消失
――『彼』は、闇の中から静かに、侵入者たちの営みを見つめていた。
できれば今すぐにでも排除したかったが、『彼』が力を使うための条件がまだ整っていない。相手が自発的に立ち去ってくれるのなら、それが一番いいのだが、それを待つのはひどくつらかった。
最近、異様に気が短くなっていると、『彼』は自覚していた。
他人の存在が許せない。自分から純粋さを奪う、あらゆる物体の存在が許せない。強迫的なまでに、そう思ってしまう。自分でも止めることができない。
これはもしかして、世界を騒がせている呪いというものの影響なのだろうか。
そうだとしたら、あまりに恐ろしいことだ――なぜって、どうすればその呪いから逃れられるのか、まったくわからないからだ。
いずれ自分も、理性を失って暴れ回る、醜い魔物と同じようになってしまうのだろうか。
『彼』は、己の行く末を恐れ、悩み、苦しんだ。しかし、その迷いは長続きしない。
侵入者たちへの憎悪が常に心の中心にあり、それがあらゆる感情を塗り潰してしまうからだ。
『彼』は燃えるような悪意を秘めて、もう一度侵入者たちに注目する。
大柄な人間の男と、小さな妖精の少女というアンバランスなコンビだ。
彼らを排除しなければならない。目に見えないように、感じ取れないようにしてやらなければならない。
『彼』は待つ。苦痛と苛立ちをこらえながら。
ただただ、相手が条件を満たしてくれる、その瞬間を。
■
「ドージスーケさーん、起ーきーてー。朝ですよー!」
左耳に直接飛び込んできたソプラノによって、ドジスケの意識は浅い眠りからすくい上げられた。
硬い床に寝そべらせていた体を起こし、軽く背伸びをして、強張った筋肉をほぐす。時刻は午前六時。夜は過ぎ去り、また新しい一日が始まろうとしていた。
「うーっ、よく寝た……おはようございます、姐さん」
「はいっ、おはようございます、ドジスケさん。今日もお仕事、頑張りましょうねっ」
パタパタと虹色の羽根を羽ばたかせるエインセールは、この日も絶好調のようだ。深夜の三時から今に至るまで、ずっと起きて見張りをしていたはずなのだが、疲れている様子は微塵も見られない。
「あたしが寝ている間、何か変わったことは?」
「なーんにも。静かで暗くて、ただひたすら退屈でしたよぅ。夜行性の魔物が現れるんじゃないかって、かなり真剣に期待してたんですけどねー」
残念そうにエインセールは言うが、ドジスケはその期待が叶わなくてよかった、と安堵していた。もし本当に何か出現していたら、彼は気持ちよく眠っているところを叩き起こされて、望まない戦闘をさせられていただろうから。
「まあ、危ないことがなかったんなら、それはそれでいいじゃないですか。それより、朝ごはんにしましょうや……昨日の晩に食った量が少なかったせいか、どうも空腹感が強くて……」
「もー。だから言ったじゃないですか。しっかり食べないと力が出ないって! 携帯食糧のストックは充分ありますから、今日はもりもり食べましょうね!
あ、でも、まずはその前に、井戸の水で顔洗ってきて下さい! お姫様に仕える騎士なんですから、身だしなみをちゃんと整えておかないと、アリス様にハジかかせちゃいますよー! 寝ぐせを直して、ヒゲもちゃんと剃って……そうそう、歯磨きも忘れないで下さいね!」
ドジスケの荷物が入った雑嚢に頭を突っ込んで、タオルとか櫛とか歯ブラシとか剃刀を取り出してくるこの小さな妖精は、相棒だとか姐さんというより、もはやお母さんと呼んだ方が相応しい存在であるかも知れなかった。
体の大きなダメ息子は、必要な道具を受け取ると、よたよたとした足取りで水場へと向かう。さすがに、まだある程度の眠気は残っているらしい。べとつくハチミツのようにまとわりついてくるそれを、井戸の冷たい水でバシャバシャと顔を洗うことで振り払う。
井戸小屋に鏡はなかったが、ちょうど懐に鏡を入れていたので、それを見ながらヒゲ剃りも済ませる。昨夜、アリスと話をするのに使った、マジック・アイテムの手鏡である。メインの機能は遠くにいる相手との連絡であるが、通話状態にない場合には、普通の鏡として使うことができた。
――慎重に剃刀を操りながら、ドジスケはアリスとのやり取りを思い出す。
彼女は、行方不明者たちが生きているという前提で調査を進めろ、と指示してきた。その理由も説明してはくれたが、おそらくそれは、複雑にねじ曲がった立体図形の一面に過ぎないであろうと、ドジスケは読んでいる。
アリスは、間違いなく隠し事をしていた。もちろん、彼女の性格から考えて、悪意からそうしているのではないだろう。知らせるつもりがない、というのなら、それでも構わない。
ただ、行方不明者たちが生きていると、ドジスケがそう考えているとアピールするために、どのような調査をすればいいのだろうか?
