この世で最も広い場所
お、思いのほか長くなってしもうた……。
読みごたえのなるエピソードになった、と思いたい(´・ω・`)
「まず、今のうちに……ふたつほど、アリスさんに確認しておきたいんですがね」
フックスグリューンの屋敷の入口に立って――わずかに開いた、両開きの扉を前にして――ドジスケは言った。
「まず、『ドリンク・ミー』は、自分で呪いに打ち勝つことはできないんでしょうか?
呪いって、要するに毒みたいなもんでしょう。普通の生き物であれば、体に有害なものが入ってきたら、抵抗力が働いて、追い出そうとしますよね。抵抗力が勝てば、健康を維持できて、有害なものが勝てば、病気になる。
奴さんは、そういう抵抗力のようなものは持っていないんでしょうか? ごく微量でさえあれば、呪いに抵抗できるような。そういう体の働きは持っていないんでしょうか?」
「んー、しょっぱなから難しいこと聞くねー」
問いかけられたアリスは、鏡の中で、うにゅーっと首を傾げてみせた。
「彼は空間生物だから、フツーの血と肉でできた生き物の常識を当てはめるのは難しいよー。でも、そうだねぇ、今までに起きた出来事から想像するに、高い確率で呪いへの抵抗力は持っていると思う。
抵抗がまったくなかったら、あっという間に理性が全滅してるはずだからね! 彼、縮小魔法を問題なく行使しているでしょ? 最低限の理性は残っているって証拠だよ。魔法は理の顕現であり、世界の法則を扱うものだから、自我を完全に失っていたらとても使えないの」
「そうなんですか? あたしの知る限り、魔物たちの中にも、けっこう魔法っぽいものを使ってくる奴がいるんですが……」
「そういうのは、魔物の中でも精神力の強い連中だねー。『ドリンク・ミー』も、たぶん同じカテゴリに入るよ。呪いを、毒と同じに扱うならー……うん、ごく微量なら、打ち勝てていたかも知れない。でも……ここから見る限り、あの屋敷ってかなり大規模な呪い溜まりみたいだからねー……今さら自力で呪いに抵抗しろっていうのは、ちょーっと無茶ぶりが過ぎるかなー」
アリスはどうやら、呪いを視覚的に捉えることができる力を持っているらしい。黒く、冷たく、邪悪なものが渦巻き、うずくまっている姿が見えるのか、彼女はその青く澄んだ目を、不快そうに細めていた。
対するドジスケは、その回答に満足したのか、小さく頷いている。
「わかりました。では、次の質問をさせて下さい。『ドリンク・ミー』と、意思の疎通は可能なんでしょうか? ええと、単純に、会話はできるのか、って話なんですが。
アリスさんの話しぶりからすると、人の言葉は通じるみたいですが……向こうからは言葉を返してくれない、ということになると、少々厄介でして」
「うんー? まあ、できるっていえばできるよー。何しろ、最初にアリスに接触してきた時に、『私を飲んで』って言葉をよこしてきたほどだからねー。
声を使って話し掛けてはこないけど、タグのついた薬ビンだとか、派手にデコレートされたケーキとかを出してきて、意思を伝えようとしてくることはあるかな。薬ビンのタグの場合は、インクで直接メッセージが書き込まれてるだろうけど……ケーキの場合は、トッピングの並び方が文字になってたりするから、ちょっと読みにくいかも。
でも、それがどうかしたのー?」
「いえ。説得するにしろ、騙すにしろ、向こうにも意見を言ってもらった方がやりやすいので。こっちが一方的に喋りまくったら、相手は警戒するばかりになって、提案を受け入れてくれません。
会話ができるなら、きっと何とかなるでしょう。いえ、何とかします。何とかできなきゃ、困りますから」
そう、何とかしなければ、困ったことになる。ドジスケ自身が、ではなく、彼の相棒のエインセールが。
悲痛な声で助けを求めてきた彼女が、今現在、どのような状況にあるのかはわからない。どんな危機が迫っていて、あとどれくらい持ちこたえられるのかもわからない。
ならばこそ、早く手を差しのべる必要がある。
不確実でも、オッズのわからない賭けであっても、早さこそがひたすらに求められる。
それで結果を出せるかどうかどうかは、ドジスケ自身の器量次第。
「今回は、逃げ出せそうにない、と……ならば是非もなし。気合いを入れて挑みましょう」
二、三度深呼吸をして――パン、と自分の頬を、強めに叩いて――覚悟を決めると、屋敷の扉に手をかけ、大きく開け放った。
「あらためて失礼します、この屋敷の主よ。
虚空を満たす、見えざるお方よ。
あなた様のお友達である、アリス姫の使いとして参りました。どうか、再びお目にかかることをお許し下さい」
へりくだった言葉とともに、ドジスケの戦いが始まった。
■
激しい衝動が、魂を焼くように渦巻いている。神経というものが存在していないはずなのに、かゆみに近い不快感が、常に全身を蝕んでいる。
そんな中で、冷静な思考などできるはずがない。凶悪な呪いの力によって、『ドリンク・ミー』と名付けられた生物の理性は、刻一刻と破壊されつつあった。
もともとの彼は、高い知性を持った存在である。人語を理解し、文字だって扱える。人間とコミュニケーションを取ることもでき、他者をからかって楽しむという趣味も持っていた。もちろん、自分にとっての損得を判断する能力もあったし、長期的に見て損である、と思えたなら、目先の利益を我慢する、ということもできた。
そんな思慮深さは、もう見る影もない。
自分の中に入ってきた人間たちを、機会あるごとに縮小し、排除するようになった。人間をからかいはしても、敵対はせず、同じ社会に暮らす仲間として尊重していた彼が、だ。
人以外にも、自分の中にあるあらゆるものを、縮小して排除した。テーブルも椅子も、ベッドも鏡も、書棚も絵画も絨毯も。美しい調度品などは、自分を飾るアクセサリーとして残すようにしていた、美意識の高い彼が、だ。
なぜ、こんなことになったのか――残されたわずかな思考能力を、必死の思いで維持しながら、『ドリンク・ミー』は考える。
一番最初の、そして最大の失敗は、このフックスグリューンの廃棄された屋敷に引っ越してきてしまったことだ。
広い空間を好む彼にとって、空き家というのは非常に魅力的なものだった。実際、やって来た当初は、広く、傷みも少なく、窓や扉の密閉性も高いこの建物を、大いに気に入ったものだ。石壁や床によって閉ざされた内部空間全体を満たしながら、彼はとてもくつろいでいた。
ただ、そんな素晴らしい屋敷にも、ひとつだけ致命的な欠点があった。屋敷全体に、呪いがたっぷりと充満していたことだ。
目に見えず、匂いもなく、しかしいつの間にか理性を侵食していく、恐るべき呪い。その得体の知れない力は、大人しい無害な生き物でさえも、凶悪で有害な魔物へと変えてしまう。『ドリンク・ミー』も、その悪影響を受けずにはいられなかった。
まず、自分以外の生きとし生けるものが鬱陶しく感じるようになり、自分の内部に何者かが入ってくることが許せなくなった。
すでに、縮小魔法で十人の侵入者を消した。妖精を含めれば、十一人。魔物や動物、昆虫を含めれば、数え切れないほどだ。
自分の中を空っぽにしておきたい、広く純粋な空間を占有したい。そんな欲望だけが肥大化していく。他の気持ちは、呪いによって麻痺し、蹴散らされる。欲望のままに動くことは、社会をないがしろにし、敵に回すということを意味するが、今の彼は、そうなることをあえて避ける気はなかった。いや、避けるだけの理性を、すでに失っていた。世界中にはびこる魔物たちと同じように。
屋敷での失踪事件を重く見た人間たちが、調査員を派遣してきても、彼はまずいとは思わなかった。
ただただ、自分の中に無遠慮に足を踏み入れてくる者たちを、不愉快に感じるだけだった。
『ドリンク・ミー』の縮小魔法は、密閉された空間でしか使えないという制限があった。なのに、彼の支配する屋敷を訪れる人間たちは、なかなか密室の中に閉じこもろうとしてくれない。つまり、そんな条件があったにも関わらず消された者たちは、世間一般の人々の平均より、ずいぶんと運が悪かったと言える。
消されなかった、消すことのできなかった多くの人間たちを、『ドリンク・ミー』は歯噛みしながら見つめていた。そして、侵入者たちが出ていけば、指に刺さったトゲが抜けた時のように、ホッと満ち足りた気分になった。
クエスト協会の依頼を受けて、屋敷を調べに来たドジスケとエインセールのコンビは、特別に鬱陶しいトゲだった。
何時間も飽きもせずに、彼の中を引っかき回すようにうろつく。開けた扉はきちんと閉めない。食事はするわ、一晩寝るわ、傍若無人にやりたい放題だった。
だから、ちょっとした隙を突いて、エインセールを縮小できた時は、「やった!」という気分になれた。会心の一撃、クリティカル・ヒットである。さらに、相棒を失ったドジスケが、狼狽して屋敷を出ていったのも、見ていて胸がすっとした。
正常な精神状態の彼であれば、そんな風には思わなかっただろうに。
ドジスケの慌てぶりを見れば、普通なら――そう、普通なら――「ちょっとやり過ぎたかな」と、わずかにでも罪悪感を覚えていいはずだったのに。
ただの爽快感しか、彼の中にはなかった。
それを不自然に思わないほど、彼は深刻に呪われていたのだ。
思考能力はまだ、いくらか残っているが、それが失われるのも時間の問題と言えた。
だからこそ。
