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助けを呼ぶ声

「あれはたぶん……天才というよりは、種族としての特性に近いんだろうなって、アリスは思うのですよ」

 鏡の中から、ドジスケの肩越しに――丘の上に立つ古びた屋敷を見やって、アリスは語る。

「もともと彼はねー、自分自身が大きくなったり小さくなったりする性質を持っていたの。だから、物体の大きさを変化させる魔法とも相性がよかったんじゃないかな~。

 特に、小さくする魔法に関しては、彼のライフワークというか……彼という種族の本能に直結してる部分があったから。そこら辺の大魔法使いより、ダントツで極まってる感じって言ってもいいだろうねー。

 エインセルセルも、他の十人の行方不明者たちも、彼の中に入ったと同時に、塵以下の以下のさらにそれ以下の、ちっぽけな姿にされちゃったはずだよ。しゃがみ込まないと見えないとか、くしゃみしたら飛んでっちゃうとか、そんな生やさしい縮め方じゃない、っていうのは断言できる。うん」

「そ……そこまでの使い手ですかい……」

 聞かされる敵の能力の凄まじさに、ドジスケは息を飲む。

 そして、消えた人たちの安否が心配になってきた。調査の名目で、屋敷の中をくまなく歩いて回ったドジスケである。小型化の魔法を受けて、目に見えないほどの大きさになってしまった人たちが、今のあの屋敷の中をさ迷っているのなら――もしかしたら、知らないうちに彼らを踏み潰してしまってはいないだろうか?

「んー、それは考えなくても大丈夫だと思う。『ドリンク・ミー』が本気で物体を小さくしたら、その縮小率はケタが違うから。

 塵以下の以下のさらにそれ以下の、って表現は比喩じゃないよー。そうだねー……前に遊びで、限界までアリスを小さくしてみてーって、『ドリンク・ミー』に頼んだことがあるんだけどね? その時は、ツルッツルのタイルの床が、大峡谷に見えるぐらいに縮められちゃった」

「タイルが……大峡谷に? どういう意味です?」

「ほら、どんなにぴかぴかでツルツルに見えるタイルでもさ? 虫眼鏡とかで拡大して見たら、表面に細かーい傷が、無数についてるもんでしょ? 赤ちゃんの産毛なんかより細いような、極微小の傷ね。それが、深さ何千メートル級の、おっそろしく巨大な谷に見えちゃうの。アリスはその谷の底に、ひとりっきりで取り残されてた。もうね、あれはね、この世の果てにでも来たのかと思っちゃったね。

 アリスは直接見ちゃいないけど、あの屋敷の床にもさ、そういう細かい傷やミゾはいーっぱいあるはずだよね。だったら、小さくなった被害者の皆さんは、そーゆーむちゃくちゃ深い谷の底を、うろうろしてるんじゃないかなぁ。

 キミが、彼らのいる床の上を歩き回っても、キミの靴底の方が床の傷より、何億何兆倍も広いはずだからねー。谷を靴底がフタをするように覆うことはあっても、その底で這いずってる人たちを、ブチブチーって潰しちゃうことはないはずだよー」

「そういう、もんですか」

「そういうもんなのです。アリスだってたまには、曖昧に誤魔化さないで、キッパリハッキリと断言することもあるんだからねー。ここは素直にアリスの言葉を受け入れて、ホッと安心しちゃうといいよ!」

 腰に手を当て、胸を張って、自信を全身で表現してみせるアリス。その姿は姫らしく堂々としていて、信頼できる。

 彼女の言う通り、消えた人たちは無事でいるのだろう。そのことを疑い続けるつもりは、ドジスケにはなかった。しかし――アリスのことを信じられるからこそ、頭を抱えなくてはならない点もあった。

