第26話 フィーロ1
フィーロ・ゾハールという名を受けてこの場所に来てから、本当に色々なことがあった。中庭をゆっくりと歩きながら、フィーロは思う。
空には半ば欠けた月が浮かんでいる。この月が満ちたとき、いよいよ儀式の日がやってくる。ティリアを殺すためではなく、全員で生き残るための。
噴水の前で足を止め、フィーロは水面を覗き込む。ここに湧き出しているのはただの水ではない。聖水だ。ケテルのオーブに魔力を濯ぐにも、儀式の間を満たすのにも使われる。シエロ曰く、この聖水はセフィロトが供給しているものらしい。水源がセフィロトにあり、そこから湧き出した水を魔方陣を通して転送しているのだとか。だからここには魔方陣があったのか、と、フィーロもそのときは納得したのだが。
「まったく、天なんだか地なんだか、わけがわからないよね」
噴水の水に指先を浸し、目を閉じる。ただの水と違ってその静謐さにチリチリと指が痛むのは、魔力が干渉し合っているからだ。なんだか妙な感覚だなと、フィーロは苦笑いした。
足音が近づいてきたのは、そのときだ。
「何をしているの、フィーロ」
聞き慣れた愛しい声にフィーロは振り返る。薄い青色のドレスに身を包んだティリアは、長いピンク色の髪を揺らして、歩み寄ってきた。
「セフィロトのことを考えてたんだよ」
「セフィロト?」
「そう。シエロが言うには、あれは俺たちの世界の『空』の部分だろ? でも、そのセフィロトの水源を引いている噴水は下から水が湧き出している。あべこべで、めちゃくちゃだなって」
「ああ……言われてみれば、そうね。どうして気づかなかったのかしら」
ティリアは目を丸くして天を仰ぐ。彼女は昔からこうだった。フィーロが不思議に思ったことを伝えると、一緒に驚いたり悩んだりしてくれる。そのことがずっと、心地良かった。なにしろ自分の言ったことを全部受け止めてくれるのだ。全てを肯定されているような気がして、彼女に依存してしまいそうになる。
「……だからダメだったんだよな」
「え?」
思わず零れ出た胸の内に、フィーロはしまったと口を押さえる。しかし、聞こえてしまったものは取り消すことなど出来ない。ティリアはどこか不安そうに目を泳がせる。
「……私、もしかしてよくないことを言ってしまったかしら」
「ああ、違う、違うんだ。ごめん、今のは完全に独り言……と、言っても、余計にきみを不安にさせるだけか」
しくったな、と肩をすくめてから、フィーロはぐるりと辺りを見回す。そうして花壇の近くに見つけたベンチを指差した。
「少し、あそこで話さない? ……この際だから、きみに聞いてもらいたくて」
「私に?」
「そう。今の俺の独り言の意味と――」
フィーロはゆっくりと足元に視線を向けて、目を細めた。
「俺がずっと、誰にも言えずにいたことを」
石で出来たベンチは少しだけ冷たかったが、その分熱が籠もりそうな心を落ち着かせてくれる。どこから話したらいいかな、と迷いながらも、フィーロは言葉を紡いだ。
「俺が神子の一族の使命を知ったのは、五歳の頃だった」
「……目の前で、お兄様がフィーロのお姉様のことを殺したのよね?」
「ああ……知っていたのか」
「二度目の人生のときに、あなたから聞かされたの」
「なるほど……じゃあ、これから話すことは、もしかしたらきみが知っていることと重複するかもしれないけど、許してね。俺はきみの一度目の人生も二度目の人生も知らないから」
「ふふ……それは、そうね。大丈夫よ、聞かせて……あなたの言葉で」
ティリアがふわりと笑う。そういえば昔から彼女はこんな顔をする子だった。ラウルスもそうだが、ティリアも不思議に思うことがあるとすぐに知りたがる。フィーロは変だなと思っても気に留めないことが多いから、ずいぶんと性格が違うものだなと思ったし、ちゃんと同じ親から生まれているのだなと感じるきっかけにもなったものだ。
「五歳で、目の前で姉さんが殺されて……血を浴びながらケテルのオーブを掲げるラウルスを見たとき、何が起きているのかさっぱりわからなくて、怖くて、何も考えられなくなって……どれくらい、かな。俺は自分の部屋に閉じこもってラウルスとは話もしなかった」
