生か死か
フックスグリューンの屋敷で過ごす夜は、涼しくて爽やかだった。
屋敷の周りに生い茂る草たちが、温度と空気の汚れを食べているのだろう。夜空は雲ひとつなく澄み渡っていて、遠くどこまでも見通せそうだった。東の空から西の空に向かって、広がりながら流れる天の川は、ダイヤモンドの破片を散りばめたかのように輝いている。
ドジスケは、玄関ホールの真ん中に腰を下ろして、星明かりの差す窓をぼんやりと見つめていた。
彼は、窓の向こうに見える星々が、羨ましくてたまらなかった。あれらは、広大な宇宙空間の中で、何をするでもなくただ浮いている。義務もなく、使命もなく、きっと争いもない。
自分はどうして、そういう自由な存在として生まれることができなかったのか。神に祈るように、星に立場を交換してくれと祈りたくなる。あんなにたくさんあるんだし、真剣に頼めば、一個ぐらいは応じてくれる星があるかも知れない。
「あむあむ、あつあつ……んー、美味しい! やっぱり、チキンブロスはあったまりますね〜。
ほらほら、ドジスケさんも早く食べないと! ボーッとしてたら、せっかくのお料理が冷めちゃいますよ?」
ドジスケの隣で、彼の祈りなど知るよしもないエインセールが、とても幸せそうに夕食を掻き込んでいた。
本日のメニューは、缶詰のチキンブロスと堅焼きパン、そしてドライフルーツ・ミックスだ。どれも携帯食としては定番で、ほとんどの騎士や冒険者は、荷物の中にそれらを常備している。
調理行程はただひとつ、チキンブロスを缶から鍋に移し、炊事場で火にかけて温めるだけ。他はそのまま食べられる。
エインセールは人間と比べて、遥かに小さいので、食べる量も少ない。チキンブロスを入れたスープ皿は、ドングリの帽子ぐらいの大きさしかないし、パンもドジスケの小指の爪ぐらいの大きさで充分だ。ドライフルーツはオレンジやイチジク、レーズンなどがあったが、彼女はレーズンの特に小さい粒を、たったひとつだけ確保した。
ヒトの視点で見れば、ほとんど誤差のような量に過ぎない。
それでも、妖精視点で見れば、彼女はよく食べる。
パンの欠片をリスみたいに頬張り、チキンブロスと一緒にノドに流し込む。熱過ぎてしょっちゅう、「はふ、はふ」と口で息をしているが、無事に口の中のものを飲み込んだ時の笑顔は、夏の日差しを浴びるひまわりのように満足げだ。不景気そうな顔でスプーンを握り、ちびちびとスープをすすっているドジスケと比べたら、鯨と病人が並んで食事をしているのかと思うぐらい、印象に差がある。
「姐さんは……こういう言い方は、女性に対しては失礼かも知れませんが……食欲旺盛ですな……」
「もちろん、食欲たっぷりですよー! 妖精だって体が資本ですから!
むしろ、ドジスケさんが食欲無さ過ぎです! スープもパンも、ほとんど減ってないじゃないですか。ダメですよそれじゃ。
この屋敷のどこかに、何人もの冒険者をさらった怪物が潜んでいるかも知れないんですよ? いざそいつが現れた時に、お腹が空いて体が動かないんじゃ、命に関わります。食べられる時にしっかり食べて、エネルギーを補給しておかなくては!」
「確かに、仰る通りですが……あたしは逆に、同じ屋根の下に怪物がいると思うと、とてもまともに食事する気になれませんよ。
メシに意識を向けてると、どうしても周囲への警戒がおざなりになりますからね。スープの旨味やパンの香ばしさを楽しんでたら、いきなり背後からガバッと襲われました、なんてことになったら、泣くに泣けません」
「心配性ですねー。でも、大丈夫! ここにいるのは、ドジスケさんだけじゃないんですから。あなたが食事をしている間に、怪しい何かが近寄ってくるようなら、私がすぐに教えてあげますよ!」
胸を張り、自信たっぷりに言い放つエインセール。
いかにも頼りがいのありそうな言葉であったが、ドジスケは彼女が一心不乱に食事を貪っていたのを見ている。美味しいものを全力で楽しんでいる時の彼女に、食事以外のものが見えていたとは思えなかったし、これから周りを気にすることができるようになるとも思えなかった。彼女はまだ、デザートのレーズンに手をつけていなかったからだ。
結局ドジスケは、味覚よりも視覚と聴覚に重きを置いて、ゆっくり時間をかけて夕食を済ませた。味はほとんど感じなかったが、特に後悔はしていない。身の安全と一時の楽しみとなら、前者の方が何万倍も大切だからだ。
しかし、それだけ神経を使ったというのに、彼らの敵は姿を現わすことはなかった。
ドジスケの緊張をあざ笑うように、時間だけが緩やかに過ぎていく。使用済みの食器を洗ったり、大鎌の手入れをしたり、暇をもて余したエインセールに付き合って、しりとりをしてみたりしたが――屋敷の中の風景はまるで変わらず、何者の気配もなかった。ただ、開けたままの玄関扉の向こうから、虫の鳴く声が微かに聞こえてくるのみだ。
――やはり、何もいないのか?