 無人の屋敷に潜み、十一人もの人間(うちひとりは妖精)を消し去った怪物、『ドリンク・ミー』。

 それが、物体を巨大化・小型化する魔法のスペシャリストである、ということはわかったが――いまだに『ドリンク・ミー』が、『何』なのか、わからない。

 アリス曰く、人間でも、亜人でもなく。魔物かどうかも怪しいし、生き物だとも言い切れない、らしい。

 アリス曰く、大きくなったり小さくなったりするらしい。

 アリス曰く、『ドリンク・ミー』の中に、エインセールたちは入ったらしい。

 ――本当に、『何』だ。

「まさかとは思いますが、あの屋敷そのものが、奴だなんて言いませんでしょうね? 自我を持った、生きた建物……お化け屋敷の類いだとか?」

 ドジスケは、半ば冗談のつもりでそう言ったのだが、アリスの返事はそれを笑い飛ばすものではなく、肯定に近いものだった。

「うん、その考えでほとんど合ってるよー。

 ただ、彼は屋敷そのものじゃない。『ドリンク・ミー』、その正体はね、【自分以外の境界に依存する、閉じられた三次元空間】なんだ。あの屋敷の内側にわだかまっている、空っぽな空間が自我を持ち、魔法を使えるようになったもの。それこそが、『ドリンク・ミー』の正確な定義だよ」

「自我を持った、空間そのもの……」

 この解答は、さすがのドジスケにとっても予想外のものだった。

 空間。幅、奥行き、高さという三つのベクトルによって表される、実体なき数学的存在。

「それは、屋敷そのもの……とは、また違うのですね?」

「違う。あそこに見えている屋敷は、たとえて言うなら『ドリンク・ミー』にとっての服みたいなものだよー。あくまで彼の実体は、その内側の空っぽなスペースだけなの。

 床、壁、扉、窓、天井。それらの境界によって区切られ、閉ざされて、初めて『ドリンク・ミー』は『ドリンク・ミー』自身になる。開口部がひとつでもあると、彼は自己を確立できずに、その自我と魔法の力を弱らせちゃう。

 ドジスケくん、キミとエインセルセルは、昨日からずっとあの屋敷にいたでしょ? 屋敷の中を探索したり、お食事を作って食べたり、ぐーぐーイビキをかいて眠ったりもしたよね。それは全部、『ドリンク・ミー』のお腹の中でしていたことなんだよ。たぶん、ずっと、ずーっと、『ドリンク・ミー』はキミたちのことを監視していたし、隙あらば魔法をかけて、小さくしてしまおうと企んでいたはず。

 でも、エインセルセルが消されちゃったのは、今朝になってから。キミに至っては、小さくされることもなく、無事に屋敷の外に出ることを許された。

 なぜだと思う? 答えは簡単。『ドリンク・ミー』は、周囲を完全に壁で囲まれた状態でないと、魔法を行使できないから。きっと、キミはずっと、そばに開口部がある空間で過ごしていたんだろうね。窓や扉を開けっ放しにしていたとか、心当たりがないかなー?

 対して、エインセルセルや行方不明者たちは、部屋の中にいる時に、窓や扉を完全に閉めちゃったんじゃないか、って思うよ。空間を完全に閉ざして、密室を作り出して――『ドリンク・ミー』の存在を確立させてしまった。その瞬間、彼は物体を小さくする魔法を行使して、哀れな被害者を目に見えないちっぽけなものに変えてしまった……」

 アリスの言葉を聞きながら、ドジスケは思い出す。

 心当たりは、あった。彼は、屋敷の入り口の扉を、開けっ放しにして閉じないようにしておいた。それが開口部であり、『ドリンク・ミー』の力を殺ぐ瑕疵であったのだろう。

 エインセールが消えたのも、ちょうど、アリスが指摘したような状況でのことだった。彼女は、ある部屋の扉を閉めに行ったのだ。風に煽られた扉が、閉じたり開いたりしていて、それがどうにも気になって、放っておけなかったから。

 風で扉が開閉していたということは、その部屋の中の窓が開いていたからではないだろうか。外から空気が流れ込んでこないと、扉は勝手に動いたりしないものだ。

 ――エインセールは、扉を閉めようとして、窓が開いているのにも気付いてしまった。そこで、部屋の中に入り、開いていた窓を閉める――風の流れが止まる。しかし、扉はそれまで風を受けていた惰性で、まだ動き続けていて――エインセールが部屋の外に出る前に、ぱたん、と音を立てて閉じてしまう。その瞬間、その部屋は開口部のない、閉ざされた空間となり――『ドリンク・ミー』へと変貌した。

 つじつまは合う。謎に満ちたエインセールの失踪が、完全に説明できてしまう。おそらく、これが真実なのだろう。あのがらんとした部屋の中で、小さな妖精は小さくなる魔法をかけられ、さらにさらに小さくなってしまい、ドジスケの視界から消されてしまった。

「誰が、どうやって、というのはわかりました。でも、なぜなんです? その『ドリンク・ミー』は、どうして姐さんを……屋敷の中に入った人たちを消していくんです?

