↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「仲間との約束が先だ」と婚約者が言うので、私もその仲間に入りました。今では彼より先に誘われます

作者: みれいぬ
掲載日:2026/10/23

「仲間との約束が先だ。君とはまた今度にしよう」


 厩舎の前の石畳で、婚約者のセサル様は馬の上からそう言った。


 私は葦毛のペルラの手綱を持って、乗馬服で立っていた。鞍はもう置いてあり、腹帯も締め終えている。鞍の後ろには、料理番が詰めてくれた昼食の籠を括りつけてあった。王家の森の奥の湖まで駆けて、ほとりで昼を食べる。婚約してちょうど一年になる今日の、二人の約束だった。


「白樺寮の遠乗りに、今朝は連隊長が来るんだ。俺が行かないわけにいかないだろう」


(なるほど)


 私はペルラの首を撫でながら考えた。


(白樺寮の遠乗りも、行き先は王家の森ね)


 セサル様は王都騎兵連隊の中尉で、王立騎士学院の白樺寮の出だ。白樺寮の出の将校たちは、寮の頃の習わしのまま、日曜の朝に王家の森を駆けている。セサル様はその人たちを「仲間」と呼ぶ。


 婚約して一年、二人で交わした約束は十四あった。そのうち九つが、「仲間との約束」で流れた。


 春の舞踏会の晩は、王宮の大広間の入口まで一緒に来て、そこで「父君と入ってくれ。仲間との約束がある」と言った。騎士会館のカード室で、大きな勝負があったのだそうだ。私は父の腕を借りて入り、一つも名の埋まらなかった踊りの手帳を、帰りの馬車の中で閉じた。


 夏の初め、私が十九になった日の晩餐では、デザートの皿が運ばれてくる前に席を立った。「仲間が待っている」。翌朝、仲間内の競馬の賭けに勝ったと聞いた。


 どちらのときも、私は泣かなかった。泣いても、待つ時間は短くならない。


 私は王都から馬で三日の、西の高原の牧場で育った。オルメド伯爵家の牧場では、仔馬は母馬と一緒に群れで放されている。草に気を取られて遅れた仔馬は、顔を上げて群れがいないと気づくと、鳴かずに走り出す。鳴いても群れは戻ってこないことを、仔馬は知っている。走って、走って、追いついて、何事もなかった顔で群れの中に入る。


 十四で王都へ来るまで、私は毎日それを見ていた。


「分かりました。どうぞ、お先に」


「君は話が早くて助かる」


 セサル様はほっとした顔で馬首を返し、門を出ていった。蹄の音が北のほうへ遠ざかる。


 後ろで、侍女のテレサが大きく息を吐いた。


「お嬢様。お召し替えをなさいますか。お茶の支度を……」


「いいえ」


 私は鐙に足を掛けた。


「エステバン、馬を出して。王家の森へ行くわ」


 年寄りの馬丁は、何も聞かずに自分の栗毛の腹帯を確かめ始めた。高原から私に付いてきた人で、私が鐙に足を掛けたら、行き先しか聞かない。


「お嬢様、まさか」


 テレサの声が、半分裏返っていた。


「仲間との約束が先なのでしょう? でしたら、私もその仲間に入れていただくわ」


 置いていかれた仔馬は、走って群れに入ればいい。


* * *


 北門の外の三本楡の下に、馬が五頭いた。


 騎兵の紺の外套が五つ。一人は灰銀色の髪を短く刈った背の高い人で、黒鹿毛の大きな馬に乗っている。大柄で黒い顎ひげの人、痩せて頬の細い人、まだ少年のような顔の人。そしてセサル様が、金茶の髪をかき上げながら、何か面白い話をしているところだった。