ドジスケは、闇のわだかまる吹き抜けの天井を見上げ、自問した。
――この屋敷で、何件もの行方不明事件が起きたことは間違いないとしても。それを起こした犯人は、屋敷の中に常駐しているわけではない、と見ていいのか?
――たとえば、ひとさらいをする必要が生じた時にだけ、この屋敷にやって来て、適当に目についた冒険者を連れていくようにしているのだとしたら。
――こうして張り込んでいても、犯人を見つけることはできないかも知れない。
その想像が当たっていた場合のことを思い、ドジスケはうんざりした。敵が外にいるのなら、今、自分がここにいる意味はない。
かといって、諦めて帰ることもできない。目新しい情報が何もないから、クエスト協会に報告書を出しても、報酬をもらえないかも知れないのだ。怖い思いをして、半日以上働いて、しかし何も得られないのでは、ちょっとやっていられない。
行方不明事件の犯人を捕まえることができれば、報酬は確実にもらえるのだが――そのためには、いつ来るかもわからない、どんな姿をしているかもわからない犯人の到来を、ずーっと待ち続けなくてはならないのだ。
いったい、どれくらいの時間が必要になるのだろう? 三日? 四日? それとも十日とか、三十日とかかかったりするのだろうか? こちらでタイミングを予想することは不可能だ。完全に、犯人の都合次第なのだから。
ドジスケは思い浮かべる――確実な成果を得るべく、獲物を待ち伏せする自分の姿を。
がらん、とした屋敷の中で、石の床に座り、ビクビクと周りを気にしながら、味を感じない食事を摂る日々を送る。そしていざ犯人が現れれば、捕まえるために武器を振るって戦わねばならない。
無理。絶対に無理。
ひと晩だけならともかく、二日も三日もはもたない。体力ではなく、精神力が尽きる。心がすり切れ、お腹が痛くなったり、頭の毛がごっそり抜けたりするかも知れない。ドジスケは、ウサギよりもストレスに弱いのだ。
――犯人と遭遇せず、この屋敷に留まらず、クエスト協会から報酬を受け取る方法はないものか?
腹を満たし、頭に回す栄養を手に入れたドジスケは、そんなろくでもない問題を、かなり真剣に検討し始めた。
とりあえず、何か新しい情報があれば、タダ働きにはならないはずだった。犯人と出会わなくても、その正体か、その目的か、あるいは、行方不明になった人たちの末路か――謎に包まれている項目をひとつでも明らかにして、その証拠を得ることができたなら、協会もそれなりに評価してくれるはずだ。
この中で一番調べやすいのは、行方不明になった人たちがどうなったか、という項目だろう。五人も同時に消えた例があるのだから、誘拐されたとは思いにくい。生きた人間を生きたまま、しかも複数を運ぶというのは、並大抵のことではない。馬車のような乗り物を用意していたとしても、絶対にひと目につく。
ドジスケの想像では、被害者たちはもう生きていない。連れ去ることが困難なのだから、おそらく、屋敷の中で殺されている。
遺体も、屋敷の中か、屋敷から遠くないところにあるはずだ。ヒトの仕業であれば、古井戸のような深い穴があって、そこに埋められているとか。魔物の仕業なら、食べかすの骨となって、草原にばらまかれているとか。
どちらにせよ、今夜ひと晩を屋敷の中で明かしてみて、何も起きないようなら、外を調べてみることにしよう――。
ドジスケがそこまで考えた時、肩に乗っていたエインセールが、「ふあ」と、可愛いあくびをした。
「眠くなりましたか、姐さん」
「少し……ドジスケさんは?」
「あたしはまだ大丈夫です。でも、朝までずっと寝ずにいるのは、ちとキツいですね」
言いながら、ドジスケは懐からゼンマイ式の懐中時計を取り出し、時刻を確かめた。
あと三十分ほどで、深夜零時になる。陽が昇るまでには、まだまだ遠い。
ドジスケも幼い子供ではない。やろうと思えば、徹夜ぐらいは普通にできる。しかし、それはもちろん、頭の血の巡りを犠牲にすればの話だ。