 空間ってことは、メシを食ったりする必要はないんでしょう。なぜそんな、動物が獲物を補食するような、ひどいマネをするんです?」

「そこなんだよねー。問題は。アリスの知る限り、『ドリンク・ミー』は、そんな迷惑なことをする奴じゃなかったんだけどねー」

 その問いかけに、アリスは首を傾げ、少し思案するような様子を見せた。

「彼がアリスに、体を小さくするお薬とか、逆に体を大きくするケーキとかを渡して、いろいろ翻弄してくれたことは覚えてるよね? もし『ドリンク・ミー』がやるとしたら、ああいう他愛もない悪戯なんだよね。彼はお調子者でさー、自分の魔法で人が右往左往するのを見るのが、とってもとっても好きみたいだった。

 食べると大きくなるキノコや果実を、あちこちに植えてみたり……シェーンウィードの植物を手当たり次第でっかくして、何が大きくて誰が小さいのか、まるっきり判別できなくしちゃったり。ノンノピルツ周辺で見られる、『ものの大きさ』に関わる異常は、だいたい彼の悪戯の結果だね。でも、どれも見た目が奇妙になるだけで、さほど迷惑じゃない。人の生活に支障が出るような、度を超えたワルいことは、絶対にしないようにしてた。

 だから、今回の事件には、彼の精神を感じられないの。理性を失った動物が、本能のままに、自分にとって邪魔になるものを排除している……そんな風な状況に見えるんだよね」

「理性を失って……まさか」

「うん。ドジスケくん、キミは同じような例を、よく知っているよね? 日々、理性を失った凶暴なものたちと戦っているんだもの。

 今の『ドリンク・ミー』は、世界中にあふれている魔物たちと同じだよ。心の底まで、がっつり呪われちゃってる……この鏡を通して、あの屋敷を遠目に観察しただけで、呪いが建物全体に渦を巻いてるのが、はっきりわかるね。

 まさか、呪いが生き物だけじゃなくて、空間まで冒すものだなんて。ちょっと予想外だったなー……あ、いや、そう意外でもないかな? いばらの塔だって、各階層ごとに濃厚な呪いで満ち満ちてるしねー。同じ状態と考えていいかも」

 ドジスケは、『ドリンク・ミー』が潜んでいる屋敷を、恐怖を持って見つめた。

 長い時間をそこで重ねてきた、重々しいひとつの建物。その内側に、呪いの力が蓄積し、中にいる者に邪悪な効果を与えているのだ。

 ドジスケもエインセールも、その呪われた空間の中で、一昼夜を過ごした。普通ならば、呪いで満たされた場所に長くいれば、精神なり肉体なりに異常が生じるはずである。なのに、彼らが何ともなかったのは、『ドリンク・ミー』という空間生物に、呪いが固着してしまっていたからなのだろう。呪われた空間は、空間の魔物となり、蟻地獄のようにその中に飛び込んだものを害する、恐るべき罠として機能するようになったのだ。

「今の『ドリンク・ミー』は、悪戯好きのお調子者ではないのですね? 人に迷惑をかけることも顧みず、加減も遠慮もせず、ただただ本能に従って行動しているんですね?

