第25話 ラウルス
――ラウルスにとって、この世界は残酷なものだった。
物心ついた頃には「聖域」にいて、先代神子のアルベルト・ゾハールと、ラミーナ・ゾハールの二人と共に三人で穏やかな日々を過ごしていた。ラウルスが生まれたとき、アルベルトは六十二、ラミーナは八歳。もう「おじいさん」と呼んでもいいような年齢だったアルベルトが、ラウルスとラミーナを大切に育ててくれた。
アルベルトは既に病に冒されていて、あと何年生きられるかという状態だった。そのことをラウルスに隠しもしなかったから、離れたくないと何度彼に縋って泣いたことか。しかし、それでも時間を止めることはできない。
――おまえには、残酷なことを言っているとわかっているんだがな。
アルベルトは苦笑いしながらラウルスを膝に乗せ、頭を撫でてくれながら語ってくれた。
――それでも、俺が死んだら神子の知識を引き継ぐ者はおまえしかいなくなる。だから、全てを覚えてくれ。今はわからなくても構わないから。
本の知識と、アルベルトが語って聞かせてくれる神子の一族の伝説と。毎日、毎日、新しいことを教えられた。アルベルトは残された時間が少ないから、迷う暇も悩む暇もなかった。
ただ、ラウルスは物事を知ることが好きだった。知らない場所、知らないこと、次から次へと蓄積される知識を紐解いて、新たな疑問に立ち向かうことが、楽しくて嬉しくてたまらなかった。きっとそれは、アルベルトの語り口がわかりやすくてドキドキして、何よりラウルスを想う気持ちに満ちていたからなのだろう。
このままならば、ラウルスは十二で人を殺すことになる。それをわかっていたからアルベルトは、丁寧に、丁寧に、言葉を紡いでくれたのだ。
――本当にラウルスは賢いのね。
そんな風にラウルスを褒めてくれたのはラミーナだった。
――私は難しいことは全然わからないし興味もないわ。でも、ラウルスにとっては素敵なことなのね。
素敵なこと――自分が求める知識をそう言ってもらえたことが、胸の内に明るい光を灯してくれた。そうだ、これは素敵なことだ。幼心にそう思ってからずっと、ラウルスは書庫にある本を読み切る勢いでますます探求に夢中になった。
しかし、今ここにある知識だけで疑問の全てを解き明かすことはできなかった。アインとは? ケテルとは? なぜ人間は魔力を持ち、それを魔術として発露出来るようになったのか?
そもそも神子の命を犠牲としない方法はないのか?
……アルベルトが死んだ五年後、ラウルスは初めての儀式を行った。その日まで、まだ幼いフィーロと贄の神子であるラミーナには告げず、つつがなくゴーレムを封印する。それだけを自分に課していた。本当ならば、ラミーナを失う前までに、世界を救う方法が見つかればよかったのに。そんな後悔はないでもなかったが、迷っている時間はなかった。
目の前で姉を殺されたフィーロと。
ラウルスの腕に収まった無垢な妹――次の贄の神子・ティリアと。
この二人を救う方法を探すことが、ラウルスの次の目的になったのだ。
「……こんなところで何をしているんです?」
イェツラー家の最上階のバルコニーで、ラウルスはシエロに声をかけた。シエロ・ゾハール――いや、本当は、神子の一族を代々見守ってきた精霊。恐らくこれまでは一度も姿を見せなかった彼がこの場にいることに、ラウルスは言葉にできない喜びを感じていた。
ラウルスの声で、シエロはゆっくりと振り返った。少し拗ねた顔をした彼に、ラウルスは思わず小さく吹き出す。
「フィーロと喧嘩をしたから、拗ねているんです?」
「……だって、せっかくティリア姉さんを助ける方法を教えたのに」
「まあ、彼は彼で悩んでいたこともあったし、何よりもティリアが最優先なんですよ」
「そうかもしれないけど」
唇を尖らせて拗ねる姿は、本当にただの少年としか思えなかった。しかし、幻惑を解かれた今、そういえば彼が何歳なのかも知らなかったなと、思い出す。意識したこともなかった。精霊の魔術というものは、これほどまでに強い力で人間を操れるのだ。
「不思議なものですね。あなたのことを精霊だと認識しても、まだあなたをフィーロの弟と思ってしまう。そしてあなたも、フィーロを兄だと思っている」
「……人間として暮らしたのは初めてで、ボロが出ないように気をつけてたんだよ」
「だから入れ込みすぎてしまいましたか?」
「そうだね……」
「興味深いことです。精霊は、もしかしたら人間よりもずっと感情的なものなのかもしれませんね」
人間は、無垢なうちならば人を信じ、寄り添うこともできる。だから神子たちは何も知らない赤ん坊のうちにこの聖域に連れて来られて、余計な知識を身に付けないように細心の注意を払いながら、もう逃げられない段階に至って初めてその役割を明かされるのだ。
