何もいない屋敷の謎
ドジスケは仕事を受ける前に、依頼状をしっかりと読み込んでおくことにした。
クエスト協会の待合室で――それも、できる限り隅っこの目立たない椅子に座って、彼がすべきこと、成功条件、報酬などの項目を確認し、頭の中に叩き込む。絶対に見落としがあってはいけない。ろくに仕事の内容を確かめずに契約して、あとで実力的に不可能だとわかったり、報酬の面で不満な点があったりしたら、目も当てられない。安心して働くためには、雇い主が提示した条件を完璧に把握しておく必要があった。
無言で書面に視線を走らせ始めて、すでに三十分近くが経っている。ドジスケの表情は真剣そのもので、難解な問題に命がけで取り組む学者然としたところがあった。
しかし、もしも。
もしも、彼の頭の中を、その考えを覗き見ることができる者がいたとしたら。
彼が集中して依頼状と向き合っていたのは、最初のわずか五分間だけであって、それ以降はなるべく仕事を始めるのを遅らせられるよう、時間稼ぎをしている――という、まことにどうしようもない事実を発見するだろう。
――『何もいない屋敷の調査』。
ドジスケの目の前で、その無機質な文字が、誘うように踊る。
彼は早くも、この仕事をやるのが嫌になっていた。
いや、もっと以前、エインセールが依頼状を持ってきた時にはすでに、及び腰になってはいたのだ。最初から嫌な予感はしていた――漠然とした不安に過ぎなかったそれが、仕事の内容を確認して、確信に変わった。
この仕事はヤバい。
下手をすると、自分で討伐対象を選べる魔物退治の依頼より、さらに悪いかも知れなかった。
「……エインセールの姐さん。ちょいと、あなたの意見をお聞きしたいんですが」
「はいはい、なんですかー? 契約内容で、わからないところとかありました?」
ドジスケの肩にとまって休んでいたエインセールが、呼ばれて顔を上げる。ドジスケは彼女が見やすいように、依頼状を持ち上げ、気になる部分を指差した。
「とりあえず、ややこしい条件や手順はなさそうです。題字の通り、あたしがやらなきゃならないのは、あるお屋敷の調査ですな。
フックスグリューンの端にある、古い煉瓦造りの建物で――かれこれ五十年以上、誰も住んでいない空き家なんですが、最近その周辺で、狂暴な魔物がよく目撃されるようになったみたいなんです。
もしかしたら、空き家が魔物の巣になってるんじゃないかと、ノンノピルツの住民が怖がり始めまして。調査員を派遣して、屋敷の中を調べることになったんですが――」
「ああ、そこでドジスケさんが、調査員として調べに行くことになった、というわけですね。……あれ? でも、おかしいですね。これから魔物がいるかどうかを調べるというのに、依頼状には『何もいない』って書いてありましたよ?」
「ええ、そうです。屋敷はもう、別の方がある程度調べて下さったみたいなんですな。
その結果は、シロでした。屋敷の中はきれいなもんで、魔物どころか、ネズミさえ入り込んだ気配がなかったそうです。かまどとか井戸とかも普通に使えて、家具さえ持ち込めば、明日からでも生活を始められそうなほどだったと。
その報告は、すぐにクエスト協会に届けられました。魔物がいないんなら、協会としても手を入れる必要はありませんわな。というわけで、屋敷はそのまま放っとかれることになったんですが――この調査が行われたせいで、ちょっと変なことになった。
清潔で、設備が充実していて、しかも魔物がいなくて安心な空き家。そんな評判が風の噂で広がって、いつの間にか問題の屋敷は、フックスグリューンで魔物狩りをする冒険者たちの休憩所として使われるようになっちまったんです。
実際、その屋敷の居心地は、最初の調査員さんが報告した通りのものだったようです。廊下も部屋もチリひとつなく、ネズミもゴキブリもいない。もちろん魔物の気配もない。何十人もの冒険者が、入れ替わり立ち替わりそこを利用し、あの屋敷の存在は実に助かる、と、両手を上げて褒め称えてます。
ところが――ところが、ですよ。
そんな風に屋敷に入っていった冒険者の中に、たまーに、入ったっきり戻ってこない奴が出始めた……」
「……………………」
「フックスグリューンの空き家に泊まる、と言って出掛けて行ったまま、帰ってこない奴が三人。屋敷に入っていくところを、狩り仲間に見られたのを最後に、消息を絶った奴が二人。七人のチームで屋敷に入って、昼食の準備をしていると、いつの間にか五人がいなくなっていた、ってパターンもありますな。
普通に屋敷を利用して、何事もなく出てくる奴の方が多いのは間違いないんですが、ちらほらとでも行方不明者が出てるってのは、ちょいと不気味です。
屋敷に本当に『何もいない』のか、ちょっと怪しくなってきた。
それで、あらためて調査の依頼が出されて――今、あたしがその依頼状を握ってるってわけですが……」
「……………………」
「どう思いますか、姉さん?」
「ええ、と、どう、とは?」
「なんつーか、これ、即死トラップ系のニオイがするんですが……気のせいでしょうかね?