事件の真相がどのようなものか、という点から考えてみよう。被害者たちは、誘拐されて監禁されている。閉じ込める系の罠に嵌まって、脱出できなくなっている。何かの事故や事件に巻き込まれたわけじゃなく、自分の意思で姿を消した――考えられるパターンはそんなところだが、それを証明するために、まずどこから手をつければいいのか。
屋敷の中では、まだ何も見つけられていない。人を閉じ込められるような隠しスペースだとか、悪事に使えそうな仕掛けはなかった。もし、消えた人たちが自分で隠れたのであれば、重要なのはこの屋敷そのものではなく、当人たちのプロフィールということになる。消えた全員に失踪する理由があった、と考えることはできるだろうか? もし、そんな事情があったとして、なぜ全員が、この屋敷でいなくなった、ということにしなければならなかったのか? そんな怪奇現象を演出する必要がどこにある?
考えがまとまらず、ドジスケは肩を落とした。確実な情報があまりにも少なく、思いつくのは仮説は説得力に欠けるものばかりだ。
どうにも、手がかりが足りていない。高いところにある目的地へ行かなければならないのに、そこへ上がっていくための階段が見つからないような雰囲気だった。
階段の一段目に足をかけることができれば、あとはただ前へ進むだけで、真相にたどり着けるのではないか。そんな予感がしている。異界の名探偵が事件を解決する時には、その優れた観察眼で細かな手がかりを集め、パズルのように組み合わせて、隠された真実を浮かび上がらせるものだが、ドジスケが関わったこの失踪事件は、そういう複雑なものには思えないのだ。分析や推理などといった、知的な仕事が必要なのではなく、何かひとつのことを発見すれば、それで全部が終わるような、単純な事件なのではないか?
なぜ、ドジスケはそんな風に思うのか。
根拠はただひとつ。アリスの態度が怪しかったからだ。
名探偵なんかではない彼ですら不審に思うくらい、何かを秘密にしているのがバレバレだったからだ。
そして、秘密を持っているということは、重要な何かを知っている、ということを意味する。
アリスは、この屋敷で起きた失踪事件について知るにあたって、クエスト協会にあった依頼状の写しを読むくらいしかできなかったはずだ。現場を直接調べてもいない。それなのに、ドジスケに隠すような情報を持っている。
なぜか?
きっと、あらかじめ知っていたのだ。
ドジスケが、今回の仕事を受けるより前から。
人が消えるという現象についてか。行方不明者たちのプロフィールについてか。それとも、フックスグリューンの屋敷の歴史についてか。
とにかく、真相につながるような事前知識を、最初から持っていたはずなのだ。
だから、彼女はあまり深刻そうにしていない。
絶望的な予測を否定し、わざわざ希望的観測に誘導するようなことまでした。
それで大丈夫だと、わかっているからだ。
「……やっぱり、とぼけたりせずに、ちゃんと問い詰めておくべきだったんですかねえ……そうすりゃ、話が早かったのは確かなんですが……」
軽い後悔の気持ちとともに、ドジスケはヒゲ剃りを終えた。
気の弱い彼は、突っ込んだ行動を取ることに抵抗を覚える。相手が隠し事をしているな、と直感しても、そこを弱点と見て攻め込むようなことはしない。触らぬ神に祟りなし。君子危うきに近寄らず。出っ張ってない杭は打たれない。波風を立てず、無難にやり過ごせれば、それが一番だと思っている。
(――アリスさんの不興を買わないよう、遠回しに探りを入れるというのはどうか)
(――揉み手をしながらご機嫌を取って、知ってることを教えて下さいなと甘えてみるのは?)
