「仲間との約束が先だ」と婚約者が言うので、私もその仲間に入りました。今では彼より先に誘われます
「仲間との約束が先だ。君とはまた今度にしよう」
厩舎の前の石畳で、婚約者のセサル様は馬の上からそう言った。
私は葦毛のペルラの手綱を持って、乗馬服で立っていた。鞍はもう置いてあり、腹帯も締め終えている。鞍の後ろには、料理番が詰めてくれた昼食の籠を括りつけてあった。王家の森の奥の湖まで駆けて、ほとりで昼を食べる。婚約してちょうど一年になる今日の、二人の約束だった。
「白樺寮の遠乗りに、今朝は連隊長が来るんだ。俺が行かないわけにいかないだろう」
(なるほど)
私はペルラの首を撫でながら考えた。
(白樺寮の遠乗りも、行き先は王家の森ね)
セサル様は王都騎兵連隊の中尉で、王立騎士学院の白樺寮の出だ。白樺寮の出の将校たちは、寮の頃の習わしのまま、日曜の朝に王家の森を駆けている。セサル様はその人たちを「仲間」と呼ぶ。
婚約して一年、二人で交わした約束は十四あった。そのうち九つが、「仲間との約束」で流れた。
春の舞踏会の晩は、王宮の大広間の入口まで一緒に来て、そこで「父君と入ってくれ。仲間との約束がある」と言った。騎士会館のカード室で、大きな勝負があったのだそうだ。私は父の腕を借りて入り、一つも名の埋まらなかった踊りの手帳を、帰りの馬車の中で閉じた。
夏の初め、私が十九になった日の晩餐では、デザートの皿が運ばれてくる前に席を立った。「仲間が待っている」。翌朝、仲間内の競馬の賭けに勝ったと聞いた。
どちらのときも、私は泣かなかった。泣いても、待つ時間は短くならない。
私は王都から馬で三日の、西の高原の牧場で育った。オルメド伯爵家の牧場では、仔馬は母馬と一緒に群れで放されている。草に気を取られて遅れた仔馬は、顔を上げて群れがいないと気づくと、鳴かずに走り出す。鳴いても群れは戻ってこないことを、仔馬は知っている。走って、走って、追いついて、何事もなかった顔で群れの中に入る。
十四で王都へ来るまで、私は毎日それを見ていた。
「分かりました。どうぞ、お先に」
「君は話が早くて助かる」
セサル様はほっとした顔で馬首を返し、門を出ていった。蹄の音が北のほうへ遠ざかる。
後ろで、侍女のテレサが大きく息を吐いた。
「お嬢様。お召し替えをなさいますか。お茶の支度を……」
「いいえ」
私は鐙に足を掛けた。
「エステバン、馬を出して。王家の森へ行くわ」
年寄りの馬丁は、何も聞かずに自分の栗毛の腹帯を確かめ始めた。高原から私に付いてきた人で、私が鐙に足を掛けたら、行き先しか聞かない。
「お嬢様、まさか」
テレサの声が、半分裏返っていた。
「仲間との約束が先なのでしょう? でしたら、私もその仲間に入れていただくわ」
置いていかれた仔馬は、走って群れに入ればいい。
* * *
北門の外の三本楡の下に、馬が五頭いた。
騎兵の紺の外套が五つ。一人は灰銀色の髪を短く刈った背の高い人で、黒鹿毛の大きな馬に乗っている。大柄で黒い顎ひげの人、痩せて頬の細い人、まだ少年のような顔の人。そしてセサル様が、金茶の髪をかき上げながら、何か面白い話をしているところだった。
私がペルラを速歩から並足に落として近づくと、五人がこちらを振り向いた。
セサル様の口が、話の途中のまま開いた。
「マルティナ……何をしに来た」
「遠乗りに参りました」
「帰れ。男の集まりだ」
顎ひげの人が、腹の底から笑い出した。
「セサルの婚約者殿か! こいつはいい。噂の婚約者殿だ」
どんな噂なのかは、聞かないことにした。少年のような人は、耳まで赤くなって帽子を取った。
「白樺寮の遠乗りに」
灰銀色の髪の人が、静かに口を開いた。セサル様が、ぴたりと黙った。
「男だけという決まりはない。決まりは一つだ。最後までついて来た者が、仲間だ」
その人は、私の鞍を見た。横乗りの鞍だ。それからペルラの脚を見て、最後に私の顔を見た。