 私がペルラを速歩から並足に落として近づくと、五人がこちらを振り向いた。


 セサル様の口が、話の途中のまま開いた。


「マルティナ……何をしに来た」


「遠乗りに参りました」


「帰れ。男の集まりだ」


 顎ひげの人が、腹の底から笑い出した。


「セサルの婚約者殿か! こいつはいい。噂の婚約者殿だ」


 どんな噂なのかは、聞かないことにした。少年のような人は、耳まで赤くなって帽子を取った。


「白樺寮の遠乗りに」


 灰銀色の髪の人が、静かに口を開いた。セサル様が、ぴたりと黙った。


「男だけという決まりはない。決まりは一つだ。最後までついて来た者が、仲間だ」


 その人は、私の鞍を見た。横乗りの鞍だ。それからペルラの脚を見て、最後に私の顔を見た。


「アルモンテだ。湖まで一刻、休まずに駆ける。ついて来られるか」


 アルモンテ侯爵閣下。王都騎兵連隊の連隊長で、セサル様が話をするたびに「寮長が」と名前を出す人だ。北の国境の砦に六年いて、去年、王都へ戻って連隊を預かった。セサル様の話の中では、いつも伝説のような人だった。


 その人が王都へ戻ってから、セサル様は日曜の遠乗りを一度も休んでいない。寮長の前で、仲間の中でいちばん付き合いのいい男でいたいのだと思う。婚約者のほうは、待たせても離れないと思っているのだろう。家どうしで決めた婚約だから。


「はい。最後まで」


 セサル様が、仲間たちのほうへ身を乗り出した。


「閣下、無理ですよ。横乗りの鞍です。倒木の手前で音を上げるに決まってる。そのたびに待たされるのは俺たちだ」


「待たなくていい」


 閣下はそれだけ言って、黒鹿毛の首を北へ向けた。


(ええ、待たなくて結構です)


 待つのは、この一年で十分にした。


* * *


 王家の森の小道は、落ち葉で柔らかかった。


 閣下の黒鹿毛が先に立ち、顎ひげのゴンサロ様、痩せたハビエル様、セサル様、若いフリオ様と続く。名前は、走り出す前にゴンサロ様が大声で全員分を教えてくれた。私はフリオ様の後ろについた。エステバンは少し離れて最後を来る。


 しばらく駆けたところで、小道を倒木がふさいでいた。膝の高さほどの太い幹だ。閣下の馬が軽く越え、ゴンサロ様とハビエル様が続く。セサル様の青毛は首を振って一度止まり、二度目で越えた。


 ペルラは、耳をひとつ前へ向けただけだった。手綱を少し譲ると、自分で踏み切って、幹の上をすっと越えた。


「えっ」


 前を行くフリオ様が、鞍の上で振り返った。


「横乗りで……今の、越えたんですか」


「ペルラが越えました。私は乗っていただけです」


「いや、乗っていただけで越えられるものじゃ……」


 フリオ様は前を向き直りかけて、また振り返った。そのせいで、フリオ様の馬が少し脇へ逸れた。私はその横を抜けた。


 その先の小川で、セサル様の青毛が水の手前で脚を突っ張った。首の高い、見栄えのいい馬だけれど、水を嫌う癖がある。セサル様が拍車を入れるほど、青毛は後ずさった。


 ペルラは浅瀬を選んで、水を蹴立てずに渡った。


 対岸で振り返ると、ハビエル様が手綱を引いて、私とセサル様を見比べていた。


「セサル。婚約者殿に抜かれたぞ」


 ゴンサロ様の笑い声が、森の奥まで響いた。


* * *


 湖のほとりに、大きな白樺が一本立っていた。幹は大人が二人で抱えるほど太く、白い肌の低いところだけが、たくさんの手に撫でられて灰色に光っている。


 閣下が馬を寄せて、幹に手を触れた。私はその次に着いた。ペルラを幹に寄せ、手袋を外して、白い肌に掌を当てた。ひんやりとしていた。


 残りの三人が続き、少し遅れてセサル様の青毛が、泥だらけの脚で着いた。


「帰りの先頭は、オルメド嬢だ」


 閣下が言った。


「閣下、待ってください。寮の者でもないのに」


「決まりは決まりだ。初めて最後までついて来た者が、帰りの先頭を務める。お前も初めての朝は先頭を務めたと聞いている」


 セサル様は口を閉じた。


 馬を休ませている間に、私は鞍の後ろの籠を下ろした。二人で食べるはずだった昼食は、六人で分けると一人に一口ずつだった。ゴンサロ様が、お返しのように水筒を回してくれた。