何者かの襲撃があった時、眠気でぼんやりしてしまって、すぐに反応できないのでは困る。戦闘が可能なコンディションを維持するには、ごく短い時間であっても、ぐっすり寝て体を休めておく必要があった。
「姐さん、交代で仮眠を取りましょうや。まずはあたしが見張り番をしますので、どうぞ先に寝ていて下さい」
「んー、わかりました。交代は何時頃に?」
「日をまたいで、三時になりましたら起こします。そこから朝までの見張りを、姐さんにお願いしましょう。いいですか?」
「はい、了解です〜。それではドジスケさん、お先に失礼しますねー……」
右半身を下にして、芋虫のように背中を丸め、エインセールは寝る体勢に入った。
妖精族は、仰向けになって寝ることはない。薄く柔らかい羽根が、背中にあるからだ。
やがて、すぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてくる。ドジスケはエインセールの体が冷えないよう、ハンカチを掛け布団の代わりに被せてやった。敷き布団は、たぶんなくてもいい。そばに火の入った導きのランタンが置かれているせいで、エインセールの周りの床は、ほんのり暖かくなっていたのだ。
話し相手をなくしたドジスケは、再び窓の外に目をやった。必要かどうかも怪しい緊張を強いられている彼にとって、輝く星たちは悪くない慰めだった。
自分と星たち――彼我の距離に思いを馳せる。どう頑張っても触れられない、途方もない彼方にある彼ら。こちらが攻撃しようと思っても、絶対に届かない。そしてもちろん、向こうも自分に危害を加えることは、絶対にない。
いや、やろうと思えば、不可能ではないのだ。
空を飛び、宇宙空間を突き抜け、常闇の果てにある新しい世界にたどり着くことは。
それをやってのけた人たちがいることを、ドジスケは知っている。知恵と工夫を凝らし、天駆ける不思議な乗り物を組み立て、それに乗って重力の枷から脱出し――夜空に輝く天体のひとつに、足跡をつけた人たちのことを。
その『実話』をもとにした物語を、彼は読んだことがあった。お互いに言葉を交わすことも、姿を見ることもできないほど遠い、まるでおとぎ話のような世界に住んでいる人たちの物語を。
そのことを思い出していると――ドジスケは無性に――何でもいいから、本を読みたくてたまらなくなってきた。
「――あ、あーあー、あー。テステステース。感度は良好かなー? んー、なんだか真っ暗だねぇ。ドジスケくん、まだ起きてるー?」
物思いにふけっていたドジスケのお腹が、突然喋り始めた。
はっとして、彼は懐をまさぐり、小さな鏡を取り出した。繊細な金細工の縁取りが施された、可愛らしい手鏡だ――おしゃれな女の子が、化粧を整えるために見るようなもので、ドジスケのようなむくつけき男が持ち歩くには、少し違和感がある。
よく磨かれたその表面を、ドジスケは覗き込む。ただの鏡であれば、彼の野暮ったい顔が映るはずだが、そこに浮かび上がったのは、イタズラっぽい笑みを浮かべた、金髪の美少女の姿だった。
騎士ドジスケの主である、アリス姫だ。
「あっ、やほやほー、ドジスケくーん。よかった、ちゃんとつながったねー。
真っ暗で何も見えなかったから、魔法の手鏡が故障したかと思ったのです! お互いにどれだけ離れてても、顔を見て話ができるこのマジック・アイテム……もし壊れちゃったら、キミの活躍をリアルタイムで楽しめなくなっちゃうからねー。いやー、無事でよかったにゃー」
「こんばんは、アリスさん。鏡は問題ありませんよ。声も映像も、鮮明に届いております。
ただ、今はちょっとばかり、声のボリュームを落として下さいな。ちょうど、姐さんがお休みになったところですんで……」
「ありゃ、エインセルセルはおねむかぁ。じゃ、起こさないようにしないとね。ヒミツでこっそりの、小声大作戦でいこうか」
「ええ、その大作戦でお願いします。……というか、アリスさん、こんな時間に起きてていいんですかい? あんまり夜更かしすると、朝がツラいですよ」
「ふふふん、アリスを舐めてもらっちゃ困るのです! 面白い実験は、真夜中過ぎてからの方がはかどるんだよ〜?