「アルモンテだ。湖まで一刻、休まずに駆ける。ついて来られるか」
アルモンテ侯爵閣下。王都騎兵連隊の連隊長で、セサル様が話をするたびに「寮長が」と名前を出す人だ。北の国境の砦に六年いて、去年、王都へ戻って連隊を預かった。セサル様の話の中では、いつも伝説のような人だった。
その人が王都へ戻ってから、セサル様は日曜の遠乗りを一度も休んでいない。寮長の前で、仲間の中でいちばん付き合いのいい男でいたいのだと思う。婚約者のほうは、待たせても離れないと思っているのだろう。家どうしで決めた婚約だから。
「はい。最後まで」
セサル様が、仲間たちのほうへ身を乗り出した。
「閣下、無理ですよ。横乗りの鞍です。倒木の手前で音を上げるに決まってる。そのたびに待たされるのは俺たちだ」
「待たなくていい」
閣下はそれだけ言って、黒鹿毛の首を北へ向けた。
(ええ、待たなくて結構です)
待つのは、この一年で十分にした。
* * *
王家の森の小道は、落ち葉で柔らかかった。
閣下の黒鹿毛が先に立ち、顎ひげのゴンサロ様、痩せたハビエル様、セサル様、若いフリオ様と続く。名前は、走り出す前にゴンサロ様が大声で全員分を教えてくれた。私はフリオ様の後ろについた。エステバンは少し離れて最後を来る。
しばらく駆けたところで、小道を倒木がふさいでいた。膝の高さほどの太い幹だ。閣下の馬が軽く越え、ゴンサロ様とハビエル様が続く。セサル様の青毛は首を振って一度止まり、二度目で越えた。
ペルラは、耳をひとつ前へ向けただけだった。手綱を少し譲ると、自分で踏み切って、幹の上をすっと越えた。
「えっ」
前を行くフリオ様が、鞍の上で振り返った。
「横乗りで……今の、越えたんですか」
「ペルラが越えました。私は乗っていただけです」
「いや、乗っていただけで越えられるものじゃ……」
フリオ様は前を向き直りかけて、また振り返った。そのせいで、フリオ様の馬が少し脇へ逸れた。私はその横を抜けた。
その先の小川で、セサル様の青毛が水の手前で脚を突っ張った。首の高い、見栄えのいい馬だけれど、水を嫌う癖がある。セサル様が拍車を入れるほど、青毛は後ずさった。
ペルラは浅瀬を選んで、水を蹴立てずに渡った。
対岸で振り返ると、ハビエル様が手綱を引いて、私とセサル様を見比べていた。
「セサル。婚約者殿に抜かれたぞ」
ゴンサロ様の笑い声が、森の奥まで響いた。
* * *
湖のほとりに、大きな白樺が一本立っていた。幹は大人が二人で抱えるほど太く、白い肌の低いところだけが、たくさんの手に撫でられて灰色に光っている。
閣下が馬を寄せて、幹に手を触れた。私はその次に着いた。ペルラを幹に寄せ、手袋を外して、白い肌に掌を当てた。ひんやりとしていた。
残りの三人が続き、少し遅れてセサル様の青毛が、泥だらけの脚で着いた。
「帰りの先頭は、オルメド嬢だ」
閣下が言った。
「閣下、待ってください。寮の者でもないのに」
「決まりは決まりだ。初めて最後までついて来た者が、帰りの先頭を務める。お前も初めての朝は先頭を務めたと聞いている」
セサル様は口を閉じた。
馬を休ませている間に、私は鞍の後ろの籠を下ろした。二人で食べるはずだった昼食は、六人で分けると一人に一口ずつだった。ゴンサロ様が、お返しのように水筒を回してくれた。
「それにしても、婚約者殿。今日はセサルと何か約束でもあったんじゃないのか?」
セサル様が、こちらを見ないまま体を固くしたのが分かった。
「遠乗りをするつもりでおりましたので、こちらに伺いました」
嘘ではない。セサル様の肩から、力が抜けた。
フリオ様が、ペルラと私を何度も見比べてから、思い切ったように聞いた。
「横乗りで、どこで覚えられたんですか」
「西の高原の牧場です。毎朝、仔馬の群れを見に出ておりましたので」
「おい、セサル」
ゴンサロ様が、水筒の口を拭いながら言った。
「お前、婚約者殿は家で刺繍ばかりしてるって言ってなかったか」