それも、犠牲者に悲鳴を上げさせず、死体も残さず消し去るような、とびっきりタチの悪いやつです。罠にかかった人が死体になって発見されていたら、すぐ大騒ぎになりますが、行方不明になっているだけだから、警戒もあまりされない。
静かに、徐々に、しかし確実に犠牲者を稼いでいく……そんな、えげつない悪意を感じるんです。
もちろん、今お話ししたのは、あくまであたしの想像に過ぎません。過ぎませんが、真実からそう遠いもんでもないと思うんですよ。
それを踏まえた上で――エインセールの姐さん。念を押して確認したいんですが……この依頼、ホントに受けて大丈夫だと思いますか?」
「え、ええっと……」
選択肢をつきつけられたエインセールの顔は、真っ青になっていた。
彼女は、常に騎士ドジスケのそばにいて、その冒険をサポートする役目を負っている。仕事というわけでも、義務というわけでもないが、世界を混乱させている問題を何とかしたい、という気持ちを強く持つ彼女は、騎士のサポートをすることで、少しでも世の中に貢献しようとしているのだ。
ある意味、騎士と一心同体。どこまでも冒険をともにし、危機や苦難も一緒に味わう覚悟でいる。
つまり。
ドジスケがこの仕事を受けて、彼の言うところの即死トラップにかかったならば。
エインセールもまた、その道連れになる可能性が高いのだ。
ドジスケの無言の訴えが、エインセールの耳に、まるで直接囁かれたかのように伝わってくる。
――やめときましょうよ、と。
――あなたも、怖い思いはしたくないでしょうよ、と。
彼は、エインセールにも危害が及ぶ可能性を匂わせることで、仕事を受けるのを思いとどまるように誘導していた。
お外に出たくない彼は、仕事をせずに帰って休むことを、まだ諦めていないのだ。
恐怖を武器として組み込んだドジスケの論理は、強力である。
人であろうと妖精であろうと、生きているものであれば、必ず自己保存の本能を持つ。危険に怯えて逃げ出すのは、なにもドジスケだけではない。戦場に望んで飛び込み、命のやり取りを平気で行えるという性格の持ち主がいたとしたら、そっちの方がむしろ、生命としての常識に反しているのだ。
危なそうだから、手を出すのは控えた方がいい――非常に、非常に、説得力のある言い分だ。
エインセールも、思わず頷きそうになった。はっきり言って、彼女は弱い。雑魚モンスターの代表格であるゼリルーに襲われて、手も足も出なかったほどだ。ドジスケよりもはるかに、死の危険を怖れるべき立場にいる、と言ってもいい。
命は大切にしなければならない。死んでしまっては、全部おしまいになってしまうのだから。
この依頼を受けなければ、世界が終わるというわけではない。ただ、ドジスケがバンザイして喜ぶだけで、害は何もない。
意見をひるがえしたって、誰も彼女を責めはしないのだ。
しかし。
エインセールは、頷きかけた頭を、頷かせはしなかった。
「い、いえ! むしろ、そんなとんでもないことが起こっているのなら、ぜひ依頼を受けて、謎を解明すべきだと思います!