(――フルーツで有名なルチコル村に寄って、美味しいオレンジのタルトをお土産に買って帰るとか言えば、大喜びして秘密を漏らしてくれたり……するかなぁ……しないかな)
どうにも卑屈な香りのする案を、わりと真剣に検討していくドジスケ。彼も、アリスとは違った意味でのひねくれ者だったので、率直に尋ねれば普通に答えてくれるんじゃないか、などという当たり前の発想が出てこない。
考えながらも、手はしっかり動かしている。濡らしたタオルと櫛を使って、寝ぐせを整える。全体的に短く刈り揃えているだけのヘアスタイルなので、あっという間に片が付く。その代わり、歯を磨くことには時間をかけた。アリスと一緒に紅茶を飲む機会が多い彼は、甘いお茶菓子もよく食べる。そのため、虫歯は魔物と同じくらい身近な恐怖だった。
(まあとにかく、あとでもう一度アリスさんに連絡を入れることはしておきますか。オレンジのタルトを差し出して、反応を見るのは確定として、それでダメならアップルパイとかブドウのゼリーもつけることにして……)
甘いもののことを考えながら歯磨きを済ませ、エインセールのところに戻る。
彼女は玄関ホールにはおらず、炊事場に移動していた。かまどの中に枯れ枝と藁を放り込み、導きのランタンから火を移している。かまどの前には、缶詰や鍋、パンの袋などもちゃんと並べてあり、調理を始める準備は万端のようだった。
「戻りましたよ、姐さん。今朝のメニューは何にしましょうね?」
「あ、ドジスケさん! ちょうどいい時に来てくれました!
今朝はですね、パンがゆにしたいんですよー! 昨日のチキンブロスの汁がだいぶ残ってるので、それでパンを煮てふやかそうと思うんです! 固いパンがとろとろになって、絶対美味しいですよー!」
「ほほう! そりゃーいい考えですな!」
「でしょー? というわけで、さあさあ、お鍋をかまどにかけて下さいな!
チキンブロスの汁が入った缶はそれ。パンは私とあなたで、四つぐらい使いましょう。あ、そうそう、さっきちらっと外を見たら、玄関先にパセリが生えてたんですよ。少し摘んできましたので、風味付けに入れてみるのはどうでしょう?」
エインセールの指示に従って、ドジスケは一時的に料理人となる。かまどに鍋をかけ、必要な材料を放り込むと、弱火でじっくりコトコト煮込み始めた。
鍋に張られたスープから湯気が立ち、美味そうな香りが漂う。それはドジスケとエインセールの空腹感を刺激した上で、かまどの上の煙突を抜けて、フックスグリューンの空を吹き渡る風に溶けていった。
屋敷に足を踏み入れてから、すでに半日以上が経過している。ずっと警戒していたにも関わらず、終始平和で何事も起きなかったので、ふたりは油断していた。
ドジスケは出来上がったパンがゆを、今度こそ味わって食べた。しっかり煮込まれた鶏肉の旨味に舌鼓を打ち、腹に溜まるパンの暖かさに癒される。食べながら二度寝できたら、きっとこの上ない満足感が得られるだろうと、ごく自然に思ってしまう。
エインセールはもともと、がっつり食事を楽しむ派であった。昨夜同様、幸せそうにスプーンを皿から口へ、口から皿へと往復させている。その目には、料理以外のなにものも映ってはいない。
――もし、悪意のある誰かが、こんなふたりの様子をうかがっていたとしたら。今こそ、襲撃をかけるには絶好の時だと思ったことだろう。
緊張の糸を緩ませたドジスケたちは、きっとまともに反応できない。後ろから殴りかかられたり、物影から矢を射かけられたりしたなら、なすすべもなく血を流して倒れ伏したはずだ。
しかし、現実にはそのようなことは起こらなかった。
最後のひと口まで、何にも邪魔されることなく、食事を堪能した。
――本当に敵がいるのなら、こんな無防備な瞬間を見逃すはずはない。
――即ち、今の時点では、屋敷の中に危険な存在はいないのだ。
半ば無意識的に、ドジスケはそのことを確信した。
