第27話 フィーロ2
フィーロがティリアに初めて出会ったのは、まだ彼女は首の据わらないようなちいさくてふわふわした赤ん坊だった。手のひらに、小さな鼓動が伝わってくる。そのことで、身が凍った。
連れてきたのはラウルスで、彼からティリアを抱かせてもらったとき、もしも自分が落としたらこの子の命を奪ってしまうのだということに気づいて――恐ろしくて、たまらなかった。そして同時に心から願った。どうか、この子を殺させないでくれ、と。
「――どうしても、きみを殺したくなかった。俺の腕の中で、あんなにすやすやと眠っていたんだ。いつか俺に殺されるなんて思いもしないで、全体重を俺に預けて」
それでも神子としての宿命は変わらない。そして逃げ出せるほど軽いものでもない。儀式を続けなければ、世界は破壊され全ての命が奪われる。首都で暮らす人たちの顔を見て知っていたからこそ、無数の血が流れることへの恐怖もまた、抑えられなかった。
「……いっそ終わらせてしまえればとも思ったけど、俺が使命を放棄しても、ラウルスが代わりに使命を果たすだけだ。あいつは俺なんかよりずっと心が強いから、たとえ相手が妹でも、心臓に刃を向けられる。向けられてしまうんだよ。だから……」
だから、と。フィーロは背中を丸めて、今にも叫びたくなる心を必死で抑えた。叫んだからって何が変わるわけでもない。醜態を晒すだけで、何の意味もない。だから必死で飲み込んだ。
――本当は俺は、逃げたいんだ!
……そんな勇気もなかったくせに、今でもなお、思っている。
「……あのね」
ティリアが静かに口を開く。
「私の二度目の人生のとき、私が本当の儀式を知っていることに気づいたフィーロは、取り乱していたの」
「…………」
「フィーロがそんな風になるなんて思ってもみなかった。あなたはいつでも優しくて、余裕があって、ちょっとだけ意地悪で……でも、あのときのフィーロは違っていた。物語の悪者みたいで、それなのに、ずっと泣きそうな顔をしていて」
自分を自分で嗤いながら、フィーロは肩をすくめた。それはなかったことにされた世界の自分のことではあるが、想像に難くない。実際に自分はそういう反応を見せるだろう。本当はラウルスのように、何があっても揺るがない心を持っていたかったのに、フィーロにはできない。心乱して、それでも自分をさらけ出すことができなくて、別の仮面を被り直して――しかしそれすらもうまく行かず、きっとティリアに気を遣わせていたはずだ。
今、こうして、両手を握ってくれているように。
「……なにやってるんだろうな、俺は。情けない……」
「ううん。情けなくなんてない……私は、嬉しかった」
「嬉しい?」
「あなたが本音を見せてくれたから」
「……幻滅しなかった?」
「しなかった。びっくりはしたけれど……それでも、あなたやお兄様がどれだけのものを背負っていたのか知れたから」
「そう……」
「だからね、フィーロ……私は、あなたを守りたくなったの」
ティリアの手に、ギュッと力が籠もる。導かれるように顔を上げれば、優しく降り注ぐ月光のような微笑みがそこにあった。
「あなたが生きる世界を守りたかった。だから死んだの――あなたの手を、汚してしまったけれど」
わずかに翳る瞳に、フィーロは首を振った。
「汚れたっていいんだ。どうしても運命から逃れられないなら……何度転生したって俺は、俺の手で、きみを殺す。その後にどれだけ後悔しても」
「……強いのね、フィーロは」
「逆だよ。弱いから、殺すんだ。一生引きずる傷がないと、死んでしまいそうだから」
声が震えた。本当に俺はダメだなと、自嘲する。ティリアはこんなに強いのに、本当に自分は、情けない。
それでも――と、フィーロは顔を上げる。
「今は、生き残る方法がある」
「ええ……」
ティリアがフィーロを抱き締める。その細い両腕で、しかし、力強く。彼女のその温もりに包まれて、フィーロは縋り付くようにその背中に腕を回した。
「……きみを失いたくなかったんだ、ずっと」
「私も、あなたと別れたくない」