で、そっちの調子はどう? クエストはうまくいってる? ヘンテコな空き家の調査だって聞いたけど」
「それが……お恥ずかしい話ですが、はっきり言っちまうと、五里霧中って感じですね。
ただの空き家でないことだけは、間違いないんです。不自然なところはありますし、妙な事件も起きてますし。何者かの意思が働いている痕跡は、そこかしこに認められます。
ところが、その何者かの正体がまるで掴めません。ちょうど、そいつが留守にしてる時に飛び込んでしまったような、肩透かし感を味わっとりますよ。
とりあえず、今夜は当の空き家に泊まり込んで、何か起きないか様子を見てみるつもりです。ノンノピルツに帰れるのは、たぶん……明日の昼以降になるかと思いますな」
「ほーほーほー。キミにしては珍しく、頑張ってるっぽいねー。
妙な事件っていうのは、冒険者行方不明事件のことかな? キミの受けた仕事の書類、アリスも見せてもらったけど。ひとつの屋敷で十人以上消えてて、手掛かりほとんど無しってすごいねー。
消えた人たちはどうなったのかな? 生きてるのかな、死んでるのかな? そもそも、何のために消されてるのかな? 誘拐事件の動機の定番は身代金だけどー、犯人からの連絡がどこにも来てないところを見ると、この事件には当てはまりそうにないねー。魔物に食べられちゃったのかな? でも、姿も見せないし食べかすも残さない魔物なんて、ちょっと想像できないよねー。いなくなる人といなくならない人がいるっていうのも面白いよ。その差は何だろうね? いなくなった人には特別な共通点があるのかな? 書類を見た感じだと、性別も年齢も出身地もバラバラで、片寄ってる感じはしなかったけど。
ドジスケくんの言う通り、事件を起こす「何者か」がいる時といない時があって、運悪くいる時に屋敷に来ちゃった人がさらわれる……ってことなのかなー?」
「それもちと怪しいですな。複数人のパーティーで泊まり込んで、その中の何人かが消えたというパターンもありますから。
とにかく、仮定の話をこしらえるだけの手掛かりすらないのが現状ですな。強いて言うならば、いなくなった人たちの生存は、あんまり期待しない方がよさそうだ、って感触があるぐらいでしょうか。
誰にも気付かれずに、何人もを生きたまま連れ出したり隠したりするのは、ちと難し過ぎるでしょうからね」
「あー……うーん、それがドジスケくんの予想?
悪くはないし、理にかなってるとは思うけどー、けどけどー。ホントにそうなってると、ちょっと困っちゃうかなー。何とか、みんな生きてるってことにできるといいんだけど。できない?」
うにににに、と唸りながら、苦しげにそんなことを言うアリスに、ドジスケは眉をひそめた。
アリスという少女の頭の中には、優れた脳細胞とヘンテコ好きな心とが詰まっている。論理と超常という、真逆で両極端な二者によって、ひとつの肉体が操作されているわけだ。無論、その人柄は当たり前のものにはならない。
意味もなく大はしゃぎしたり、深謀遠慮過ぎて理解に苦しむようなことを言ったり、どう頑張っても無理なワガママを通そうとしたり。かと思いきや、みんなが悩んで匙を投げるような難問を、ミカンの皮でも剥くように簡単に解決してみたり、逆に誰も気に留めないようなどうでもいいことを、細かく徹底的に分析したりする。
支離滅裂、と表現されても仕方のない性格だ。ドジスケも知り合った当初は、「この人、気分が落ち着く系のお薬を処方してもらわないと、遠からずダメになるんじゃないだろうか」と、本気で心配したりした。
もちろん、そんな心配は無用だった。アリスの騎士になり、彼女の人柄をじっくり観察できるようになると、そのサイケデリックなふるまいの中に、彼女なりの論理とバランスが存在していることに気付いたのだ。
アリスは奇妙な行動を連発するし、意味不明なワガママもよく言う。しかし、それらにはほとんどの場合、妥当な理由があるのだ。かなりあとになって冷静に考え直すと、「ああ、そうだったのか」と納得できるような、遠回しな理由が。
今回も彼女は、得体の知れないことを言い出した。消えた人たちが、生きている方がいい――それ自体は別に、悪いことではない。だが、生きていることにできないか、というのはどういうことだろう?
死んでいるかも、という予想を捨て、生きているという前提で行動しろ、ということか? 少なくとも、ドジスケにはそういう風に聞こえた。
だが、そうすることに、どんな意味があるのだろう?