何もせずに放っておけば、きっとさらに被害者は増えるでしょう。ドジスケさん、ここはアリス様の騎士として、人々の安全を守るために働く時です! わ、私も全力でサポートしますから……ふたりで力を合わせて、この難題に立ち向かっていこうじゃないですか!」
気合いを入れて、きっぱり言い切るエインセール。
真っ直ぐな性格なのである。
世の中のためを思うことで、己の中の恐怖をねじ伏せることができる、強い精神力の持ち主なのである。
彼女の言葉を聞いたドジスケは、感銘を受けて己を奮い立たせる――ということはまったくなく――「ええええ〜」と絶望したようにうめいて、目に涙を浮かべていた。
後ろ向きな性格なのである。
己のためを思うことで、外側からやって来る恐怖にねじ伏せられるような、しょぼい精神力の持ち主なのである。
「このふたりの性格が逆だったら、いばらの塔を速攻で攻略してたかもねー」と、アリス姫が言ったことがあった。
ドジスケとエインセールのやり取りを見たことのある人間は、みんなその意見に同意するという。
■
ノンノピルツの西に位置するフックスグリューンは、息を飲むほどに広大な草原である。
一面を覆う柔らかい下生えは、まるで緑色の薄衣のようだ。そよ風が吹くたびにその表面は揺らぎ、波打ち、さやさやと寂しげな音色を奏でる。
そんな中に立っていると、世界の果てに取り残されたような気分になってくる。自分がとるに足らない、つまらない存在であるかのように思えてきてしまう。
美しく雄大な、自然の風景。しかしそれは、見る者の心を癒してくれる、優しいものではない。自然の中では、誰しも独りで生きていくしかないのだ――という、悲しい本質を容赦なく突きつけてくる、厳しいものだった。
この地に足を踏み入れたドジスケも、言葉にできない寂寥感を覚え、うちひしがれていた。広い空。広い大地。その間隙に挟まれて、潰れていくような気になりそうだった。
「……こういう背の高い草が生い茂っているところって……厄介なんですよねぇ……」
ぽつりと、陰気な声で呟く。
「十重二十重に重なってる草の向こうに、何が隠れてるかわかりゃしない。これならまだ、いばらの塔の方が気が楽ですよ。あそこは石造りで、通路も一本道でしょう。魔物が近付いてくりゃ、離れたところからでもわかりますからね。
ああ、フロビィとかスケルトンとか飛び出してきませんように。ウッドンならまだいいです。あいつら図体がでかいから、草程度じゃ隠れられませんから。先に見えてりゃ、こっちも気持ちの準備ができるってもんです。あ、もちろん、何も襲いかかってこないのが一番ありがたいですよ。神様仏様聖女様、どうかあたしを、この草原に潜む悪いものからお守り下さいませ。この願いを聞き届けて頂けますなら、後日何らかのお供えもので報います」
「何ですか、ホトケサマって……ほらほら、そんなこと言ってる間に足を動かす! 早く草原を抜けた方が、魔物に遭遇する確率は低くなりますよ!」
エインセールを肩に乗せて、ドジスケは深い草の中を、掻き分け掻き分け進んでいく。
結局彼は、押し切られる形で『何もいない屋敷の調査』の依頼を受けることになった。
もちろん仕事の内容に、フックスグリューンで魔物と戦うことは含まれていない。むしろ、本来の仕事を始める前に疲れてしまうことを避けるためにも、魔物との戦闘は出来る限り回避しておきたかった(エインセールも、今回は珍しくドジスケと同意見であった。彼の臆病さを考慮に入れたとしても、納得できる理屈だったからであろう)。
なので、ふたりは余計な寄り道をせず、草原の真ん中を突っ切り、一直線に問題の屋敷へと向かっていた。
広大な草原というのは、ある意味で壁のある迷路よりも複雑な迷宮である。道や目印が何もないから、ともすれば方角を見失い、見当違いの方向に進んでしまったりする。
しかし、ドジスケの足取りに迷いはなかった。いつも自信なさげな彼だが、目的地が決まっている時だけは、絶対に無駄足を踏むことがない。道を間違えたり、遠回りしたりせず、最短コースを歩むことができる。
いったいどうして、そんなことが可能なのか?
