半分ずつの箱
気持ちのいい風が吹いた。
一瞬意識を失ったような気がする。
瞼の向こうでは、ゆらゆらと、甘い香りの陰が揺れた。
いつの間にか、花畑に寝ている。
――ああ、死んだんだ。
もしかして、自分は天国に来てしまったのだろうか。
あれだけのことをしておいて? それとも、死んだら誰しもが花畑に来るのだろうか――と、開くのが億劫な瞼を閉じたまま、しばらくみずみずしい植物の茎に肌をなでられて寝そべっていた。
日が当たって暖かい。
気持ちのいい風が吹いた。
ざわざわと、枝葉の揺れるような音が聞こえる。ざわざわ、ざわざわ。たくさんの内緒話が漏れ聞こえてくるみたいに、こすり合わせの音が聞こえる。
そして、頬の上に、少しだけ冷たくて、軽いものが落ちた。
花びらかな?――と思う。アカシは、それがどんな花なのか見てみたくなった。
死んでも、人間の好奇心は抑えられないのか。数秒前まで、開くのが億劫で、シャッター商店街状態だった瞳は、勢いよく瞼を押し開いた。
「――――――っ」
気持ちのいい風が吹いた。
頬の上の、さくらの花びらが、くるくると空気を避けながら、青い空にとけ込む。
歌をうたう様に揺れるピンク色のチューリップ。
その中から見上げた景色は、枝だけのときよりも、何倍も大きくなった、満開のさくらの木と、その向こうに見える理想的な青空だった。
時間がゆっくり感じる。もし音楽が流れていたら、歪に聞こえてくるほど、その景色が瞳に焼き付いた。
ざわつく花びらが、川の様に吹かれて流れ、その流れに、胸の内を洗われていく感触がする。すー。すー。じゃぶじゃぶ。ちゃぷん。心臓が、冷たくて気持ちのいい水を全身に送った。体中が綺麗に洗われていく。その水が脳まで達したとき。全身の気持ちよさが教えてくれた。
まだ自分は生きている。
さっきまでと同じ場所に寝ている。
なのに、目に見える景色はこんなにも、心も、体も、洗われるほど、
「きれいだ」
すごくシンプルに。
そういう感情になって、そう言う言葉が出てきた。
だから、自分がその言葉を使ったことに、納得がいってしまった。
古谷アカシは、金を盗んで、その金を使って幸せそうに笑う人間が嫌いだ。誰かの悪口を言って、楽しげに笑う人間が嫌いだ。ヒトを殺した人間が、自分の生んだ子の顔を見て微笑むのが嫌いだ。罪を犯しているのに、そんな奴が幸せな気持ちを味わえる世の中の仕組みが、嫌いで納得できなかった。
だけどアカシは、ヒトを殺して、町を壊して、いろんなモノを台無しにして来てしまった自分が、景色ひとつを見て幸せを実感してしまったことに納得ができた。
その感情がとてもシンプルな感情だったから。
クズになってしまった――平気でものを破壊できてしまう感情を持った自分が、かっこつけも、見栄張りもなく「きれいだ」なんて言える綺麗な感情も持っている。そのことを認めてしまえた。
――それは、シュレディンガーの猫だ。
アカシは、クズな行いをした人間をクズな人間だと信じていた。
アカシは、美しい行いをした人間を美しい人間だと信じていた。
たとえば、裃橙弥は、アカシにとって、誰よりも格好のいい男だった。誰もがあんな風に、わかりやすく誰かを大切にできたら、きっと世界は大切にされる。
たとえば、雨月輝彩は、アカシにとって、誰よりもひたむきな女の子だった。生きていることは素晴らしいんだと。死んでしまうことが切ないほどに素晴らしいんだと。だからどんなときも、喜ぶし怒るし悲しむし楽しそうだった。
でもきっと、誰もそれだけじゃない。
彼らの中にも、良い感情と悪い感情が、ずっと同時に半分ずつ存在していて、どちらの感情が表に出るのかは、蓋をあけてみないと、外からじゃ理解ができない。
良いことをすれば、良い奴だと思うし、悪いことをすれば、悪い奴だと思う。その結果が出るまでの、心の中の、ぐちゃぐちゃとした葛藤や悩みや、あるいは苦しみなんて、誰にもわからない。誰にもわからないで、理解できないままに。それでもそこにそういう風に存在している。
そのことを。やっと認められた。
気持ちのいい風が吹いた。
少しずつ意識が遠くなる。
――そうか、あのとき僕は、この花を咲かせたかったんだ。
最初の爆発を思い出す。
――僕は、三人でこの桜を見ることを望んだ。でもそれは叶わないから、花火を見たいと思った。
花が美しいのは儚いからで――花が美しいのは短い命を全力で燃やすからで――花が美しいのはすぐに散ってしまうからだと言うのなら、一瞬で咲いて一瞬で散る花火は、世界のどんな花よりも美しいのかもしれない。
あの日から、橙弥を殺してしまった時から、ずっと自分の言霊の力が忌々しくて、醜くて仕方なかった。
だけど違ったんだ――自分は気づいていないだけだったと、無知を知る。
――たった一言で、すべてのつぼみを弾き開くこの力は、とても美しい。
目に見えるものが、シンプルだから。体を巡る感情がすごくシンプルだから。シンプルにそう、信じられる。
「ああ、やっぱり、橙弥、と雨月にも……みっせて、あげたい、な……」
できることなら一緒に見たかった。
雨月は、この桜を見るだろうか。アカシにはわからない。
この場所は彼女の重荷になるから、だから壊そうと思っていたのに。今は本当に、ただこの景色を見てほしかった。
どうか背負いすぎないように。
できるなら、君の背中を押す翼になれるように。
三人が繋がっていたこの場所で。
この気持ちを少しでもわけあえるように。
だけど、そんないろんな理由なんて本当はどうでもよくて、どこにもなくて。
きっと、とても綺麗な感情が、単純にこう言っているんだ。
――彼女にもこの景色を見てほしい。
今はそれだけが、少年の些細な願いごと。