しかし千年生きているはずのシエロは、たった数年一緒に暮らしたというだけで、これほどまでに「兄弟」で「従兄弟」になってしまった。それだけ心が純白なのだろう。善も悪も可も不可も、精霊の胸の内には存在しないのだ。だからこそ普段は一定の距離を保っているのに、一度入れ込むと一気に染まってしまうのだろう。
「ねえ、シエロ」
ラウルスが声をかけると、シエロはゆっくりと顔を上げた。
「僕たち神子の一族とは、一体どういう存在なのですか?」
「どういう意味?」
「不思議だったんですよ。なぜ僕たちだけがゴーレムを封じる魔力を持つのか。色々と調べてみましたが、僕たちの魔力は他の人間と比較しても、明らかに異質な気配を有していました。だとすれば、何か人間とは異なる血が流れているのでは、と」
「……へえ。気づいてたんだ?」
「仮説でしかありませんでしたが。正解なのですね?」
「うん。そうだよ」
シエロはあっさりと頷いて、空中に指で線を描いた。なぞられた部分が光を放ち、やがてそれは大樹の形になっていく。
セフィロトだ。先ほどは全体を見ることはできなかったが、今度は大樹の全貌がわかる。信じられないほどに太い幹にいくつかの枝があり、その枝にはオーブがぶら下がっていて――そのてっぺん、シエロが「ケテル」と呼んだ部分にあるオーブの中にだけ、いくつもの青白い光がふよふよと漂っていた。
「この光は……?」
「命の源。特別に生み出されたマナ。そして――神子たちに宿る、魔力だよ」
「ということは、これが僕の体内にも?」
「そう。これはマルクトに三つしかもたらされない。ひとつが消滅したらひとつが補充される。その器となるのが神子の一族で、このマナが魔力に溶け込んだ者がこの神域に連れて来られることになってるんだよ」
「……なるほど」
ラウルスは喜びで頬がゆるんだ。今日は本当に特別な日だ。これまで疑問に思っていたことが、次から次へと明らかになる。まさか、ティリアが死ぬ前にこんな奇跡が起こるとは。いや――ティリアやシエロの言葉によれば、彼女は二度死んでいる。聖女として生まれてしまったせいで、二度も殺される恐怖を味わってしまっている。
……だから正確には間に合ってはいない。それでも、ティリアの三度目の死は訪れない――はずだ。
「もうひとつ、聞いても構いませんか?」
「ラウルス兄さんは本当に知りたがりだね。どうぞ」
「……次の儀式は、確実に成功すると言えますか?」
シエロはわずかに息を呑んだ。つまり、確実にとは言えないのだろう。当然か。千年前にも失敗した儀式なのだ。当時は神子が手順を間違えたことが原因だったが、そうでなかったとしても、決して簡単な儀式とは言えないのだろう。
完全に黙り込んでしまったシエロを見ればそれはわざわざ考えるまでもなかった。それでもう十分だった。
ラウルスが覚悟を決めるには。
「もしも――もしも、ですが。ゴーレムを消滅させる儀式に失敗してしまったら」
「うん……」
「そのときは、僕がティリアを殺します」
強い風が吹き付けて、ラウルスとシエロの身体を冷やした。
「……え?」
シエロが目を見開いてラウルスを見上げる。何を言っているの、とでも言いたいのだろう。ついさっきまで、明るい未来を夢見て救う方法を語らってきたのだから。
でも、だからこそ、ラウルスは優しく微笑んでみせる。
「今まで通りの儀式を行い、応急措置を行います。そうやって時間を稼いで、次の儀式のときには必ず、ゴーレムを消滅させましょう」
「そ……それじゃ、何の意味もないよね?」
「意味はありますよ。世界を繋ぐという意味が」
「でも助けられないじゃん! ラウルス兄さんは、ティリア姉さんを助けたかったんじゃないの!?」
「ええ、もちろん。それでも、万一のときのことは心に決めておかねばなりません。そのときになってからでは、動けませんから」
「……いいの? それで」
「よくはありませんね。それでも、やるしかないんです。だったら、傷つくのも恨みを買うのも僕だけで十分なんです」
それ以上も以下もない。ラウルスにとってはそれが全てでしかないのだ。
シエロは口をぽっかりと開けて言葉を失っていたが、やがて弱々しく笑った。
「やっぱり人間っておかしいよ。すぐに一人で背負い込もうとして」
「そうかもしれませんね。ですが、それが僕の願いですから」
「今のイェツラーは、兄も妹も普通じゃないよ」
「素晴らしいじゃありませんか。普通じゃなければ奇跡を起こせるかもしれません」
ラウルスはゆっくりと空を見上げる。今日は月が見えなかった。だからいつもより星々が多く見えていて――しかしあの向こう側にはセフィロトがあるのかと思うと、普段より遠くまで見渡せるような気がした。
「起こしましょう、奇跡を」
「……うん。そうだね」
必ず、奇跡を起こす。そうしてきちんと祝うのだ。ティリアとフィーロの結婚と、この先ずっと続くはずのティリアの誕生日を。
だからこそ、決して地から足を離さずにいられるように。ラウルスはゆっくりと目を閉じた。
それから、月日は流れ。
ティリアの誕生日は来週に迫っていた。




