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東京女子高等師範学校。通称女高師。みどりは下宿している真砂町から、ゆっくり歩いて半刻程の距離を、毎朝通学している。春一番をとうに終え、何番目かの穏やかな風が、どこからか桜の花びらを運んでくる。今年の冬は一段と冷え込んだだけに、道行く人々表情にも、春の訪れをいっそう歓迎する喜びが浮かんでいるようだ。
海老茶袴を着こなし、髷を結うらずに束ねただけの、所謂「海老茶式部」という典型的な女学生スタイルみどりを、やはり珍しいのだろう、すれ違う人々の幾人かが目で追っている。ここ数年で、女子専門の師範学校も全国に広まってきているのだが、それの発祥である湯島の女高師は、女子教育機関の最高峰として、別格の存在になっている。
だが、弓町を神田川に抜ける道を、呑気そうに晴れ渡った空を眺めながら、のんびりと歩いているみどりからは、そういった高嶺の雰囲気はまるで感じられない。人々が振り返るのも、その服装のせいだ。顔立ちは十人並べばちょうど五番目といったところ。よくいえばさっぱりとした癖のない、悪く言えば極々平凡な外見をしている。背も高からず低からず。ただ、空を見上げて眩しさに目を細めている様子は、何やら見た者の気持ちを和ませる。中身も外見を裏切らず、いー天気だなぁ、とか、昨日の時生さんのお煮つけおいしかったなぁ、今度教えてもらわなくっちゃ、とかいったような、毒気皆無なことを考えながら歩いている。
「みどりー」
声をかけられみどりが振り向くと、自転車に乗った同じ海老茶袴の娘が、みどりの横に並び、自転車から降りた。
「おはよ」
「おはよー、澄」
こちらは、十人どころか五十人並んでも余裕で一番を張るような美人である。透き通るような肌。くっきりとした二重瞼に収まった、唐人の血でも混ざっているかのようなうすい色の瞳。颯爽とまだ珍しい自転車をこぐ姿は、一時期見物人も出たという噂だ。
そのまま澄はみどりと並んで自転車を押して歩きだす。
「いいよねー、自転車」
「そう? でも大変なのよ。でこぼこした道だとおしり痛くなっちゃうし」
「いかにも女学生って感じ」
「そりゃね、やっぱり世間の期待には応えなくちゃ。時代の最先端を行く才媛集団。高嶺の花。女子高等師範学校生ってね」
ぎゅっと拳を握って力説する澄に、みどりは苦笑いで返す。
「ふーん、がんばってね」
「いやいや、貴女もその一員なんだから、あんまし口あけて空眺めてたらだめよ。こう、背筋を伸ばして、木陰からあこがれの眼差しでこちらを見ている、紅顔の美少年の視線を意識しながら」
「え、どこどこ」
「あくまで仮によ。で、心の中でつぶやくの。ふふ、あなたは私に声をかけるだけの資格がおありなのかしら。でも、勇気を出したらお相手して差し上げなくてもなくてよ」
「大変だね。疲れない?」
「大変よ、疲れるわよ、お尻痛いのよ。でも我慢して澄ましておくのよ。それが乙女の心意気ってもんなのよ。わかる?」
「わかんない」
澄はわざとらしくがくっと頭を落としてため息をつく。いつものたわいもない朝のやり取りである。澄は外見こそ正に高嶺の花のご令嬢だが、しゃべらなければ、と枕がつくたぐいの美人である。
と、今度はそのまま下からねじ込むように見上げてくる。口に浮かんでいるのはちょっと意地悪げな笑みだ。
「ま、そりゃねぇ、みどりおねー様は、そんなこと、意識しなくてもよろしいんでしょうが」
「今度は何?」
「つまりそれはあれでございますね。余裕というやつですね」
澄がどこに話題を持っていこうとしているのかを察して、みどりは慌てて話題のそらし先を探す。幸いに無駄なおしゃべりの間に、校門が見えるところまで歩いていた。ちょうど満開を迎えた桜が、華やいだ女生徒たちを迎えている。
「ほら見て見て、藤田様がいらっしゃるわ」
「いや、そりゃいらっしゃるわよ。毎日たってるわよ。守衛さんなんだから」
みどりが指差す先、女高師の門前に男が立っていた。白髪と刻まれた皺からすれば、老人と言ってもよい年齢であろう。しかしその立ち姿に危うさは全くなく、まるで見えない鉄の棒が頭のてっぺんから地面まで突き刺さっているようだ。和装に身を包み、無骨な削りだしの棒を杖代わりにして体の前で両手で押さえている。背の丈は優に六尺以上。顔の輪郭にゆるみは全くなく、豊かな白眉からのぞく眼は、正にぎょろり、という擬音がぴったり。魁偉といっていい風貌だ。
「いやー、ほんとに桜が似合わないよねぇ」
「・・・貴女ってなにげに失礼よね」
確かにその厳つい守衛は、晴れ渡る空とも咲き誇る桜の木とも瑞々しい女生徒たちとも、まったくとけ込んでいなかった。門を通る時に彼を遠巻きにするか、にこやかに挨拶をするかで、生徒たちが新入生なのか二年め以降なのかが一目瞭然である。
「藤田さま、おはようございます」
女高師の守衛、藤田五郎。みどりにとっては住んでいる寮の大家でもあり、それ以上の存在でもある。