そうなる前に、彼に勝負を挑んだドジスケは、非常に幸運だった。
『ドリンク・ミー』が完全に理性を喪失し、会話もできない状態になっていたら。ドジスケは絶対に、目的を達することができなかっただろうから。
ドジスケは、できる限り丁寧に――商人のように揉み手すらしながら――薄暗い、空っぽの屋敷の中に向かって語りかける。
「先ほどは大変失礼しました。あなた様がすでに、ここに住まわれていたというのに、挨拶もなく敷居をまたいでしまいましたことを、深くお詫びいたします。
我が主であるアリス姫から、あなた様のことをうかがいました。その上で、注意も受けました。知らぬこととはいえ、人様の領域の中に勝手に入ったことは褒められないと。誠意を持って、頭を下げてきなさいと。いやはや、まったくその通り。あたしときたら、無知で無教養な田舎者でして、知らず知らずのうちに人様に無礼をはたらいてしまうことが少なくないのです。このたびのことにしましても、床に膝をつけて、頭を下げたくらいで済むものかどうか。ただ、できましたら、そのう、この謝罪だけでも受け取って頂きとうございます。あたしは、あなた様に害意があったわけではないのです。敵対したくもありません。もし、もしですよ、あたしの不調法のせいで、あなた様とアリス姫の友情にひびが入ったら――などと考えると、とてもつらく、いたたまれない気持ちになるのです。どうかどうか、アリス姫のためにも、寛大なお心であたしの蛮行をお許し頂けないでしょうか」
一度立ち去りながら、しかし引き返してきた邪魔者の言葉を、『ドリンク・ミー』は苛々としながら聞いていた。
アリス姫という名前を聞いて、残された理性がわずかに懐かしさを覚えたが、それもすぐに激情によって塗り潰される。今の彼にとって重要なのは、あくまで自己の拡張と純粋化。自分にちょっかいを出してくる者は、礼儀正しかろうが、横柄だろうが、顔見知りだろうが、見ず知らずだろうが、等しく邪魔者以外の何者でもない。さっさと扉を閉めて、遠くへ行って欲しかった。
しかし、そんな『ドリンク・ミー』の内心など、まるで察していないかのように、ドジスケはまだしゃべり続けている。
「あなた様もお忙しいでしょうから、あまり長々と言葉を連ねて、貴重なお時間を奪うようなことは控えとうございます。ただひと言、許すとさえ言って頂ければ、すぐにでも立ち去りましょう。
アリス姫からうかがったところによると、あなた様は唇や舌を持たない虚空でありながら、魔法でいろいろな道具を出現させて、我々人間と会話をすることが可能だとか。どうか、この卑しいあたしに、お言葉を受ける栄誉をお与え下さい。魔法が使いやすいよう、これからこの扉を一度閉めます。お許し頂けるなら、どんなに短くてもかまいません、どうかお言葉を。
お許し頂けないならば、遠慮なくそう仰って下さいませ。このドジスケ、お慈悲を頂けるまで、この扉の前で黙して座し、頭を下げ続けましょう。さあ……扉を閉めますよ……よろしいですね……はい、閉めた……」
ドジスケの手で大きく開かれた玄関扉は、同じ手によって、ぱたんと閉められた。
その時、『ドリンク・ミー』が取れる行動は限られていた。できれば、鬱陶しいドジスケのことなんか無視したかったのだが、扉の前でずっと座り込まれたりするのは、迷惑以外の何ものでもない。
扉が閉まり、屋敷が密閉され、魔法が行使できるようになると、『ドリンク・ミー』は不本意ながら、ドジスケの言う通りにした――魔法を使って、玄関扉のすぐ内側に、メッセージを用意したのだ。
「いーち、にーい、さーん……もうそろそろ、いいですかね? 開けますよー……おっ! これは!」
十秒ほどして、そろそろと扉を開けたドジスケの視界に、求めていたものが飛び込んでくる。
小さくて透明な、ガラス製の薬ビン。薬品は入っていない、ただのビンだけが床に置かれていた。
しかし、その口の部分には、紙でできたタグがくくりつけられている。それを見たドジスケは、快哉を叫びたくなった――(【不思議の国のアリス】と同じだ!)と。
大好きな本の内容と同じ光景に遭遇するというのは、読書家にとっては見果てぬ夢である。その夢が、目の前で叶っている。この時ばかりは、ドジスケも騎士の仕事をしていて良かったと思った。
彼はビンを拾い上げ、タグに書き込まれているメッセージを読んだ。
《許す》
《だから、疾く立ち去れ》
《私は、この屋敷の中、屋敷の外の区別なく、周囲を人間がうろつくことを好まない》
《疾く去りて、アリス姫にその旨を伝えよ》
それは、紫色のインクで書かれた、殴り書きのような荒々しい文字だった。
だが、意味はちゃんと通る。文章を考えるだけの知性が、まだ残っているのだ。それを確認することができたので、ドジスケはホッとすると同時に、表情に出すことなくほくそ笑んだ。
「おおっ! ゆ、許して下さるのですね! ありがとうございます! あなた様は、本当に慈悲深いお方だ!
ええ、もちろん、仰る通りに致します! すぐにでもノンノピルツに帰って、二度とここに近付かないことを誓いましょう。アリス姫や街の人たちにも、ここを訪ねないように言い聞かせておきます。明日からはきっと、あなた様は誰にも煩わされることはなくなるでしょう。
……あ、でも、あたしより前に、すでにしてあなた様のご不興を買ってしまった愚か者たちがいるのでしたね。それも十人以上も。あたしの相棒を含めれば、十一人にもなりますか。
アリス姫は、あなた様が彼らを、お得意の縮小魔法で小さくして、目に見えないようにして片付けてしまったのだろう、と考えておられましたが……その想像は果たして、正しいのでしょうか?」
手に持ったビンを興味深そうに眺めながら、さりげない調子で問いかけを口に出すドジスケ。
もちろん、それは一種の駆け引きだ。相手に何かをしてもらいたい場合、要求をいきなり突きつけるのはマナー違反である。その一歩手前に、ワンクッションとでも言うべきか、結論につながる話題を挟んでおく方が、品がよく見えるものだ。
「もし、そうだとしたら。この機会に、その連中の身柄を引き取って帰りたいのですが、いかがでしょうね?
あなた様も、いくら小さくしたとはいえ、他人が自分の中でモゾモゾと暮らし続けているというのは、気分の良いものではないでしょう。彼らをもとの大きさに戻して、屋敷の外に放り出して頂ければ、こちらにとってもあなた様にとっても、都合がいいのではないかと思うのですが」
ドジスケはさりげなく、もののついでのようにそう要望した。もちろん、彼にとっての一番の狙いは、この提案を受け入れてもらうことである。
「そもそもですな、あたしがこの屋敷に来た理由というのが、ここで行方不明になった人たちを探して欲しいという依頼を受けたからなんですよ。だから、あなた様が彼らを解放しない限り、他の誰かが何度でも、捕虜たちを取り戻そうと押しかけてくるかも知れない。それは望ましくないでしょう。
ね、検討してみて下さいよ。ここらでそろそろ、あなたの中にいる人たちにかけた縮小魔法を、ちょいと解除してみてもらえませんか。彼らもさすがに、この屋敷に足を踏み入れたことを後悔しているでしょう。あたしの方からしっかり言い聞かせれば、二度とここには来なくなると思いますよ」
これを聞いていた『ドリンク・ミー』は、(切り込んできたな)と、心の内で呟いていた。
理性を失いかけていても、その知性はまだ充分に働いていた。一流の魔法使いである彼は、その頭脳も――頭にあたる器官はないが――非常に明晰だった。ドジスケの提案を噛み砕き、そのメリットとデメリットを計算するぐらいのことは普通にやれた。
言われていることは確かに道理で、彼の中にいる邪魔者たちを放り出すことは、お互いに得しかないように見える。すべてが丸く収まるようでもあるし、素直に首を――首なんかないが――縦に振ってもよさそうではある。
しかし、それはあくまで表面的な見方だ。先のことまで見据えると、ここでドジスケの提案を受けるのは、非常な危険を伴うと、『ドリンク・ミー』は気付いてしまった。
「どうでしょうね? 連中をもとの大きさに戻してはもらえませんか? また、この扉を閉めますので……オーケイして頂けるようでしたら、縮小魔法の解除をお願いしますよ?
はい、閉めます……閉まりました。もうちょっとしたら開けますのでね……今のうちに、魔法の力をバシッとお使い下さいませ。……そろそろよろしいでしょうか? 開けますよ……よい、しょっと」
再び、ドジスケは玄関扉をゆっくりと開け閉めした。『ドリンク・ミー』が彼に同意してくれるなら、扉を開けた瞬間、中に人々の気配が生じるはずだ。縮小魔法から解放され、屋敷を飛び出してくる十人の冒険者と、一匹の妖精の姿が見られるはずなのだ。
しかし、扉の内側に現れたのは――甘い匂いを漂わせる、一ホールのケーキであった。
それを目にして、ドジスケは眉をしかめる。彼としては、できればここで終わって欲しかったのだ。『ドリンク・ミー』を説得し、平和裏に捕虜たちを回収できれば、それが一番良かった。
しかし、『ドリンク・ミー』は、誘いに乗ってこなかった。人々を解放することを拒んだ。何か、看過できない不利益を見い出したのだろうか? それとも、目に見えないようにした人々を外に出そうが、出すまいが、どちらでもいいということなのだろうか?