 だとしたら……彼の本能ってのは、いったい何です? 空間の生態系なんぞ、あたしには想像もできないんですが……美味いものを食いたいとか、ぐっすり落ち着いて寝たいとか、そういう望みが、彼にもあるんですか? 中に入ってきた人たちを片っ端から小さくして、どんな欲求が満たされるって言うんです?」

「うん、いいところに気付いたねー、ドジスケくん! もちろん、彼にも彼なりの欲求や、生きていく上で必要なものがあるのですよー。

 アリスの知る限り、『ドリンク・ミー』にとっての、主な欲求はふたつ。自分を拡張することと、自分を純粋にすること。これらの行為に、彼は快感と生きがいを感じるらしいの。

 拡張の欲求は、より広い空間を占めることで満たされる。小さなビンの中より、閉ざされた部屋の中。狭い部屋より広い部屋。お部屋ひとつより、屋敷全体……という風に、より大きなスペースを彼は好むの。壁や床、天井といった境界を認識できれば、彼はそれによって囲まれた部分を満たすように自分を拡張する。そうして体積を大きくするたびに、彼は自身の成長を自覚し、人間がお腹いっぱいのごちそうを食べた時のような、深い満足感を得る。

 純粋の欲求は、自分の内部をできる限り空っぽにすることで満たされる。たとえばねー、ひとつの部屋の中を彼が占めた場合、その中に家具だとかゴミだとかがあって、ゴチャゴチャした感じになっていると、ちょっとストレスみたい。そういう時は、お得意の縮小魔法を使ってね、自分の中にある余計なものを、見えなくなるまで小さくしちゃう。空気中を漂ってるホコリだとか、窓にこびりついてる汚れだとか、そういった邪魔ものも容赦なく縮めて、ないも同然にしちゃうね。

 要するに、めっちゃくちゃキレイ好き? 彼に家のお掃除を頼んだりしたら、すごいことになるよー。以前、赤の女王のイザベラが、お城の大掃除を『ドリンク・ミー』にやらせたことがあったんだけど……彼ね、広大なお城の内部空間全体に、二秒もかからず満ち満ちて、その上で縮小魔法を駆使して、隅から隅までピッカピカにしてくれたの! でも、よっぽど注意して頼まないと、ホコリや汚れだけじゃなく、家具とか必要なものまで目に見えないサイズにしちゃうから、注意が必要だね!」

 なるほど、だからか――と、ドジスケは納得する。

 そのふたつの欲求が、『ドリンク・ミー』という生物の根底にあるのなら、今回の事件はまさに、それらを満たすために起こされたものだったのだろう。

 呪われた『ドリンク・ミー』は、自分の内部を空っぽに、純粋にするために行動していた。屋敷の中に家具がなかったのは、彼が自分の中を純粋にするため、縮小魔法で縮めて消し去ったのだろう。床の汚れや、窓の曇りも、生じるたびに縮めて、見えなくしていた。そして、自分の領域である屋敷の中に入ってきた人々までも、同じように始末していったのだ。

 殺すことでも、捕食することでも、さらうことでもない。単純な排除が、彼の目的。

 多少なりとも考える力があれば、侵入者たちに対して「出ていけ」とでも声をかけただろう。あるいは、かつてアリスをからかった時のように、悪戯を仕掛けて追い出そうとしただろう。

 しかし、呪いによって理性を失っていた彼は、一番手っ取り早い方法を取るようになっていた。魔法を使って消してしまえる相手は、片っ端から消していった。小さくした人たちが行方不明者扱いになり、その縁者たちが騒ぎ始め、クエスト協会が調査に乗り出すなどとは、思いもせずに。

「しかし、アリスさん。あなたよく、今回の事件が、その……『ドリンク・ミー』とかいう、あなたのお知り合いの仕業だとわかりましたね? 直接、この屋敷に来てもいないでしょうに……」

「んふっふー。アリスはアリスで、ドジスケくんじゃないからね! 事前知識のある人とない人とじゃ、ものの見方が違って当たり前さんなのです!

 キミが今回の仕事の依頼を受けて、その屋敷に出発した時にはもう、アリスはことの真相を知っていたといっても過言ではないよー。クエスト協会でキミが読んだ依頼状は、キミが受注すると同時に、キミの上司であるアリスのところにも回されてきたのです。それに目を通したら……いろいろ気になるキーワードがゴロゴロしてるんだものー。家具も何もない空っぽな屋敷? 床も窓も、きちんと掃除されてるみたいにぴかぴかで清潔? そんな中で、人がかき消えたみたいに失踪する? あっちゃー、こりゃあいつのしわざだなーって、一瞬あれば気付いちゃうよ! そしてもちろん、ドジスケくんじゃ、どー頑張ってもこの事件、解決できないってこともねー」

