第24話 千年前の誤り
漆黒の中にいると、周囲は何も視認できない。上も、下も、右も、左も、前も、後ろも、自分の姿さえも。
ぞわぞわと背中に冷たいものが走り抜ける。それはティリアの心を蝕むようにじわりじわりと侵入してきて、呼吸が乱れる。喉を掻きむしりたくなる。――気が狂う。
でも。
そっと手を握られて、ティリアはハッとした。姿は見えない。けれど、確かにそこに、フィーロがいる。その温度が告げてくれた瞬間、這うように身体にまとわりついていた不快感が消滅する。
だからティリアは、その手をそっと握り返した。
「シエロ。ここは、アインなのですよね?」
どこからか、ラウルスの声が聞こえてくる。
「そうだよ。……ラウルス兄さん、なんでそんな浮かれた声してるの?」
「今まで追ってきた謎の答えにたどり着けるからですよ。それに、声だけが聞こえるこの状況も、普通ではないじゃありませんか」
「……ねえ、フィーロ兄さん。ラウルス兄さんってこんな人だったっけ?」
「割と昔からこんな人だね。じゃなかったら十二歳で神子の一族の知識を全部受け継ぐなんてできるわけがないし。俺は二十歳くらいまでかかったよ」
「そうなんだ……」
少し戸惑ったようにシエロは呟く。どうやら精霊でも知らないことはあるらしい。かく言うティリアも兄がここまで知識に貪欲だとは知らなかったのだが。
苦笑するような吐息が聞こえ、咳払いも聞こえてきて――それから改めて、シエロは語り出した。
「人間の住む場所……僕たちの言葉で言う『マルクト』は、セフィロトが作り出した栄養を生み出す場所なんだ」
「……それって、つまり俺たちの創造主がセフィロトだってこと?」
「そういうこと」
「なんだか壮大な話になってきましたね……それで、何が栄養なんです?」
「それはね――感情、だよ」
感情。
そう告げられた瞬間、ティリアは思い出すものがあった。アインより生まれしゴーレムは、負の感情の集合体である――それは、神子の一族では既に知られていることだった。
「もしかして、負の感情だけじゃなく、快の感情も集められていたの……?」
「そうだよ。むしろ、快の感情のほうがセフィロトにとっては大事なんだ。負の感情は不要だね」
「だからって、負の感情を生まない人間なんていないよね?」
「そうなんだよ。だから仕方なく全ての感情を根っこから吸い込んで、幹を通る間に分類して、負の感情だけをてっぺんから排出するんだ」
先ほど見た、神々しいまでに美しい大樹を形作ったのは人間の快の感情だった。既に理解の範囲の外にあることが次々と起こっている。だから今更驚くこともなかったが、人の感情があれほど美しくなるのだと知って、ティリアは大きく息を吐いた。
「吐き出された負の感情は、そのまま天に昇って行く。そうしてさっきの眩しい光の層を通って、この場所――アインに溜まっていくんだ」
「つまりここは、ゴミ捨て場のような場所ということですか」
「うん、そういうことになるね」
「……ちなみに、セフィロトが世界を創ってから、どれくらい経ってるの?」
フィーロの問いに返ってきたのは「さあ?」という曖昧な返事だった。
「僕も結構長く生きてるほうだけど、それよりずーっと前からマルクトはあったから」
「ちなみに、おまえは何年生きてる?」
「神子の一族が初めて儀式を行ったときに生まれたから……千年くらい?」
「ということは、それよりもずっと前から負の感情がため込まれて……で、暴走したっていうことか」
なるほどとフィーロは息を吐く。これまで知っていたことと、知らなかったこと。そのひとつひとつを繋げていくと、綺麗に真実が紡がれた。これまでずっと、何もわからずにもがいていたのが嘘のようだ。
ここに辿り着くまでに、二度死んだ。二度、フィーロに自分を殺させてしまった。それでもこの連鎖から抜け出せる未来が見えてきたのだ。ティリアの声は、自然とはずむ。
「アインが生まれた理由も、ゴーレムが生まれた理由もわかったわ。あとは、シエル、そのゴーレムを倒す方法を教えて」
「そうだね。それじゃあ――」
ぱちん、と、シャボン玉が弾けるような音がして――
「ゴーレムを消滅させる方法を話そう」
――次の瞬間、身体の感覚が一気に押し寄せてきた。身体を支えきれずにふらつくティリアを、フィーロが抱き留めてくれる。そのままゆっくりとソファに腰を下ろす。やっと辺りを見回す余裕ができ、顔を上げる。
元の居間に戻ってきていた。フィーロも、ラウルスも、そしてシエロもちゃんと揃っている。浮いていたシエロがゆっくりと降りてくる。
そうして彼は、もうひとつ魔術を使った。どこからともなく現れたケテルのオーブが彼の手のひらにすぽんと収まる。
「ラウルス兄さんなら、このオーブについても調べたことがあるんじゃない?」
尋ねられラウルスは、もちろんと頷いた。
「『アイン』と同じく『ケテル』に関しても、どんな意味を持つ言葉なのか理解が及びませんでしたから。やはりこれも、情報は得られませんでしたが」
肩をすくめシエロのほうへと歩み寄り、ラウルスはケテルのオーブを手に取った。
「『アイン』が精霊の言葉であったということは、『ケテル』もやはり精霊の言葉なのですか?」
「うん。ケテルはセフィロトのてっぺん、負の感情を吐き出す場所にあるオーブのことだよ。ほら、大樹にいくつもオーブがあったでしょう?」