ドジスケはとにかく、『ドリンク・ミー』からのメッセージであるケーキに目をやった。これまた、【不思議の国のアリス】と同じだった――ケーキの表面に、小さな干しブドウを並べて、文字が書かれている。
《その提案は断る》
《貴様はこちらに敬意を払っているような態度を取っているし、こちらに利益がある提案をしているように見えるが、それが上辺だけである可能性を私は見逃さない》
《人の立場に立ってみれば、私は何人もの人間をさらい、監禁している悪党だ。人に害をなす、危険な魔物の一匹に見えていることだろう。この場から立ち去り、二度と関わらないようにするのではなく、できれば退治したいと思っているのではないか?》
《例えば、私の住み処であり、力の源であるこの屋敷を破壊する、という方法によって》
《空間生物である私は、屋敷を破壊されても痛くもかゆくもない。だが、壁や床や天井による密閉性が失われれば、魔法が使えなくなるし、気分も良くない。新しい住み処を見つけられるまで、ずっと服を着ていないような落ち着かない気分でいなければならない》
《そうなることを、私は望まない》
《ゆえに、十人と一匹の愚か者たちを返すことはできない。屋敷を壊されないための人質として、閉じ込め続ける》
《彼らは今、砂粒よりも小さな体で、屋敷の中をさ迷っている。いいか? よく考えろ。この屋敷の安全と、彼らの安全は表裏一体になっている。もしも、屋敷の窓ひとつ、壁の一枚、柱の一本でも破壊したなら、それに巻き込まれて彼らは死ぬかも知れないのだ。そんな結末を望まないなら、貴様が自分で言った通り、速やかにここを立ち去って、二度と訪ねてこないでもらおう》
《これほど広くて、過ごしやすい建物はなかなかないのだ。失うわけにはいかない。捕虜たちについては、無事に生きているというだけで満足してもらいたい。私の知る限り、彼らは全員健康だ。食料が足りなくなったら、ケーキをくれてやってもいい。死なせることはしない。それを心に留めて、諦めて帰れ》
――呪われているにしては、なかなか考えておられる。
干しブドウのメッセージを読んだドジスケは、そんな感想を抱くとともに、『ドリンク・ミー』への評価と警戒を一段階引き上げた。
人の言葉を鵜呑みにせず、ちゃんと物事の裏側まで見ようとしている。先のことを読む想像力も、まだ失われていない。
ひと言で言って、賢い。
もし、『ドリンク・ミー』が呪いの影響をまったく受けていなかったとしたら、ドジスケがどれだけ説得しようと言葉を重ねても、逆にいいように丸め込まれて、ポイと放り捨てられていたかも知れない。
だが、それでも、つけ込める隙がないではない。ドジスケは、それに気付いていた。
やはりというべきか、『ドリンク・ミー』は、自身の殻である屋敷のことを、非常に大切にしている。
いや、より正確に言うならば、屋敷の広さを。
さすがは、より広い場所を占めることを求める空間生物。その本能を、呪いの力が拡大し、むき出しにしている。
それこそが、『ドリンク・ミー』のアキレス腱。見逃しようのない、弱点であった。
「……ははあ。なるほど。仰ることはよくわかります。そりゃまあ、人間のいうことなぞ、そう簡単には信用できませんわな。警戒するのもごもっともです。
家を壊されるかも知れないと思ったら、あたしだってそれくらいには慎重になりますよ。ええ、ええ、わかります。自分を守るための切り札を取っておくのも、当たり前のこと。非難のしようもございません。
ですが、ちと困りましたな……。囚われの十一人を家に帰すことができないと、あたしは受けた仕事を達成できなかった、ということになってしまいます。それはちょいと、都合が悪いんです。報酬は手に入らないでしょうし、クエスト協会からの信用は落ちるでしょうし――なにより、アリス姫に怒られてしまいます。あの方はいつもケラケラと笑っておられますが、機嫌が悪くなると怖いですからねぇ。ねちねちと長時間お説教されるぐらいならいい方で、ことによると得体の知れない薬を飲まされたり、得体の知れない肉を食わされたりすることがあるのです。そればっかりは、なんとしても避けとうございますよ、はい。
となると、はて、どうすればいいでしょうか……? あなた様はおうちを守りたいから、人質を解放したくない。あたしはアリス姫のお仕置きを受けたくないから、人質を連れて帰りたい。何とかして、八方丸く収めることはできないものでしょうか。うーん」
首を傾げて、苦しそうにうなるドジスケを見ながら、『ドリンク・ミー』はうんざりしていた。
彼にしてみれば、ドジスケの都合など知ったことではないのだ。いつまでも扉の前で粘っていないで、さっさと帰って欲しかった。
人質を手放す気になど、どう考えてもなるはずがないのだ。彼が執着している屋敷を超えるような、とてつもない対案を出してこない限り、心変わりを起こすことはない。
そして、このいかにも器の小さそうな男に、『ドリンク・ミー』の気に入るものを用意できる可能性があるようには見えなかった。
つまり、これ以上の交渉は無意味である。
それが『ドリンク・ミー』の結論であった。妥協の余地などありはしないのだから、もう諦めて欲しい、というわけだ。
次にドジスケが扉を閉めたら、最後通牒を突きつけて、無理矢理にでも帰らせよう。『ドリンク・ミー』はそう結論した。
だが、その結論こそ、意味のないものに終わった。
覆しようがないとしか思えない彼の予想が、軽々と乗り越えられてしまったからだ。ドジスケは、『ドリンク・ミー』が耳を傾けずにはいられないアイデアを、まるで安物のコロッケか何かのように、気軽に差し出してきた。
「ああ、そうだ! いいことを考えました!
要するにあなた様は、今お住まいの屋敷を破壊されることを憂いておられるのですよね? 人質を取っているのは、あくまで他人から攻撃されないようにするための抑止力であって、人がそばにいること自体は望ましく思っておられない、と。
でしたら、話は簡単です。そんな警戒が必要ないような物件に、あなた様をご案内すればよろしい。
どうです、このお屋敷を離れて、引っ越してみる気はございませんか? ひとつだけ、心当たりがあるのですよ。人の手ではどう頑張っても傷つけることができなくて……しかも、このお屋敷より遙かに広い……そんな空間の心当たりが……」
その言葉を聞いた途端。
『ドリンク・ミー』は、自身の中の呪いが、エサを見つけた虫の群れのように、怪しくざわつき始めたのを感じた――。
■
急激に。
本当に急激に、扉の向こうにわだかまっている空気が、冷たく重いものに変わった。
屋敷の中から流れ出してくる、気味の悪いひんやりとした空気を肌で感じながら、ドジスケは――かかった、と内心で呟いた。
彼は、その空気を知っていた。同じような冷たさ、同じような息苦しさを持つ空気に、触れたことが何度もあった。
それは、いばらの塔の各階層に満ちていたものと同じ温度を持っていた。人が吸い込むには冷た過ぎ、人の命をつなぐには有害過ぎる、呪われた空気。それが、ほとんど瞬間的に屋敷の中にあふれたのだ。
ドジスケが、『ドリンク・ミー』を、広大で傷つけようのない空間に案内すると発言した途端に。
(どうやら、興味を引くことはできたようですな)
呪いは、生き物の理性を奪い、欲望や本能を引き出す。つまるところ、呪われた者はすべからく、誘惑に弱くなると見て差し支えない。
ここまでのやり取りでドジスケは、『ドリンク・ミー』が、深い知性を持っていることを知った。人間に敵意を持ち、強く警戒しているということもわかっていた。そんな相手を、口先三寸で転がし、翻弄し、言うことを聞かせるというのは、ちょっと――いや、かなり難しい。
だが、それはあくまで、『ドリンク・ミー』の思考能力がまともに機能していれば、の話。
呪いによって増幅された欲望を刺激するように、話を持って行きさえすれば――『ドリンク・ミー』自身が、彼の精神を蝕む呪いが、厄介な知性を押さえ込んでくれる。
その試みは、どうやらうまくいったらしい。新しい提案の内容に、『ドリンク・ミー』は間違いなく動揺していた。ドジスケの腕に鳥肌を立たせている冷たい空気の存在が、その証拠だ。
欲望が、『ドリンク・ミー』の中で力を増している。自制できるようなら、その寒気はじきに収まるだろう。ところが、そうはならなかった。弱り切った理性と、強化された欲望とでは、最初から勝負は見えている。
ドジスケは、これまでのように『ドリンク・ミー』におうかがいを立てることはせず、黙って玄関扉を閉めた。そして、少し経ってから、また開ける――扉の内側には、イチゴジャムで文字が書かれた食パンが、一枚置かれていた。
《詳しい話を聞かせろ。内容によっては、人質の解放も検討する》
よろしい、実によろしい。ドジスケは柔らかい笑みを浮かべ、『ドリンク・ミー』の要望に応えた。
「ええと、先ほども申しましたが、あたしはアリス姫から、あなた様のことをいろいろとうかがいました。
虚空そのものが意思を持ったお方であり、より広く、より空っぽな空間を満たすことを喜びとしておられると。小さなビンよりも部屋を。部屋よりは屋敷を。とにかく広い場所にこそ、魅力を感じられるお方だと。
しかし、だとしたら、なぜ……ええと、その、大変失礼な言い方になってしまいますが……なぜ、こんな小さくて狭い、ウサギ小屋のようなお屋敷で我慢できるのかと、さっきから、ずっと疑問に思っていたのですよ。