その秘密は、彼の相棒であるエインセールにあった。
彼女はいつも、小さなランタンを手に提げている。暗い時も、明るい時も、二十四時間明かりが入っている、不思議なランタンを。
これこそ、妖精族に伝わる魔法の道具、『導きのランタン』だ。
どこかに行きたい時にこれを持っていると、中の炎が矢印のように形を変え、進むべき方角を教えてくれるのである。騎士として、色々な場所へ出向かなければならないドジスケにとって、このアイテムを使いこなすエインセールは、とても頼りになる存在だった。
「おっと。ドジスケさん、進む方向が少しズレてますよ。もうちょっと左に軌道修正して下さい」
「へい、了解です。……しっかし、便利ですね、そのランタン。贅沢を言うなら、魔物のいないルートを指し示してくれりゃ、もっと助かるんですが」
「本当に贅沢ですよー。さすがに、この秘宝でもそこまでのことはできません。魔物が出たら、ドジスケさんの手で何とかしてもらわなくては。
炎の感じからすると、たぶんもう少しで目的地に着きますけど、そういう時こそ油断しやすく、危ないものです。いつ何に襲われても対処できるように、武器はすぐ使えるようにしておいて下さいね?」
「わかってますとも。自分の身を守ることに関してだけは、手抜きせずに全力で取り組ませて頂きます」
頼もしいのか情けないのか、なんとも微妙な返事をして、ドジスケは右手に握った愛用の武器を見下ろした。
彼が装備しているのは、イーオーサイズという名の大鎌だ。刃渡り九十センチ、柄は一メートル八十センチを越える重量級のポール・ウェポンで、火の属性が付与されており、全体が夕陽のような緋色に輝いている。
非常に長く重いため、素人が使いこなすのは難しいが、ドジスケにとっては、わりと親しみやすい武器だった。彼はもともと木こりだったので、鎌や湾曲した鉈などの扱いには慣れている。刃を叩きつければ斬れる、という点に関しては、魔物も木の枝も変わらない、というわけだ。
彼は、街の外に出る時は、片時もこの鎌を手離さない。戦いなどしたくはないが、自衛のための力を持っているのと、持っていないのとでは、明らかに生き残れる確率が違ってくるからだ。
実際、この大鎌があったおかげで、命の危機を乗り越えられたことが何度もある。強い武器と防具は、騎士という危険な仕事を続けていく上で必須のものだ。だから――ドジスケは、彼にその強力な武器を与えてくれた人物に、頭が上がらない。
「あ、そうだ。危うく忘れるところだった。姐さん、この依頼が達成できたら、報酬で輝晶石がもらえるんですがね。前から持ってる分をそれに合わせたら、石の数が二十五個に届くんですよ。
そしたらまた、そのランタンで新しい装備品を召喚してもらっていいですか? 武器はこの鎌でいいにしても、兜とか鎧とか、もう少し性能のいいのを揃えたいんで」
「ええ、構いませんよー。でも、導きのランタンから出てくる武器防具は、こちらからは選べませんからね。お望みのものが手に入らなくても、こないだみたいに泣いたりしないで下さいよ?」
ドジスケの目の前でランタンを振って、エインセールは言う。
そう、彼女の持つ導きのランタンは、ただ道案内をしてくれるだけのものではない。他にも、道具の召喚という便利な機能が備わっていた。
輝晶石と呼ばれる特殊な宝石を捧げることによって、異界から武器や防具を呼び寄せてくれるのだ。何が出てくるかはまったく不明で、役に立たないものや弱過ぎて使えないものが出てくることもあるが、たまに大当たりと言ってもいい強力な武器が出現することがある。
ドジスケが最初にエインセールと出会った時、彼は山中で拾った輝晶石を三十個近く懐に入れていた。別にその価値を知っていて拾ったわけではなく、綺麗な石だからなんとなく拾っていただけなのだが、それを試しにランタンに捧げてみたところ、一発でイーオーサイズという高級な武器を引き当てることができた。
ドジスケには、武器の良し悪しなどわからない。しかし、現れた大鎌が立派なものであるということぐらいは、ひと目でわかった。肉厚で鋭い刃。美しい造形。彼の故郷である古都にも武器屋はあったが、これほどの逸品はまず置いていなかった。
――こんな素晴らしいものを、元手のかかっていない拾い物の石と交換してくれるなんて、なんて器の大きい人(妖精)だろう!