確信、してしまった。
それは、食欲に引きずられての一時的な気の緩みではなく、深層心理が受け入れた、逃れられない認識。
正真正銘の、油断であった。
「さて、ドジスケさん。腹ごしらえもできましたし、今日の行動方針を話し合いませんか?」
朝食後、食器洗いもきちんと済ませてから、真面目な表情でエインセールは切り出した。
「昨日から今朝まで、屋敷に滞在して様子を見てきましたが、事件の真相につながるような手がかりは見つけ出せていません。この状況を打開するために、私たちは何をすべきでしょう?」
「ふむん、そうですな……」
腕組みをして、ドジスケは考えを巡らせる。
最も有望な解決法は、アリスが隠している情報を引き出すことだ。しかし、それをするのは、ある程度自力で問題に取り組んだ――というポーズを見せたあとでなければならない。
アリスは言った。行方不明者たちが生きていると前提した上で、調査をして欲しいと。事件を解決するために、ドジスケがその行動を取らなければならないのだとしたら、今からノンノピルツに戻ってアリスを問い詰めたとしても、彼女は牡蠣のように口を閉ざして、ヒントすら寄越してはくれないだろう。
実験は、計算された手順通りに行うべきである。アリスの頭の中には、恐らくそのレシピが存在している。ならばドジスケは、できる限り望まれた通りにするべきだ。
「いくつか、やってみたいことはありますが……まず、これまでの行方不明者がどういう人たちだったのか、それを見直しておきたいですな。
彼らが自分の意思で失踪する可能性があるかどうか、あたしらはまだ検討してませんから」
「自分の意思で……ですか?」
ドジスケの提案に、エインセールは首を傾げてみせた。
その反応も仕方がない。これまで彼女は、加害者ありきで調査をしてきたのだから。事件を能動的に動かしていたのが、行方不明になった被害者たちだと考えることは、天地を逆さまに見るような転換であると言えた。
「屋敷に暴力の痕跡が何もないことと、今まで誰もあたしらにちょっかいを出してこなかったこととを考え合わせますと、その可能性もなくはないんじゃないかと。
複数人を消すよりは、ひとりひとりが勝手に消える方が、断然楽です」
「ふむむむむん。確かにそうかも知れませんね」
「でしょう? そこで、クエスト協会でもらった事件のアウトラインをまとめた書類を、読み直してみようと思うんですよ。あれには、行方不明者たちの簡単なプロフィールも添付してあったはずですんで」
「そういえばありましたね……わかりました。それじゃ、ふたりで一緒に、情報を細かく分析してみましょうか」
エインセールは頷いて、雑嚢から書類の束を引っ張り出してくる。
それを受け取ったドジスケは、さっそく行方不明者たちに関する情報がまとめられたページを開いた。
そこに記されている名前は、十人分。失踪した日付は、一番古いもので十五日前。新しいものは七日前になっていた。
一、ハンス・ダンプトン。四十三歳。拠点、ルヴェール。既婚。職業、猟師。狼狩りの名人として知られる。
二、マックス・ポロ。二十六歳。拠点、ルヴェール。未婚。職業、猟師。ダンプトンの弟子。ダンプトンと同時に失踪。
三、サベロ・カジェックス。三十歳。拠点、ノンノピルツ。既婚。職業、傭兵。誰かに雇われていない時は、クエスト協会で魔物退治の依頼を受けて生活している。
四、トロペラ・ヒット。二十七歳。拠点、ノンノピルツ。未婚。職業、傭兵。カジェックスと組んで活動している。カジェックスと同時に失踪。
五、ダスリ・コニコ。二十六歳。拠点、ノンノピルツ。未婚。職業、猟師。カジェックスの隣人で、たまに魔物退治に同行することがあったという。カジェックス、ヒットと同時に失踪。
六、ロイ・クレッパーソース。二十三歳。拠点、ノンノピルツ。未婚。職業、傭兵。新興の傭兵団『スペードの七』の団員。マルナ、シーズン、セア、ポポラと同時に失踪。