あたしならば、もっともっと上等な、この世で最も広い場所を、あなた様にお世話できます。
ええ、もちろん、あなた様にはいろいろとご迷惑をおかけしましたから、お詫びの品の代わりとして、無償でそれを差し出しても構わないのですが……ここはお互い、得になるような取り引きをしようではないですか。あなた様は、邪魔で鬱陶しい人質たちを解放する。あたしは、あなた様に安全で広大な場所を提供する。どちらもハッピー。損をする人はいません。ねえ、悪くないと思いませんか? 同じように思って頂けるなら、イエスという返事を下さいませ。はい、パタン」
言うだけ言って、ドジスケは扉を閉める。
『ドリンク・ミー』の精神の中の、欲望を司る部分は、まったくその通り、すぐにイエスという答えを返そう――と叫んだ。
しかし逆に、理性の部分は、返事をするには早過ぎると断言していた。というのも、ドジスケの言う広大で安全な空間というのが、いったいどこのことなのか、まったく説明されていなかったからだ。それを聞いてからでなければ、人質たちを手放すわけにはいかない。
ドジスケが扉を開けた時には、理性の意見を採用した要求が、オムライスの上に書かれたケチャップ文字という形で出現していた。
《その場所がどこにあり、どれくらいの広さがあるのか、説明してもらいたい》
《本当にその場所が、この屋敷より広くて安全だと、私が聞いて納得できれば、人質は解放する》
《私がその場所に不満を感じたり、貴様の言葉に疑わしいものを感じたりしたなら、話し合い自体なかったことにしてもらおう》
「ええ、もちろんですとも。やはり取り引きならば、お互いに納得した上でモノを交換したいですからね。あなた様が、すぐにイエスと仰った場合でも、人質たちを返してもらう前に、説明をさせてもらうつもりでいましたよ。
それで、ええと、あなた様に引っ越して頂こうと思っている場所ですがね。どこかと言いますと……ここからでも見えますよ。ほら、あれでございます」
ドジスケはニコニコと笑いながら、右手の人差し指を一本立てて、ある方向を指差した。
『ドリンク・ミー』に目玉はない。しかしなぜか、ものを見る能力は備わっている。屋敷の外に立つドジスケの姿は、ずっと見えていた。そして、彼が指差す方向に、視線を向けることもできた。
ドジスケの人差し指が示した方向。その先にあったのは――青く高い空。悠々と雲が流れる、遙けき天穹であった。
「あなた様がおさまるには、地上の建築物はどれもこれも、あまりに卑小にして脆弱にございます。相応しい居場所があるとすれば、それは神の手になる壮大な箱、人間などの手にはとても掴み切れない、大宇宙という広がりを置いて他にありません。
これを満たせば、あなた様はある意味、世界の支配者となれるでしょう。空間生物としても、かつて味わったことのない、至高の満足を得られるはず。少なくとも、煉瓦造りの古屋敷などよりは、暮らし良い場所であろうと愚考しますが、いかがでしょうね?」
得意そうに言葉を連ねるドジスケに視線を戻して、『ドリンク・ミー』は――時間を無駄にした、という気分になった。
確かに、宇宙の広がりは素晴らしいものだ。もし、それを自分のものにできたらと思うと、心弾むのも事実だ。
しかし、現実的に考えて、そんなことはできない。空間生物としての彼の性質が、それを許さないのだ。
そのことを理解していないらしいドジスケのことを、彼は軽蔑を込めて睨んだ。当然ながらドジスケの方は、表情のない『ドリンク・ミー』の内心など推しはかりようもない。相変わらず呑気な様子で、最終的な返答を『ドリンク・ミー』に求めた。
やり方は今まで通り、扉を開けて閉めるだけである。今度の『ドリンク・ミー』のメッセージは、茶色いチョコレート・クッキーという形で現れた。文字の形に抜かれたクッキーが、いくつもいくつも、ひと通りの文章をなすように、床の上に並べられている。
《交渉は決裂だ》
《貴様の提示した夢まぼろしの物件に、私が入居することはない。人質たちをそちらの手に渡すこともない》
《貴様はどうやら、アリス姫から大切なことを聞き忘れているようだ。あるいは、聞いていてなお忘れているか。でなければ、そのような間抜けな提案をすることもなかっただろう》
《私は確かに、より広い空間を欲する生命体だ。自分をより拡張できる、できるだけ巨大なスペースを欲している、という点も間違いではない》
《しかし、私は密室の中でなければ、己の確かさを感じられないという制約を持っている。自分を区切ってくれる限界が、絶対に必要なのだ。囲いも制限もない開放空間では、魔法を始めとしたあらゆる力を発揮できず、満足感も得られない》
《宇宙などという無限の広がりの中では、私は生きていけないのだ》
《そんな場所に飛び出していくぐらいなら、まだチキンブロスの缶詰の中に閉じこもっていた方がマシだ。ゆえに、貴様の提案に乗ることはない。去れ》
怒りと呆れのこもったその言葉に、ドジスケはじっくりと目を通した。そして、二、三度、わざとらしくまばたきをして――同じように、大げさなくらいの仕草で首を傾げ――そして、「ああ、なるほど」と頷いた。
「いやはや、危ないところでした。どうやら、あたしの言葉が足りなかったせいで、とんだ誤解をさせてしまいましたな。
ご安心を。あたしはあなた様の、境界を必要とする性質については、きちんとアリス姫から教わってございます。開放空間を苦手とされているという点も、余すところなく、です。その上で、先ほどの提案をさせて頂いたのです。
ただ、そのう……お互いの認識に、ちょいとばかり、齟齬がありましたようで。失礼ながら、あなた様がご存じないことを、たまたまあたしは知っていた、ということのようです……あたしの知っている、ある事実を聞けば、あなた様もこの話し合いを捨てるという気にはならないと思いますよ。いいですか――大宇宙空間は、あなた様が問題なく暮らせる空間なんです。つまり、無限の広さなんか存在しなくて、ちゃんと限りがあるんでございますよ」
その言葉に、『ドリンク・ミー』の欲望の部分も、理性の部分も、等しく衝撃を受けた。
宇宙に、あの果てしない空に、限りがあると? そんな風にはとても見えない。空は無限だからこそ、空ではないのか? 遠き雲の向こうには、遠き月があり、そのさらに向こうには遠き太陽があり、その向こうにも延々と、星明かりの散らばる巨大な空間が広がっている。どこまでも、どこまでも。限りなどありはしない――少なくとも、彼にはそのように見えたし、そのように思い込んでいたのだが。
「確かに昔は、誰もが宇宙は無限だと信じておりました。
無限の過去から存在し、無限の未来まで安泰で、広さにも当然、果てがない。どう見ても、そのようにしか見えませんでした。地上のあらゆる物事がちっぽけに思えるような、スケールの違い過ぎる広がりを、空というのは持っておりますからね。そこに無限があると思い込んでしまっても、何の不思議もありはしません。
しかし、この完全で絶対的な宇宙のイメージは、現在では否定されております。偉い学者の先生方が、長い年月をかけて観測と研究を行った結果、宇宙には始まりがあり、広さにも限りがあるということを突きとめたのです」
ドジスケは語る。アリスに物語を聞かせる時のように、落ち着いて、ゆっくりと。
彼にとってのジョーカーを、ここで切る。彼以外には、古都にいる読書家たち以外には、きっと誰も知り得ない知識を。異界の人々が積み重ね、文字として残してきた、叡智の一部を。
「詳しく説明していると、長くなるのではしょりますが……我々の住む宇宙というのは、過去のある瞬間に、無から突然に生じたものらしいのです。
宇宙の誕生以前には、空間も時間も存在していませんでした。『何もない』という、なんとも想像のつかない状態の中に、ごくわずかなエネルギーの揺らぎが生じ、それが爆発を起こしました。
鉱山で使われる発破だとか、火山の噴火だとかが可愛く思えるくらいの、途方もない大爆発です。大きさのない一点が、高温高圧を一気に解放しながら膨張し、幅、奥行き、高さという空間を、過去と現在、未来を貫く時間を、そして、私たちが今立っている大地や、空に輝く星々を形作る、ありとあらゆる物質の材料さえも生み出したのです。
あんまりどでかい爆発だったので、そのエネルギーによって生まれた空間は、今もなお広がり続けています。最初の高温高圧下で、宇宙に存在するあらゆる物質が、赤々と燃えながら混ざり合っている段階が過ぎて……溶岩のようだった物質が冷えて固まり、原初の星があちこちででき始めて……それらが銀河を作り、銀河団を作り、ひとつひとつの星の表面で、山ができたり川ができたりして……生命が生まれ、動物や植物が生まれ、人間が現れ、文明を興し、望遠鏡で空を見るようになっても……相変わらず、最初の勢いを完全には失わず、広がり続けているのです。まるで、風船か何かのようにね」
立て板に水を流すような、なめらかなドジスケの言葉を、『ドリンク・ミー』は静かに聞いていた。
途方もない話であった。宇宙の成り立ちについてなど、『ドリンク・ミー』は真面目に考えたことはなかったが、いざ聞かされてみると、なかなかに心惹かれる。宇宙が無から、爆発によって生じるだなんて、まるで魔法のようではないか。
だが、魔法のように思えるがゆえに、納得もしにくい。本当にそれは正しいのか? 自然がそんな、劇的で奇跡的な振る舞いをしたというのか?