 最後のひと言は、ドジスケを軽んじているかのような意味合いを持ってはいたが、アリスにそんなつもりは微塵もなかった。彼女はただ、純然たる事実を口にしただけに過ぎない。

 そう、そのことは、ドジスケにも容易に理解できた。事件の黒幕である、『ドリンク・ミー』なる怪物の正体を知った以上、自分でもどうにかできる相手だ、とは、ちょっと言えなくなっていた。

「ドジスケくんは恐がりで根性なしだけど、けっして弱くない……フツーの魔物であれば、問題なく倒せるだけの力量があるって、アリスはちゃーんとわかってる。

 でも、今回の敵は空間そのものだからねー。殴っても蹴っても、大鎌で斬りつけても当たらない。もちろん、攻撃魔法も通用しない。そんな『ドリンク・ミー』を、どうやれば相手取れるだろうね? 答えはただひとつ、不可能のひと言だよ。

 だから、この事件を解決するには……アリスが手を出すしかないだろうなーって、初めから思ってた。キミとエインセルセルには、屋敷が依頼状の内容通りの状況になっているかどうかだけを確認してもらって、キリのいいところで呼び戻すつもりだった。そのあとは、このアリスが、全方位丸く収まるように、ちゃちゃーって片付けにかかるつもりでいたのです」

「アリスさんなら、『ドリンク・ミー』を……空間の魔物を、どうにかできると?」

「できる。アリスはとーっても優秀で天才な、魔法の研究家だからね! あの屋敷で猛威を振るいまくってる『ドリンク・ミー』ほどのプロフェッショナルじゃないけど、物体の拡大・縮小魔法についても、いくらかカジってはいるのです。

 ちょうど今、アリスの研究室で製作中なーのーがー……わわっと、危ない、こぼすとこだった! ……ローズリーフを材料にした、退魔力効果のあるお香なんだー。これを陶器の香炉に入れて、屋敷の中で焚けばね、魔力を中和する煙が辺り一面に広がって――『ドリンク・ミー』の内部に蓄積されている呪いも、彼のかけた縮小魔法の力も、雪の結晶を火であぶるみたいに、しゅわしゅわしゅわ~って消し飛ばしちゃう!

『ドリンク・ミー』は正気に戻るし、ちっちゃくされた行方不明者たちも、もとの大きさに戻ることができる……すべての問題を、きれいさっぱり解決できちゃうというわけー! すごいでしょ!」

「おおっ! そ、そりゃー確かに見事です! よくぞ、よくぞそんないいものを作って下さいました! さすがとしか言いようがありませんよ!」

 ドジスケは、アリスの発明を手放しで褒め称えた。

 実際、彼のような魔法学の素人にも、そのお香の素晴らしさはよく理解できた。特に気に入ったのは、怪我をする危険を冒さず、一方的に相手を無力化できるという点だ。ドジスケにとっては、安全性こそ、何にも増して優先されるべきステータスなのだった。

「それで、アリスさん。その素晴らしいお香は、もう出来上がっておりますんで? どうせなら、なるべく早く使わせてもらって、この事件を片付けてしまいたいんですが……」

「ん、焦らない焦らない~。正直なことを白状すると、まだ完成してはいないんだー。進行具合は、現時点で九十二パーセントってところだねー。

 敵が『ドリンク・ミー』だって判明した時点で、作り始めてはいたんだけど。三時間煮込んでみたり、四時間寝かせてみたり、五時間かき混ぜたりしなくちゃいけなくて、もー大変なの! 今もこうしておしゃべりしながら、じっくり有効成分を沈澱させてるところー。

 でもでもー、それでもあと三時間もあれば、しっかり完璧に仕上がるはずだよー! だからドジスケくん、今から一度、アリスのところに帰ってきて! キミがちょうどノンノピルツにたどり着く頃に、お香は完成すると思う。出来上がったお香を持って、またその屋敷にとんぼ返りすれば……」