七、ファラディ・マルナ。十八歳。拠点、ノンノピルツ。未婚。職業、傭兵。『スペードの七』の団員。
八、アンドレ・シーズン。十八歳。拠点、ノンノピルツ。未婚。職業、傭兵。『スペードの七』の団員。
九、メグス・セア。十七歳。拠点、ノンノピルツ。未婚。職業、医者。『スペードの七』の団員。非戦闘員。
十、シャッポ・ポポラ。十七歳。拠点、ノンノピルツ。未婚。職業、傭兵見習い。『スペードの七』の団員。失踪の三日前に傭兵団に加入。
屋敷で消えたとされているのは、以上の十人だ。
まず、一と二の猟師師弟の消息が途絶え、次に三、四、五のトリオが帰ってこなくなり。六、七、八、九、十の五人に至っては、他の仲間がすぐそばにいたにも関わらず、煙のように消えた。
クエスト協会の下調べは、それなりに丁寧だった。消えた十人の家族や友人たちに聞き込みをし、人物像や関係性について、きちんと特徴をまとめてあったのだ。
三つのグループには、特に交流はなかったようだ。ノンノピルツに住んでいた八人は、お互いに顔と名前ぐらいは知っていた可能性もあるが、ルヴェール出身のふたりとは、完全に接点がない。この十人が示し合わせて行方をくらますという考えは、やはり無理があるようだ――と、ドジスケは判断した。
私生活についても、姿を消さなければならない原因のようなものは見い出せなかった。借金のある者はいないし、犯罪に関わっていたと思われる者もいない。家族とけんかをしていた、という者もおらず――それどころか、近く結婚する予定のある幸せ者がいたりした。妻を持ったことのないドジスケでも、愛する人のもとを去ることを望む人間などいない、ということぐらいはわかる。
「自発的な失踪じゃないですな、こりゃ」
「ですね」
肩を並べて(正確には、片方の肩にもう片方が乗って)、同じ書類を読んでいたドジスケとエインセールは、結論を一致させて頷き合った。
「有望な仮説だと思ったんですがね……少なくとも、この屋敷の小綺麗さを見る限り、消えるにあたって被害者たちは抵抗をしなかった、ってのは間違いなさそうですから」
「同感です。無理矢理さらわれたのなら、戦闘の痕跡がないとおかしいですもんね」
「最初は二人、次が三人、最後が五人と、消される単位は常に個人ではなく、二人以上の集団です。ひとりなら不意を突かれれば、一瞬で無力化されることもあり得なくはないですが……複数は……」
ちら、と、ドジスケは朝陽の差し込む窓を見やった。何の変てつもない、透明なガラスの窓。それがこの屋敷には、どの部屋にもある。
インテリアとしては非常にデリケートなものであり、もし屋敷内で戦闘が行われていたら、真っ先に割れているはずだ。
ドジスケたちは前日にすべての部屋を調べていたが、破損した窓はひとつも見当たらなかった。
そう、まるで、誰がが毎日きちんと磨いているかのように、ピカピカしたきれいな窓ばかり――。
――きいぃっ。
その音は、突然ドジスケの耳に飛び込んできた。
乾いた材木がきしむような、金属が引っ掛かれたような、高く、かすれるような音だった。
ドジスケは、音のした方に目を向けた。屋敷に足を踏み入れてから半日以上が経つが、自分たち以外が鳴らした音を聞くのは、これが初めてだった。その正体が何であるのか、物語本のページをめくるように、深い興味を持って注目した。
しかし、その結果は拍子抜けだった。音がしたのは、ある部屋からだった。ドジスケたちのいる玄関ホールから、直接入れる部屋のひとつ――その扉が、ゆっくりと開きつつあったのだ。
別に、誰かがその部屋から出てきたというわけではない。ただ単に、扉がきちんと閉まっておらず、風か何かにあおられて、勝手に開いたというだけのことだった。その証拠に、問題の扉はそのまま全開になったかと思うと、その反動で閉じかけ、また開いて――といった、緩やかなスウィング運動を行い始めた。そのたびに、きぃ、きぃ、と、耳障りな音が辺りに響き渡る。
