第21話 守りたいものは
ゾハールの屋敷にあるティリアの部屋は、今までと同じ場所だった。フィーロの部屋を通らなければ部屋の外には出ることができない。だが、そんなことはどうでもよかった。今のティリアは、ケテルのオーブに魔力を濯ぐ七日に一度の儀式以外で、この部屋を出るような心の余裕はまったくなかった。
どんな決断をすべきなのか――思案しているだけで時間が過ぎていく。そんなティリアに声をかけるのは、フィーロだけだ。
ノックの音が聞こえる。
「おはよう、ティリア」
フィーロが部屋の中に入ってきた。いつものように穏やかな笑みを湛えて、朝食を手に、部屋から出ようともせずぼんやりしているティリアを責めるような素振りも見せず。
だから――フィーロの顔を、見ることができない。
「朝食、ここに置いておくよ」
「……ええ」
バスケットをテーブルに置くと、フィーロはわずかに立ち止まる。その気配を感じて、ティリアは顔を上げた。
彼と、視線が交わる。……その瞳は、どこか寂しげに揺れていた。その色は、すぐに消えたけれど。
「昼食の頃、また来るよ。もしもその気になったら、一緒に庭の散歩にでも行こう」
そうしてすぐに背中を向けて去って行く。その姿にティリアはまた、胸が苦しくなる。
何度も同じ時間を繰り返しているティリアと違って、フィーロは今、この時間だけしか知らない。最初の人生で無邪気にフィーロを信じていたティリアのことも、二度目の人生で疑念と不信感に飲まれていたティリアのことも――二度目の最期にティリアを抱き締めて眠ってくれたことも。その全てを忘れたまま、フィーロは今、ここにいる。
ティリアは幼い頃からフィーロのことが好きだった。初めて殺されたときにはその気持ちを失いそうになったけれど、彼の本心を知った今、もう愛しいと思う気持ちを隠す必要も消し去る必要もない。
だから、世界を救いたい。フィーロを守るためだけに。ティリアにとって「世界」はフィーロとラウルスだけだ。だからたとえ自分が命を落としても、彼らには生きていてほしかった。でも。
……本当は、自分も一緒に生き延びたい。その可能性が、目の前に提示されている。それを選ぶかどうか、最後の一歩を踏み出せずにいたが。
「……だからって、いつまでも閉じこもっていては、何も変わらないわ」
まだどの方向に一歩踏み出すべきなのかは判断できていない。
それでも一歩踏み出そうと、ティリアは覚悟を決めた。
ゾハール家とイェツラー家の間には、大きな庭園がある。庭園の一角にオーブの儀式の噴水があるからそこまでは出歩いていたが、それ以外の場所を歩くのは、婚約してからは初めてだ。
フィーロの隣でゆっくりと歩を進めていく。相変わらずのフィーロは何を考えているのか読めない表情で、こうしてティリアが家を出てきたということに対しても良いと思っているのか違うのか、その心の内までは読めない。
だから、踏み出す。
「ねえ、フィーロ」
赤い花を咲かせる花壇の側で、ティリアは立ち止まりフィーロを見上げた。
「……ん? どうかしたの?」
「あなたに聞いてみたいなって、思って」
「どんなこと?」
「……もしも私との子どもが生まれるとしたら、どんな子だと思う?」
訊ねた瞬間、フィーロは凍り付いた。その顔から誤魔化しようもないほどに感情が消えて、空気は凍り付き――そしてフィーロは、不器用に笑った。
「子ども、かあ……」
「好きじゃない?」
「いや、子どもは好きだよ。まあ、俺が知っている子どもはきみとシエロだけだから、身内の欲目もあるかもしれないけど」
「だったら、私とフィーロの子どもだってきっと好きになるわ。だって、究極の身内でしょ?」
「……まあ、そうだね」
フィーロは確かに笑っている。しかしその表情はどこか硬くて、ぎこちない。笑ってはいる。けれど、違和感は拭えない。これほど感情を押し込んで微笑むことができるはずの人が、こんなにも動揺を露わにしてしまうほど、特別な選択肢だということだ。
たとえ子どもを望んだとしても、一年後にはティリアは死んでしまうのだ。子どもを為すことも許されないまま、無惨に。
「欲しくない?」
「そんなことは――あ、いや」
フィーロは勢いよく否定しようと一歩前に出て、その感情を抑え込むように首を振って、身を引いた。笑おうとして、失敗して、また引きつった笑みを浮かべ――その繰り返しを見ていたら、いくらなんでもわかってしまう。
この人は、一年以上先のことは考えないようにしているのだ。もしかしたら、一年後のことさえも。
ティリアは微かに目を細め、フィーロの手を取った。
「ごめんなさい、変なことを聞いて」
「……いや」
「今はそんなこと、考えている場合じゃないわよね! だって、まず私がすべきことは儀式を成功させることなんだもの」
「そうだね……」
「だいたい、私自身がまだ子どもなのに赤ちゃんのことを考えるなんて、さすがにまだ早すぎるわ。まずは自分で自分のことを完璧に出来るようにならなくっちゃ!」
できるだけ昔の無邪気な自分に寄せるように、ティリアは大きく笑ってみせた。
風が吹く。ティリアの髪をふわりと揺らす。赤い花がゆらゆらと動く。空も高く、澄み渡った青空だ。
そんな中なのに、フィーロだけは不器用に、そして、曖昧に笑っていた。
開けてはいけない扉、というのが誰にもある。聞かれたくないこと、触れられたくないこと、黙ったままでいたいこと。その気持ちがうまく噛み合わなくて、心がすれ違ってしまう。そんな物語をティリアは何度も読んだことがある。
これはフィーロにとっての開けてはいけない扉だったのだ。……きっとそれだけ、未来のことを本当は真剣に考えてくれているのだ。
だから、心が決まった。
「フィーロ、そろそろ屋敷に戻りましょう。なんだかお腹がすいたの。おやつを食べたいな」
「……今日の朝まで、魂が抜けたみたいになってたのに。急にどうしたの?」
「ふふ……本当に、どうしたのかしら。私、自分でも自分がよくわからないの」
今朝までどうしてこんなに迷い続けていたのか、自分でもよくわからないのだ。ただわかるのは、覚悟が決まる瞬間というのは意外とこんなものなのだ、ということだけ。
ただ、彼をますます愛おしいと想った――きっと、必要なのはそれだけだったのだ。
この想いを確認した以上、もう、迷うことなどなくなった。ティリアは肩の荷が下りたような気持ちで天を仰いだ。
その日の夕方、フィーロは首都に行かなければならない用事が出来たと言って、急に屋敷を出て行った。とはいえ恐らく戻って来るまでにさほど時間はかからないだろう。二度目の人生のときにも同じことがあった。あのときは調べる時間が足りなくて身動きがとれなくなったが、今はもう焦るようなことはない。
ゾハール家の二階の一番奥の部屋――シエロの部屋。
その前に立ったティリアは、迷うことなくノックした。その瞬間、待っていたよと言わんばかりに扉が開く。
「いらっしゃい、ティリア姉さん。気持ちは決まった?」
「ええ、決まったわ」
「そう。それで、きみの結論は?」
不敵な笑みを浮かべてこちらを見上げるシエロに、ティリアは満面の笑みを浮かべて告げた。
「私はフィーロとの子どもは産まないわ。だから、別の方法を教えて」
その瞬間、シエロはスッと温度を下げて、氷のような瞳でティリアを見据えた。




