クチナシグサ
「『私』の退院を喜んでくれてる中悪いけどさ、私は『里井美優』じゃないんだ」
植物状態から、現代の医学ではとても考えられない奇跡を復活を遂げた少女。里井美優はの苦の家の玄関前で、退院して早々僕にそう告げた。
長い入院でやせた体を松葉づえで支えて、伸び切った黒い髪を風に任せ、そんなことを口にする。
「……え?」
僕――白浪歩の前に立っている彼女の姿は間違いなく、『里井美優』のものだった。
植物状態だった高校一年生から二年生にかけての一年で、ずいぶんと痩せてしまってはいるけれども。
彼女の言葉を理解しようとしても、どう思えばいいのかがわからない。美優は冗談の類を僕に言っているのだろうか、それともドッキリのようなものなのか。
僕は言葉を探しながら立ち尽くしている。
「何を言ってるか分かってない様子だね。でも、まあ。言ったとおりだよ。体は『里井美優』のものだけど、人格は違う」
「体……、人格? 何を言って――」
続いた言葉は僕の理解を促すものではなかったようだった。そんな僕の様子とは対照的に彼女は当然のことを語るような様子で、噛み砕いて説明しようとしている。
「『里井美優』の人格……精神は消えてたよ。とっくのとうにね。具体的に言うと、「しょくぶつじょうたい」っていうやつになったときからさ」
言葉はますます処理することができなくなっていた。けれども、彼女の声色は明るいものの、言葉の持つ刃物のような冷たさが、残酷な現実を伝えているのだと理解させていた。
目と目が合う。彼女の瞳には美優のような温かさはない。その冷たさに目を合わせ続けることがとてもできない。
それでもと気が止まるわけではない。
「だから、君の求めてる里井美優は事故にあったその時から死んでたのっ。そんな空っぽの体は私たちに住処に絶好!」
住処。
その言葉が酷く美優のことを侮辱しているように聞こえた。向かい合っているのが、美優の外見をしていなければ体が動き出していただろう。
「自分が妖怪だっていうのか? 冗談に決まってる」
目の前に映る彼女は、偽物というにはあまりにも似すぎている。今にも、彼女の口から「いやあ、冗談だよっ」なんて言葉が出てきてもおかしいとは思わない。
けれども彼女はそんな言葉を口にしない。
「妖怪、まあ大体あってるよ。信じようが信じまいが、そういうものとしてしか私たちは生きていけないんだから。
精神が死んでしまった人間の体を使って、ちょっとだけ燃費を良くして、有効活用させてもらうのが私たちなんだよ」
燃費を良く、ってエンジニアみたいな表現だけどねー、そんな軽口を彼女は笑いながら吐く。
そして、同時にそんな軽口の中で、僕は重い事実を直感してしまう。
ああ、里井美優は死んでしまったのだと。
目の前にいる彼女の正体なんてどうであろうとよかった。僕の頭を揺さぶるのはその事実の一点のみだった。
彼女との仲は幼馴染というやつで、僕にとっては一番仲の良い友人だった。そこにあるのが当然とも思えるような、そんな仲だった。
そんな彼女が。
「――――」
あたりを見渡すと『彼女』はどこかへと姿をくらましていた。へらへらと、美優の体を使って笑う姿が脳に焼き付いている。
そんなことに気付いた途端、何かが頬を濡らす。
僕が本心を打ち明けられる人間は、もうこの世にはいなかった。
聞きなれたチャイムが昼休みの始まりを告げた。それを確認した僕は、弁当箱を持って教室を出ようとする。すると背後から声がかかった。
「白浪、一緒に昼飯食べないか?」
振り返ってみると、一人の男子生徒が僕に話しかけているのがわかった。しかし、彼の名前が思い出せない。付き合いが短かったわけではないのだけれど。
「いや、遠慮しておくよ。ある人に呼び出されていてね」
とっさに嘘をつく。その場しのぎのその言葉は何とも信用されそうにない言葉だったが、彼は僕にそこまで興味を持っているわけではないらしく、「そうか」と一方的に言い切り、会話の中へと戻っていった。
軽く息を吐いて、僕は廊下へと身を乗り出した。
「今日も誰もいないで欲しいんだけどね……」
喧騒から切り離された廊下を歩きながら、僕は最近通っている昼食の場所を心配する。あまり大人数んで一緒に過ごすのは得意じゃない。