「ありゃ、しまった……昨日、屋敷全体を調べた時、あの扉を閉め損なってたようですな」
「そうみたいですね。ちょっと、私が行って閉めてきましょう。いつまでもギーギー鳴ってたら、考え事をする邪魔になるでしょうから」
「ええ。お願いします、姐さん」
エインセールは、ドジスケの肩から飛び立つと、きしみ音を立てる扉の方に、ふわりふわりと向かっていった。
ドジスケは、再び書類に視線を戻した。虹色に輝く相棒の姿が、視界から消える。
しかし、特に心配はしなかった。
これまで、何も起きなかった。だから、これからもきっと、何も起きない。そう、思い込んでいた。
エインセールも同じだった。周囲に注意を払うこともせず、まっすぐに飛んで扉までたどり着く。
あとは、それがふらふらスウィングしないよう、きっちり閉じてしまうだけでいい。
しかし彼女は、開いた扉の隙間から、何となく部屋の中をのぞき込んでしまった。
調度品のない、寒々しいぐらいにがらんとした部屋。床と壁と天井と窓しかない、空間を四角く囲っただけの部屋――その窓がひとつ、扉と同じように、ほんの少しだけ開いていることに、彼女は気付いてしまった。
(ああ、ここから風が吹き込んで、扉を押し開けたんですね! となると、まずはあの窓を閉めて、それから扉を閉めなくっちゃ。
たぶんどっちも、ドジスケさんが調査中に閉め忘れたんでしょうね……もう、自分の家じゃないからって、こういうだらしないことをしてちゃダメじゃないですか。何でも開けたらちゃんと閉めるべきだって、あとでしっかり言い聞かせないと……)
心の中で文句を言いながら、エインセールは部屋に入っていき、窓を閉めにかかる。
その窓は軽かったので、小さくて非力な彼女でも、簡単に閉めることができた。スライド式の閂もかけたので、もう風が吹いたぐらいでは自然に開いたりしない。妖精は自分の仕事に満足し、ひとりで得意げにうんうんと頷いた。
あとは、扉を閉めてドジスケのところに戻るだけ。自慢の羽根を震わせて、窓辺から扉の方へと引き返す。
扉は、まだゆっくりとだが揺れ動いていた。開きかけて――閉じかけて――また、開きかけて――閉じかける。
その滑らかな動きは、まるで生きているようだった。具体的な例を示すなら、人が手招きする時の動きに近いかも、と、エインセールは思った。
「あっ」
そんなことを考えていた彼女の目の前で、ずっと揺れていた扉が、ぱたんと閉まった。
ホールにいるドジスケと、部屋の中にいるエインセールとの間が、完全に隔てられた。大した厚みがあるわけでもない、それほど頑丈なわけでもない、ただの木の板でできた扉によって。
もちろん、そうなったところで別に困りはしない。エインセールもドアノブぐらいは回せるので、閉じた扉を普通に開けて、ドジスケのところに戻ることができるはずだった。
問題なく、そうできるはずだった。
――『彼』が、その場所にいたのでさえなければ。
■
扉の閉まる音を、ドジスケも聞いた。
ホールに静寂が戻ってくる。頭の働きを乱す雑音が消えてくれたことに安堵しながら、彼は書類を読み進めた。
しかし、その安心はほんの数十秒しか続かなかった。
静けさの中に、無視できない違和感があったのだ。扉のきしむ音はともかく、それ以外の聞こえてくるべき音も失われたのは、どういうわけだ?
顔を上げる。書類を置き、立ち上がる。さっきまで、開いたり閉じたりしていた扉の方に目を向ける。今はもう微動だにせず、閉じられっぱなしになっているその扉に。
やはりおかしい。
エインセールは、この扉を閉じるために飛び立っていった。ならば、扉を閉じたら、すぐドジスケのところに戻ってくるはずだ。
なのに――その姿が見えないのは、どういうわけだろう?
