魔弾だが、それでも動きを一時的に止めるぐらいの役には立つはずだ。
「その名を述べよ風の精霊どもよ! 代償と引き換えに、醍醐なるものと引き換えに、そのものの名を呼び放て!」
だがアルカボンヌの呪文が、おれの右手を留めさせる。
何かを雨降る空中に撒く音――恐らくは酒だ――が背後より響き、いよいよ完成した魔女の呪文は、風の精霊どもを突き動かしたのだ。
『――』
ひとならぬ囁き声が、おれの耳元で木霊する。
姿なき精霊が、あのウェンディゴの名前を告げる。
おれはホイールロックを手に取るかわりに、左手に縄で繋いだ酒筒の栓を抜いて、その名を高らかに呼んだのだ。
「―― I - T - H - A - Q - U - A !」
イタクァ、あるいはイトハカだろうか。
いずれにせよエルフの喉には著しく発音し辛い名前を、何とか絞り出すように言い放てば、空中のウェンディゴが、ほとんど風に溶けた透明なる姿の中で唯一色を宿した部分、その鬼灯みたいな赤い二つの瞳でおれの方を見た。
「 I - T - H - A - Q - U - A !!」
だからより大きな声で、もう一度その名前を呼んでやった。
より大きな絶叫と共に、その朧な姿がさらに掻き消えるように歪む。
滝のように怒涛と降り注ぐ雨水すらをも吹き飛ばしながら颶風は渦巻き、旋風となって荒れ狂う。メイルストロームにのまれたかのようになすすべもなく、イタクァ、あるいはイトハカという名のウェンディゴは酒筒へと吸い込まれ、完全にその姿が中へと消えた所で栓をした。
――断末魔。
耳が壊れるかと思うほどの、断末魔の連なりは、哀れなウェンディゴ憑きどもが一斉に発したものだった。狂気と呪いに駆られ動いたが為の反動が、その術が解けたと同時にやってきたのだろう。
「……」
おれは改めてその有様を見渡し、柄にもなく少々ゾッとした。
ついさっきまでおれたちに襲いかかってきた連中が残らず斃れ、僅かな痙攣を除けば、最早ピクリともしない。家々の間を、村の通りを、まるで埋め尽くすように屍が山をなしている。激しい雨は血や土と混ざり合って、地面を赤黒く染めていく。あるいは冥府というのはこういう風情なのかもしれない。
だが今は死屍累々たる有様だが、いずれこの雨が血も肉も腐らせ、虫や獣がそれを喰らい、野ざらしになった骨も、いずれ吹きすさぶ風を前に朽ちて消えていく。
内戦が始まり、邪霊どもが地に撒き散らされる前に、確かにあっただろう、この村の営みも、想い出も、何もかも消え失せてしまう――それはあるいは、おれがずっと前に後にした、あの懐かしの故郷が、辿っていたやもしれない姿だったから。
「いやぁ大戦果! 大戦果! 見事ウェンディゴを捕らえてみせけるとは! 感服よな! 感服よな!」
だがそんなおれの感傷も、いつの間にか屋根の上から降りてきていたアルカボンヌの場違いな調子に砕かれる。振り返り見れば、どこからいつのまに取り出したものか、傘をさし――見事なまでに真っ黒な蝙蝠傘だ――その下で嗤う魔女の姿がある。おれも今更ながら濡れ鼠になっている自分に気づいて、ポンチョの下から折りたたんでいた帽子を取り出して――バイカケットと呼ばれる、鳥の嘴を思わせる形をした帽子だ――被り、問う。
「なんで助けた?」
「ん?」
「とぼけんなや。死神殿の腕の見せどころだなんだってくっちゃべってた癖に、風の精霊どもになんかしたろ」
「んん?」
「いくら同じ仕事を請け負った身の上同士たぁいえ、余計な貸し借りはゴメンだぜ。何が欲しい?何を引き換えにすりゃあいい?」
「んんん?」
「聞けよ」
相変わらずの巫山戯た態度に、話がまるで進まず思わず舌打ちをくれてしまう。こんな気色悪く胡散臭く胸糞悪い輩に借りをつくるなんざ真っ平御免なのだ。何が狙いか知らないが、気の進まない取引駆け引きもさっさと済ませてしまうに限ると言うに。
「とりあえず、返すぜ。テメェんだから」
おれはアルカボンヌへと、ウェンディゴの入った酒筒を放り投げようとするが、それすらも魔女の細長い手が傘の下からニュッと伸びてきて制してしまう。
「死神殿の名で封じた以上、ソレは死神殿のものなりければ――まぁ邪霊をいかに使いこなすか、かのリノア女史の内弟子の腕前が楽しみでありんす」
……やはりこの女は先生について何か、深い所まで知っているらしい。
だが先生との会話の中でこんな胡乱な女についての話があった記憶はないし、先生の性格的に、こんな女についての話をしなかったというのがありえないと思うのだが。
「御託はいいから、とっとと受け取れ――」
まぁこの女相手に問いただしても煙に巻かれることだけは確かだから、ウェンディゴ入りの酒筒だけは無理矢理にでも渡してしまおうとするが――こんなけったいなモノは持ち歩きたくなどない――、おれはそれすら果たせなかった。なぜならだ。
「ほいな!」
「――ってうおっ!?」
唐突に、本当に唐突に、出し抜けに、魔女めは蝙蝠傘をおれのほう目掛けて投げつけて来やがったんだ。視界が黒に覆われ、慌てて跳ね除けた時には、その姿は忽然と、煙のように消え失せてしまっていたのだから。
「……『早い足』、ねぇ」
地面に落ちて転がった傘に、雨が降り注ぐさまを見つめながら、おれは改めて、そのアダ名を呟いた。
得体のしれない女ではあるが、少なくともその通り名には嘘はないらしい。
その後、暫くして雨はやみ、パラシオス師は無事ゴーレムの修理に必要な諸々を見つけて船に帰ることができた。ノストローモ号では一足先に戻ったらしいアルカボンヌが掌を振ってきたが、無視する。
ウェンディゴを封じた酒筒は一瞬、河に投げ捨ててしまおうかとも考えたが、色々と問題も起こりそうだから、止めた。とりあえずは雑嚢の一番奥底にしまっておくことにする。
修理が終われば、雨で若干水かさと濁りを増した大河へと、再び船は漕ぎ出していく。
決して明るいとは言えない、なにものが待つとも知れない、前途へと向けて。
やや遅れましたが明けましておめでとうございます