「……刺繍もする」
セサル様は、湖のほうを向いたまま答えた。
(刺繍は苦手で、いつもテレサに笑われているのだけれど)
私はペルラの鬣についた落ち葉を払うことにした。
閣下は何も言わずに、ペルラの前脚を持ち上げて、蹄の裏を見ていた。
「オルメド産か」
「はい。父の牧場の生まれです。七つになります」
「いい蹄だ。連隊の馬の三分の一は、君の父上の牧場から来ている」
閣下はペルラの脚をそっと下ろして、私を見上げた。
「さっきの倒木で、手綱を譲ったな」
「この子のほうが、私より脚の運びを知っていますので」
閣下は、ほんのわずかに目を細めた。
帰り道、私は先頭を駆けた。後ろに六頭分の蹄の音が続いた。いちばん後ろはエステバンの栗毛で、その一つ前から、セサル様の青毛の音が聞こえていた。
置いていかれた仔馬が、群れの先頭を走っている。高原の牧場の人たちが見たら、何と言うだろう。
三本楡の下で馬を止めると、フリオ様が真っ先に馬を寄せてきた。
「来週も、来てくださいますよね!」
「再来週は閣下の領地で鹿狩りだぞ」と、ゴンサロ様が言った。「婚約者殿は、狩りは」
「父が好きで、子どもの頃から付いて回っておりました」
「決まりだな」
ゴンサロ様が膝を叩いた。セサル様が私の横に馬を寄せて、低い声で言った。
「狩りには来るなよ」
私は返事をしなかった。招かれるかどうかは、セサル様が決めることではない。
* * *
次の日曜も、私はエステバンを連れて三本楡へ行った。セサル様も来ていたけれど、湖まで一度も私のほうを見なかった。
セサル様が伯爵家に来たのは、その三日後、水曜の午後だった。
「土曜の馬市は無しだ。仲間との狩りが先だ」
客間の椅子に座るなり、セサル様はそう言った。それから、ずっと言いたかったことのように付け足した。
「それと、この前のようなことは二度としないでくれ。仲間の前で、俺の顔を潰すな」
潰れたのは顔ではなく、小川の手前の青毛の機嫌だったと思う。私は膝の上で手袋の指を揃えた。
土曜の秋の馬市には、セサル様の新しい乗馬を見に行く約束だった。あの青毛では演習で恥をかく、とセサル様が言い出して、私に見立てを頼んだのだ。金貨四十枚までなら出せる、と値の上限まで決めてあった。
「アルモンテ侯爵領の鹿狩りだ。閣下の狩りに呼ばれるのは名誉なことなんだ。君は来なくていい。男の集まりだからな」
「存じております」
私は、卓の上の銀の盆から一通の封筒を取り上げた。アルモンテ家の紋の封蝋が押してある。
「閣下からのお招きが、先週の木曜に届きました。父と私に、と。父と二人で参ります」
封筒の中には、侯爵家の執事が書いた正式な招待状と、もう一枚、急いで書いたような字の小さな紙が入っていた。閣下に頼んで、招待状に書き添えさせてもらったのだと、後でフリオ様が教えてくれた。
婚約者殿、狩りでもぜひ先頭を。白樺の仲間一同。フリオ
セサル様は招待状を見て、それから私を見た。
「木曜……俺のところに閣下のお招きの使いが来たのは、金曜だぞ」
言ってから、しまったという顔で口を閉じた。
(あら)
どうやら私のほうが、一日先に誘われていたらしい。
* * *
アルモンテ侯爵領の狩猟小屋は、森のはずれに建つ石造りの二階家だった。金曜の夕方に着いた客は十人ほどで、父は、先代の侯爵様と昔よく狩りをしたのだと言って、閣下と古い猟犬の話を始めた。
土曜の朝、厩舎の前で、私はセサル様の馬を見て足を止めた。
青毛ではなかった。鹿毛の、脚の長い、見るからに値の張りそうな馬だ。王都の馬商から狩りのために借りてきたのだという。
「セサル様。その馬は、水の前で止まります」
厩舎の水桶の前で、その馬は耳を伏せて首を振り、鼻を水に近づけようとしなかった。高原の牧場にも、同じことをする馬がいた。
セサル様は鼻で笑った。
「君は馬の話しかしないな。見ていろ、今日の一番手は俺だ」