ドジスケがどう考えるかによって、いなくなった人たちの生死か左右されるというわけではないはずだ。もし生きているのなら、ドジスケが「死んでるだろうな」と考えたとしても生きているはずだし、もし死んでいるのなら、ドジスケが「きっと生きてる」と考えたとしても、生き返ったりはしないのだ。
「アリスさん。あたしももちろん、消えた人たちが生きていてくれるのなら、それに越したことはないと思いますよ。死んでるという確信があるわけでもないですし、行方不明者たちが生きたまま誘拐されて、どっかに押し込められてる――という仮定のもとに調査を進めたって、特に問題はありゃしません。
ただ、なんでそうして欲しいのか、聞かせてもらってもよろしいですか。生きていると考えて調査した方が有利だと、アリスさんが思った理由ってのが、どうも気になって仕方がありません」
ドジスケが探るようにそう問いかけると、鏡の中のアリスは小さく笑った。
唇を三日月型にし、笑い声は立てない。喉まで出かかっている秘密を、口から出さないように飲み込んだ、といった雰囲気だ。
「――うーん、別に大した理由じゃないんだけどねー。
行方不明になった冒険者の中に、ルヴェールを拠点に活動してた人が混ざってたみたいなの」
「ルヴェール? 確か、ええと、シンデレラ姫の住んでおられる……」
「そ。シンデレデレが治めてる街だねー。キミも彼女のことは知ってるでしょ? 責任感が強くて、融通が利かない、がっちがちのマジメっ子ちゃん」
「ええ、何度かお目にかかったことがあります。アリスさんの、大切なお友達でしたな」
ドジスケは、微笑ましい気持ちでシンデレラ姫のことを思い出した。
彼の会ったシンデレラは、お姫様というより、女騎士という肩書きの方が似合いそうな、凛々しい美女だった。腰に剣を帯び、背筋をしゃんと伸ばした立ち姿は、ドジスケなどよりよっぽど勇ましい。
その見た目に相応しく、どこまでも真っ直ぐな性格をしている。秩序を望み、信義を重んじ、平和を愛する。革命的な思想を好まない保守派勢力の筆頭で、呪いによって混乱した世界を、聖女ルクレツィア姫を目覚めさせることで元通りにしたいと考えているらしい。
はっきり言って、面白いことやヘンテコなことが大好きなアリスとは、真逆に近い人物なのだが――どこか心の奥底で通じ合う部分があるのか、ふたりは意外なほど、お互いに信頼を置いている。
「シンデレデレは面倒見がいいからねー。自分の街に住んでる人が行方不明になったって聞いて、すっごく心配してるみたい。
アリスの騎士が現場の調査を引き受けたって、クエスト協会で聞き込んだらしくってさ。夕方頃に、わざわざノンノピルツまで挨拶しに来たんだよねー。いなくなった人たちの行方を、どうか突き止めて欲しいって。自分にできることがあったら、協力は惜しまないとも言ってたっけ」
「そりゃまた、シンデレラ姫らしい……」
ドジスケは感心した。シンデレラが仲間思いな姫であるというのは、巷の評判で聞いていた。そんな彼女にとっては、自分の街の住人ひとりひとりが、大切な仲間であり、家族なのだろう。
「あの素敵なお人好しさんに、正面から『たぶんあなたのお仲間はもう死んでるから、過度な期待はしない方がいいのです!』とか言えないよねー? アリスは珍しいものがだーい好きだけど、シンデレデレの悲しむ顔を楽しめる境地には至ってないのです。
とゆーわけで、アリスの騎士であるキミにも、ちょっとした配慮を求めたい気分になってるの。キミが、いなくなった人たちのことを――シンデレデレが、生きていて欲しいって願ってる人たちをだよ――まあ生きてるわけないよねー、なんて考えて行動してたことがバレちゃったりしたら、アリスは気まずい思いをしちゃうのです。
調査は行方不明者たちの生存を前提に、その人たちを無事に取り戻すことを目標に頑張ってみて欲しいなー。キミならその辺の融通利くと思うし、ヨロシク頼んでいーい?」