そして、そんな考えを薄々感じてるからか、先ほどの彼のような人たちは僕に特別関心を盛ったりはしないのだ。
都合がいい、そう思う。
リノリウムの床をだらだらと歩いていながらそんなことを考えていた。実に不注意で、だからこそ僕は曲がり角の陰に隠された人物を見つけることができなかったのだろう。
何気なく一歩を踏み出す、と。
「うおっ」
「ひゃっ」
思考がぶつ切りにされ、柔い衝撃が僕の上半身を襲う。勢いが強く、不用心な僕は後ろへと倒されてしまう。
「……痛っ」
ついついそう呟く。自分の不注意ゆえの事故なのに、こんなことを口にするのは相手に悪いなあ、と少し思考の端でたどり着くも、一度つぶやいたことは取り消せない。
わびの言葉を何とか考えようとしていると。
「あまり人に見つかりたくなかったから、ぶつかって焦ったよ。まあ、君でよかった」
僕のぶつかった相手は、制服を着ていた。そして、よく聞いた声をしていて、よく見知った瞳をしていた。
だから、気味が悪い。
美優の皮をかぶった『彼女』がそこにはいた。
食傷気味だな、と思いながらも右手に持ったそのパンを口に入れる。生地に閉じ込められたチョコクリームがいつもよりも苦く感じた。
僕の日課の一つが、昼休みは屋上に入り込み一人で昼食をとることだった。今までは連れ人がいることもあったけれど、ここ一年はそれもない。
「それ、美味しい?」
そんな声が鉄柵に寄り掛かっている彼女から飛んでくる。僕は出入り口の扉に背を預けながら、その言葉を聞き流した。
菓子パンを食べる。
この空間で食事をしているのは僕だけだった。視界の端にいる彼女は手ぶらだ。制服だけで学校へきているようだった。学校に復帰したとは聞いていない。
「無視することはないんじゃない?」
「……、普通」
へえ、と対して興味の無いような返答が聞こえる。
もっぱら彼女の興味は眼下の工程のほうへと向けられているように見えた。鉄柵から顔だけ乗り出して、校庭を眺めていた。
見知った背中だ。けれども何か話しかけることはできなかった。
言いたいことだってある、聞きたいことだってある。けれども彼女に話しかけること自体が何かを裏切っているような、そんな気配がする。
パンの最後のかけらを口に入れて、彼女の背中を眺めていた。
「あーやってさあ。何も考えてないように走り回ってる連中はさあ、何を考えてるんだろうねー」
彼女は背中をさらしたまま、そんなことを僕に言う。
あーやって、がわからないが、なんとなく想像がついた。昼休みの喧騒は人をそうさせる何かがあるように思える。
「何も考えてないんだろ、そりゃあ」
立ち上がりながら僕はそう答えた。後ろ手にはドアノブをつかんでいる。そして、思考の片隅は、時間のつぶし方を思案していた。
重い扉を一息に開け放ち、僕は後者の中へと戻ろうとする。
後ろから声が聞こえた。
「何も考えてないんじゃあなくてさ、何も考えたくないとかじゃあないのか――――」
扉を閉める。屋上からの音も、喧騒も聞こえない。
放課後になった。
荷物をもって教室を出る。廊下ですれ違うのは運動用ジャージに身をくるんだ女子生徒、なんとなくその姿を目で追ってしまう。おそらく、美優のかつての姿と重なったのだろう。美優はバスケットボール部に入っていたはずだ。
しかし、僕は彼女の試合を一度も見たことがない。今となっては見ておけばよかったという感情もなくはない。
里井美優は僕にとって、高校入学からの付き合いだった。
彼女が事故で入院して、植物状態になるまでの約半年間の付き合いだったが、この学校では一番僕が信頼していた人物と言っても差し支えはない。
比較的日陰者の僕と、運動日に入っていて、陽気な気風の彼女がどのように関わっていたかを不思議に思われるかもしれないけれど、まあ普通ではなかった。
彼女が何を思ってか、僕の部活の―――演劇部へと見学に来たのだ。
演劇部の部室に向かうと、そこには『彼女』が立っていた。
「何で、ここに」
「大変だったんだよ。君の名前を聞き出して、そこから何の部活に入ってるかも聞いてさ! 君本当に薄い付き合いしかしないんだね。名前はともかく部活動を知っている人の少ないこと少ないこと」