狩りが始まって半刻ほどのところで、獲物を追う一行の前に、幅の広い小川が出た。閣下の黒鹿毛が跳び、ゴンサロ様、ハビエル様が続いた。セサル様の鹿毛は、岸の手前で四本の脚を揃えて止まった。
セサル様だけが、そのまま前へ行った。
大きな水音がした。
小川は膝ほどの深さで、セサル様はすぐに立ち上がった。帽子が流れていく。ゴンサロ様が馬を戻し、腹を抱えて笑いながら、セサル様の襟首をつかんで岸へ引き上げた。フリオ様は、流れていく帽子を拾うべきか迷った顔で、目で追っていた。
ハビエル様が、私のほうをちらりと見た。
「水の前で止まる、だったか」
朝の厩舎の前で、聞こえていたのだ。
* * *
昼前、勢子が獲物を追い込む間、客は森の待ち場で馬を休ませた。父は馬三頭分ほど離れたところで猟犬係と話し込んでいて、ペルラの隣に黒鹿毛を寄せてきたのは、閣下だった。
「なぜ、あの日、遠乗りに来た」
前置きのない聞き方だった。私も、前置きなしに答えた。
「高原の牧場では、群れに遅れた仔馬は、鳴かずに走って追いつきます。鳴いても群れは戻ってきませんから」
「それで、走ってきたのか」
「はい。待っているより、そのほうが早いので」
閣下は、しばらく黙って私の顔を見ていた。それから急に、声を上げて笑った。黒鹿毛が驚いて耳を立てるほどの声だった。少し離れた待ち場で、ゴンサロ様が「閣下が笑ってるぞ」と言うのが聞こえた。
「北の砦ではな」
笑いを収めてから、閣下は言った。
「冬の行軍で、遅れた者を待たない。待てば全員が凍える。だから誰も遅れないように走る。……君は、砦でもやっていける」
「褒めていただいているのでしょうか」
「俺にとっては、いちばんの褒め言葉だ」
閣下は手綱を握り直して、森のほうを見た。
「帰りの先頭が、あんなに速かったのは初めてだった」
角笛が鳴った。閣下は、それきり何も言わずに馬を返した。
* * *
その晩、狩猟小屋の食堂の長い卓に、鹿肉の皿が並んだ。
ゴンサロ様が杯を上げた。
「白樺の新入りに!」
白樺の新入りとは、私のことらしい。父が目を丸くして私を見た。フリオ様が杯を上げ、ハビエル様が少し遅れて杯を上げた。セサル様は、乾いた上着に着替えて、黙って肉を切っていた。
「そういえば」
ハビエル様が、杯を置いて言った。思い出したことは言わずにいられない人だと、この日までに私も分かっていた。
「春の舞踏会の晩の大勝負。騎士会館で、セサルが言い出したやつだ。あの晩、ゴンサロが金貨を二枚すった」
「言うなよ」
「伯爵閣下は、あの晩の舞踏会にはおいででしたか」
ハビエル様が父に尋ねたのは、ただの世間話のつもりだったと思う。父は鹿肉を飲み込んで、何気なく答えた。
「ええ。娘は私と入りました。セサル殿は、仲間との約束がおありだそうで」
卓の上の音が止まった。
フリオ様が、フォークを持ったまま私を見た。
「……あの晩、婚約者殿の同伴だったんですか。セサルが?」
「はい」
私は聞かれたことにだけ答えた。
ゴンサロ様が、ゆっくりと杯を置いた。
「待て。夏の競馬の賭けの晩は。あれもセサルが言い出したんだ。あの晩は」
「私が十九になった日の晩餐でした。セサル様は、デザートの前に、仲間が待っていると」
ゴンサロ様の赤ら顔から、赤みが引いていった。
「じゃあ、先々週の日曜は。あの遠乗りの日は、何の日だった」
セサル様が顔を上げて、私を見た。目が「言うな」と言っていた。
けれど、聞いたのはゴンサロ様だった。
「婚約して、一年の日でした」
フリオ様が、小さな声で「一周年……」と言った。
セサル様が、椅子を後ろへ押しやって立ち上がった。
「仲間との約束が先だろう! お前たちだって、俺が来ると喜んで――」
「俺たちは」
ハビエル様は、杯から手を離さずに言った。
「お前に、約束を破って来いと頼んだことは一度もない。日曜の遠乗りは、来たい者が来るだけだ。舞踏会の晩の勝負も、誕生日の晩の賭けも、言い出したのはお前だ」
「春に、お前、言ってたよな」
