なんでもいい理想
――どうしてこんな枯れた花壇に球根があるんだ。
手で摘んで青空に掲げた一つの球根――植物の種。泥色で隕石みたいな形をした玉が、ぷかぷかと浮かんでいる。その隣に立つ、つぼみの桜。
理想的な空の景色ってどんなだろうか――アカシは頭の中に、真っ白の画用紙と水彩絵の具のセットを思い浮かべる。
きっと鮮やかな空色の下には、赤い土の道がずっと続いている。でも空を見上げるヒトの目にはほとんどそれは映らない。赤と茶色と、ほんの少しの黒を画用紙の底辺に薄く伸ばした。
きっと理想的な空は、残りの白紙を青で埋めるだけじゃダメだ。どれだけリアルな空色を作っても、それはリアルなだけで、理想にはならない。
画用紙の中心線から広げる様に、できるだけ彩度の高い空色を解き放った。左右に少しずつ白が余る。
春ならさくらかな、秋なら紅葉がいい、冬は綺麗な空気を表現しよう、夏はやっぱりみどりだ。どれでもいい、今使った青には、夏が似合いそうだ。
筆を洗って、緑と、白と、黒をパレットに並べた。明るい緑、ただの緑、濃い緑、ほとんど黒、光の白。画用紙の左右に、筆先の形の点を落とす。点点点点てんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてん……。みどりが生い茂った。
開けた木の葉の間から空をのぞく。
どこかの誰かの視界の絵。
すごく適当で乱雑。
色は所々にじんで、繊細さなんて垣間見えない。それなのに、みどりを映やし、道から見上げる小さな青は、本当に綺麗で、理想的な画だった。
この青は何も特別な事なんてない。パレットに広がる青と何も変わらない。赤土のアクセント。グラデーションするみどりとの対比。それがあるだけで、この青は理想的だ。
ゆっくりと目を開いて空を見る。理想より少しだけ色味が薄い。真ん中に浮かぶ球根は、間違えてつけた汚れみたいだし。つぼみの桜は、存在が薄くて、目の前の景色が白紙よりも薄味な色に見える。
ごろんと土が服に付くのも気に掛けず、枯れた花壇の上を転がって体勢を変える。ちょうど見上げた目の前に、つぼみの桜が立つ様に。
全然綺麗じゃないな、とアカシは思った。
全然まっすぐ伸びていない。でこぼこして不細工。そして花が咲いていない。
「なんだこれ」
つい声が零れた。疲れた声だ。
なんだかずっとつらい思いをしている気がする。アカシの心臓はもうバラバラだ。収まり切らなくなった感情が爆発して、バラバラに、細々に、どこかへ散ってしまった。
砕け散った僕の感情を誰か集めてくれないか――弱気にそんなことを考える。なんとなくわかるのだ。これは、自分で集めるのがものすごく難しいモノだと。きっと自分以外の干渉成分が必要なんだと。
自分には何もない。何もできない。
あるのは醜い言霊の力だけだ。
「こんなんじゃ、なにもできないんだよ」
声は、発せられる度に水分を消費した。喉の奥が渇いてガスガスする。
――もし。もしも、そうすることで雨月の病気が治るというなら、世界なんて容易く壊してみせるのに。猫の閉じこめられた、不幸の象徴みたいな箱なんて、僕が内側から壊してやるのに。
それだけのチカラがあるのに。
古谷アカシと、裃橙弥と、雨月輝彩の待ち望んだ姿をしていない、このつぼみの桜は、アカシの無力の証明をしている様に感じた。
結局、何もできない。
とまどって。失敗して。逃げて。嫌われて。自棄になって。壊して。悲しみを生んで。悲しみを生んで。悲しみを生んで。帰ってきた。
結局、何もできない。
ただ自分が、どうしようもないクズ野郎認定を世間から受けて。自分がただのクズ野郎だと自覚してしまって。それでも何もできないで、枯れた花壇の上に寝転がっている。
死んだ方がいいと思われている事もわかってるし、死んだ方がいいと自分でも思っているのに、中途半端な名前のよくわからない感情が、雨月を――必死に生きようともがく雨月を裏切って、自殺するなんて事を赦さない。
だから。
何も。
できない。
(うえぇ。相変わらずお前はぐちゃぐちゃしてんな)
――またお前か。
(なんでぇ、つれねー態度だね。良いこと教えてやろうと思ったのによ)
――ただのゲロになにがわかる。五月蠅いからさっさと黙れよ。
(ああ、恐い恐い。性格荒みすぎぃ。ケテケテケテケテ)
変な笑い方だとアカシは思ったが、何も言わなかった。
(オレさんはぁ、お前のことなんか全部知ってんだぜ。なんせお前の汚ねえ部分だからよぉ)
さっさと吐いてしまおう。そうすればきっとまた聞こえなくなる――アカシはそう思い、重い体を起こした。
(もおいいじゃねえか。ぜんぶこの場所が悪いんだよ。そうだろ。お前だってそう思ってるんだぜ。だからオレの言葉がこんなにも届く)
肘の裏の土をはたいて落とす。今更気にしても仕方ないけれど、そういう体に染み着いた動きは、自然と出てくる。案外自分もまだ人間だ。
(壊しちまおうぜ、そうすれば全部すっきり忘れられるさ。約束のことも、あの二人のことも。お前ら三人の繋がりはこの場所だけなんだからよ)
膝に手を付き、わざとらしく「よっこいせ」と言って立ち上がった。
(な。かっこつけんなよ、人間)
立ち上がった瞬間、胸の真ん中を強い衝撃が貫く。
その衝撃に押されて、また背中から地面に戻された。
すっかすかの青空。理想にはほど遠い。
葉も花もない桜の木。理想にはほど遠い。
見下ろした自分の胸の中心。理想の赤い道よりも、どろどろになった黒い赤。
――なんだよ、今度はそこから出てきたのか?
言葉にしないで呟いてみたが、道路にぶち撒けた吐瀉物と違って、胸に空いた穴から染み出す血液は何も言わなかった。
アカシの心臓に住む誰かは、もしかしたら死んでしまったのかもしれない。
撃ち込まれた銃の弾丸によって。