「ずいぶん苦労したらしいことは分かったよ。けれど、そもそも何で僕に付きまとうんだ」
彼女の言ったことを鵜呑みにするのなら、彼女は体を手に入れることで自由になっているはずだろう。わざわざ元の体の持ち主と仲良くする必要なんてないはずだ。
学校に来た理由すら僕は知らないのだ。
そんな僕の疑問を不敵な割で彼女は迎えた。
「こんなところで話すのも、無粋じゃん? ちょっと外に出ようよ。えっと、白波歩君?」
自分の名前を呼ばれることが、これだけいやになる日が来るとはとても思っていなかった。
運動部が活動しているグラウンドも見えないような、校舎の外ではあり、広義ではグラウンドの一部なのかもしれない。そんな、人気の少ないような場所に『彼女』は僕を連れてきた。
有り余っていた時間で調べていたのだろうか、昔使われていた物置があるくらいで、この場所は人に聞かれたくない会話には便利な場所に見える。
「なんで、君に付きまとうって? そんなのさーー」
ついてそうそう、彼女は会話を再開した。
里井美優と似た表情を浮かべている――――そうなんとなく思った。陽気な気風の中に、刃物のように潜んでいる不敵な心が彼女の魅力だったと思う。
「歩、君は何か趣味とかあるのかな?」
場所を移した割に、穏やかそうに聞こえるその質問は僕から力を奪った。
趣味、その言葉がどんなことを意味しているかは分かる。しかし、自分にとっての……と枕詞につけてしまうと。僕の思考は暗雲に沈み込んでしまう。
とにかく、適当に返す。
「……言わない」
「迷った末にその答えはどうなのさ」
まあ、いいけどね。彼女はそう言って、不敵な笑みを保ちながら次の言葉を口にする。
「君のことはいいや、人間の一般的を私が語るのも変な話だけどね。
普通、人間は個性を持っているんだよ。持っているべきなんだよ。初めにある無職の人間に、個性という絵の具が色づけしている感じ? それを『自分』と呼ぶんだと思う」
どこかに書いてあることを語っているのではないと、そう思った。目の前に立つ存在自体がまがい物のような『彼女』の本心のかけらを垣間見たのだろう。
「それで。そういった個性が無ければ、そんなの意味のない者さ」
そして、その口から『彼女』の言葉が放たれた。
「私に『自分』って言える物がないからだよ」
何かを言おうする衝動が体に押し寄せて、口を堅く閉じた。自分が感じたことを言葉にすることを恐れていた。直観的に、また、理性的に。
言いたくなかったのだ。自分も同じだ、なんて。
こんな奴に。
「ほら、私たちって人の体を借りなきゃ存在できないんだよ。だから、人の体を借りる以上、その人の真似をして、そうやって仮初の自分をつくるのが好きなんだ。少なくとも私は」
仮初の自分。
そんなものがあっていいのだろうか、そんなものを自分で作り出し、そこへと享受することを許すことなんてできるのだろうか。
僕は考える。
そして口に出した。
「僕は、お前とは違う」
言葉を口にすることがこれほどまでにつらいとは思っていなかった。喉を過ぎる言葉は、剣山のようにさえ思えた。
そして、それだけ言い切って僕は部室へと走って行った。
後ろを振り返ることはできなかった。
その後、僕はいつも通りに部室へと言って部活動にいそしんでいた。『彼女』は僕のことを追ってくることはなかった。場所は、知っているはずだから追ってこなかったということは何か理由があったのかもしれないけれど、特に何もなかったのでそのうち忘れた。
そんな『彼女』との出会いから一か月と少しが経った。
短くはないその時間の中、彼女は変わらずに学校へ不法に潜入し続け、僕に付きまとい続けていた。結局僕には彼女の意図がつかめず、信用なんてできるわけもないような日々が過ぎ去って行った。
十一月から十二月へと、寒さは厳寒と言えるまで極まっていき、防寒着を欠かせない時節に変わっていた。
「マフラーとかつけないんだね」
「歩、心配しなくてもいいよっ。人間とは違うんだって。燃費を良くする上で色々とさー」
雪が落ちてきそうな、厳寒の朝。彼女は出会った時と何ら変わらない、冬用制服だけを見にまとい、防寒具を一切付けない姿で僕の家の前にいた。