お手々を合わせて、軽く首を傾けて、上目使いで可愛くお願いのポーズ。
美少女にそんな風におねだりされて、断れる男などいやしない。特に、ドジスケは男の中でも並外れて流されやすい方なので、ほんの少しの葛藤もなしに頷いていた。
「ええ、そういうことなら、あたしも仰る通りにいたしますよ。人の死んだ痕跡を探すってよりは、ずっと気も楽ですしね。
ただ、その方針通りの成果を約束することは、さすがにできませんぜ?」
「うん、どうしてもシンデレデレを悲しませちゃう結論しか出ないようなら、その時は仕方ないのです。信じる者がいつでも救われるわけじゃないって、彼女もわかってるはずだしね。
でも……アリスの勘では、たぶん大丈夫だと思うのですですでーす! あまり深刻に考えずに、気楽に取り組んでみるといいよ! その方が、鬱々とした気分でいるよりは、いい仕事ができるはずだしねー」
「了解しやした。では、そのように努めます」
アリスの説明を聞き終えたドジスケは、そう返事をしながら――しかし心の中では、(こりゃ、厄介なことになりそうだ)と嘆いていた。
彼は、アリスのことを良い主だと思っている。だからこそ、その主の性格を、ちゃんと理解していた。
前述した通り、アリスの発言には深い意味が込められていることが多い。
今回の提案も、額面通りのものではないはずだと、ドジスケは睨んでいた。もし、アリスが気まずい思いをしたくないというのであれば、シンデレラに配慮したという事実を、報告書の中でだけ示せばいいのだ。わざわざ、ドジスケの調査方針にまで口を出す必要はない。
アリスがわざわざ、そんな無駄な手順を踏ませるからには、それが無駄ではないということだ。おざなりではいけない――「行方不明者たちが生きているという前提で調査しましたよ」と言って、外面だけを装うのでは、不都合な理由があるのだ。
その理由というのが何なのか、ドジスケには想像もつかない。アリスはチェスの試合で、何十手も先の展開を読めるが、彼は三手先さえもおぼつかないのだ。今この時点で、アリスの意図を見抜けというのは、不可能としか言いようがなかった。
こんな場合の、一番正しい対応とは何か? Answer――何も考えず、アリスの言う通りにすることである。どうせいつか、彼女がなぜそんな提案をしたのか、わかる時が来るのだろうから。
「それじゃ、お仕事の話はこれでおしまーい! ドジスケくんは、これからどーするの? エインセルセルと同じで、もう寝ちゃう感じ?」
「いえいえ。さすがに人が消えるような屋敷で、見張りも立てずに眠る勇気はありゃしませんよ。もうしばらくは、こうして起きたままでいるつもりです」
「ふふん? あとでエインセルセルを起こして、交代交代で寝るつもりかな? だったら都合がいいかも!
ねえねえドジスケくん、今日キミは、アリスにお話ししてくれる予定を中止して、クエスト協会に行っちゃったよねー? だからアリスは、キミが帰ってきてから、寝る前にでもお話をしてもらう予定でいたのです。
そのつもりで待ってたのにー、キミのお仕事が泊まりがけになっちゃったので、当てが外れてとっても寂しい思いをしていまーす! メソメソしちゃって、涙で枕を濡らしちゃいます! 騎士がこんな風にお姫様を寂しがらせるなんて、よろしくないよねー?」
「は、はあ、申しわけないです」
寂しくて泣くアリスというのを、どうしても想像できないドジスケだったが、ここでそんなことを指摘してもこじれるだけだ、と察することはできた。素直に頭を下げるが、鏡の中からは相変わらず、ちょっとわざとらしいお怒りの声が飛び出してくる。
「謝ってもダメダメー! キミのお話を、アリスはとっても楽しみにしてたんだから!
このままじゃ、心がモヤモヤして眠れそうにないのです! きっと実験にも支障をきたします! 明日も朝寝坊して、朝食に遅れちゃうかも知れません!
