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不思議の国

 ――宇宙に飛び出した『ドリンク・ミー』は、十二日ほど挑戦を続け、最終的には挫折した。

 彼はできる限りのことをした。体内の魔力を惜しみなく使い、押さえつけた呪いの力すら消費して、自己を拡張していった。そしてついには、その末端を燃え盛る太陽に到達させるところまでいったのだ。この時点で、彼は半径一億五千万キロメートルにもなる巨大な球状の空間に成長しており、その支配領域は恒星系を四分の一以上飲み込んでいた。

 しかし、それが限界だった。

 自分を拡張することにも、自分の大きさを維持することにも、多くのエネルギーが必要なのだ。区切られた境界の中に満ちることができれば、休憩して力を回復させることが可能だが、全方向が開放された宇宙空間のただ中にあっては、それも叶わない。

 人間にたとえると、食事も睡眠も取らずに、延々とマラソンを続けているようなものだ。長続きするわけがないし、具合が悪くならないわけもない。

 魔力が枯渇すると、彼の成長は目に見えて遅くなった。それでも、宇宙全体に満ちるという夢は諦めきれず、のろのろと、カタツムリの這うような速度で、先へ、先へ、前へ、前へと進んでいく。まだいける。もっと広がれると、疲れ切った心に自ら言い聞かせながら、伸ばせる枝を伸ばしていく。

 だが、それでも終わりは来た。ある瞬間に、ぴたりと拡張が止まり、巨大になり過ぎた彼は、身じろぎすらできなくなった。

(まだ、もう少し――せめて、次の星まで――)

(う、うううっ――だ、駄目かっ……)

 持てる力をすべて使い果たした彼は、とうとう意識を失った。

 それと同時に、風船から空気が抜けるように、彼の支配領域も縮み始めた。爆発的な速度で膨張した反動だろうか、収縮も急速だった。宇宙を掴もうとした大樹は、枝葉から朽ち、崩れ、萎びて――もとあった場所へと、還っていく。



「さあさあさあさあ、ドジスケさん! 今日も気合いを入れて、いばらの塔に向かいましょう!

 こないだの調査のお仕事で、ローズリーフをたっぷり稼げましたし……いっそ、まとめて複数の階層を攻略してみますか? まだ陽が高いですから、効率良くやれば、夜までに二、三層ぐらいは突破できるかも知れません!」

「い、嫌だーっ! 今日はもう、石材拾いのお仕事を頑張ったじゃないですか! 午後はゆっくり休みましょうよ、姐さん!」

「だーめーでーすー!」

 雲ひとつない青空の下で――赤の女王の城の、美しい薔薇が咲き誇る花園の中で――情けなく震えた男の声が逃げ惑い、それをはしゃいだ様子の少女の声が追いかけ回していた。

 言うまでもなく、騎士ドジスケと相棒のエインセールだ。

 この競争で、ドジスケが勝利を掴むことはまずない。地面を走るしかない人間と、空中を立体的に移動できる妖精とでは、機動力に差があり過ぎるのだ。遠からずドジスケは、頭の上にエインセールを装着した状態で、トボトボといばらの塔に向かうことになるだろう。

 そんな、勝敗のわかりきった鬼ごっこを、アリスがけらけらと笑いながら眺めていた。彼女はティー・テーブルに着いてくつろいでおり、そのしなやかな指は、当然のようにティー・カップを持ち上げている。今日の紅茶は爽やかなオレンジ・フレーバーで、薔薇の香りが強い花園の中にあっても、けっして埋もれることなく、上品に個性を主張していた。

「それ行け、やれ行け、エインセルセルー! ドジスケくんも負けるなー! ダッシュダッシュダーッシュ!