「それにしても、婚約者殿。今日はセサルと何か約束でもあったんじゃないのか?」


 セサル様が、こちらを見ないまま体を固くしたのが分かった。


「遠乗りをするつもりでおりましたので、こちらに伺いました」


 嘘ではない。セサル様の肩から、力が抜けた。


 フリオ様が、ペルラと私を何度も見比べてから、思い切ったように聞いた。


「横乗りで、どこで覚えられたんですか」


「西の高原の牧場です。毎朝、仔馬の群れを見に出ておりましたので」


「おい、セサル」


 ゴンサロ様が、水筒の口を拭いながら言った。


「お前、婚約者殿は家で刺繍ばかりしてるって言ってなかったか」


「……刺繍もする」


 セサル様は、湖のほうを向いたまま答えた。


(刺繍は苦手で、いつもテレサに笑われているのだけれど)


 私はペルラの鬣についた落ち葉を払うことにした。


 閣下は何も言わずに、ペルラの前脚を持ち上げて、蹄の裏を見ていた。


「オルメド産か」


「はい。父の牧場の生まれです。七つになります」


「いい蹄だ。連隊の馬の三分の一は、君の父上の牧場から来ている」


 閣下はペルラの脚をそっと下ろして、私を見上げた。


「さっきの倒木で、手綱を譲ったな」


「この子のほうが、私より脚の運びを知っていますので」


 閣下は、ほんのわずかに目を細めた。


 帰り道、私は先頭を駆けた。後ろに六頭分の蹄の音が続いた。いちばん後ろはエステバンの栗毛で、その一つ前から、セサル様の青毛の音が聞こえていた。


 置いていかれた仔馬が、群れの先頭を走っている。高原の牧場の人たちが見たら、何と言うだろう。


 三本楡の下で馬を止めると、フリオ様が真っ先に馬を寄せてきた。


「来週も、来てくださいますよね!」


「再来週は閣下の領地で鹿狩りだぞ」と、ゴンサロ様が言った。「婚約者殿は、狩りは」


「父が好きで、子どもの頃から付いて回っておりました」


「決まりだな」


 ゴンサロ様が膝を叩いた。セサル様が私の横に馬を寄せて、低い声で言った。


「狩りには来るなよ」


 私は返事をしなかった。招かれるかどうかは、セサル様が決めることではない。


* * *


 次の日曜も、私はエステバンを連れて三本楡へ行った。セサル様も来ていたけれど、湖まで一度も私のほうを見なかった。


 セサル様が伯爵家に来たのは、その三日後、水曜の午後だった。


「土曜の馬市は無しだ。仲間との狩りが先だ」


 客間の椅子に座るなり、セサル様はそう言った。それから、ずっと言いたかったことのように付け足した。


「それと、この前のようなことは二度としないでくれ。仲間の前で、俺の顔を潰すな」


 潰れたのは顔ではなく、小川の手前の青毛の機嫌だったと思う。私は膝の上で手袋の指を揃えた。


 土曜の秋の馬市には、セサル様の新しい乗馬を見に行く約束だった。あの青毛では演習で恥をかく、とセサル様が言い出して、私に見立てを頼んだのだ。金貨四十枚までなら出せる、と値の上限まで決めてあった。