そういったトラブルを未然に防ぐために、語り部ドジスケくんに活躍してもらいたいの! 今からこの鏡越しに、アリスの知らない面白いお話、じっくりこってり語って聞かせて欲しいなー? 見張り番をエインセルセルと交代するまでの間だけでいいから! ね、頼める?」
「ああ……なるほど、そういうことで。
それでしたら、こちらも喜んで罪滅ぼしをさせて頂きますよ。ちょうどあたしも、エインセールの姐さんが寝ちゃって、話し相手がいなくて困ってたんです」
言いながら、彼は周りを見渡す。
何者の気配もない。しぃんと、あらゆるものが死に絶えたかのように静まり返っている。
こんな中であれば、少しばかり口を動かしていても、警戒の妨げにはならないだろう。何かが近付いてくれば、その気配はすぐにわかるはずだ。
こほん、と咳払いをし、ドジスケは鏡の中に問い掛ける。
「では、何の話をいたしましょうね? 夜も遅いですし、穏やかで心暖まる物語でも……?」
「ううん。そういうのより、アリスはやっぱりヘンテコなお話が好きかな! 謎が謎を呼び、絡み合った糸が最後には鮮やかに解きほぐされるような! 知的好奇心をガンガン刺激してくる、ミステリアスな物語をお求めしたいのです!」
「ああ、実にアリスさんらしいご注文ですな。では、ロンドンという不思議な街を舞台にした物語はいかがでしょう? そこは濃い霧に包まれた異界の街で、毎日のように奇妙で刺激的な事件が起きているのです。
それに立ち向かうのが、シャーロック・ホームズという個性的なお人です。どのような謎であっても、たちどころに解き明かしてしまう彼のことを、異界の人たちは尊敬の念を込めて、『名探偵』と呼んでいました……」
ドジスケはかつて、本で読んだ物語を、頭の中の記憶だけを頼りに語り始めた。
彼の話し方は巧みであった。ゆっくりと落ち着いた語り口でありながら、盛り上がるべき場面に差し掛かると、たっぷりと情感を込める。ある時は軽快に、またある時は不安を煽り立てるように。台詞を言う場合には、登場人物の性格に合わせて、口調も声色も変えてくる。
展開を忘れて、つっかえるようなこともない。まるで、手の中で本を開いて、それを朗読しているかのように、滑らかに語る。だからこそ、聞いている方は、心の底まで物語の世界に浸ることができる。先程まで、ドジスケを引きずり回すかのようにしゃべりまくっていたアリスも、今では身を乗り出して、シャーロック・ホームズの物語に聞き入っていた。
――これが、かつて木こりであり、今では騎士となった男の、最大の特技だった。
とにかく、物語を話すのが上手い。自分の意見を言わせると頼りないが、筋の決まった物語を語らせると、まるで重力の中心地点になったかのように、聞き手をぐいぐい引き込んでくる。
この特技があるからこそ、アリスはドジスケを気に入っていた。
彼女は、面白いものが好きだ。
ヘンテコなものが好きだ。
だから、面白い物語は大好物だし、聞いたことのない物語も大好物だった。
ドジスケは、アリスも知らないような珍しい物語を、数多く知っていた。騎士としてはあまりにも頼りない彼だが、想像力を刺激する未知の世界を、興味をそそるやり方で、いくらでも紹介してくれる。
それは、そばに置いておくには充分な理由だった。
この夜も、アリスは目を輝かせ、相づちもほとんど打たず、ドジスケの話に夢中で聞き入った。【緋色の研究】と題された物語の中にどっぶりと浸かり、異界ならではの奇妙な謎と、その見事な解決を、上等な紅茶を味わうように楽しんだ。
時刻は、二時半を回った。話が始まったのが零時頃だったので、たったひとつの物語に、二時間以上が費やされたわけだ。だが、アリスはそれを長いとは感じなかったし、ドジスケも話し疲れたとは思わなかった。
ふたりとも、物語が好きなのだ。
面白いお話であれば、聞くことも教えることも、どっちも楽しめるのだ。
いや、その表現では、本質を突いているとは言えないかも知れない。
もっと正確に。
彼らにとって大切なことを、純化して表すならば。
――知らないことを知る。
――知っていることを、他の誰かと共有する。
それを成すことが、楽しくてしょうがないのだ。
本人たちは、まったく意識していないかも知れない。
しかし、それでも。
好奇心の塊であり、変わり者で天才肌のお姫様であるアリスと。
読書家であり、語り部でもある騎士ドジスケは。
知識を取り扱う際の、喜びの感じ方という点において――ほとんど重なり合うような形の、似た者同士であると言えた。
「……といったところで、このお話は幕となります。
名探偵シャーロック・ホームズの活躍はこれだけではありませんが、お楽しみはまた、別の機会に取っておきましょう。どうも、ご静聴ありがとうございました」
午前二時四十分。話を終えたドジスケは、鏡に向かって深々と頭を下げた。
「いかがでしたか、アリスさん。ご満足頂けましたか?」