 ああっと、そっちにはつる薔薇の生け垣があるよー? うまく飛び越せるかなー?」

「えっ、え、嘘でしょうっ!? え、ええい、こうなったら、イチかバチか……とうっ! ……あっ、やばっ、あいたたたたたー!」

 背の低い生け垣を飛び越え切れず、トゲだらけのつる薔薇の中に倒れ込むドジスケ。その背中にエインセールは着地し、えっへんと胸を張った。

「やっと捕まえましたよー、ドジスケさん! さあさあ、覚悟を決めて塔に行きましょう?」

「ひいいっ、か、勘弁して下さい! あそこ、危険な魔物がいっぱいいるじゃないですか! あたしごときの実力じゃ、あっという間にあの世行きですよ!

 も、もっと平和なお仕事をいくつもこなしてですね、安全に塔を登れるだけの実力を身につけてから挑むのでも、遅くはないんじゃないでしょうか!?」

「いえいえ、大丈夫ですって! 充分ですって! もういい加減、自分がそれなりに戦えるってことを認めて下さいよ! ドジスケさんが本気になれば、大抵の魔物なら、ダース単位で襲いかかってきてもへっちゃらじゃないですか!

 今のあなたに足りないのは、戦闘能力じゃありません! 勇気です! 心の強さです! これは、苦手だなーって思うものにあえて立ち向かうことで鍛えられます! 嫌いな食べ物でも、何回も食べているうちに慣れてくるように、ドジスケさんも根気良く塔に挑み続けていれば、きっと平気になれますよ!」

「あー! あー! 他ならぬ姐さんが、苦手なものに立ち向かえと仰いますかい!? 親切心からふるまわれたゼリルー汁に動揺して、あたしやアリスさんに必死で助けを求めた姐さんが!?

 あの時の姐さんこそ、もうちょっと勇気を持ってもよかったでしょうよ! あたしの耳に姐さんの声が届いた時は、どんなとんでもない危険に遭遇したのかと心配したのに……いざ聞いてみると、怖がった対象がゼリルー汁だなんて! 大慌てで助けに行ったこっちが、まるで馬鹿みたいじゃないですか! 姐さんも足りてないですよ! 勇気!」

「あわ、わ、そ、そそそそれを言うのは反則ですよぅ! 実際、恐ろしかったんですから、仕方ないじゃないですか! ゼリルーを搾るんですよ!? あのゼリルーを!

 そんなに言うなら、ドジスケさんもゼリルー汁を飲んでみればいいんです! 得体の知れない忌避感に、背筋がぞーっとしますから! 喉越しがひやっとしてて、ぬるっとしてるんですよ! ひやっとしてて、ぬるっと! わかりますかこの恐怖!」

「わあああ! やめっ、背中の上で地団駄踏まないで下さい! な、生意気言ってすいませんでしたあぁっ! 謝りますからっ、だ、だから踏むのやめ……つ、つる薔薇のトゲが、つる薔薇のトゲが顔に刺さる! いた、いたたたたー!」

「仲良いねえー、ふたりともー」

 ドジスケとエインセールの、あまりにも低次元な言い争いを肴にして、アリスはゆっくりと紅茶を口に含む。

 いつもの光景である。

 フックスグリューンの空き屋敷で起きた連続失踪事件は、行方不明になった冒険者たち全員の帰還という、最も良い形で解決した。

 ノンノピルツの人たちはノンノピルツへ、ルヴェールの人たちはルヴェールへ。それぞれ、住み慣れた家へと帰っていった。

 もちろん、ドジスケとエインセールも、アリスの待つ赤の女王の城へと凱旋した。もっとも、特別なものでも何でもない仕事をひとつ片付けただけなので、音楽隊の鳴らすファンファーレだとか、馬車に乗せられてのパレードだとかいった、わかりやすい歓迎はなかったが。

 事件以前と以後とで変わったことを、強いて上げるとするなら――アリス姫の寝室に、立派なマナガルムの毛皮でできたファーが敷かれるようになったことぐらいだろうか。ルヴェールの猟師、『狼狩り』のハンス・ダンプトン氏が、救出してくれたお礼として贈ってくれたものだ。他の被害者たちも、あれこれとお礼の品を届けてくれたが、そこはその日暮らしの冒険者たちのこと、森で獲れた動物の肉だとか、果物の詰め合わせとかが多かったので、三日と経たずにアリスやドジスケの胃の中に消えた。二十日以上経過した今も残っているのは、やはり、なめらかな手触りのファーだけである。