「必ず、成功させよう。こんなくだらない儀式を、もう二度と繰り返さなくていいように」
「うん……必ず」
フィーロが顔を上げると、ティリアの美しい瞳が目に入った。エメラルドのようなその輝きに吸い込まれるように、フィーロは身体を起こし、彼女の頬に手を添えて、そっと――口づける。
啄むように、一度、二度――彼女の吐息が体内に入ってくるのを感じて、更にもう一度。今度は、長く。
キスひとつでこんなに心が満たされるなんて、知らなかった。どれだけ一族のことを知っても、隠されていた真実を知っても、世界を本当に救う方法を知ったとしても、心にはどこか冷たい穴が空いたままだったのに。それが今、ティリアの一部に触れたことで、驚くほどあっという間に満たされていく。
もう何も、恐れることなどない、と。さしたる根拠もないというのに、フィーロは思う。
きっと、これが、愛なのだ。
「……ねえ、フィーロ」
ほんのわずかに唇を触れ合わせたまま、ティリアが囁く。
「ん?」
「全てが終わったら、私たち、ここから出て行っても構わないのよね?」
「そうだね。ダメだと言われても、勝手に出て行こうか。もう俺たちがここに縛られる理由なんてないんだから」
「ええ、そうしましょう。どこか遠くへ……ねえ、どこに行きたい?」
甘えるようにフィーロの胸元に身を寄せながら、ティリアが尋ねる。ここから出て、自由に、どこかへ――そんな約束が出来る日が来るなんて、ただの一度も想像したことがなかった。けれど、できる。それが現実になろうとしている今だからこそ、フィーロは何も取り繕うことなく、自分の本心を口にできる。
彼女と共に行きたい場所――それはずっと、フィーロの胸の内にあった。
「海へ」
「海?」
「そう。ずっと、きみを連れて行きたかったんだ。俺も一度しか行ったことがないんだけど」
男の神子は、世界を救う重さを知るために時々ここから連れ出される。世界に暮らす人々の笑顔を見せられて、あれを奪えないと思わされる。ラウルスは特に、それで自らの使命を自覚したと言っていた。
だがフィーロは違った。確かに人々の笑顔も重くは見えていた。だがそれ以上に心を奪ったのは、たった一度だけつれて行ってもらった海だったのだ。
「……どんな場所?」
「広かった。どこまでも、どこまでも水が広がっていて、果てなんか見えなくて……それに、空も高くて、ずっと青くて。風も吹いていないのに、ずっと波打っていて、それが足元に押し寄せてくる。その音が、心地良かった」
「へえ……」
ティリアはそっと目を閉ざし、ゆっくりと呼吸をする。きっと想像しているのだろう。昔から、物語を読んで聞かせると、こうして瞳を閉ざしていた。そうしてじっと考え込んで、想像の翼を広げるのだ。
けれど彼女はふふっと笑いながら目を開けて、フィーロを見上げた。
「だめだわ、想像ができない」
「いいよ、今は考えなくても。すぐにきみを連れて行ってあげるから」
「……本当に、私を連れて行きたい場所なのね」
「うん。ずっと、連れて行きたかった」
「そう……」
ティリアはほんの少しだけ言葉を震わせながらフィーロに身を委ねた。そんな彼女をしっかりと両腕で抱き締める。
もう絶対に、彼女を傷つけたりしない。そのために、必ず全てを終わらせてみせる。
そう誓い、天を仰いだ。
半分の月は、静かに二人を見下ろしていた。
***
ティリアは、思う。フィーロはきっと、本音と嘘との狭間でずっと揺れていたのだ。
一度目の人生で、何も知らないティリアにフィーロは「自由になったら海に連れて行くね」と約束してくれた。海、というのを知らなかったティリアには、それはとても素敵なことに思えて、胸が高鳴った。
――あのときのフィーロは一体どんな気持ちだったのか。
それでも今は、心から約束をしてくれた。彼が連れて行きたい場所を、何の憂いもなく口にしてくれた。
だからこそ、必ず成功させなければならない。神子の一族に与えられた、本当の儀式を。
ティリアは白いローブに身を包み、空を見上げた。
そこには満ちた月がぽっかりと浮かんでいた――