ドジスケはそんな感想を抱き、エインセールを自分より一段上の存在として見るようになった。彼が彼女のことを『姐さん』と呼ぶのも、この時に抱いた敬意が心の奥にあるためだ。
もっとも、その敬意はいつの間にやら、気弱な弟が活発な姉に対して抱くような、「この人には敵わないし、逆らえない」という意識に刷り変わりつつあるようなのだが、本人はそれを自覚していないようである。
「――おっと。見えてきましたよ、ドジスケさん。あそこにあるのが、問題のお屋敷ですね」
エインセールが、ランタンを持っていない方の手で、前方を指差した。
彼女の人差し指の先――丘というには控えめな、小高く盛り上がった場所に、それはあった。
二階建てで幅の広い、立派な屋敷だ。壁は、全体が赤煉瓦でできており、鋭い三角形の屋根は、黒褐色の陶板葺き。窓は、上部がアーチ型になった縦長のものがいくつもある。その窓ガラスは、ほんの数分前に使用人が拭き掃除したかのように、ぴかぴかと輝いていた。
「ふむん……こいつぁ見事だ。とても、何十年も放っとかれてたものとは思えませんね」
ドジスケは感心したように言って、その建物をじっくり、油断なく観察した。
「壁は崩れてないし、屋根も剥がれてない。それ以上に、あの窓がすごいじゃないですか。特に管理もされてないというのに、ガラスが割れもせず、それどころかあんなにきれいに磨かれてるだなんて。
姐さん、ここを休憩所に利用してる冒険者たちって、よっぽどマナーのいい人たちなんですかね? 使ったら、そのたびに掃除して出るとかしてるんでしょうか」
「いえ、さすがにそこまでする人は少ないんじゃないですか。食事とかで出たゴミを持ち帰るとか、そういったことなら普通ですけど、拭き掃除とかまでは……」
自信なさげに、いや、むしろ大いに疑問の色を示して、エインセールは言う。
この屋敷は、きれい過ぎて逆に怪しい。汚したくない、劣化させたくない、という、何者かの意志が感じられる。その何者かが屋敷の中にいると、ふたりはすでに確信していた。
「さて、あそこをきれいに保っている誰かさんがいるとして……問題は、それが例の行方不明事件と、どんな関係を持っているか……ですな。まず、無関係ってことはないでしょうが」
「どこにいるのか、っていうのも重要ですよね。最初にここを調査した人は、何もいなかったって言ってますし、ここを利用している冒険者の人たちも、怪しい人や魔物を見ていません。
よっぽどうまく隠れているんでしょうか? それとも、普段はここにはいないんでしょうか?」
「今の時点じゃ、ちょっと想像もつきませんな……とりあえず、姐さん、お互いに注意していきましょうや」
ドジスケは警戒を怠ることなく、にじり寄るように屋敷に近付いていく。敷地を囲う柵だとか、生け垣の類いはない。屋敷正面のステップを上がり、ポーチへたどり着く――玄関扉は古いオーク材でできていて、飾り気のない青銅のドアノッカーがついていた。
ノックをするような、礼儀正しいことはしない。イーオーサイズの先っぽを、ドアノッカーに引っかけて、そっと扉を開こうとする――難なく開いた。ここは空き家で、今までにも不特定多数の人間が、好き勝手に出入りしていたのだ。当たり前のことだが、最初から鍵などかかってはいなかった。
斜めに開いた扉の隙間から、中を覗き込む。薄暗い――が、外に面している窓があるおかげか、ある程度の視界は確保できそうだ。
中に入る前に、外に落ちていた小石をくさび代わりに使って、玄関の扉を開いたまま閉じないように固定する。もし、何か厄介な敵と遭遇して、逃げ出す必要が生じた場合に、扉を開ける手間を省くためだ。
そしてようやく、屋敷に足を踏み入れる。扉の向こうは、吹き抜けのホールになっていた。屋敷の外装には赤煉瓦が使われていたが、内装には石材が多く使用されているようだ。床は黒御影石のタイルで、壁はクリーム色のライムストーン。天井からは、鈴蘭を模した真鍮製のシャンデリアがぶら下がっている。落ち着いた、大人っぽいデザインだった。ドジスケとしては、少しばかり寒々しいように感じられたが、それは中に火の気がないからだろう。