そのときの地の臭いは今もまだ、生々しく残っている。ラウルスはフィーロにとっては兄も同然の人だったし、年の離れた姉のラミーナはフィーロを本当に甘やかしてくれた。いつでも自分の味方だったし、抱き締めてくれた両腕の感触は忘れようとしても忘れられない。ラウルスだってラミーナに優しく触れてくれていたのだ。それなのに――
「納得できなかったし、裏切られたような気持ちになった。それに、いつか殺すとわかっていながら笑ってラミーナと過ごしていたラウルスが、バケモノみたいに感じられたんだ」
「……わかるわ。私も、二度目の人生のときはそうだった」
ティリアは胸元に手のひらを添えて、硬い表情のまま目を閉ざす。
「私は……あなたに、殺されたから。ずっと、信じていたのに」
咎めるような口調ではない。そのことが余計に、フィーロの心を重くする。彼女は二度死んで、過去に戻って、人生をやり直している。その間の記憶が全てあるようだから、死ぬという運命を変えられなかった故の恐怖や苦しみがあったのだろう。
彼女の手のひらが触れた場所は、きっとフィーロが貫いた場所だ――その懺悔の言葉に代えて、フィーロは続きを口にする。もう二度と彼女を裏切らないために。
「一ヵ月くらい経って、少しだけ気持ちが落ち着いたとき、俺は庭に出た。ちょうどこの、噴水の近くだよ。……いつもここで、ラウルスが独りでいることを、知ってたから」
「お兄様に会いに行ったの?」
「そう。……ちゃんと、知りたかったから。そのとき初めて、俺は世界のことをちゃんと知ろうと思ったんだよ」
幼かったから、というのは言い訳にはならない。確かにあの頃の自分は何も知らず、わかろうともしないでただ毎日を楽しく過ごすだけだった。なぜずっと神域で生活しなければならないのかも、考えたことすらなかった。
ラウルスは六歳の頃にはもう、一族の全てを知っていたのに。
「話を聞いて、理解できた?」
ティリアに尋ねられる。が、フィーロは苦笑いして首を横に振ることしかできなかった。
「ぜんぜん。だって、わけがわからないだろう? 世界を守るために、神子を殺して生け贄にしなきゃいけないなんて」
「……あなたでも、そうだったのね」
「きみもそうだった?」
「ええ……だって、変だもの。殺されなきゃいけない理由なんて、わからないし、納得もできない」
「そりゃそうだよね。たぶん、ラウルスもそうだったとは思うんだ。でも――殺した」
ティリアが息を呑む。ハッとしてフィーロのほうに視線を向けて、何かを言いかけて――しかし結局、口を閉ざした。
彼女が今飲み込んだのは、どんな言葉だろう。罵倒か、兄を庇う言葉か。……今なら、どちらもあるのかもしれない。二度の死を経験した彼女だからこそ思うことが、その胸の内に存在しているはずなのだ。
フィーロは手元に視線を落とす。指先が震えていた。できるだけ平気な顔をして、ティリアに何も悟らせないようにしたいと思っていたのに。――たぶん、ティリアの一度目の人生のときには、できていたのだろう。無垢な視線だけを向けられるなら、自分の感情を殺す自信は、フィーロにはあった。
だが。
震えるフィーロの手を、ティリアがそっと、握った。
ハッとして顔を上げる。
「大丈夫」
ティリアは穏やかな表情で、フィーロを見上げていた。
「教えて、あなたの心を」
それは赦しの言葉だった。
神子としての宿命を知って、人生を知って、これから先の罪を知って――それでもなお、フィーロの心にあった感情を、表に出しても構わないと。
自分が絶対に望んではいけないと思っていた言葉を、口にしてもいいのだ、と。
フィーロは反対の手でティリアの手のひらを包み込んだ。まるで大切な宝物をしっかりと握るように。二度と離さずにいられるように。
「全てを知って、俺は……」
願いながら、フィーロは口を開いた。
「俺はきみを、殺したくないと、思ってしまったんだ……」