僕としては、美優の姿を傷つけてほしくないから言ったのだったが、『彼女』は自身を心配されたと思ったのかそう返される。反応したくなかったので、目をそらして一足先に歩き出した。
『彼女』が登校時にまでついてくるのは初めてだった。驚くべきことかもしれない。家の扉を開けたら知り合いの姿が目の前に……! ということは。しかし、意外と驚かなかった。
彼女の、そのいつもとは違った行動は大きな契機を意味していたのかもしれない。
そして、彼女は背後から走り込み、僕の目の前をふさぐようにして言った。
「今日。そう、今日なんだ」
不敵な笑みをしながら、ずっと以前から決まっていたことのように、告げる。
「君の演技を見に行くことにするよ」
それだけ言うと、彼女は僕に背を向けて走ってゆく。そんな後姿を僕は、少しだけ眺めた後、目をそらす。
そして、学校へ向かっていった。
気づいたら放課後だった。授業の間眠りこけていたわけでもないのに、一切の記憶がなかった。病を疑ってしまうような状態だったがそれでも僕は部室に向かおうとする。
本当は分かっている。僕の体に不調は一つもない。
ただ演技をすることが――――正確に言えば、その演技を体だけとはいえ里井美優である彼女に見られることが嫌だったのだ。
演技をすることは、おそらく好きだ。だけど。
――――『求められているのはキャラクターの魂の入った人形だけ。』
――――『歩、あなたのことなんて誰の求めていないの。』
実の母親が、小学生の息子相手に発する言葉とはとても思えない。けれども僕の母親は言ったのだ。そして、その時から僕は――。
僕は昔、子役だった。
母親は有名と言わないまでも、業界ではそこそこ名の知れた女優だったらしい。演技は大和撫子のような、落ち着きを持ち、女性らしい冷淡さを秘めた穏やかな演技を徒と絵もうまくこなしていたという。
父親もそんなところにひかれて母と結婚したと聞く。子供が生まれてからも最初の数年は女優をやっていたが、ある時からやめてしまった。
僕がそんなことを覚えているわけがないが、どうやらその時の――幼稚園児だった僕はくだらないことを言っていたらしい。
「お母さんの「おゆーぎ」、かっこいい!」
母親の出演していた映画を見てそんなことを言い、母親はそんな僕の様子を見て、言ってしまったのだ。
「じゃあ歩もやろう!」
そして僕は子役を目指すことになったのだ。女優の息子だから、で簡単になれるものでもない。しかし、僕は母親から才能の一欠片くらいは受け継いでいたらしい。その上、教えてくれる講師が実際の女優なのだから僕の実力は驚くほどに上がっていった。
母親と同じ事務所へ入り、レッスンをして実力を段々と上げてきたころ。僕にオーディションに参加してみないかという誘いがあった。
事務所のトレーナーさんは「一度、失敗するのも成功への道だよ」といったことを言いながら、僕を応援してくれた。
母親も似たようなことを言ってくれた。つまりは、落ちること前提で経験を積むことが重要だといっていたのだろう。当時の僕はそれを聞いて「自分は落ちるのだろう」と思っていた。それは当たり前のことで、女優の息子だからと言ってオーディションに易々と受かるなんてことが起きるはずがないのだから。
しかし。
僕は全力を尽くした。教わったことをすべて絞り出すかのように、僕は舞台の上を舞っていた。一緒に受けていた子たちもそうだったのだろう。今までの努力、経験。そのどれもが僕よりも膨大だったはずだ。
僕は数千人のうちの、最後の二十人に選ばれていた。
誰も予想していなかった結果だった。母親でさえ、一切ここまでの成果を残すとは考えていないに違いない。
今でも不満に思っていることがいくつかある。どうしてほかの応募者が僕よりうまい演技をすることができなかったのか、そして、母親はなぜ僕を合格させようとしてしまったのか。
最終選考に残ったことを知ったトレーナーさんは驚き半分、喜び半分の思いで僕のことをほめてくれていた。
きっと母親もほめてくれる、そう思っていた。その考えが無邪気さゆえの産物だとは思わない。平凡で、当然の感情だと思う。
けれど、母親は平凡ではなかった。
そして、僕に告げる。