何かの間違いで、彼女が部屋の中に入った時に扉が閉じてしまったのだとしても。出てくることは充分に可能なはずだ。お菓子を満載したバスケットを持ち運べるエインセールが、扉を開くことができないとは、いくらなんでも思えなかった。
もし、それができないくらい、ドアノブが固いのだとしても。彼女は、扉の向こうから声を張り上げて、ドジスケに助けを求められるはずだ。
姿は見えない。
助けを求める声もしない。
――気配すら、感じられない。
ただただ、沈黙だけがドジスケに寄り添っている。
「……姐さん? どうか、なさったんですか?」
おずおずと呼び掛けながら、ドジスケは扉に近付く。
返事はない。
ドアノブを握り、動かす――ジャムの瓶のふたより簡単に回り、あっさりと扉は開く。
「姐さん?」
部屋に足を踏み入れながら、もう一度呼び掛ける。
返事はない。
がらんとした部屋の中には、誰もいなかった。
隠れる場所もない。隠す場所もない。脱出口として唯一使えそうな窓は、内側から鍵がかけられていた。つまり、出ていくこともできない。
何もない、誰もいない、ただの四角い空間を目の当たりにして、ドジスケは呆然と立ち尽くす。
――エインセールが、消えた。
■
「ね、ね、ねねね姐さんっ! どこです! どこにおられますっ!
返事を……返事をして下さいッ! 姐さあぁ――んッ!」
ドジスケの悲痛な叫び声が、長く遠く響き渡る。
相棒の姿を求めて、彼は屋敷中を駆けずり回った。部屋という部屋、廊下という廊下をあらため、しまいには井戸やかまどの中までのぞき込む。しかし、見慣れた可愛らしい妖精の姿は、どこにも見つけられなかった。
こうなるともう、彼も認めざるを得なかった。エインセールの身に、何かが起きたのだ。
いや、もっと断定的な言い方をしてもいい。彼女は、この屋敷における十一番目の失踪者になった。どこかに潜んでいたハンターが、獲物がひとりになる瞬間を見極め、素早く襲い掛かったのだ。
「う、ううう。姐さん……エインセールの姐さん……」
顔色を青ざめさせ、目に涙を浮かべて、ドジスケは玄関ホールに戻ってきた。
後悔が、彼の中でぐるぐると渦巻いている。あまりにも油断し過ぎていたと、今さらながら気付いたのだ。
屋敷に入る前は、扉を道具を使って開こうとするほどに、深く用心していた。
エインセールには、常にそばにいてもらって、周囲の警戒を怠らなかった。
それなのに、たったひと晩無事に過ごせただけで、すっかり気を緩めてしまった。
目に見える距離にある扉を閉める、ただそれだけのことであっても、エインセールと離れるべきではなかった。七人が同じ屋敷の中にいて、そのうち五人がいつの間にか消えていた、という例があったのに、ドジスケは自分たちに同じ現象が起きるとは、想像すらしていなかったのだ。
これはまぎれもなく、ドジスケの落ち度である。ビビりまくっていながら、危機感がまったく足りていなかった。
もしも――エインセールが、ただ行方不明になっただけでなく、命を落としてしまったのならば――この失点は、もうどう頑張っても取り返すことはできない。
「………………姐さん」
虚ろな目で、ドジスケはもう一度、エインセールが消える原因となった扉を見つめた。
そして、きびすを返し、屋敷の外に出る。
フックスグリューンには、今日も風が吹いていた。柔らかな空気の流れに身を任せる草たちに習うように、ドジスケもふらふらと、おぼつかない足取りで草原に踏み込んでいく。
しばらく歩き、屋敷を見渡せるような距離まで来ると、彼は懐から手鏡を取り出し、呼び掛けた。
「アリスさん……アリスさん。あたしです……ドジスケです。
もう、起きていらっしゃいますか? ちと、ご相談したいことがございます……この声が届いておりましたら、どうかお返事を……」
「んー……むにゅあ〜、なに〜?」
エインセールの時とは違い、すぐに相手からの反応が返ってきた。