仮に正しいとして、星や大地が生まれる前のことなど、どうやって証明するというのだ? 爆発の瞬間を見ていた人間などいるわけがないだろうし、あらゆる物質がその爆発によって生じたのならば、証拠品もないはずだ。どんなに面白い話でも、それを裏付けるものがなければ、信用できるはずもない。
そして、裏付けがされなければ、宇宙が有限だという話も信用できない。
そんな『ドリンク・ミー』の内心を見透かしてか、ドジスケは小さく咳払いをして、話を続ける。
「この、宇宙が一点から始まったという説は、一般的に『ビッグバン宇宙論』と呼ばれています。
この革命的な考えがどうして生まれたかといいますと、そもそもは天文学上の謎に端を発しているようなのですな。地上から夜空の星を眺めて、その運行について研究していた天文学者が、ある日、このような疑問を抱いたのです。
『我々から見て遠くの位置にある銀河が、我々に近い位置にある銀河より速いスピードで遠ざかっているように見えるのだが、これはどういうことなのだろうか?』
遠い遠い場所にある天体が、自分たちに近付いてきているのか、それとも遠ざかっているのか、それを判定する方法を、彼らは見つけ出していました。赤方偏移という現象がありまして、ある物体が観測者から離れていく場合、それが光速に近いスピードにまでなると、光の波長が引き延ばされることになり、赤みがかって見えるようになるというのです。逆に、猛烈な勢いで近付いてきている場合は、光の波長が縮められ、青く見えるという青方偏移が起こります。
天文学者が見た銀河たちは、この赤方偏移を起こしていました。それも、遠ければ遠いほどその偏移の度合いが強い。まるで、我々がとんでもない悪さをしでかした嫌われ者で、銀河たちがそばにいるのを嫌がって、逃げ出しているように見えるのですな。
なぜ、こんなことが起きるのか? まさか本当に、星々に嫌われているわけもありますまいに?
そこで取り上げられたのが、宇宙の膨張という考え方でした。星々を内包する宇宙全体が、均等に膨らみ続けているならば、この現象は説明できるのです。
そうですな、試しに、一直線上に並んだ三つの点、A、B、Cを想像してみて下さい。AとB、BとCの間は、それぞれ一ずつ離れているとします。Aを基準にして見ると、Bは距離にして一、Cは二、離れていることになりますな。
さて、これらの点同士の距離が、同時に同じだけ広がり始めたとしたら、点Aからは、BとCがどのように見えるか?
AとBの距離は、一です。これが二になったとしましょう。同じように、BとCの間も、一から二に広がります。すると、ほら、どうでしょう……A~B間は二しか離れていないのに、A~C間には、四もの距離が生じてしまった。Bは一しか離れていないのに、Cは同じ時間に、二の距離を稼いだわけです。もし、点DやEがあり、やはり同じような条件の下で、Aから離れていったとしたなら。最初から遠くにある点ほど、速く遠ざかっていくように見えるでしょうな。
宇宙空間でも、同じことが起きていたのです。星々の浮かぶ空間全体が、均等に膨張していると考えるなら、観測者から遠い銀河ほど、速く離れていくように見えるのは道理というわけです。観測者が別の星に引っ越して、あらためて銀河の動きを眺めたとしても、やはり自分から遠い銀河ほど、大慌てで逃げていくのを見ることになるでしょう。大宇宙が、発酵中のパン生地のごとく膨れ上がっているということを、人類は知ったのです。
で、宇宙が膨張するものであるなら、遙か昔はどうだったのか? 人々は考えます。もしかして、銀河同士の距離は今よりもっと狭かったのか? いやいや、それどころか、天に散らばるすべての星々は、たったひとつの点から出発したことにならないか? 銀河同士の距離が広がり続けているというのなら、時計の針を逆回しにして、過去へ過去へと遡っていくと、いずれは距離がゼロになり、重なってしまうのが道理ですからね。
その、最初の一点。あらゆる銀河、あらゆる物質の初期配置こそが、ビッグバンの生じた場所ということになります。宇宙に出発点が存在し、その小さな一点から始まった空間が、目に見える形で拡大を続けているということは……ね、おわかりでしょう。宇宙の広さがゼロから始まり、一、二、三、四と、時間の経過によって成長していくものならば、限界がなくてはおかしいではないですか」
もし、『ドリンク・ミー』に首があったなら、それを縦に振っていただろう。宇宙が無限の広さを持つとするなら、スタートしてから今までの間のどこかで、無限の加速をしなければならないことになる。そんなことが起きるとは、どうも考えられない。
しかし、だからといって、宇宙が有限であり、一点から始まったという説を認めるのも、まだ早過ぎるように思えた。
「さて、ここまででわからなかったところや、さらに詳しい説明が必要だったりする点はありませんか? それとも、ここまでで充分納得して頂けましたか? ご質問がおありでしたら、あたしのわかる範囲でお答えしますが、いかがでしょうね?」
もう何度目だろう。そう声をかけながら、ドジスケは扉を閉めた。そして、少し時間を置いてから、また開く。
『ドリンク・ミー』と意思の疎通を図るために、どうしても必要なプロセスだが、端から見るとかなり間抜けな光景である。ドジスケは、今の自分の姿を、『ドリンク・ミー』以外の誰にも見られていませんように、と神に祈った。
《いくつか、尋ねたいことがある》
ほうれん草の缶詰に貼られたラベルによって、『ドリンク・ミー』はドジスケに問いかける。
《宇宙が動きのないものではなく、膨張しているということはわかった。しかし、宇宙の全物質、全空間が、一点から始まったと断言するには、根拠が乏しいように感じられる。遠ざかる星々の動き以外に、確たる証拠はないのか?》
《また、宇宙が膨張しているという事実は、宇宙に限りがあるということを証明していると言えるのか? 他の考え方は不可能であるのか? たとえば、最初から無限の広さを持つ宇宙が、無限のまま膨張しているということはあり得ないのか?》
それらの文章を確かめたドジスケは、「なるほど確かに。仰ることはわかりますよ」とばかりに、笑みを浮かべる。しかし、心の中では渋面を作っていた。
コイツ、呪われて理性を失いかけてるはずなのに、何でそこまで考えられるんだ――というわけである。
だが、それはいい傾向でもあった。そんな質問ができるということは、『ドリンク・ミー』はドジスケの言葉を、真剣に聞いてくれているのだ。彼の話す宇宙の物語にのめり込み、信じ始めているのだ。
ならば、ドジスケも丁寧に、質問に答えなければならない。それでこそ、目的が達せられるのだから。
「いい質問です。いやはや、実際、とても的を射ている質問だと思います。
まず、そうですな。ふたつめの質問の方から、答えさせて頂きます。宇宙が無限であり、無限のまま広がり続けている可能性はあるか、でしたな? 確かに、そういう考え方もございます。無限の広がりを持ち、なおかつ膨張していく宇宙のことを、一般的には定常宇宙モデルと呼ぶのですが……初めのうちは、多くの学者さんが、一点から始まるビッグバン宇宙より、この定常宇宙を支持しました。無限の広さを持つスペースがさらに拡大しようと、変わらず無限ですから、始まりも終わりもない。そんなところが、かつて信じられていた動きのない静的な宇宙とも似通っていたので、受け入れられやすかったのですな。
しかし、残念ながらこの定常宇宙は、実際に人々の頭上に広がっている宇宙の姿とは、やや違っておりました。定常宇宙には始まりがないので、物質は離れ離れになっていく銀河と銀河の間に、絶えず生成され続けることになります。となると、宇宙の全空間における物質の新しさと密度は、ほとんど均一でなければおかしい。特定の場所に古いものが固まっていたり、別の場所に新しいものが集中していたりしたら、不自然というわけです。
ところが、観測される宇宙の物質……銀河の分布には、明らかな偏りがありました。若く新しい銀河が、宇宙の遠い場所にしか見い出せなかったのです。この事実は、定常宇宙モデルを否定する大きな証拠のひとつとなり、逆にビッグバン宇宙にとっては、肯定するための追い風となりました。宇宙が一点から始まったものであれば、そのような観測結果が出るはずだと予想されていたからです。
さて、この不均一な銀河分布という材料で、ビッグバン宇宙は全肯定されたでしょうか? 敵対する、無限の定常宇宙に勝利したと言えるでしょうか? 答えは否です。だいぶ有利にはなってきましたが、まだ証明が充分とは言えません。
そこで、あなた様の出された、ひとつめの質問に立ち返りたいと思います。宇宙が一点から爆発によって生じたと断言するための、確たる証拠があるかどうか、でしたね? もちろん、ございます。宇宙マイクロ波背景放射と呼ばれる、宇宙空間全体に散らばる電磁波の揺らぎこそが、最後の証明にたどり着くための鍵なのです……」
物語のクライマックスに突入するにあたって、ドジスケは内緒話を打ち明ける時のように、声を潜めるという演出を選んだ。
聞き手である『ドリンク・ミー』は、自身を苛む呪いの不快感も忘れて、ドジスケの語りに集中していた。ここまでの話の中にも、聞き覚えのない専門用語らしきものはいくつも出てきた。だが、そのどれもがさらりと説明されているので、ちゃんと展開について行けている。
ここまで来たら、最後までしっかりと理解してしまいたい。空間に住まう者として、ドジスケの話す内容はとても興味深い。ことによると、今後の生活を一変させてしまうほどの価値があるかも知れない。いや、間違いなくあると、彼は確信していた。絶対に、聞き逃すことはできない。
「宇宙マイクロ波背景放射というのはですな。要するに、宇宙が生まれた時の、大爆発の残響みたいなもんです。まあ、残響といっても、音じゃなくて光なんですがね。原初の大爆発が本当にあったのなら、その名残が今も、宇宙全体にまんべんなく響き渡っているはずだ……と考えられるわけです。
それが観測されれば、宇宙の始まりに爆発があったことが証明されます。逆に、観測されなければ、爆発が起きなかったという証拠になる。ビッグバン宇宙にとっても、定常宇宙にとっても、この宇宙マイクロ波背景放射という奴は、要石となっていたのです。
あんまりもったいぶってもよろしくないので、結論を言いましょう。この残響は存在しました。全天のあらゆる方向から、なめらかな爆発の名残が降り注いでおり、それを人類が捉えた瞬間、ビッグバン宇宙は認められ、永遠無限の宇宙は死んだのです。この世界が一点から始まり、風船のように膨らみ続けている、有限な空間であるということが確かめられたのですよ。
……さて、あたしの説明はここまでですが……いかがでしょう、納得して頂けましたか?
