第7話 死の魔方陣
聖女は二十歳になる日に儀式の間で祈りを捧げ、その祈りをもってアインより生まれしゴーレムが世界を破壊しないように封印を行う。神子は役目を全うするまでは聖域である屋敷から出ることができず、外の世界を知らない純血の神子として育てられることとなっている。そこまでが、元々ティリアに与えられていた知識だった。そして――
「ここが、祈りの場。聖水の満たされた噴水だよ」
フィーロがティリアをつれてきたのは、先ほど寝室から見た中庭、白い噴水の前だった。
この場所のことも覚えている。ただし、フィーロから与えられた知識ではなく、自らが体験した過去の記憶としてだが。
「……ここで、ケテルのオーブに祈りを捧げるのね」
何も知らない娘として、ティリアはそっとオーブを取り出す。両手でそっと包み込んだそれは、今はまだ透明で、魔力もほとんど帯びていない。そんなオーブを持つティリアの手を、フィーロは下から支えるように触れた。
「そう。今日から七日に一度、このオーブにきみの魔力を注ぐんだ。昨日の婚約の儀式のときにやっただろう? それと基本は同じだよ」
フィーロは噴水に歩を進めると、止めどなく溢れるその水に指先をつける。そのまま静かに目を閉ざし、深く息を吐いた。彼の体内を魔力が巡っていくのが、肌のピリピリする感触から感じられる。
彼の周囲に溢れた魔力が一気に鋭い形となって、指先に集中していく。その瞬間、フィーロは大きく息を吸って呪文を唱えた。
「聖なる泉よ、我ら神子の魔力を受け、清らかなる光を満たしたまえ」
呪文は願いをかたどるもの。それはつまり、言霊だ。魔力を注ぎ、魔術を使って何をしたいかを明確に思い描き、それを呪文として口にするのだ――と。祈りの儀式をするために、ティリアはそれだけは教わっていた。
フィーロの魔力と呪文に応え、泉は淡く光り出した。その水底に、円環の魔方陣が描かれていた。婚約の儀式のときにも――死の儀式の日にも見た、聖なる魔方陣だ。
振り返ったフィーロは、ティリアを安心させるように目を細め、手招きする。ティリアは――フィーロの知る由もない理由で――緊張しながら歩み寄り、噴水の前に立った。
「次はきみだ。そのオーブを俺が清めた水につけて、祈りを捧げる。呪文は婚約の儀式の日に俺が使ったものと同じだよ。『ケテルのオーブよ、我ら神子の魔力を受け、真実の姿を露わにせよ』」
囁くような呪文を聞きながら脳裏に刻む。だが本当は知っていた。殺される直前まで、七日に一度、唱え続けた呪文なのだから。
――ふと、思い出す。
一年前、何も知らずに初めてこの儀式に挑もうとしたとき、ティリアはフィーロに尋ねたのだ。「もしも呪文を間違えたらどうなるの?」と。緊張していたから、うまくできるか不安だったのだ。そんなティリアの気持ちを汲んで、安心させるように微笑みながら、フィーロは言った。「多少の揺らぎは生じるかもしれない。でも、少しなら大丈夫だ。俺が手伝うから、やってごらん」
結果的にあのときは、ティリアは一度も間違えなかった。だからつつがなく儀式の準備は進んでいき――殺された。
それなら。
「……この水に、ケテルのオーブをつければいいのよね」
「そう。全部沈めて、清めるんだ」
フィーロはティリアの後ろに回り、袖が濡れないようにまくり上げてくれた。そっと抱き締められるように――あるいは逃げないように監視されているかのように――その体温を感じながら、ティリアは冷たい聖水にオーブを沈めた。
そのまま目を閉じ、魔力を身体中に満たしながら、ティリアは呪文を唱えた。
「ケテルのオーブよ、我が魔力を受け、聖なる姿を露わにせよ」
――ハッと、フィーロが息を呑んだ。
オーブはティリアの魔力を飲み込み、青い光を淡く放つ。
「ダメだ!」
フィーロは慌てたように手のひらを噴水に着けてオーブを掴み、呪文を唱えた。
「清らかなる姿よ、元に戻れ」