事実、その冷たい雰囲気は、エインセールが導きのランタンを掲げて、辺りを照らすことでかき消えた。彼女のランタンは、当然のことだが、たたの明かりとしても利用できる――その炎の輝きに照らされることで、石の壁がほのかな暖かみを示し始めたのだ。これは別に魔法でも何でもなく、照明の具合を計算に入れたインテリア・デザインだった。
「生き物の気配は……なさそうですな、姐さん」
「みたい、ですね。コトリとも音がしません」
外の風の音さえも、分厚い石の壁に阻まれて、ほとんど聞こえない。ふたりのひそひそ声が、虚ろの中に吸い込まれているかのように、広いホールに反響して消えていく。
「ドジスケさん、もしこのお屋敷に何かがいるとしたら、それは何だと思いますか? 魔物でしょうか? それとも、人でしょうか?」
「今の時点じゃ、何とも言えませんが……可能性が高そうなのは、蜘蛛か蛇の魔物ってところじゃないですかね」
この意見にエインセールは、ひえっ、と、小さな悲鳴を上げた。
「蜘蛛か蛇……ですか?」
「人が気付かないような狭いところや、暗い物影に潜んでて、音もなくパッと襲いかかってくるものといったら、その辺がまず思い浮かびます。即死毒や麻痺毒を持ってるとしたら、さらに簡単に人を消してしまえるでしょうね。
まあ、もしこの予想が正しいなら、敵はよっぽどでかい魔物ですよ。何人も消してるってことは、それだけたくさん食糧がいるってことでしょうから。危険性は高いですが、発見も難しくないかも知れません」
「……やっぱり、いなくなった人たちって、もう亡くなってるんでしょうか……?」
「正直、生きてる望みは薄いでしょうな。できれば、そのお仲間には入らずに済ませたいところです。
姐さん、なるべく飛ばずに、あたしの肩か頭の上にいて下さい。そんで、後ろとか上とかに注意を向けていてもらえますか。何か怪しいものが近付いてきたら、髪を引っ張って教えて下さい」
「は、はいっ」
ふたりは、慎重に屋敷の中を調べ始めた。フロアの端から端まで、すべての部屋を巡り、誰かいないか、何かいないか、あるいは怪しいものがないか、詳細に点検していく。
特に、壁と床と天井は、大鎌の柄でいちいち叩いて、内側に余計な空間がないかどうか確かめた。古い建物に付き物の、隠し部屋や屋根裏部屋、地下室が存在している可能性もあったからだ。しかし、壁も床も、しっかり分厚く中身が詰まっていたし、天井裏は埃が万年雪のように溜まっていて、とても何者かが潜んだりすることはできそうになかった。
一階の端には炊事場と、屋根つきの井戸があり、比較的新しい調理の痕跡が見られた。不審な何者かが、ここで日常的に食事を作っているのか? それとも、最後にここを訪れた冒険者が、片付けを中途半端にして去っただけなのか? その区別はちょっとつかなかった。
二階も、同じように調べる。ひと部屋ずつ、目を皿のようにして。――しかし、結果は同じ。
何もいなかった。
蜘蛛の魔物も、蛇の魔物もいない。子蜘蛛も子蛇も、ネズミもゴキブリも、行方不明になった冒険者たちもいない。機械的、魔法的な罠もなし。
見事なまでに、生命の息吹を感じない家だった。
「まずいですな。本当に何もいないし、怪しいものも何もない。これじゃ、クエスト協会に報告すべきことも、何もないってことになってしまいますよ」
屋敷を隅から隅まで調べ尽くして、玄関ホールに戻ってきた時。ドジスケは途方に暮れて、そう呟いた。
「この屋敷のどこかに、人々を行方不明にしてしまう何かがあるはずなのに。それらしきものがちっとも見当たらない。エインセールの姐さん、あなたはどうです? 何か、気になったものとか、ありませんでしたか」
「ううん、ごめんなさい、私も何も……家具さえひとつもありませんでしたから、何か魔物がいたとしても、隠れられるとは思えない、としか」
お手上げ、とばかりにかぶりを振る彼女に、ドジスケも考え込んでしまう。
そう、屋敷の中は、むしろ不自然なくらいに何もなかった。
もし魔物が住み着いているのなら、糞のひとつもなければおかしい。悪意ある人間が潜んでいるのなら、家具や調度品など、隠れるのに役立つものをいくつか用意しておくだろう。
しかし、その手の痕跡も発見できない。いっそ、この屋敷には、今も昔も誰も入り込んだことがないのだ、と言われた方が、納得できそうだった。
――行方不明事件と、この屋敷とは無関係なのか?