鏡が光り、寝ぼけ眼のアリスの姿が映る。起きたばかりなのか、それとも徹夜明けなのか、その表情からはうかがい知れない。
「おはようございます、アリスさん」
「んあ〜……おふぁよ〜……朝ってどーして、こうも眠いんだろーねー。枕がとっても恋しいのです〜。
というわけだから、アリスは問答無用で寝たい気分ー。何かお話があるんなら、日没後ぐらいにまた連絡ちょーだーい……おやおやすみぃ……すやぁ……」
ゆるゆると手を振って、通信を切ろうとするアリス。しかし、彼女がそれをする前に、ドジスケは釘を打つようにこう言った。
「アリスさん。たった今、エインセールの姐さんが消えました」
「……………………」
あくびをしていたアリスの口が、ぱくんと閉じられた。
眠そうに潤んだ目が、興味深いものを見つけたように、すうっと細くなる。
「開きっ放しになっていた扉を、閉めにいってくれたんです。危険に思える行動じゃありませんでした……すぐそばの、誰もいない部屋の扉を、閉めてくるだけ。それなのに、気が付いたら姐さんがいなくなってました。
自分で隠れたとか、機械的な罠にかかったとかじゃありません。姐さんがひとりになった瞬間と、あたしが油断した瞬間を狙って、行動を起こしてる。これは明らかに、知能のある生き物の仕業です」
「うん……そうだろうねー。アリスもキミと同じ意見なのです。
それで? 相手が生き物だとわかった上で、アリスにどんな相談をしたいのかな?」
「相談というよりは、質問ですな。ふたつほどお尋ねしたい。
まず、アリスさん。あなた、もしかして……昨日の時点で、こういうことが起きると予想しておられましたか? エインセールの姐さんが、消えてしまうかも知れないと?」
「……………………」
「行方不明者たちが生きていると考えて調査をしてくれと、あなたは仰った。シンデレラ姫に配慮しての提案だと説明しておられましたが、さすがにちと無理があります。そんな気の使い方は、あなたの性格に合いません。
本当の理由は……あたしを怖がらせないためだったのでは? もし、行方不明者たちが死んでいるという考えのもとに調査を続けていたら、エインセールの姐さんが消えた時、あたしは当然のように、彼女の死を思い浮かべたでしょう。
今、ただ行方がわからなくなっているというだけでも、あたしは吐きそうな気分になってます。姐さんが死んだと思い込んでいたら、いったいどんなざまになっていたやら……想像したくもありませんな。
あなたは、あたしに希望を持たせたかった。姐さんが消えても、すぐに彼女を救出することを考えるよう、心構えをさせておきたかった。あの不自然な提案の本当の目的は、それでしょう。違いますか」
ドジスケの問いかけに、アリスは――むう、と眉値を寄せ、次に頬を膨らませ、怒ったような表情を作り――最後にそれを全部崩して、にぱっと笑顔になった。
「そーのとーおーりー! 気付かれちゃったなー、ざんねーん!
まあもちろん、何も起きない可能性もあったから、あの時点じゃ意味を教えなかったんだけどね。でも、結局予想通りに失踪は起きちゃった。備えあって憂いがなくなってよかったねー! そう思うでしょ、ドジスケくん!」
「ええ。まったく、仰る通りです。アリスさんのお心遣いには、いくら感謝してもし切れませんよ」
ドジスケは素直にこうべを垂れる。
どれだけ遠回しで、どれだけわかりにくくても、アリスの行動は基本的に善意だ。他人に何かする時は、それがハッピーにつながることを必ず望んでいる。ドジスケは、それをしっかりと理解していた。
「もちろんあたしとしては、そのお心遣いを無駄にするわけにはいきません。失踪した人たちは生きている、という前提を崩さないならば……エインセールの姐さんが生きている、と信じるならば……何としても、救出しにいかなくちゃいけません。
だからこそ、早いこと教えて下さい。アリスさんが隠している、もうひとつのことを。
あなたが想定している、この事件の黒幕……エインセールの姐さんをさらったのは、いったいどこの誰なんです?」