青い光は霧散するように消失し、オーブは透明な姿に戻る。
……やはり、そうなのだ。少しでも呪文を間違えば、オーブは別の反応を示す。何が強い鍵となる言霊なのかはわからない。しかし、神子、と、真実、は、恐らく何か大きな意味のある言葉なのだ。だからこれまでの全ての儀式でその言葉は刻まれていた。知識がなくとも、これだけ何度も聞かされていれば想像はつく。
フィーロは安堵したように息を吐くと、こら、とティリアの頬をつねる。
「呪文は間違えるな。覚えられなかったなら素直に言いなさい」
「ごめんなさい。緊張してしまって」
「まあ、初めてだから仕方がないけど。でも、何度も許すわけにはいかないよ。これは世界を救うための大切な儀式なんだから」
「……わかってる」
そう、わかっている。
もしもこの儀式に失敗すれば、この世界はアインより生まれしゴーレムにより滅ぼされる。もしも儀式に失敗すれば――自分が贄として殺されなければ。
心音が、バクンと鳴った。
今自分がしたことは、世界を破壊するような大罪だ。何百年にもわたって神子の一族が担ってきた役目を水泡に帰すような行為だ。そんなことが許されるわけがない。……それは、わかっている。
だが一度命を失った今、どうしても脳裏をよぎってしまうのだ。
――私が救った「世界」は、どんな形をしていてどんな人々が暮らす場所なの? 私が知っているのは、聖域と名付けられたこの屋敷の敷地の中だけなのに。
ティリアは一度深呼吸をして、フィーロのほうへと視線を向ける。
「もう一度やらせて。今度は、間違えないから」
「……そうだね。次に失敗したら、子どもの頃みたいにお尻でも叩いてお仕置きしようか?」
「やめてよ、もう。笑わせないで」
「冗談を言ったつもりじゃないんだけどな。まあ、少し肩の力が抜けたならよかったよ」
クックと笑いながら、フィーロはもう一度袖をまくってくれようとした。しかし、ティリアはそれを止める。
「大丈夫。もう濡れてしまっているから、今更よ」
「……それもそうか」
それでもフィーロは離れないまま、ティリアの様子を伺っている。監視していると言ったほうがいいのかもしれない。その視線はティリアの指先を震わせる。
それでも気にしないフリをして、ティリアは改めて呪文を唱えた。
「ケテルのオーブよ、我ら神子の魔力を受け、真実の姿を露わにせよ」
その瞬間、噴水の魔方陣が淡く輝き、ケテルのオーブが呼応して、ティリアの魔力を吸収する。やがてそれは淡い紫の光となり、オーブをかすかに輝かせて、鎮まった。
「今度は成功したみたいだね」
心から安堵したように、フィーロは深く息を吐いた。
「これならあなたにお仕置きされなくて済むわね?」
「あはは、そうだね。でも、あとでお説教くらいはしようかな」
「嫌よ。緊張していただけなんだから、むしろ慰めて」
「それもそうか。仕方がない、きみの大好きなスコーンを用意させるよ」
ケテルのオーブを水から取り出す。しっとりと濡れた袖からも水滴がぽたぽたと落ちた。重く垂れ下がった袖に触れながら、フィーロは言った。
「まずは着替えだね。風邪をひいたら大変だ」
「そうね。少し、寒いかも」
「それじゃあ、部屋に戻ろう」
あの、逃げられない部屋へ。
フィーロはティリアの腰を抱き、エスコートしてくれる。その指先には特別な温度は感じない。一度目の人生なら、こんな風には思わなかったのに。
それでも大きく運命を変える鍵はひとつ見つけられた。魔力を魔術とするための、言霊。それをひとつでも変化させれば、魔術は確かに変化する。だが問題は、それをフィーロに気づかれずにどう行うか――これだけ常にそばにいられては、多少運命を曲げたところで、元の道へ戻されてしまう。
思案する。だから、気づかなかった。
じっと足元を見つめるティリアを、険しい表情で見つめるフィーロの眼差しに――