「アルモンテ侯爵領の鹿狩りだ。閣下の狩りに呼ばれるのは名誉なことなんだ。君は来なくていい。男の集まりだからな」


「存じております」


 私は、卓の上の銀の盆から一通の封筒を取り上げた。アルモンテ家の紋の封蝋が押してある。


「閣下からのお招きが、先週の木曜に届きました。父と私に、と。父と二人で参ります」


 封筒の中には、侯爵家の執事が書いた正式な招待状と、もう一枚、急いで書いたような字の小さな紙が入っていた。閣下に頼んで、招待状に書き添えさせてもらったのだと、後でフリオ様が教えてくれた。


 婚約者殿、狩りでもぜひ先頭を。白樺の仲間一同。フリオ


 セサル様は招待状を見て、それから私を見た。


「木曜……俺のところに閣下のお招きの使いが来たのは、金曜だぞ」


 言ってから、しまったという顔で口を閉じた。


(あら)


 どうやら私のほうが、一日先に誘われていたらしい。


* * *


 アルモンテ侯爵領の狩猟小屋は、森のはずれに建つ石造りの二階家だった。金曜の夕方に着いた客は十人ほどで、父は、先代の侯爵様と昔よく狩りをしたのだと言って、閣下と古い猟犬の話を始めた。


 土曜の朝、厩舎の前で、私はセサル様の馬を見て足を止めた。


 青毛ではなかった。鹿毛の、脚の長い、見るからに値の張りそうな馬だ。王都の馬商から狩りのために借りてきたのだという。


「セサル様。その馬は、水の前で止まります」


 厩舎の水桶の前で、その馬は耳を伏せて首を振り、鼻を水に近づけようとしなかった。高原の牧場にも、同じことをする馬がいた。


 セサル様は鼻で笑った。


「君は馬の話しかしないな。見ていろ、今日の一番手は俺だ」


 狩りが始まって半刻ほどのところで、獲物を追う一行の前に、幅の広い小川が出た。閣下の黒鹿毛が跳び、ゴンサロ様、ハビエル様が続いた。セサル様の鹿毛は、岸の手前で四本の脚を揃えて止まった。


 セサル様だけが、そのまま前へ行った。


 大きな水音がした。


 小川は膝ほどの深さで、セサル様はすぐに立ち上がった。帽子が流れていく。ゴンサロ様が馬を戻し、腹を抱えて笑いながら、セサル様の襟首をつかんで岸へ引き上げた。フリオ様は、流れていく帽子を拾うべきか迷った顔で、目で追っていた。


 ハビエル様が、私のほうをちらりと見た。


「水の前で止まる、だったか」


 朝の厩舎の前で、聞こえていたのだ。


* * *


 昼前、勢子が獲物を追い込む間、客は森の待ち場で馬を休ませた。父は馬三頭分ほど離れたところで猟犬係と話し込んでいて、ペルラの隣に黒鹿毛を寄せてきたのは、閣下だった。


「なぜ、あの日、遠乗りに来た」


 前置きのない聞き方だった。私も、前置きなしに答えた。


「高原の牧場では、群れに遅れた仔馬は、鳴かずに走って追いつきます。鳴いても群れは戻ってきませんから」


「それで、走ってきたのか」


「はい。待っているより、そのほうが早いので」


 閣下は、しばらく黙って私の顔を見ていた。それから急に、声を上げて笑った。黒鹿毛が驚いて耳を立てるほどの声だった。少し離れた待ち場で、ゴンサロ様が「閣下が笑ってるぞ」と言うのが聞こえた。


「北の砦ではな」


 笑いを収めてから、閣下は言った。


「冬の行軍で、遅れた者を待たない。待てば全員が凍える。だから誰も遅れないように走る。……君は、砦でもやっていける」


「褒めていただいているのでしょうか」


「俺にとっては、いちばんの褒め言葉だ」


 閣下は手綱を握り直して、森のほうを見た。


「帰りの先頭が、あんなに速かったのは初めてだった」


 角笛が鳴った。閣下は、それきり何も言わずに馬を返した。


* * *


 その晩、狩猟小屋の食堂の長い卓に、鹿肉の皿が並んだ。


 ゴンサロ様が杯を上げた。


「白樺の新入りに!」


 白樺の新入りとは、私のことらしい。父が目を丸くして私を見た。フリオ様が杯を上げ、ハビエル様が少し遅れて杯を上げた。セサル様は、乾いた上着に着替えて、黙って肉を切っていた。