 フックスグリューンの屋敷は、今もなお残っている。誰も近付かないようにと、クエスト協会の方から全国の冒険者たちに通達は出されているが、『ドリンク・ミー』が退去した際に発散した嵐のようなエネルギーのせいで、屋根ははがれ、窓も扉も砕け、柱や梁も折れと、見る影もなくボロボロになってしまっているので、望んで入り込もうとする者もいないだろう――誰かに言われるまでもなく。

 もう二、三年もすれば、動物と植物と雨風が、その場所に屋敷があったという事実自体を、過去の影の中に葬り去ってしまうのではないだろうか。

 事件に巻き込まれた人々は、問題なく常態に復し、物質的な名残も、時とともに失われつつある。

 すべては、一時的にぱっと咲いた、花火のような夢だった。ドジスケが、エインセールが、『ドリンク・ミー』が、冒険者たちが、その瞬間瞬間を必死に生きたことは確かだ。だがそれも、長い長い地上の歴史の中では、ほんの一章、いやいや、一ページ程度のものに過ぎないのかも知れない。

 アリスは考える。自分の眺めた、刹那のエンターテイメントを。人々の営みを。生ける者の悲哀と、喜びと、力強さと、儚さを。

 それは夜空の星のように、ちっぽけで、弱々しくて、それでいて、とんでもなく美しい。

「さあさあ、行きますよドジスケさん! 行動が早ければ早いほど、帰れる時間も早くなるんですから!」

「うううう。夜暗くなる前に、帰れますかねぇ……」

 ドジスケとエインセールの争いは、結局いつも通りに落ち着いた。気合いの入ったエインセールの後ろを、うなだれきった様子のドジスケがついていく。そんな彼らの出発を、アリスは「いってらっしゃーい」と気楽に見送る。

 薔薇の園の中でひとりきりになった、サイケデリックで享楽的な姫は、まだ充分に熱い紅茶で唇を湿して、ふと呟いた。

「……アリスが、物語の主人公だって言うんなら。彼らも、彼らの物語の主人公なんだろうね。

 この世には、小さな物語たちが、星屑みたいにたっくさん散らばってる。人それぞれの人生という形で。城や街や、国や世界は、それらをまとめた途方もなくぶ厚い書物かな? アリスの目の前で、あるいは、まったく知らないところで、いくつものお話が展開してる。

 見ているだけで面白い。聞いているだけでシビれる。世界の一ページは、一エピソードは、あっという間にめくれて、過ぎ去っていく……でも、まだまだ先にはたくさんの、アリスの知らない物語があるんだ。けっして飽きることがない、新しい何かがいつでも待っている――それって、なんて素晴らしいことだろう!

 ねえ、ルクレツィア……あなたは良いのかな?

 そんな場所で、すやすや眠り続けてて、本当に良いのかな?

 この世には、面白くて愉快で、ヘンテコな物語がたくさんあるんだよ? アリスを感動させて、笑い転げさせるような、ステキな物事が、星の数よりも無数に!

 それを、ず――――っと眠ってて見逃すだなんて、もったいないじゃない……ねえ、そうは思わないの?」

 アリスの青い瞳は、教会の街アルトグレンツェの方角を向いていた。

 彼女には、そこにそびえ立ついばらの塔、シピリカフルーフが――あるいは、その中で長き眠りについている聖女、ルクレツィアの影が見えているのかも知れない。

「……んん?」

 中空を見つめていたアリスの目が、すっと細められる。遠くにあるものを、集中して見ようとする時にする目つきだ。

 彼女は、青く晴れ渡った空の中に、不自然なものを発見したのだった。雲ではないし、鳥でもない。小さな小さな、染みのような異物。

 それは、非常に緩やかな速度で、アリスに近付いてきていた。いや、正確には、ふわーり、ふわーりと、落下してきていた。

 かなり高い場所から降下してきていたため、最初は何なのかわかりにくかったが、距離が縮まれば徐々に輪郭がハッキリしてくる。それは、落下傘だった。白地に赤い水玉模様の、小さな落下傘。傘の直径は、せいぜい三十センチぐらいだろう。