その後の僕の道をひどく歪めてしまうような、そんな言葉を。
『初めてのオーディションでここまで来るなんて、あなたは間違いなく天才よ。だから――』
『私の息子として、必ず選ばれなさい。そうでなければ――ー私の息子であるはずがないわ』
『もし仮に歩が受かるだけの力がないとしたら、もう今の歩はいらない』
『覚えておきなさい』
「求められているのはキャラクターの魂の入った人形だけ。歩、あなたのことなんて誰の求めていないの、ね」
一語一句間違えることなくその言葉を覚えている。いや、刻み込まれているといったほうが正しいはずだ。
そして、実際にその通りにしてしまったのだから手に負えない。
僕はあのオーディションに受かってしまった。今でも、僕はあの時の芝居が一番うまく、そして好きになれない芝居だと思っている。
僕はその時から、今まで、自分を人間だと思ったことはない。ずっと人形だと思い続けてきている。
部室へと向かう。柄にもなく、昔のことを思い出していたせいかその足取りはいつもよりも重く感じていた。
このまま歩き続けて今日が終わってしまえばいいのに、そんな荒唐無稽な願いはかなうはずもなく、僕は部室の前まで来ていた。
ドアと一体化している窓ガラス越しに中の様子が見える。練習の準備はもう始まっているようだった。部室に保管してある衣装やセットを体育館へと運び込もうとしている。
僕もそれを手伝おうと、部室に入り衣装の一つである黄色いマフラーを手に取った。そして、体育館へと足を運ぶ。
体育館の入口の柱に背を預けている『彼女』が待っていた。口うるさい『彼女』にしては珍しく無駄口をたたかなかった。僕もそれにのっとって目線だけ合わせる。
何かが始まりそうな、そんな予感をどこか感じていた。
演技を始める前、多くの人たちは緊張したりするらしい。失敗を恐れたり、そういった臆病な心がそうさせるのだろう。けれど、僕はその類の気持ちになったことがなかった。
母親の才能の片鱗なのか、僕の才能なのか、ともかく。
僕はこういった時気持ちが昂る。
人形が、人形で許される空間。そんな場所に僕は足を踏み入れようとするのだから、気持ちはいつもより興奮する。普段何気なく踏みしめる舞台の床も、特別に思える。暗幕によって生まれる暗闇すら愛おしい。
空気を激しく揺らす、ブサーのような音が鳴る。
暗幕の間から光が漏れ出し始めた。
『夜になった星を見てね。ぼくの星は小さすぎて、どこにあるのか教えられないけど』
僕は台本に刻まれたセリフは口にする。けれどもその言葉は、僕の普段発する言葉のどれよりもよほど本物だった。まるで僕がその人物に生まれ変わったような感覚だ。そして、その感覚がどうにも心地よい。
普通、台本通りに演技をして、そこに収まってしまうようなら「人形」のようだと言えてしまうのだろうけれども、僕は演劇を通してだけ自分を実感できるような気がした。
母親のこんな気持ちだったのだろうか、キャラクターと自分が溶けて一つになっていくような不思議な気持ち。これを追って女優をし続けていたのかもしれない。
『でもそのほうがいいんだ。』
舞台の上で、僕はもう一人の役者にそう告げる。普段は人の心は読み取れないが、この舞台という箱庭の中では手に取るように、自分も相手も心を理解することができた。人間のようなことを平然と行えた。
『ぼくの星は、夜空いっぱいの星の中の、どれか一つになるものね』
言葉がのどを過ぎるたびに、自分の体に温度が戻ってくることを感じる。自分が自分でいるような感覚を、僕はキャラクターになりきることで感じることができているようだ。
そこまで考え、ふと脳裏をよぎる言葉があった。
――――『人形』
僕は人形だ。
台本が殺意をにおわせたものならば、僕もその通りに演じ、成るだろう。
自分と向き合っている役者に、一歩詰め寄って僕は言葉をつづける。
『そうしたらきみは、夜空全部の星を見ることが好きになるでしょう』
はたしてそうなのだろうか。セリフに疑問を投げかけることなんて役者のすることではないが、しかし思わずにはいられなかった。