ゴンサロ様が、低い声で続けた。
「あいつは待つのに慣れてる、待たせておけばいい、って。俺は、婚約者殿が家で刺繍でもしてる話だと思って笑った。……笑ったのは、悪かった」
最後の一言は、私に向けたものだった。
セサル様は何か言おうとして、閣下のほうを見た。助けを探す目だった。
閣下は、ナイフを置いた。
「日曜の遠乗りは、来たい者が来る集まりだ。誰かを置いて来る場所じゃない」
セサル様は食堂を出ていった。扉が閉まった後、しばらく誰も口を利かなかった。父が黙って、私の杯に葡萄酒を足してくれた。
次の朝、セサル様の借りた鹿毛は、夜明け前に厩舎からいなくなっていた。
* * *
大夜会の前日、金曜の朝に、セサル様から短い手紙が届いた。
大夜会は父君と入ってくれ。仲間との夜駆けが先だ。
同じ朝に、フリオ様からも手紙が届いた。
セサルが木曜の晩に騎士会館で、大夜会の晩の夜駆けを言い出しました。十一時に南の河原の古い水車小屋を出て、北門まで駆ける賭けです。仲間なら来るだろう、と言っていました。僕たちは誰も行きません。大夜会では、踊りの手帳を空けておいてください。白樺の仲間一同。
二通を並べて卓に置くと、テレサが覗きこんで言った。
「今度は、大夜会でございますか」
「そうね」
遠乗り、狩り、そして大夜会。今度は、私が走って追いかける番ではなかった。
* * *
王宮の大広間には、天井まで届く鏡が並び、蝋燭の火が何百にも増えて見えた。
私は父の腕を取って入場した。春の舞踏会と同じだった。違ったのは、入ってすぐに、紺の礼装の騎兵将校が三人、まっすぐこちらへ歩いてきたことだ。
「婚約者殿。手帳を拝借」
ゴンサロ様が最初に、二曲目の欄に大きな字で名を書いた。ハビエル様は四曲目に、細い字で。フリオ様はペンを持つ手が震えて、六曲目の欄に名を書くのに二度やり直した。
広間のあちこちで、扇が動いた。
「ベルガンサ家の婚約者でしょう。騎兵連隊の将校が、三人も」
「ベルガンサ中尉は?」
「今夜は来ないそうよ。河原で夜駆けの賭けだとか」
「大夜会の晩に? 婚約者を置いて?」
その囁きは、近くにいた恰幅のいい年配の紳士の耳にも届いた。婚約の署名の席で一度会ったきりの、セサル様の父君、ベルガンサ伯爵だった。伯爵は顔色を変えて、父のところへ来た。
「オルメド伯爵。息子は今夜、お嬢さんと大夜会に行くと言って屋敷を出たのだが」
父は、少し困った顔で私を見た。私は、本当のことを言うしかなかった。
「昨日の朝、セサル様から、父と入るようにとお手紙をいただきました」
ベルガンサ伯爵は、その場で何も言えなくなった。
手帳の最後の欄は、空いたままだった。
七曲目が終わったところで、人波の向こうから、灰銀色の髪がこちらへ来るのが見えた。閣下は、紺の礼装に勲章を一つだけ付けていた。
「最後の一曲を、いただけるか」
「はい」
閣下は私の手帳を受け取って、最後の欄に短く名を書いた。ビセンテ。家名も爵位も書かない、仲間どうしの書き方だった。
* * *
夜半を過ぎて、最後の一曲の前の休みに入ったときだった。
大広間の入口のほうで、人の輪が割れた。
セサル様が立っていた。礼装ではなく乗馬の上着のままで、長靴は膝まで河原の泥にまみれていた。磨かれた床に、泥の足跡が二つ、三つと続いた。
セサル様は広間を見回して私を見つけ、それから私のそばにいる三人を見つけた。
「お前たち……」
声が、かすれていた。
「十一時に水車小屋だと言っただろう。一時間待った。誰も来なかった。仲間との約束だったのに、誰も!」
大広間じゅうの目が、入口に集まっていた。さっきと同じ扇の陰から、同じ声が聞こえた。
「あれがベルガンサ中尉? 河原から、あの長靴で?」
「一時間、一人で待っていたんですって」
セサル様の耳が、赤くなった。
「約束?」
ハビエル様が言った。
「誰も、行くとは言っていない。お前が一人で言って、一人で決めた」