 そして、その傘の下には、小さな薬ビンがぶら下がっている。中身は、空っぽのように見えた。何もない空間を内包した、薬ビンという密室が、遠い遠いお空から、ゆっくりと舞い降りてきている。

 それは、クラゲが泳ぐような動きで空中を流れて、最終的には、アリスの目の前のティー・テーブルに、コトン、と着地した。

 天板の上で、きれいに直立したビン。その周りに布製の傘が、くたくたと広がり、折り重なる。

「……やぁ、おかえり。前に見た時に比べて、ずいぶん可愛いサイズになったねぇ」

 アリスはチェシャ猫のようにニヤニヤしながら、薬ビンを指先でつついた。

 薄いガラスの壁の中で、空間そのものがきまり悪げに身をよじる。言うまでもなく、それは宇宙へ飛び出した『ドリンク・ミー』のなれの果てだった。魔力をすべて使い果たした彼は、結局小ビンひとつ分の容積だけをギリギリで確保して、地上に戻ってきたのだ。

「どうだった、宇宙は? 世界で一番広大で、空っぽな密室は?

 その神秘の端っこを、キミの長い手は掴めたのかな?」

 アリスのその問いかけに、『ドリンク・ミー』は、ビンの内部に小さな付箋を出現させることで答えた。

《無理》

 紫色のインクで書かれた、たったひと言。それが彼の冒険のすべてであり、結末であった。

「だろうねー」

 そう言うアリスの表情は、喜ばしそうでもあり、残念そうでもあり、さらに言うなら、期待に輝いているようでもあった。

(うん、それでいい。きっと、それで良かった)

(『ドリンク・ミー』が全宇宙を掌握できたなら、限りのあるその空間の端がどうなっているのか、聞かせてもらいたいと思っていたけれど……その望みが叶わなかったのは、少しだけ残念だけれど……別に良いんだ)

(簡単に掴めちゃ、面白くない。謎も奇妙も、不思議も異様も、なかなか答えが出せないからこそ、愉快なんだ。想像する余地が残されているって、ステキなことだよ)

 アリスは、もう一度空を見やった。

 彼女の知性は、好奇心は、想像力は、有限ではない。いつ、どんな時でも、エーテルを掻ける羽根を生やして、深く高い星の海へ飛び立っていける。

 ただ、そうまでしても、すべてを掴むことはできないぐらいに――世界は広い。

 アリスは紅茶のカップを置き、目を閉じた。光を遮断した世界には、複雑な甘い香りがあり、風の密やかな囁きがあり、日光の柔らかい暖かさがあった。

 まるで、土手の上で、誰かの膝に頭を乗せているような、そんな穏やかさに包まれて――彼女は自分が目を覚ましていて、不思議の国で暮らしているのだな、ということを実感する。

 退屈な現実など、彼女にはない。目を開いても、世の中は何も変わらず、魅力的だった。

 果てしない世界に潜むヘンテコを見い出し、好奇心によって手を伸ばし、掴み取って知ろうとする。冒険に果てはないし、探究にも果てはない。だからこそアリスは、アリスたり得る。

 ひゅう、と、一陣の強い風が吹き、薔薇の花園を一瞬だけ震わせた。数枚の赤い花びらが散らされ、そのうちの一枚が、高く巻き上げられたのち、アリスの髪の上に落ちる。

 彼女はそれを、自分の手で払いのけた。自分自身の少女時代を、幸福な日々のただ中を、アリスは今生きている。


〈了〉

【夜空の星より掴めない】、これにて完結でございまする(*´ω`*)

最後まで読んで下さったあなた様に、深く深く感謝を。


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