本物が混ざっている、しかしほとんどが偽物の星空など見ても仕方がないじゃないか。いくらの星を眺めても、その中に本物があるとは限らない。本物を本物と確信することもできず、満足することのできない天体観測なんてむなしいだけだ。
そんなことを考えているせいか、先ほどまで体育館の入り口にいた『彼女』の姿を横目で探してしまいそうになる。けれど、それはしない。
台詞を使い切った。
それは練習が終わったことを示していた。
「部員の人たちは歩を探しているんじゃないの?」
「いいんだ。どうせ『良かったよ。さすがは女優の息子』なんて言われるだけだろうしね」
夕暮れも更け、炭の混じったような朱色が空を彩っている。僕はこんな空模様が好きだ。そして、美優も好きだった気がする。けれども『彼女』はそんな気持ちを抱かないのだろう。
そんな考えの中で、いつの間にか『彼女』のことを気にしている自分がいるのに気付いて、複雑な思いになる。
時間が経って僕も落ち着いたということなんだろうか。
僕は少し先導して歩いている『彼女』に呼びかける。
「そういえば、今日の僕の演技はどうだった?」
こう問いかけた時の僕は、珍しく陽気だったのだ。楽観的で、理性的でなく、願望だけで未来を見ていたのだ。
今の自分は完全に里井美優のことと、同じ姿をしている『彼女』のことを別に考えることができているのだと。そして、『彼女』とまた違った、或は友好的な関係を気付けるのではないかと思っていたのだ。
この質問だって、それほど重い気持ちでしたものではない。
その言葉を言いきった時、視界の上のほうで、遠くの烏が飛び去ったのが見えた。それを自然と負った僕は夕日とつい目を合わせていた。
そして、そんな橙の光が僕のある記憶を呼び覚ました。思えばそれは予感だったのかもしれない。
昔――そう、一年半前のこと。美優との始まりのことを、思い出していた。そう、こんな夕暮れの中で、演技を見ていた彼女が言ったのだった。
目の前にいる『彼女』が口を開く。
そして、重なる。
――『「君の演技はさ、よく出来た贋作みたいだ。」』
「どうして……重なるんだ……!」
『彼女』は美優とは違うのだ。全く別のもののはずなのに、どうして僕を糾弾する言葉だけは全く同じなんだ。
口から出た嘆きは、止めようがなかった。この一か月、もしかしたら意図的に目をそらし続けていたその感情を抑えようがない。
『彼女』の言葉が、まったく違っていれば良かったのに。そうだったら、きっと僕は美優と切り離して『彼女』を見ることができただろう。けれど、最後の一ピースはどうしようもなく歪で、埋まりようがなかった。
「なんでお前みたいなやつに美優の体をもてあそばれなくちゃあいけないんだ……! なんで忘れさせてくれない?」
目を合わせたくもない黒い感情が、止めどなく自分の内側から漏れ出すのを感じる。止めようのない悪意が、目の前の『彼女』へと向かっていった。
「――私が生きるためだよ。それにどちらにしろ里井美優は死んでいたって言ったじゃないか」
「そんなことは、お前のことなんてどうであってもいいっ」
理性がどこかで止まれと叫んでいる。けれど、僕は止まれなかった。ここを逃したら、きっと僕たちはこのままの不安定な関係をつづけてしまうと直観していた。
そんな理由にすらならない考えが、僕の背中を激しく押している。
「お前なんて死んでしまえばいい。……偽物」
一線を越える感覚。罪悪感が身体中を掻き毟り、後悔が喉に栓をするような痛々しい感覚が僕を襲う。
けれども、何度やり直したところで僕は同じことをしてしまうのだろう。
彼女の表情を伺おうとする。悲しんでいるだろうか、いやそれは無いと思っていた。
彼女は僕の方を向かず、来た道を振り返っていた。
そして、いつもとは少し違った声色で言う。
「……都合がいいよ」
え、そんな音が口から洩れる。いったいどういう意味なのかを問おうとするも、それを待たずに彼女は言葉をつづけた。
「言おうと思ってたけどね。そろそろなんだ」
何がそろそろ、と口に出すことも待ってはくれない。
「この体が動かせなくなるのも、燃費を良くしても限界があるってことだよ」
遠くでカラスの鳴く声がしたような気がする。
僕の思考を空虚なものが埋め尽くし、言葉を考えようとすることすらできなくなる。足は地面に針つけられたように動かない。