「あの、果実のように実っていたもの?」
シエロは頷く。ラウルスの手の中で淡い紫に輝くそれは、確かにセフィロトに実っていたオーブとよく似た気配をしていた。
「このオーブはセフィロトのオーブから生み出されたものなんだ。アインで生まれたゴーレムが怨嗟の念を滾らせてマルクトを……この世界を襲い始めたとき、そのゴーレムを浄化して消滅させるために使うはずだった」
「はずだった?」
フィーロは首をかしげた。はず『だった』。その言葉には、違和感がある。それはティリアも同じだった。
「……待った、シエロ。おまえ、今『ゴーレムを浄化して消滅させるために使う』って言ったよね?」
「うん。でも実際に行われたのは――」
「封印術……神子には消滅させるほどの力がなかった、と、言い伝えられてきてはいるけど」
「そういうことになっちゃったんだよね。でも違うよ。本当はただ、やり方を間違えたっていうだけ」
「え……?」
あまりに残酷な現実を突きつけられて、ティリアは言葉を失う。神子の一族では女性の神子の命と引き換えに、二十年間の安息を世界にもたらして、この世界を保ってきた。千年もの間、何人も、何十人も、犠牲にして。
しかしそれでは、その犠牲は全て無駄だったということになってしまう――心臓を貫いた短刀の感触が唐突に甦る。存在しない傷を抑えて、ティリアは浅く呼吸をした。どうか、勘違いであってほしい。祈るように、ティリアは思う。
だがシエロは無邪気に笑って言った。
「あの時神子たちが間違えなければ、今この『神域』は必要なかったんだよ」
傷が、疼く。
今はもうないのに。ティリアの肌は綺麗なままなのに。
グラグラと揺れるティリアをよそに、シエロは淡々と言葉を続ける。
「ゴーレムには『emeth』という文字が刻まれているんだ。それがゴーレムを形作る印だから」
スルスルとシエロの指が動くと、空中に文字が現れた。その『e』の文字に、シエロはそっと指を添える。
「女の神子はオーブを掲げ、男の神子がゴーレムに刻まれた『e』の文字を削るそれが本当の儀式だった」
一文字をサクッと刺すように指を動かすと、その文字は真っ二つに割れて、サラサラと消えて見えなくなる。
「『meth』は『死』を意味する言葉。その印に力を奪われ、ゴーレムは砕けるんだ。そして最後にオーブの魔力を解放してそのゴーレムを完全に消滅させる。それで儀式は完成する……はずだった」
しかし、最初の神子たちは間違えた。短刀をゴーレムに向けるのではなく、女の神子に向けてしまった。それでもかろうじてゴーレムを封印することには成功したが――
「…………」
取り返しの付かないミスだった。今更千年遡って責めることもできないというのに、犠牲になってきた神子の数が多すぎる。何百という屍は、どこに葬られたのだろう。想像するだけでズキズキと心臓が痛み始める。ティリアだって、その誤りのせいで二度も殺された。二度もフィーロに人を殺す決断をさせ、気が狂うほど、苦しめた――
耐えきれずにうずくまるティリアを、フィーロがしっかりと抱き寄せて、シエロを睨んだ。
「その正しい儀式を、どうして今まで黙ってた?」
「最初の神子に近い魔力を持っていないと儀式が成功しないからだよ。あれ以来、必要な魔力を持つ神子は生まれなかったからね」
「でも封印の儀式はできてたんだろう?」
「封印の儀式は魔力が少なくてもできるんだよ。血を捧げるから、それが媒介となって魔力が増強する」
「それでも――」
「方法があるなら僕だってもっと早くに言ってたよ。でもわかったのはティリア姉さんが最初に殺されたときだった」
シエロの言葉にフィーロは納得していない。しかしシエロが語った以上の話ではないのだ。残酷でも。納得ができなくても。
苛立ったように頭を掻きむしるフィーロに、シエロは拗ねたような目を向ける。
「僕だって、本当はゴーレムを消滅させたかったんだ。だから可能性が見つかって、慌てて運命に介入した。これだって結構大変なことなんだからね?」
「……わかっているわ、シエロ。それでも、心がついていかないの。私たちは……人間だから」
「ふうん……」
今度はシエロが納得していないような顔で唇をとがらせ、くるっと背中を向けた。
「ゴーレムを消滅させるなら、ゴーレムの封印が解ける日に――姉さんの誕生日に消滅の儀式をすればいい。それまでの間に魔力をオーブに溜めておいて。やり方は変わらないから」
それだけ言って、シエロはすうっと消えてしまった。そんな様子に、ラウルスが小さく吹き出す。
「面白いですね。拗ねたときのフィーロにそっくりで」
「……俺はもうちょっと可愛げがあるでしょ」
「さて、どうでしょうね」
フィーロはやはり納得がいかないとばかりに眉を寄せた。そんな風にじゃれ合うラウルスとフィーロを見て、ティリアは思わず笑ってしまった。
ようやく光が見えたからだろう。なんだか心が軽い気がする。
自然と頬がゆるんだのも、きっとそのせいなのだろう。ティリアはそれが、幸せだった。
その日の夜。
イェツラー家の最上階のバルコニーに、小さな影がある。
「……こんなところで何をしているんです?」
その影に――シエロに、声をかけたのはラウルスだった。