「無駄な時間を使わずに済む、ってわけですな。確かにそれなら、一番手っ取り早く、事態を収拾できそうだ。

 了解しました、すぐにそちらへ向かいましょう……。しかし、その間、エインセールの姐さんを、ひとりであの屋敷に置き去りにしちまうことになりますが……」

「んー。エインセルセルにとっては、ちょっと心細いかも知れないねー。でも、キミがそのことに罪悪感を覚える必要はないんじゃないかな? キミがそこに居続けても、彼女を助けることはできないし、彼女の寂しさを紛らわせてあげることもできないんだから。

 それに、しばらく放っておいても、危険はないはずだよー。『ドリンク・ミー』は、あくまで縮めるだけしかしないから、エインセルセルを怪我させるとか、殺すとかいうことは、たぶんしないし。

 時間的に、食事も済ませたあとなんでしょ? だったら、半日程度じゃ飢え死にすることもないはず。ぱぱーっとこっちに帰ってきて、ぱぱぱーっとそっちに戻れば、エインセルセルも恨まないよ! むしろ、速やかに助けてくれたドジスケくんに感激して、ほっぺにちゅーぐらいはしてくれるかもね! けらけらけらけら!」

「変な冗談はよして下さいよ、アリスさん。あの姐さんがそんなタマですか。

 でもまあ、やっぱり、さっさとそちらに帰るのが、姐さんのためにも一番よさそうですな。それじゃ、大急ぎで帰りますよ……そっちに着いたらすぐ持ち出せるよう、お香を出しておいてもらえますね?」

「モチのロン! 香炉やマッチと一緒に、キレイな包装紙に包んで用意しておくよ!」

 力強いアリスの言葉に、ドジスケは頷く。

 事件解決へのお膳立ては、完全にできていた。不安要素のほとんどは、すでに排除されている。あとはドジスケが、フックスグリューンの屋敷とノンノピルツを往復するだけで、すべて丸く収まるのだ。

 アリスのお香によって、呪われた『ドリンク・ミー』は正気に戻るだろう。行方不明の冒険者たちとエインセールは、無事に帰ってくるだろう。

 ドジスケは、怖い魔物と戦ったりしなくていい。疲れる冒険も、面倒な駆け引きもしなくていい。すでに示された道の上を進み、何も考えることなく、ハッピーエンドを享受すればよかった。

 そう。本当なら、そうできていたはずだった。

 ちょっとした運命の悪戯が。あるいは、ちょっとした気の迷いが。彼の後ろ髪を掴むような真似をしなければ。

 すべては、もっと穏やかに、片付いていた。


 ――助けて――。


 風に紛れるように。

 あるいは、草が囁いたかのように。

 微かな言葉が、流れた。

 その不思議な感覚を受けて、ドジスケの足が止まる。

 彼は、首を傾げながら、辺りを見回した。何か、聞こえたような気がした――いや、そんなはずはない、と、頭の中で否定しつつも、つい、耳を澄ませてしまう。


 ――助けて――。


 また、聞こえた。

 気のせいではない。間違いでもない。

 フックスグリューンの広々とした空の下、草原を渡る風の中で、彼に向けられたメッセージが渦巻いた。


 ――助けに来て――。

 ――ドジスケさ――ア――様――。

 ――早く私を、助けに来て――。


 ドジスケの額に、脂汗が生じる。

 表情が強張り、上下の歯がかちかちと鳴り始める。肩がぶるぶると震え、普段から丸まっている背中が、何かを恥じるように、さらに丸くなった。

「――アリスさん。聞こえてますか?

 申しわけありません……ちょっと、そちらに帰れなくなりました」

 震える手で手鏡を握り、彼は鏡面の向こう側にいるアリスに、涙声でそう告げた。

 これには、さすがのアリスも慌てた。いや、慌てたというよりは、彼女の指示に騎士が突然反したことを、不可解に思い――疑問と、苛立ちと、興味と、ほんの少しの胡椒とを混ぜたような気持ちを生じさせた。

「どうしたの、ドジスケくん? 言っておくけど、あまり寄り道とかはして欲しくないよ?

 別に切羽詰まってはいないし、事件がキレイに片付くことも決定してる。でも、なるべくなら早めに全部終わらせたい。エインセルセルはともかく、他の行方不明者たちは、すでに何日も、タイルのミゾの中でサバイバル生活を続けてるはずだからねー。全員冒険者だから、最低限の生きていく技術は持ってるだろうし、生命の心配はしてないけど……それでも、救出は早いに越したことはないでしょ?