彼女は僕に背中をさらしたまま、歩き出した。
「今度は、本当に終わりだよ。体だけでも生きてる、なんてことはない。生物的にきっちりと死ぬ。
その時は――三日後だ」
背中が遠ざかってゆく。僕はそれを目で追うことしかできなかった。
次の日、『彼女』は学校へ来ることはなかった。
燃費云々と口にしていたので、あまり動かないようにしているのかもしれない、そう納得させていた。
その日の夜、なかなか寝付けずにいた。あの言葉を信じ切ることができなかったのだ。
あんなに元気だった『彼女』がたかが数日でこうも変わってしまうなんて。もしかして、僕の言葉に怒って、へそを曲げたから言った冗談ではないのか。そう思うほうが納得できる。
けれど僕の心はどこかで、あの言葉を信頼していた。
別に『彼女』に誠実さを感じていたわけではない。しかし、そんな予感が確かにあった。
「あと三日。いや、もう二日か」
布団から出て、カーテンを開いて外を眺める。いつみても変わらない、不安の色をした黒い空がどこまでも広がっている。
「……僕は。『彼女』の存在が無くなって、悲しむのかな」
そんな空を見ていると、つい言葉が漏れ出した。
思っていたことがある。ずっと。演技の中でだけでのみ、僕は人間のように振舞えている。だから、付き合いも短い『彼女』が消えたとしても僕はそれを悲しむことはできないのではないか。そう思っていた。
「……はぁ」
考えても答えが出ない。そんな気がして、ついついため息を止めることができなかった。そして、それを機に眠ってしまおうと窓ガラスから目を離そうとする。
その時、自分の家の入口あたりに人影を見た。
背丈は僕よりも低く、体格から女性であることがうかがえる。闇に溶け込むような黒髪には、見覚えがあった。
「……何をしに来たんだ」
はっきりとは見えないが『彼女』だった。もう、深夜と言えるような時刻。学校にも来なかったのに僕の家の入口――いや、郵便ポストあたりで何かをしている。
目が闇に慣れてくると、少し様子がうかがえた。何かをポストに入れていることが何とか理解できたようだった。
あまり時間はかけていなかったであろう。現れてから一分程度で『彼女』は引き上げていった。
その姿が消えて数分経った後、僕は両親に迷惑のかからないようにひっそりと家の外へと出て、ポストを開けた。何か危険物が入っているという考えはなかった。きっと重要なものであろうことは嫌でも想像がついたからだ。
ポストの内側は暗く感触で物を判断する。手探りで触っていくと、入れられたものは物というよりも紙切れ、または手紙のようなものだった。
ポストには『彼女』がいれた手紙しか入っていないようなので、それをつかんで引き出す。
古びた手紙だ――そう思った。
そして、その表面に刻まれた差出人の名前に驚く。
『里井美優』
そう書いてあった。
夕暮れ時だ。
金属同士が半端にふれあい、間抜けな音を奏でている。
そんなブランコに乗っている『彼女』が僕の姿を見ると手を振って僕のことを呼びつけていた。
「やっ、久しぶりだね」
「そうでもないような気がするけど」
僕が歩きながらそう返すと、彼女は阿呆を見たような表情をする。
「毎日会っていたんだから、二日も会わなかったら「おひさ」だよ」
一理ある。
そう思って、口を出さなかった。そして、ブランコに座っている彼女と向かい合うように、ブランコの囲いに座る。
思えば僕と『彼女』はこうやって話し込むことばかりだった気がする。理屈でしか動けないことを露呈させるように、話していた。そんな日々が嫌いではなかった自分がいることを感じながらそう思い返す。
いったん腰を落ち着けたことを見て、『彼女』は言った。
「読んでくれた? あの手紙」
「……読んだよ。だから来たんだ」
タイミングが良い、そう思っていた。もしもあの手紙が今日の零時ごろに届いていたのなら、その内容をうまく飲み切ることができずにいただろうから。
一日、おそらくただの二十四時間で割り切ることのできないような大切な一日だった。
「いろいろ落ち着けた……、最後の最後で僕はきっと冷静になれたよ」
「その手紙は私が書いたものじゃないんだよね。男子中学生じゃないけれど、ベッドの下に落ちていたんだ。