我々の頭上にまたがる、あの広い広い空が、あなた様という住人を待っているひとつの部屋だということを、信じて頂けましたでしょうか?
もしも、あなた様が宇宙を支配すると決断して下さるならば、あたしはそれを喜ばしく思いますよ。だって、そうなったらば、あなた様はこの小さな屋敷にこだわる必要がなくなるわけですからね。
自分の住み処を守るために、無理して人質を取り続ける必要もなくなります。宇宙を壊せるような、途方もない力を持った存在など、絶対にいるはずがないのですから。
あなた様は、この世で最も大きな空間を得る。あたしは、人質の皆さんを取り返して、仕事を成功裏に終わらせられる。最初に申しました通り、八方丸くおさまります。
さあ、選択の時間でございますよ。どうなさいます? ……あたしの提案を受け入れますか? それとも、却下しますか?」
言い終えて、ドジスケは扉を閉める。おそらく、これが最後のやりとりになると、彼は感じていた。ここまでのプレゼンテーションで相手の気を引けなかったならば、以降はもう何もできないだろう。
裁判所で、判決の時を待つ被告人のような気持ちで、ドジスケは扉を開く。今度は、床の上に花束が置かれていた――鮮やかなピンク色をした、エゾギクの花束だ。束ねられた茎の間に、ふたつ折りのメッセージカードが挟まれていて、そこに『ドリンク・ミー』の最後の言葉が綴られていた。
《念のために確認する。今の話は、すべて真実だと誓えるな? 貴様がとっさに考えた、作り話なんかではないのだな?》
ドジスケは花束を抱えて、玄関ホールを見渡した。寒々しい、がらんと広い空間を。
そして、そこにいるはずの敵に向かって、堂々と宣言した。
「誓います。今の話は、かつて読んだ学術書に載っていた、賢者たちの研究の成果です。絶対に、あたしの創作ではありません」
ドジスケがそう言ったのと、ほぼ同時に。
ごうっ――と荒々しい音を立てて、猛烈な突風が、屋敷の中から外へ向けて噴き出した。
「わっ……ぷわ!?」
玄関扉の前に立っていたドジスケは、そのすさまじい圧力の直撃を受けて、吹き飛ばされた。大きな体が二、三メートルほど空を飛び、お尻から地面に着地する。何とか受け身は取ったが、それでもかなり痛い尻もちをついてしまった。
「あ、あうあっ……い、いたたた……」
「うっわ、派手にイッたねぇ~……大丈夫? ドジスケくん」
激痛にうめく彼の胸の中から、心配そうな声が囁いた。服の胸ポケットに入れてある手鏡を通じての、アリスの声だ。
「な、何とか、大丈夫です。痛いことは痛いですが、骨が折れてたりは、しないと思います」
「そっかー、ホッとしたよ!
でもでもね、ドジスケくん。怪我してないんなら、その場所から一刻も早く離れることをオススメするよー。屋敷から、とんでもない量の魔力と呪力があふれ出してきてるから。そこにいつまでも留まってると、キミも呪われちゃうかもかも?」
「えっ、えっ。ほ、ホントですか? ひ、ひえええええ」
アリスの忠告に、ドジスケは飛び起きた。確かに屋敷の玄関からは、今も得体の知れない暴風が、ごうごうと噴き出し続けている。その風は病んだ冷気を含んでおり、肌に触れるだけでぞっとした気分にさせられた。
ドジスケは大慌てで、屋敷に背を向けて走り出す。お尻の痛みがまだ引いていないので、アヒルのようなちょこちょこ走りになったが、それでも十秒もかからず、屋敷のそびえる小高い丘の下まで逃げ延びた。
充分に安全な距離まで到達できたと感じた彼は、屋敷の方を振り返り、自分の『説得』の結果を確かめる。
荒れ狂う風は渦を巻き、玄関先に細長い竜巻をいくつも生み出していた。さらに、バン、バン、バン、と音を立てて、壁に並んでいるいくつもの窓が、次々と開け放たれていく。そこからも力が流れ出し、辺りの空気をめちゃくちゃに掻き乱し始めた。
煉瓦造りの古い屋敷は、内側からあふれ出す圧倒的なエネルギーのために、びりびりと紙のように震えていた。いや、屋敷だけではない。穏やかなフックスグリューンや、その土地を見下ろす空までもが、激しく揺さぶられて、悲鳴を上げている。まるで、この世の終わりが来たかのように。
ドジスケは、息を飲んでその光景に見入っていた。それは間違いなく、彼の行動の結果だ。想像していたよりはずっとダイナミックだが、それでも、こうなって欲しい――という希望通りの状況にたどり着くことができた。大破局のただ中にあって、ドジスケは緊張に身を強張らせ、同時に安堵してもいた。
「アリスさん……確認したいのですが、あなたは呪いや魔力の動きを把握できるのですよね?」
ドジスケは、胸元から鏡を取り出しながら、その向こうにいるアリスに尋ねた。
「んー? うん、把握できるっていうか、見えるよ。バナナの黄色さやオレンジの丸さが見えるくらいには、ちょちょいのちょいだね」
「左様ですか、それはありがたい。
では、お尋ねしますが……その視点で見た場合、あの屋敷は今、どうなっておりますか? だいたいの想像はつきますが、ちゃんと見える人の目から見た結果をお聞きしたいのですが」
「どうって、ねえ。キミが誘導した通りになっていると思うよー。『ドリンク・ミー』が、屋敷を捨てて飛び出したの。
魔力でできた無数の腕を、樹木が枝葉を広げるように、空へ空へと伸ばしていってる。爆発的な拡張だね……とってもキレイ。ほとんどの枝が雲を貫いているから、もう一部は宇宙空間に達してるんじゃないかな。
彼、すっごくはしゃいでるよ。目に見えて大喜びして、巨大化するために魔力を使いまくってる。まあ、それも仕方ないかな……彼の本能からして、宇宙全体に満ち満ちれるなんてのは、死んでもいいってレベルの幸福だろうし」
「ほほう……そんなに喜んで頂けるとは。こちらも、お話ししたかいがあったというもんです」
満足げに頷くドジスケ。しかし、そんな彼を見ているアリスの眼差しは、少し呆れているようだ。
「まったく、うちの騎士は何をしてくれるかわからないねー。『ドリンク・ミー』を、あんな話で手玉に取るなんて。
ねえねえ、キミ。さっきの説明は、本当に本当なの? 宇宙は無限のものじゃなくて、有限の空間で、しかも過去に小さな一点から始まったっていうのは。アリスは今までの人生の中で、いろんな謎と不思議に触れてきたけど、今聞いたアレは、スケールだけなら特大の不思議だよ?」
「ええ、あの屋敷に住んでいたお方に誓いました通りです。あたしの読んだ本では、宇宙の成り立ちについて、あのように説明されておりました。
もちろん、かなりはしょりましたがね。二千ページぐらいの本に詰め込まれていた情報を噛み砕いて、むりやり四、五ページくらいのレポートにまとめたような、あまりにも雑な内容です。
あれを聞いて、宇宙の始まりを理解したような気になっちゃ駄目ですよ? 大事な部分がいくつも欠けていますし、説明を楽にするために、複雑で難解な項目を、曲解して簡単そうに表現したところもありますから。
急ぎでさえなければ、そうですな、もっともっと詳しく、踏み込んで話してあげたかったですよ。遠くにある別銀河までの距離を求めようとした、天文学者たちの素晴らしい工夫とか。アインシュタイン博士の考えた、恐ろしく難しい一般相対性理論とか。ビッグバン宇宙論の基礎を作った、フリードマン博士とルメートル博士の不遇な時代についてとか。インフレーション理論と、宇宙初期の物質の生成過程とか。ビッグバン宇宙論支持者と、定常宇宙論支持者との間に繰り広げられた、激しい戦いの様子とか。他にも、そう、宇宙の構造を説明した、ポアンカレ・ペレルマンの定理についても触れられなかったし……見所というか聞き所を、ほとんど取り落としてるんです! あたしの頭がもう少し良ければ、その辺も巧みに織り交ぜることができたでしょうに……ああ、もう、自分の話の下手さが恥ずかしくなりますよ!」
「ふぅん? それはつまり、アリスががっつり聞きたい物語のストックが、また増えたってことかな? 今度、おやつの時間に語ってもらうお話は、その宇宙論の詳しい部分にすべきか、それともシャーロック・ホームズの新しい冒険譚にすべきか、迷っちゃうねえ」
アリスの青い瞳が、きらきらと輝く。
彼女にとって、知ることは生きていくために必要な糧だった。ドジスケをそばに置いておくと、まだ味わったことのない知識の美味を、目の前に次々と並べてくれる。それは嬉しいことであると同時に、悩みどころでもあった――なにしろ、時間は宇宙と同じで有限なのだ。どの料理を先に味わい、どの料理を後回しにするか、どうしても選ばなければならない。今日もまた、食べてみたいメニューが増えてしまい、彼女は自分の『食生活』を、またしても見直さなければならなくなった。
「でも、ちょっとばかり、キミの計画とは違った展開になっちゃったかな? ねえ、ドジスケくん。『ドリンク・ミー』はさ、興奮のあまり、キミとの交換条件を忘れてるよ?