ドジスケの頭に、ふとそんな考えが浮かぶ。
いなくなった人たちは、この屋敷に向かうと言って消えたか、この屋敷にいる間に姿が見えなくなった。しかし、彼らの身に何かが起きたのは、屋敷に向かう道の途中でのことだったのかも知れないし、用を足しに屋敷の外に出た瞬間のことだったのかも知れない。
むしろ、その方があり得そうな気さえしてくる。屋内より屋外の方が、何か起きた時に痕跡を隠滅しやすいのだから。証拠のない予想に過ぎないが、これを結論にして、クエスト協会に出す報告書を作れないものか――オーケイなら、これ以上ここで調査を続ける必要もなくなるが、はてさて――。
頭脳をフル回転させて、仕事を切り上げる口実を練り上げるドジスケ。何とも戦わずに帰れるなら、彼にとってそれ以上のハッピー・エンドはない。
しかし、もちろん世の中、そう簡単にはいかない。ドジスケは労働意欲の欠片もないが、逆に使命感に燃えるちっちゃい相棒が、頭の上にいたからだ。
「今、ひとつも怪しいものが見当たらないってことはー……やっぱり、夜が危ないってことでしょうかね、ドジスケさん? 夜行性の魔物、という可能性は、まだ検証してませんよね」
「えっ……夜行性、ですかい? あ、はい、そ、そうですな、確かにまだ、それは調べちゃいませんよ、姐さん。
しかし、夜になるのを待ってたら、お城での夕食に間に合わないんじゃ……?」
「何を言ってるんですか。この屋敷には、井戸も炊事場も、夜露をしのげる屋根もあるんですよ?
ここで夕食を作って、ここにひと晩泊まり込んで、怪しいことが起きないか見張ってみましょう! 張り込みですよ、張り込み!」
「ふえっ!?」
やる気満点なエインセールの提案に、ドジスケは屋根から転がり落ちたような声を上げた。
「どうせ今戻っても、クエスト協会に報告できる情報なんてないですしね。きっと報酬ももらえません。
ならば、まだ確認していない夜の風景を観察してみましょうよ! これは一種の賭けですが……勝てば何かが現れて、私たちは行方不明事件の真相を看破できるでしょう! 何も出なかったら負けですが、それは今帰っても同じことなので、結局損はありません。と、いうわけでー……ドジスケさん! 今日は久々に、一緒にキャンプ料理を作りましょう!」
「や、や、や、やだ――ッ!」
ドジスケは叫んだ。お城に帰れば食べられる美味しい夕食――超一流のシェフが作るグラタンやポトフ、クリームたっぷりのドーナツが、手の届かない遥か彼方に去っていくのを感じ、胸が引き裂かれるような思いで絶叫した。
しかし結局、悲嘆に暮れながらも、彼は折れざるを得なかった。エインセールを振り切って帰宅できるほどの強引さを、持ち合わせていなかったためである。
ちょうど窓の外では、夕陽が沈もうとしていた。フックスグリューンの草原が燃えるような赤に染まり、夜天の群青がそのあとを追いかけてきていた。
夜がやってくる。星が輝く、澄み切った夜が。