「そういえば」


 ハビエル様が、杯を置いて言った。思い出したことは言わずにいられない人だと、この日までに私も分かっていた。


「春の舞踏会の晩の大勝負。騎士会館で、セサルが言い出したやつだ。あの晩、ゴンサロが金貨を二枚すった」


「言うなよ」


「伯爵閣下は、あの晩の舞踏会にはおいででしたか」


 ハビエル様が父に尋ねたのは、ただの世間話のつもりだったと思う。父は鹿肉を飲み込んで、何気なく答えた。


「ええ。娘は私と入りました。セサル殿は、仲間との約束がおありだそうで」


 卓の上の音が止まった。


 フリオ様が、フォークを持ったまま私を見た。


「……あの晩、婚約者殿の同伴だったんですか。セサルが?」


「はい」


 私は聞かれたことにだけ答えた。


 ゴンサロ様が、ゆっくりと杯を置いた。


「待て。夏の競馬の賭けの晩は。あれもセサルが言い出したんだ。あの晩は」


「私が十九になった日の晩餐でした。セサル様は、デザートの前に、仲間が待っていると」


 ゴンサロ様の赤ら顔から、赤みが引いていった。


「じゃあ、先々週の日曜は。あの遠乗りの日は、何の日だった」


 セサル様が顔を上げて、私を見た。目が「言うな」と言っていた。


 けれど、聞いたのはゴンサロ様だった。


「婚約して、一年の日でした」


 フリオ様が、小さな声で「一周年……」と言った。


 セサル様が、椅子を後ろへ押しやって立ち上がった。


「仲間との約束が先だろう! お前たちだって、俺が来ると喜んで――」


「俺たちは」


 ハビエル様は、杯から手を離さずに言った。


「お前に、約束を破って来いと頼んだことは一度もない。日曜の遠乗りは、来たい者が来るだけだ。舞踏会の晩の勝負も、誕生日の晩の賭けも、言い出したのはお前だ」


「春に、お前、言ってたよな」


 ゴンサロ様が、低い声で続けた。


「あいつは待つのに慣れてる、待たせておけばいい、って。俺は、婚約者殿が家で刺繍でもしてる話だと思って笑った。……笑ったのは、悪かった」


 最後の一言は、私に向けたものだった。


 セサル様は何か言おうとして、閣下のほうを見た。助けを探す目だった。


 閣下は、ナイフを置いた。


「日曜の遠乗りは、来たい者が来る集まりだ。誰かを置いて来る場所じゃない」


 セサル様は食堂を出ていった。扉が閉まった後、しばらく誰も口を利かなかった。父が黙って、私の杯に葡萄酒を足してくれた。


 次の朝、セサル様の借りた鹿毛は、夜明け前に厩舎からいなくなっていた。


* * *


 大夜会の前日、金曜の朝に、セサル様から短い手紙が届いた。


 大夜会は父君と入ってくれ。仲間との夜駆けが先だ。


 同じ朝に、フリオ様からも手紙が届いた。


 セサルが木曜の晩に騎士会館で、大夜会の晩の夜駆けを言い出しました。十一時に南の河原の古い水車小屋を出て、北門まで駆ける賭けです。仲間なら来るだろう、と言っていました。僕たちは誰も行きません。大夜会では、踊りの手帳を空けておいてください。白樺の仲間一同。