 帰るのを遅らせたいなら、それなりの理由を示してもらいたいねー。あ、これ、雇い主から騎士への命令だから。答えないことは許さないし、つまらないことを言うのも許さないよ。

 どーして、キミは、ここに帰れないなんて、言ったのかな?」

 普段のアリスとは少し違う、その硬質なその問いかけに、ドジスケは少しビビりかけたが――しかしそれでも、乾きかけた舌を動かして、正直に理由を話した。

「助けてって声が、聞こえたんです。今」

「……………………」

「古都にいた時と、同じです。誰かからの、助けを呼ぶ声が聞こえたんです。悲しいような、すがるような……ひどくつらそうな声が、聞こえたんです。

 さっき聞こえたのは、聞き覚えのある声でしたよ。ええ、聞き間違いなんかじゃありません……あれは間違いなく、エインセールの姐さんの声でした。

 アリスさん。何時間もかけて、そちらに戻っているヒマは、ありません。何が起きてるのかはわかりませんが、姐さんの身に、危険が迫ってる。今すぐに手をさしのべないと、て、手遅れになるかも知れない。それだけは……それだけは、さ、さ、避けなくては……いけません。助けに行かないと、いけないんです」

 ドジスケは、震える声で――言葉の中に、隠しきれない恐怖を滲ませて――断言した。

 彼は臆病者である。自分自身が言っていることを、受け入れることを恐れている。

 楽で、成功間違いなしの道を捨てて。他の方法で問題と向き合わなければならないことを、怖がっている。

 だが。

 誰かに助けを求められると、無視できない性格でもある。

 すがりつく手を振り払って、逃げることができない。それをしたあとの罪悪感が、どれだけ重いか。それを想像するだけで、我慢がならなくなる。

 エインセールが、呼んでいる。

 助けて欲しいと、そばに来て欲しいと、ドジスケに向かって叫んでいる。

 その声が、本当に届くことはあり得ない。砂粒より小さくなったエインセールの声は、現実の距離で一ミリメートル先にすら響かない。

 なのに、その思いは、どのような奇跡によってか、ドジスケの心に届いた。

 届いてしまったら、もういけない。

 何とかしてやらなければならないと、ドジスケは思わずにはいられなくなった。助けを呼ぶ声には、「ちょっと待ってて」が通用するような余裕は感じられなかった。相棒の妖精が、今まさにピンチに陥っているのなら、今すぐに救い出しにいかなくてはならない。

 きびすを返し、屋敷に向かう。

 その動きを、鏡の向こうのアリスも見ていた。

「立ち向かう、っていうの? 今から?」

「そうです。そうするしかないんですよ……アリスさん」

「攻撃不可能な空間生物である『ドリンク・ミー』に? 強力無比で必殺の、アリスのお香を使わずに、挑むっていうの?」

「そうです。そうするしかありません」

「キミの武器のイーオーサイズは、強力だけどさー……通じないよ? 絶対」

「わかっています。ちゃんと」

 アリスが懐疑的な言葉を投げかけても、ドジスケの足は止まらない。

 やけっぱちと言ってもいい。無謀と言ってもいい。そんな行軍である。しかし、それを止められる者は誰もいない。

 アリスも、それ以上否定的な疑いの言葉はかけなかった。臆病者は、そう簡単に意地を張らない――意地を通すだけの精神力に欠けるからだが、それがもし張り通そうと決意したなら――その覚悟は、並ではない。意見を翻させるのは、まず無理だろう。

 だから彼女は、こう尋ねた。疑いではなく、単なる質問として。

「じゃあ、ドジスケくん……キミはいったい、どうするつもりなの?」

「まあ、選択肢がないことは確かです。もちろん、どんなやり方を選んだところで、アリスさんのやり方ほどの確実性もありませんが」

 そこまで言ってから、人目をはばかるように、声を潜めて。

 彼は、アリスにだけ聞こえるように、こう続けた。

「結局は、そうですな……説得するか、騙すか。あたしにできるとしたら、そのいずれかしかないでしょうなぁ……」

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