キミとしては、彼に宇宙空間をくれてやる代わりに、人質たちを解放してもらうつもりだったんでしょ? でも、彼は人質たちにかけた縮小魔法を解除する前に、宇宙に飛び出していっちゃった。きっと、今は自分を拡張することに夢中で、話しかけても聞いてくれない状態になってると思う。
どうする? 彼が宇宙全体に満ちるのを待って、あらためて人質の解放を要求する? それとも、やっぱり解呪のお香を取りに、こっちに戻ってくる?」
「え? ……ああ、いえ。まだ、問題はございませんよ。今でもちゃんと、あたしが頭ン中で描いている絵図面通りに、ことは進んでおります」
アリスの言葉に、首を横に振りながら、ドジスケは草の生い茂る地面に腰を下ろす。
「より正確に言うならば、こういう状況になることも、あらかじめ想定してありました。
最初は、『ドリンク・ミー』を説得して、無償で人質たちを返してもらうつもりでいました。これに成功していれば、一番良かった。でも、向こうさんは自分の屋敷を守るために、これに応じてくれませんでした。
次に、対価を差し出して説得に当たりました。宇宙という新たな住み処を差し出すことで、人質たちを囲い込む意味を失わせたわけです。でも、うまく行き過ぎて、彼は人質のことなんか忘れて、さっさと引っ越しを始めちゃいました。
まあ、こうなってもおかしくはなかったんですよ。なんせ相手は、呪われて理性を失いかけてる状態なわけですからね。こっちとの口約束なんか都合良く忘れて、自分の欲しいものに飛びついたとしても、ちっとも不思議じゃありません。
……不思議じゃないからこそ、想定もできました。
彼が人質を解放しないまま、宇宙へ行ったとしても……問題がないように、道を用意してあるんです。
まあ、見ていて下さい、アリスさん。たぶん、もう何分もかからず、すべては解決しますよ」
屋敷を震わせ、大気を掻き混ぜ、雲を引き裂きながら、空へ空へと昇っていく『ドリンク・ミー』。
目に見えないその空間生物の行く末に思いを馳せながら、ドジスケは大きく息を吐いた。
■
広く。広く。広く。広く。
上へ。横へ。前へ。後ろへ。
『ドリンク・ミー』は、恋い焦がれるような激しい熱情でもって、宇宙へと手を伸ばした。
己をあらゆる方向へ、限りなく拡張していく。青空を突き抜けて。ぶ厚い空気の層を脱出して。真空の中に煌めく、無数の星々めがけて、翔る。
すべてを掴み取り、支配するために。
もちろん、それが容易でないことはわかっている。
いくら限りがあると言っても、宇宙は広い。今までに暮らしてきたどんな建物よりも、いやいや、ノンノピルツの街や、フックスグリューンの草原や、キッツカシータの森、シェーンウィードの花園を足したより、遙かに遙かに、遙かに遙かに、巨大なはずだ。
それを満たすように、自分を拡張するとなると、どれだけの力が必要になるかわからない。
だが、それでも、やらねばならない。
自分の心に食い込んだ呪いが、宇宙を求めている。いや、それは実際には、『ドリンク・ミー』自身が求めているものだ。呪いはあくまで、欲望を強調するのみで、それ自体は何も望みはしない。
宇宙が欲しい。我慢できない。今すぐにそれを掴みたい。
そのために全力を尽くす。力の出し惜しみはしない。魔力も使って、自己の拡張速度をブーストしていく。拡大魔法を使えれば、さらに速く広がっていくことができるが、それは宇宙の境界に辿り着かなければ不可能だ。今はただ、自分の生まれ持った能力によって、支配領域を広げていくしかない。
(しかし――遠い)
『ドリンク・ミー』は手を伸ばす。見えている星々を掴むべく、いくらでも伸びゆく自分の手を。
しかし、まるでその輝きに、近付いている気がしない。隼よりも、矢よりも、風よりも速く、突き進んでいるはずなのに。
魔力は、すさまじい勢いで減っていく。それに合わせて、もちろん自分自身も巨大化してはいる。すでに、自分自身を末端まで認識するのが難しくなっているぐらいだ。
しかしそれでも、一番大きく見えている月にすら届かない。
(――この宇宙をすべて、我が物にするには、あとどれくらい広がればいいのだ?)
彼の脳裏に、ふと、そんな疑問が浮かんだ。
しかし、それに答えを返してくれる者は、どこにもいなかった。
■
「アリスさんは、『ドリンク・ミー』にも、呪いへの抵抗能力がある可能性が高い、と仰いましたね。血肉でできた生物が、毒物への抵抗を持つのと同じように。
ならば、彼は、どの程度の量の呪いであれば、自分の力で処理することができるのでしょう?」
いまだに、嵐のような力を放射し続けている館を前にして、ドジスケは語る。
「あの屋敷に閉じこもっていた時の『ドリンク・ミー』は、大量の呪いを蓄積させていました。アリスさんの目から見て、屋敷そのものが大規模な呪い溜まりに見えるほどだったって言うんですから、恐ろしい話です。
『ドリンク・ミー』をワイングラスにたとえるなら、今の彼は、縁からあふれ出すぐらいに、なみなみと毒を注がれているようなものでしょう。敵の勢力が強過ぎて、とても打ち勝てるわけがありませんな。
ですが……仮にですよ、彼がワイングラスなんかじゃなくて……清浄な水をたっぷりとたたえた、広い広い湖だったなら……どうなっていたでしょうね?」
「ふむん?」
そこまで聞いて、アリスは何かに気付いたように、口の端を上げた。
頭のいい彼女は、その時点で何となく、ドジスケの狙いを察したようだ。だが、あえて自分の辿り着いた答えを言わず、ドジスケに「続けて」と促した。
「……あたしの知る限りですな……一定の量の毒への抵抗能力は、体が大きければ大きいほど、高くなるんですよ。同じ量の毒を飲んでも、小さな子供なら助からないのに、大人なら生き延びることができたりします。
『ドリンク・ミー』の体を蝕んでいた呪いは、彼の抵抗を遙かに上回る量だったでしょう。しかし、それはあくまで、『フックスグリューンの屋敷に収まるサイズのドリンク・ミー』の抵抗力を上回ったに過ぎません。もし、彼の体が、屋敷よりずっとずっと大きかったら? 呪いと抵抗力の戦いは、どうなっていたでしょうか?
その問題の答えを、我々は簡単に確かめることができます。他のどんな生き物とも違って、『ドリンク・ミー』は、自分の体積を自由に変えられる性質を持っているのですからね」
「そして今、彼は、キミの思惑通りに、自分の体を大きくしているってわけだねー」
アリスはその目で、今現在の『ドリンク・ミー』の姿を確かめる。
フックスグリューンの屋敷は、広くて立派な建物だった。しかし、そこから飛び出した『ドリンク・ミー』の体は、もはや以前とは比べることが馬鹿馬鹿しいほどに巨大化している。
空間と魔力でできた大樹は、一秒ごとにその太さを増し、高さも指数関数的に成長していた。枝はもはや数え切れないほどになり、天球をじわじわと覆い尽くしつつある。
『ドリンク・ミー』は、それほどまでに変わってしまった。かつて、彼の住み処だった屋敷は、今では路傍の石ころでしかない。
「ここで重要なのは、体積を増しているのが、あくまで『ドリンク・ミー』だけだという点です。彼に悪影響を与えている呪いは、屋敷を満たす程度の量のまま、据え置かれています。
彼の体は大きくなる。しかし、呪いの量は変わらない。すると、どういうことになるか? 簡単ですね。彼の体内における呪いの濃度が、相対的に下がっていくんです。一対一が十対一に、十対一が百対一に。これがさらに発展して、一万対一とか、百万対一とか、一千億対一になったりしたら、どうなるでしょう? 果たして、呪いは相変わらず、『ドリンク・ミー』の理性を支配し続けることができるでしょうか?」
疑問符付きのドジスケの言葉に、しかしアリスは返事をしない。
答えなんか、言うまでもないからだ。ドジスケの方も、特に続きを言って欲しいなんて思ってはいない。
ワイングラス一杯分の毒は、湖に捧げられたのだ。しかも、時間が経つごとに広く、深くなっていく、支配者のような湖に。
あとはただ、自然の作用が、当然の決着を導くのを待てばよかった。
「『ドリンク・ミー』が冒険者たちを捕まえて、屋敷の中に閉じ込めているのは、彼が理性を失っているからに他なりません。
呪いに打ち勝ち、正気に戻ったなら……すぐに気付いてくれますよ。人質なんて、さっさと解放した方がお互いのためだとね……」
■
『ドリンク・ミー』の意識が、月面に到達した。
クレーターだらけの冷たい岩塊を懐に抱いて、さらにその向こうに広がる虚無へ、彼は突き進もうとする。
――まだだ。まだ、まったく足りない。
月は間違いなく、地上から見える一番近い天体だろう。彼はそれを掴むことに成功したが、逆に言うと、必死に己を拡張したにも関わらず、まだそれしか掴めていない。
もっともっと速く、もっともっともっと巨大にならなければ、宇宙に満ちるなど夢のまた夢だ。
彼は気合いを入れ直し、さらに成長のペースを上げていく。
――なんだか、奇妙な気分だった。
ここしばらくの間、彼は強過ぎる欲求に苛まれ続けていた。より広い空間を満たしたい、邪魔者を排除して純粋になりたい、という思いが、心の中で延々と叫び声を上げていたのだ。