 二通を並べて卓に置くと、テレサが覗きこんで言った。


「今度は、大夜会でございますか」


「そうね」


 遠乗り、狩り、そして大夜会。今度は、私が走って追いかける番ではなかった。


* * *


 王宮の大広間には、天井まで届く鏡が並び、蝋燭の火が何百にも増えて見えた。


 私は父の腕を取って入場した。春の舞踏会と同じだった。違ったのは、入ってすぐに、紺の礼装の騎兵将校が三人、まっすぐこちらへ歩いてきたことだ。


「婚約者殿。手帳を拝借」


 ゴンサロ様が最初に、二曲目の欄に大きな字で名を書いた。ハビエル様は四曲目に、細い字で。フリオ様はペンを持つ手が震えて、六曲目の欄に名を書くのに二度やり直した。


 広間のあちこちで、扇が動いた。


「ベルガンサ家の婚約者でしょう。騎兵連隊の将校が、三人も」


「ベルガンサ中尉は?」


「今夜は来ないそうよ。河原で夜駆けの賭けだとか」


「大夜会の晩に? 婚約者を置いて?」


 その囁きは、近くにいた恰幅のいい年配の紳士の耳にも届いた。婚約の署名の席で一度会ったきりの、セサル様の父君、ベルガンサ伯爵だった。伯爵は顔色を変えて、父のところへ来た。


「オルメド伯爵。息子は今夜、お嬢さんと大夜会に行くと言って屋敷を出たのだが」


 父は、少し困った顔で私を見た。私は、本当のことを言うしかなかった。


「昨日の朝、セサル様から、父と入るようにとお手紙をいただきました」


 ベルガンサ伯爵は、その場で何も言えなくなった。


 手帳の最後の欄は、空いたままだった。


 七曲目が終わったところで、人波の向こうから、灰銀色の髪がこちらへ来るのが見えた。閣下は、紺の礼装に勲章を一つだけ付けていた。


「最後の一曲を、いただけるか」


「はい」


 閣下は私の手帳を受け取って、最後の欄に短く名を書いた。ビセンテ。家名も爵位も書かない、仲間どうしの書き方だった。


* * *


 夜半を過ぎて、最後の一曲の前の休みに入ったときだった。


 大広間の入口のほうで、人の輪が割れた。


 セサル様が立っていた。礼装ではなく乗馬の上着のままで、長靴は膝まで河原の泥にまみれていた。磨かれた床に、泥の足跡が二つ、三つと続いた。


 セサル様は広間を見回して私を見つけ、それから私のそばにいる三人を見つけた。


「お前たち……」


 声が、かすれていた。


「十一時に水車小屋だと言っただろう。一時間待った。誰も来なかった。仲間との約束だったのに、誰も!」


 大広間じゅうの目が、入口に集まっていた。さっきと同じ扇の陰から、同じ声が聞こえた。


「あれがベルガンサ中尉? 河原から、あの長靴で?」


「一時間、一人で待っていたんですって」


 セサル様の耳が、赤くなった。


「約束?」


 ハビエル様が言った。


「誰も、行くとは言っていない。お前が一人で言って、一人で決めた」


「僕たちの仲間は、今夜ここにいます」


 フリオ様の声は震えていたけれど、引かなかった。


 ゴンサロ様が、腕を組んだまま言った。


「一時間待ったか、セサル。婚約者殿は、一年待ったぞ」


 セサル様は、最後に閣下を見た。寮長、と口が動いた。


「セサル」


 閣下の声は低く、よく通った。


「仲間を、婚約者を置いていく理由に使うな。俺たちは一度も、お前にそんなことを頼んでいない」


 セサル様の顔から、何かが抜け落ちた。


 人の輪の中から、ベルガンサ伯爵が進み出た。息子のほうは見ずに、私の父の前で深く頭を下げた。


「オルメド伯爵。息子は今夜、婚約者と大夜会に行くと私に言って家を出た。この一年、ずっとこうだったのだろう。……この婚約は、こちらの落ち度として、解いていただけまいか」