そんな手紙が届けられずにいるのは、かわいそうだと思ってね。代わりに歩に届けてあげたってわけ」
その手紙が何も変哲なところのない者ならば、迷惑だと思われる。しかし、その手紙は少なくとも僕にとっては特別なものだったので、それを簡単に迷惑とは言い切れなかった。
古びた紙に書かれているその手紙は、ここ数か月で書いたようには見えない。『彼女』の書いたものではなくて、里井美優が書いたものだったのだろう。
そして、その内容は。
「この前、僕の演技のことを評してくれたけど。それとまったく同じように、美優が僕のことをそう表現したことがあったんだ。
この前のときは、お前が美優とのまねごとをしたように見えたから衝撃的だったけど。美優のときは、その言葉だけでも十分僕は……その」
あまり自分で口にするべき言葉ではないことを、僕は言おうとしている。
「……傷ついた?」
その言葉を先取りされる、けれども自分で言うほど居心地の悪いものではないので、言葉を借りることにする。
「うん。なんというか、確かに僕の演技は、人間らしさのない者かもしれない。二流どころか、三流もいいところだと思うよ。
けれど、見透かされるのはなんだか悔しかった。
人形みたいな演技は僕の自信みたいだったから、図星を付かれて、嫌だった」
理不尽な話だと思う。たった一年前とはいえ自分のことだ。けれどとてもじょうごできるものではないと思う。
だから、そのことについて書かれた手紙を読もうとするとき。僕はその手紙の内容が、理不尽なことに対してでも、美優が謝罪の意を込めていた手紙だと思っていた。
その内容は衝撃的だった。そして、僕の予想は大きく外れていた。
「美優は僕に謝ろうとしていたんじゃない。むしろ、慰めていたんだ。
彼女は演技に詳しかったわけでもなかった。それでも直観的に見えたその景色を信じていたんだと思う。
その上で僕みたいな偽物みたいな、紛い物でも良い、そう言いたかった」
何で渡してくれなかったのだろう。そもそも、口に出していってくれなかったのか、理由を立てることはできるけれど真相は分からない。
けれど、彼女の残された意志を読み取れば、そんなところだった。
「で、僕はどうすればいいと思う?」
金属の擦れる音はだんだんと小さくなっていた。
夕焼け空には黒が染み込んできて、夜の始まりを示していた。
「自分の行き先なんて自分で決めてよ」
「決めるわけじゃない。僕は参考にしたいだけ」
「別に、順当にさ。この娘の残した手紙に従って生きれば良いんじゃない?
せっかく自分を肯定してくれるような人がいたことに気づけたんだから 」
そう、いた。僕にはそんな人物がいたのだ。しかし、今はもういない。いるのは目の前の贋作だけ。
今の僕は不思議と、目の前の贋作を少しだけ愛おしいと思えていた。
自分と似たところがあるから、そしてそれを認められたからだと思う。
「……うん。そうするよ。
自分がどんなに人間らしくなくても、割り切って、自信を持つことにする」
言葉にすれば簡単なことだった。しかし、実行するとなると簡単ではないだろう。
けれど、この一ヶ月のことは心強い支えになってくれると思えた。
「なんの解決もしてない上に、スッキリとした話でもないけど。
けれども、それも僕らしいと思うよう」
「私も、そう思う」
その言葉を皮切りに、金属の擦れる音が小さくなった。もう、ブランコは動いていない。
いや、動かせないのだろう。
暗がりの空の下、僕は別れが近いことを感じていた。
だから『彼女』に最後に聞きたいことを、聞くことにする。
「あの手紙って、本当は誰が書いたんだ?」
偽装のしようはある。
見つけた場所も『彼女』が好きに言っているだけだ。古びた紙だって用意できなくはない。
そんな質問を、『彼女』は、最後の最後まで不敵に返す。
「無粋なこと聞くな、って。
どちらにしても、結果は変わらない。
世の中そんなものだ」
それを言い切り、『彼女』の体から力が突然抜けた。支えのなくなった体はブランコから崩れ落ちそうになる。
それを支えて、僕はその体に始めて触る。
数秒前まで動いていたことが信じられないほど、冷たかった。