「僕たちの仲間は、今夜ここにいます」
フリオ様の声は震えていたけれど、引かなかった。
ゴンサロ様が、腕を組んだまま言った。
「一時間待ったか、セサル。婚約者殿は、一年待ったぞ」
セサル様は、最後に閣下を見た。寮長、と口が動いた。
「セサル」
閣下の声は低く、よく通った。
「仲間を、婚約者を置いていく理由に使うな。俺たちは一度も、お前にそんなことを頼んでいない」
セサル様の顔から、何かが抜け落ちた。
人の輪の中から、ベルガンサ伯爵が進み出た。息子のほうは見ずに、私の父の前で深く頭を下げた。
「オルメド伯爵。息子は今夜、婚約者と大夜会に行くと私に言って家を出た。この一年、ずっとこうだったのだろう。……この婚約は、こちらの落ち度として、解いていただけまいか」
父は、私の顔を見た。私は頷いた。
「承りました」
セサル様が、上着の襟に手をやった。白樺の葉の形をした小さな銀の徽章を、むしり取るように外して、床に投げた。
「こんな集まり、こちらから抜けてやる」
徽章は磨かれた床を滑って、誰の足元でもないところで止まった。
誰も、拾わなかった。
セサル様は泥の足跡を残して、広間を出ていった。
楽団が、最後の一曲を始めた。閣下が、手袋の手を差し伸べた。
「約束の一曲だ」
私は、その手を取った。
* * *
婚約は二日後、父とベルガンサ伯爵が書面に名を書いて解いた。違約の金は、婚約のときに取り交わした契約のとおり、ベルガンサ家が払った。
セサル様は、父君の命で騎兵連隊を退いた。一年、南の領地へ行き、家令の下で、小作の契約と水の配分の帳面を預かるのだという。「約束ごとを、一つも違えずに務めてこい」と、ベルガンサ伯爵は言ったそうだ。ベルガンサ家を継ぐのがセサル様であることは、変わらない。
社交界では、しばらくの間、セサル様は「水車小屋の中尉」と呼ばれることになった。
南へ発つ朝、見送りに行ったのはゴンサロ様一人だった、とハビエル様が教えてくれた。
「あいつらしい」
それがゴンサロ様のことなのか、セサル様のことなのか、ハビエル様は言わなかった。
* * *
婚約が解かれて最初の日曜の朝、私は乗馬服で、鞍を置いたペルラの横に立っていた。
白樺寮の遠乗りの日だ。三本楡へ行くつもりで、腹帯を締め終えたところだった。
門から、黒鹿毛が一頭だけ入ってきた。
閣下は馬を降りると、厩舎の前の石畳を、まっすぐ私のところまで歩いてきた。あの朝、セサル様が馬の上から言葉を落としていった場所だった。
「閣下。三本楡は、あちらでは」
「今日の遠乗りは休む」
閣下はペルラの鼻面に手をやってから、私を見た。
「父上には、昨日話した。決めるのはマルティナだ、と言われた」
北の砦では、遅れた者を待たない。だからこの人は、言うべきことを先へ延ばさないのだと思った。
「仲間との約束より、君との約束を先にしたい。今日も、これから先も。マルティナ、結婚してほしい。俺と同じ群れで、ずっと走ってくれ」
高原の牧場では、群れに追いついた仔馬は、何事もなかった顔で群れの中に入る。けれど私には、何事もなかった顔は、できそうになかった。頬が熱くて、ペルラの首に顔を寄せたくなった。
「はい」
閣下は目を伏せて、小さく笑った。寮長でも連隊長でもない、初めて見る笑い方だった。
門のほうで、蹄の音がした。
門柱の陰から、馬に乗った三人が顔を出していた。白樺の仲間の、残りの全員だった。見つかったと分かると、ゴンサロ様が開き直ったように大きな声を出した。
「閣下! 遠乗りは?」
「今日は、彼女との約束が先だ。お前たちとは、また今度にしよう」
フリオ様が、帽子を振った。
「では、お先にどうぞ!」
閣下が黒鹿毛に跨がり、私もペルラの鐙に足を掛けた。
二頭並んで門を出ると、少し遅れて、エステバンの栗毛と、三頭分の蹄の音がついてきた。
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