 父は、私の顔を見た。私は頷いた。


「承りました」


 セサル様が、上着の襟に手をやった。白樺の葉の形をした小さな銀の徽章を、むしり取るように外して、床に投げた。


「こんな集まり、こちらから抜けてやる」


 徽章は磨かれた床を滑って、誰の足元でもないところで止まった。


 誰も、拾わなかった。


 セサル様は泥の足跡を残して、広間を出ていった。


 楽団が、最後の一曲を始めた。閣下が、手袋の手を差し伸べた。


「約束の一曲だ」


 私は、その手を取った。


* * *


 婚約は二日後、父とベルガンサ伯爵が書面に名を書いて解いた。違約の金は、婚約のときに取り交わした契約のとおり、ベルガンサ家が払った。


 セサル様は、父君の命で騎兵連隊を退いた。一年、南の領地へ行き、家令の下で、小作の契約と水の配分の帳面を預かるのだという。「約束ごとを、一つも違えずに務めてこい」と、ベルガンサ伯爵は言ったそうだ。ベルガンサ家を継ぐのがセサル様であることは、変わらない。


 社交界では、しばらくの間、セサル様は「水車小屋の中尉」と呼ばれることになった。


 南へ発つ朝、見送りに行ったのはゴンサロ様一人だった、とハビエル様が教えてくれた。


「あいつらしい」


 それがゴンサロ様のことなのか、セサル様のことなのか、ハビエル様は言わなかった。


* * *


 婚約が解かれて最初の日曜の朝、私は乗馬服で、鞍を置いたペルラの横に立っていた。


 白樺寮の遠乗りの日だ。三本楡へ行くつもりで、腹帯を締め終えたところだった。


 門から、黒鹿毛が一頭だけ入ってきた。


 閣下は馬を降りると、厩舎の前の石畳を、まっすぐ私のところまで歩いてきた。あの朝、セサル様が馬の上から言葉を落としていった場所だった。


「閣下。三本楡は、あちらでは」


「今日の遠乗りは休む」


 閣下はペルラの鼻面に手をやってから、私を見た。


「父上には、昨日話した。決めるのはマルティナだ、と言われた」


 北の砦では、遅れた者を待たない。だからこの人は、言うべきことを先へ延ばさないのだと思った。


「仲間との約束より、君との約束を先にしたい。今日も、これから先も。マルティナ、結婚してほしい。俺と同じ群れで、ずっと走ってくれ」


 高原の牧場では、群れに追いついた仔馬は、何事もなかった顔で群れの中に入る。けれど私には、何事もなかった顔は、できそうになかった。頬が熱くて、ペルラの首に顔を寄せたくなった。


「はい」


 閣下は目を伏せて、小さく笑った。寮長でも連隊長でもない、初めて見る笑い方だった。


 門のほうで、蹄の音がした。


 門柱の陰から、馬に乗った三人が顔を出していた。白樺の仲間の、残りの全員だった。見つかったと分かると、ゴンサロ様が開き直ったように大きな声を出した。


「閣下! 遠乗りは?」


「今日は、彼女との約束が先だ。お前たちとは、また今度にしよう」


 フリオ様が、帽子を振った。


「では、お先にどうぞ!」


 閣下が黒鹿毛に跨がり、私もペルラの鐙に足を掛けた。


 二頭並んで門を出ると、少し遅れて、エステバンの栗毛と、三頭分の蹄の音がついてきた。

お読みいただきありがとうございます。日曜の遠乗りに、新しい仲間が一人増えたお話でした。気に入っていただけたら、ブックマークと★★★★★をいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ただただ単純に、待っていても仲間が誰も来ないの辛いし切ないよなあ。 でも来ない事こそ仲間からの情であり自分の為になったと考えられると良いですね。普通ならあまりに恥ずかしすぎて一生背負う黒歴史。次の被害…
セサルくん、何がしたかったん?
サセルはモラハラに寮仲間を使ってたけど、主人公は芯のある女子だし周りもまともなので失敗したんだな。 仕事もできなさそうだし、送られた先でも持て余されそう。モラハラの性根は治らないから、後継ぎにしたらま…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。