第8話 無知の知
――何の手がかりも掴めないまま、ただただ無為に時間は過ぎ去って行く。
二度目の人生を送るようになって、いかに自分が無知だったか、思い知らされてため息が零れる。最初の人生では二十年間――つまり、命を失うまで、自分の身の回りの不思議に興味を持つこともしなかった。注意深く見れば、身の回りには魔術を用いて動いているものがたくさんあったというのに。寝室に灯るランプをベッドに横たわったままじっと見つめ、ティリアは思案する。
「……本当に何も知らないのね」
呟き、ため息を吐く。自室がノックされたのはそのときだった。
「ティリア、まだ起きてる?」
フィーロだ。ティリアはベッドから起き上がり、声をかける。
「起きているわ」
「入っていい?」
「どうぞ」
一拍おいて、扉が開かれる。昼間と同じ服装のまま、フィーロはティリアの部屋に踏み入る。ベッドサイドに置いたオーブにちらりと視線を向けてから、ベッドの端に腰を下ろした。
「まだ寝ないの?」
「それはこっちのセリフよ。寝間着に着替えもしないで」
「まあ、確かにそうだ。ちょっと仕事をしていたんだ。確認しなければいけない書類が溜まっていたから」
忙しいのね――と、言いかけてふと、ティリアは首をかしげる。
「そういえば、フィーロってどんな仕事をしているの?」
「ん? 急にどうしたの」
「……今まであなたの仕事のことも、何も知らなかったなって気づいて」
そもそも「仕事」というものそのものについて、ティリアは気に留めたこともなかった。自分は当たり前のように何もせず、日がな一日お茶を飲んだり、物語を読んだり、ときどき魔力の制御の練習をしたり。しかしそんな自分のことを、この屋敷にいる女中や執事が世話してくれる。それにフィーロやラウルスだって、時々難しい顔をして誰かと何かを相談している。それらは全て「仕事」なのだろう。
「うーん……俺の仕事かあ」
苦々しい顔をして、フィーロは頭を掻く。
「話せないことなの?」
「いや、話せないといううよりも、説明が難しいっていうところかな」
「そうなの……」
「今はまだ、きみには伝わり辛いことが多いからね。たとえば、首都の話とか」
「……首都?」
聞き慣れない言葉だった。きょとんとして目を見開くティリアの頭を、フィーロはそっと撫でてくれた。宥めるように――誤魔化すように。
「ごめんね、俺たちがきみに何も教えていないから、不安だよね」
「……うん」
「今はまだ、きみは知らないほうがいいことも多いんだ。だから、何も言えない。でも、婚姻の儀式が終わったら必ず伝えるよ。今まできみが知らなかったことも、全部」
そう言って、フィーロはティリアの手を握る。強く、まるで誓いでも立てるように、指を絡めてくれる。――そんな日は、一生訪れないのに。
ティリアはフィーロの手に視線を向けて、数秒息を吐く。
「……ねえ、フィーロ」
「ん?」
「婚約の日から、もうすぐ半年が過ぎるでしょう?」
「ああ、そうだね」
「そんなに過ぎるのに――」
――私はまだ、何の手がかりも掴めていない。ただ自分が「何も知らない」ということしか、わからない。
「そんなに過ぎるのに、私、あなたが何をしているのかすらちゃんと知らない。そのままでいいのかな、って。最近思うの」
「難しいことを考えているね」
「そう……?」
「そうだよ。深く考え過ぎると何が何だかわからなくなるだろう?」
「それは……そう、かも」
「だから、あんまり深く考え過ぎないほうがいいんだ。ただでさえきみは、世界なんてものを背負ってしまっているんだから」
柔らかな声と優しい言葉が、ティリアの心を包み込む。確かにフィーロの言う通りではあるのだ。どれだけ考えたとしても、答えにたどり着けないなら、最初から何も考えないほうがいい。このまま運命に身を委ね、自らの宿命に向き合って、人生を終える。それが一番楽な方法だということは言うまでもない。温かなベッドに横たわり、優しい人に甘やかされて、このまま目を閉じてしまえばいい。
「難しいことは、俺が引き受けるよ。だからきみは、きみの役目を果たす日までは、何も考えなくていい」
それは魅力的な誘惑だった。もしもティリアが望むなら――両手を彼に差し出すなら、フィーロは喜んでティリアを抱き締めてくれるのだろう。
だからこそ、ティリアはしっかりと目を見開いて、フィーロを見つめた。
「ありがとう。でも、もう少し色々知ってみたいの。私が救う世界がどんな場所なのか」
「……そう」
フィーロの笑みは柔らかかった。……だからこそ、冷たく感じた。
彼は再びケテルのオーブに視線を向ける。一度だけ青く染まりかけたオーブは、今では順調に濃い紫へと変化している。これで半分。世界を救うための儀式の日にはもっと反対側も見えない濃さへと変化しているはずだ。
その色を確認してから、フィーロはゆっくりと立ち上がった。
「長居してしまったね。ゆっくり休んで」
「うん……」
フィーロはそのまま振り返らずに、ティリアの部屋を出て行った。なぜだか妙に疲れてしまって、ティリアはベッドに倒れ混む。自分のこの先の運命を知っているからこそ、間違って知らないはずのことを口にしてしまわないか、いつも緊張する。それでも探り出さなければならないことはたくさんあった。その手がかりが掴めないまま今日まできてしまった以上、もう少し勇気を持って踏み込むべきなのだが――
と、再びノックの音が聞こえる。ティリアの部屋の、ではない。その向こう、フィーロの部屋の扉だった。
もうすっかり遅い時間だ。いつもならこんな時間に人が来ることはないのに――ティリアは音を立てないように慎重にベッドを降りる。そろりそろりと扉の側に近づいて、耳を当てた。
「――なるほど。これは、直接行かないとまずいか」
「そうですね。先方は、そう要望しているようです」
フィーロが誰かと話している。男性の声だ。ただそれが誰なのかは、ティリアには全くわからない。
「わかった。馬車を読んでおいてくれ。明日の朝、首都に行く」
「わかりました。そう伝えておきます」
そこで会話は途切れ、扉が閉まる音がする。恐らく男性が去って行ったのだ。ティリアは慌てて扉を離れ、フィーロには気づかれないようにベッドに戻った。何も聞かなかった風を装ったほうがいいような気がしたのだ。
恐らくこれは、絶好の機会だから。
明日、フィーロは屋敷を離れる。首都、というのがどこにあるのかは知らないが、少なくともこの家の中にはない。神子の一族の敷地にもない。
つまり、彼の監視は外れる。
この半年、一度も訪れなかった好機に、胸が高鳴る。一度目の人生にはなかった時間のはずだ。だとしたら、確実に何かが変わっている。今日までの時間は無駄ではなかったのだ。
それならもっと、大きく歯車を動かしてみせる。ティリアは強く拳を握る。
そして、翌朝。
フィーロを乗せた馬車が屋敷を出て行く音がする。
その音を合図に、ティリアはそっと部屋の扉を開いた――