「ふはーっ。うん、今日も面白かったよー、ドジスケくん」
感想を訊かれたアリスは、ずっと呼吸を止めていたかのように、大きく息を吐いた。
それだけ肉体を緊張させて、物語に集中していたのだ。
大満足だった。ストーリーもハラハラドキドキしたし、またひとつ知識を増やせたという事実も嬉しかった。しかも、ドジスケの最後の言葉が嘘でないなら、シャーロック・ホームズの物語は、まだ他にもあるようだ。それをいつか聞かせてもらうという楽しみまで手に入った。この期待感だけで、まだしばらくはワクワクし続けることができる。
「ドジスケくんを騎士にできたことは、これまでのアリスの人生の中で、最も大きい幸運のひとつに入れてもいいかも知れないねー。ほかに並ぶものがないってわけじゃないけど、片手の指で数えられるぐらいしか思いつかないのです。
たくさんの物語を知ってるキミの頭脳は、本当に価値のある宝物だと思うな。これからも、ボケたり物忘れしたりしないように気を付けて、末長くアリスに仕えて欲しいのですよー。つったかたったー♪」
実に機嫌良さそうに、独特のリズムを取りながらアリスは言った。
そんな主からのお褒めの言葉に、ドジスケは苦笑を浮かべた。嬉しいのは確かだが、どこか収まりが悪い、といった様子だ。
「ありがとうございます。そこまで言って頂けるとは、まさに光栄の極み。
ですが、結局のところ、あたしのやっていることは、古都にいた頃に読んだ本の内容を、そのまんましゃべってるだけですからねえ。あたし自身に、創造的な部分はまったくありません。
それなのに、この脳みそを財宝のように褒められちまうと、なんつーか、くすぐったい感じがしますよ。手柄の九割は、実際に作品を書いた異界の作家さんたちに帰すべきでしょうから」
「そこまで謙遜することはないと思うけどねー。読んだ本の内容を全部覚えてるってだけでも、並大抵のことじゃないし。
でも、確かにキミの言う通り、物語をイチから創造できる頭脳も、褒められて然るべきだね! あと、膨大な物語をキミに触れさせた、古都という土地も!
アリスはね、キミと出会って以来、古都にピリピリと痺れるような興味を覚えちゃっているのです! 山ほどの異界の書物があるんでしょ? 物語本はもちろん、学問の教科書や異界の習俗をまとめた記録書まで!
そんな環境で二十年以上も暮らしてきたキミが、羨ましくってしょーがないのです! あ〜、アリスも古都に行ってみたいなぁ! 今の世界が呪いでてんやわんやしてなかったら、すぐにでも旅支度をして、山に分け入ってるのにー!」
心底もどかしそうに、アリスはぶんぶんと腕を振ってみせた。
ドジスケには、アリスのその気持ちがよくわかった。彼もしばしば、古都で売られている新しい本を買うためだけに、里帰りしたいと思うことがある。
そう。旅に出る前のドジスケは想像もしていなかったことだが、実は古都は、世界中のどんな都市と比べても、書籍の種類が飛び抜けて豊富な街だったのだ。
別に、作家や製本業者がたくさんいるというわけではない。ただ、ドジスケの相棒である誰かさんと同じ、妖精族の女がひとり、街の本屋に住み着いていただけだ。
彼女もまた、『導きのランタン』と似たような力を持つ秘宝を持っていた。お金と引き換えに、遠い異界から物品を呼び寄せることができるマジック・アイテムを。
ただし、この秘宝が呼び寄せるのは、武器や防具ではない。本だ。この世界には本来存在しない、誰も読んだことのない本を、ランダムに出現させることができる。
大の読書家であったその妖精は、自分が読み終わった異界の書物を、手頃な値段で本屋の棚に並べていた。古都の住人たちがそれを買うと、売上金を秘宝に捧げ、また新しい本を呼び出す。それを読んで、また売って、同じ手順を延々と繰り返して――古都に異界の書物を、大量に流通させた。
外の世界を知らなかったドジスケは、そんな環境が特殊だとは思っていなかった。シェイクスピアが、アンデルセンが、グリムが、イソップが、ポーが、ジュール・ヴェルヌが、コナン・ドイルが、ランポ・エドガワが、古都以外ではまったく読まれていないなんて、想像もできなかった。
もし、外の世界にそれらの本が一冊も出回っていないと知っていたら、ちょっと無理をしてでも、お気に入りを二十冊ぐらいは身につけて来ていただろう。
古都を出る時、たった一冊だけ持ってきた本は、今もお守りとして、上着の内ポケットに入っている。
もう何度も読み返したので、だいぶくたびれてきてはいるが、たぶんこれからも、また何度でも読み返すだろう。
ドジスケにとっての、ベスト・オブ・ベスト。大のお気に入りであるその本の作者は、ルイス・キャロルという。
作品名は、【不思議の国のアリス】。
不思議の国を巡る素敵な冒険に憧れ、主人公であるアリスに心惹かれて育った彼が、大人になってから仕える姫としてアリスを選んだことは――運命と言ってもいい必然であった。