それは間違いなく呪いのしわざで、理性は肥大化した欲望に負けて押さえつけられ、衰弱しつつあった。善悪の区別は曖昧になり、欲求が満たされないと、非常な苦痛と苛立ちを覚えた。
そして今。彼は、かつてないほどに激しく自己を主張する欲望に従って、宇宙の征服に取り組んでいる。
その仕事は途方もないスケールのもので、終わりの見える気配がまったくない。実際には有限であるにしても、主観的には無限と大して変わらないような距離が、自分と宇宙の果てとを隔てている。
フックスグリューンの屋敷にいた頃は、このような成功に手が届かない状況に陥ると、激しく心を掻き乱されたものだった。痛みのようなかゆみのような、耐えられない不快感に襲われ、かろうじて保っていた理性を、さらに削られていったものだった。
なのに、今の彼は、その苦痛を感じていない。
いや、わずかにぴりぴりとした刺激を感じてはいるが、楽に無視できる程度にまで弱まっている。欲望の叫び声も、逆に理性によって従えることができるようになった。
やりたいことをやらなければ苦しいからやる、というのではなく――やりたいことを、やりたいから、やる。
いつの間にか、そんな風に思えるようになっていた。
自己の拡張に全神経を集中していた『ドリンク・ミー』は、すさまじい勢いで巨大化していく自分の中で、呪いの力が水のように薄められてしまったことに気付かなかった。
呪いとは関係なく、種族としての本能によって、宇宙に満ちたいと思うようになっていた彼は、限界まで薄まった呪いを、自分自身の抵抗力で処理できるようになったことに気付かなかった。
動物が、血液中の悪いものを肝臓で分解するように、彼の体が、意識とまったく関係のないところで、すべてを終わらせてくれていた。『ドリンク・ミー』は、呪いの影響から完全に脱することに成功したのだ。
――さて、こうして健康体に戻った『ドリンク・ミー』だったが――彼は、それを自覚しないまま、野望を継続していた。
宇宙を手に入れるという仕事の難しさを正しく理解して、さっさと諦めて地上に帰ればいいものを、彼は取り戻した冷静さをフルに使い、どうすればこの難行をクリアできるかを考え始めた。
空間生物としての夢とロマンが、呪い以上に彼を盲目にしていたのだ。
まだ支配の及んでいない広大な領域を前にして、『ドリンク・ミー』は考える。
――自分を広げる速度が足りていない――いや、拡張速度を上げるのに必要なエネルギーが不足している。
魔力を、もっと注ぎ込まなければ。――そういえば、フックスグリューンの屋敷に留めている人間たちに、縮小魔法をかけたままだった――あの魔法は、効果を維持するだけでも魔力を食う。今は、人質を取るなんて無意味なことに魔力を使っている場合ではない――早く解除して、その分を自分の拡張に回さなくては――。
その思考は、月面からフックスグリューンの屋敷へと、瞬間的に伝わった。
少々遅くなりはしたが、彼とドジスケの取り引きが、やっと履行される時が来たのだ。床のタイルのミゾの中で、粗末な暮らしをしていた虜囚たちは、この直後、自分たちを閉じ込めていた檻の扉が開かれたのを知った。
■
屋敷を中心に吹き荒れる風の音によって、フックスグリューンの静寂は過去のものになっていたが、そこにさらに、新たな騒音が持ち込まれた。
「うわああああ」とか。「ぎゃああああ」とか。
戦場もかくやと思われるような、恐怖に満ちた絶叫が、いくつも重なって響き渡ったのだ。
この突然の騒ぎには、のんびりと傍観を決め込んでいたドジスケも驚かずにはいられなかった。びくっ、と肩を震わせ、慌てて立ち上がる。そして、叫び声のした方に目を向けた。
声がしたのは、屋敷の中からであった。開きっぱなしの玄関扉の向こうに、叫んでいる何者かがいるらしかった。
悲鳴の主の正体は、すぐに知れた。彼らは、その声だけでなく、体までもを、ポンポンと屋敷の外に投げ出してきたからだ。
まず飛び出してきたのは、毛皮の服をまとった、体格のいい壮年の男性だった。彼は屋敷の内から外へと流れる暴風に巻き上げられて、それこそ木の葉のように宙を舞い、フックスグリューンの草原に放り捨てられた。
同じように、何人もの若い男や女が風に揉まれ、弧を描くように吹き飛ばされ――柔らかい草原に、積み重なるように落下していく。
その数、実に十人。
「アリスさん……あの人たちって、もしかして」
「うん、間違いないと思うよ。『ドリンク・ミー』も、余計な魔力を使い続ける愚を、ようやく悟ったみたいだねー」
言うまでもなく、その十人は『ドリンク・ミー』によって縮小され、監禁されていた冒険者たちだった。かなり手荒なやり方で開放された彼らだったが、怪我をした運の悪い者はひとりもいないようで、ほどなく全員が起き上がると、きょとんとした様子で辺りを見回していた。
「あ、あたた……い、いったい何が起きたんじゃ……?
むっ、むむむっ! こ、この草原は……おおおっ! 見覚えがあるぞ! 帰って来れたのか、懐かしきフックスグリューンに!」
「ああっ! た、確かにフックスグリューンだ! やった、やったぞ! あの得体の知れない谷から脱出できたんだっ!」
「こ、これでノンノピルツに帰れる! ばんざい、ばんざーい!」
自分たちがどこにいるのかを把握した彼らは、次々に歓喜の声を上げた。
踊り出す者や、スキップをする者もいる。肩を組み、大笑いしている者たちもいる。自分の頬をつねって、夢じゃないか確かめている者もいる。行動は様々だが、みんな間違いなく喜んでいて、笑顔の数も間違いなく十あった。フックスグリューンの怪屋敷で消えた人々は、誰ひとり欠けることなく、無事に生還したのだ。
その様子を見て、ドジスケもアリスも、ほっと胸を撫で下ろしていた。行方不明者たちは生きている、という前提のもとに行動していた彼らだが、不幸な偶然が起きて死人が出ているかも知れない、という可能性も、ほんのちょっとだけは考えていたのだ。その忌むべき可能性が実現せずに終わったので、彼らはやっと、心から安堵することができた。
――いや。
まだ、本当に安心するには、早過ぎる。
十人の行方不明者は、確かに生きて帰った。だが、無事でいることを確認できていない相手が、もうひとり、いる。
「……ところで、ドジスケくん。あの人たちの中にさ、混ざってるように見える?」
「いえ、さっきから探してるんですけど……どうも、あの中にはいないようですね」
はしゃいでいる冒険者たちを遠巻きに眺めながら、アリスとドジスケは、小声で話し合う。
最後のひとりを、このふたりは見つけ出したかった。『ドリンク・ミー』によって隠されてしまった、彼らのかけがえのない友人を。アリスにとっては愉快な話し相手であり、ドジスケにとっては頼りがいのある相棒である、小さな小さなあの妖精を。
「いないはず、ないんですけどねー……どうしましょう、アリスさん? 一応、彼らに話を聞いてみましょうか? 行方不明になっていた間に、彼女を見かけなかったかどうか……あっ!」
ふと、冒険者たちの方から目を離して、屋敷の方を向いたドジスケの視界を――虹色のシャボン玉のようなものが、一瞬、横切った。
それは、彼のいる場所から少し離れたところを、へろへろと飛んでいた。緩やかな螺旋を描きながら、高く高く舞い上がったかと思うと、急にジグザグな動きに変わり、高度を落とし始める。
おそらく、つむじ風にでも翻弄されていたのだろう。その飛び方は、まるで目を回して方向を見失った人のようで、あまりにも危なっかしかった。
「ダッシュだよっ、ドジスケくんっ! あれが落っこちる前にキャッチしてっ!」
「合点です!」
同じものを見つけたアリスの命令に、ドジスケは間髪入れず応じた。
力強く大地を蹴り、虹色のシャボン玉までの距離を一気に詰める。手のひらをスプーンのように広げて差し出し――墜落しつつあったそれを、傷つけないようにそっとすくい取った。
「おっ、とっ、とっと……」
羽毛のように軽く、カーネーションの花びらのように柔らかい感触が、手の中で跳ねる。ここで、うっかり取り落としたりしたら大変だ。指先で繊細に包むようにして、安定を図る。
――ようやく、再会できた。
自分の手の中の、見慣れた小さな姿を確かめて、ドジスケは大きく息を吐いた。
別れていた時間は、全体を通して一時間もあったかどうか怪しい。だが、たったそれだけでも、会えないのはひどく心細かった。
ドジスケは騎士でありながら、臆病で、根性なしで、寂しがり屋だ。そんな彼にとって、相棒である彼女の存在は、けっして欠かすことのできない心の支えだった。
だから、彼女が無事に戻ってきてくれたことが、嬉しくて嬉しくて、たまらなかった。鼻の奥がつーんと熱くなり、視界が滲んだ。ぽろぽろ、ぽろぽろと、大粒の涙がこぼれ落ちる。まるで子供のように、彼は泣いた。
「姐さん。ご無事で、何よりです」
「あれ……ドジスケ、さん?
また泣いてるんですか? もう、駄目ですよー……あなたは騎士なんですから、もっとしっかりしないと。ね?」
泣き虫な騎士の手の中で、小さな妖精は目をぱちくりさせて、優しく言った。
疲れてはいるようだったが、気持ちは全然弱っていない。いつも通りの、頼りになるエインセールの姐さんだった。
次がおそらく、エピローグになると思うのじゃー。




