第20話 生きるための条件
ティリアは唖然としたままシエロの言葉を飲み込もうとする。
――僕があなたをこの世界に連れ戻したからだ。
だがその言葉の意味が、すぐには理解できない。シエロがティリアを連れ戻した? もしもその言葉が事実だとすると、ひとつ気づくことがある。
命を落とし、元の時間に戻るとき。ティリアに語りかける声があった。
――変えてみたら? きみの運命を。
――じゃあ、まだ楽にしてあげるわけにはいかないよ。
――今度こそ見つけてごらん。本当の幸せを。
……どこから聞こえてくるのかもわからなかったあの声の正体は、もしかしたら、彼だったのだろうか。
強い風が吹いた。ティリアの長い髪が舞い上がる。足元にスカートが絡みつき、ひやりとした空気が背中を駆け上がっていった。
「……気づいた?」
「何を?」
「生と死の狭間で僕に出会っていたこと」
ティリアは大きく息を吐く。
「やっぱり、そうなのね」
冷たい風が身体に触れる。そのおかげで、先ほどまで混乱していた頭はスッと落ち着いていった。シエロの言うことを素直に受け止めていいのかは、若干の疑問が残る。しかし、彼が起こした奇跡のような魔術をこの身で体験した。彼が精霊だということは、信じてもいいのかもしれない。
「でも、どうして?」
「ん?」
「私を助ける理由なんて、あなたにはないでしょう? 神子だから、という理由なのだとしたら、これまでの神子のことだって助けているはずだわ」
たとえば、ラミーナ・ゾハールのことを――兄を苦しめ、フィーロを傷つけたあの瞬間さえなければ、彼らは地獄のような痛みを胸に抱えずに済んだのだ。しかし、ラミーナは救っていない。
すると彼は少しだけ考え込んでから、ふわりと宙返りをする。それから元通りつま先を地面のほうに向けて、するするとティリアに近づいてきた。
至近距離で、彼は笑う。
「『アインより生まれしゴーレム』って、そもそも何なのか知ってる?」
「え……?」
「知らないよね。だって、誰もその正体にたどり着けていないから」
「……あなたは知っているの?」
「もちろん」
事もなげにそう言うと、シエロはわずかに距離を取った。
「聖域に閉じ込められているきみは知らないだろうけど、この世界にはたくさんの黒い感情がある。妬み、憎しみ、悪意、殺意……人と人とが関われば、自然とそういう感情が生まれる」
言葉を紡ぎながら、シエロは空中に黒々とした塊を生み出していく。妬み、苦しみ、悪意、殺意――確かにティリアはそれを知らなかった。甘やかされて育ったから、そんな感情を体験することなく生きてこられたのだ。
初めてその感情に直面したのは、最初に胸を刺されたときだ。
「魔力っていうのはね、そういう感情を具現化しやすいものなんだ。黒々とした感情は瘴気となって、世界のあらゆる場所に漂っている。それらが初めてひとつにまとまったもの――」
パンッ、とシエロが手を叩くと宙を舞っていた黒い塊がひとつに集合する。そしてそれは人の形によく似たドロドロとした物体へと変貌した。流体と固体のあいだのような柔らかさで、蠢くようなヘドロを巻き上げながらおぞましい姿でゆらゆらと揺れている。
「これは負の感情の化身。そして、その感情たちが世界を破壊しようとする。そして人間が生きている以上、負の感情は生まれ続ける。ゴーレムに力を送り続けているということになるんだよ。それを止めることはどこの誰にだって出来ない」
「それじゃあどうすればいいのよ! このままずっと、命で封印を続けるしかないというの? フィーロもお兄様も永遠に苦しみ続けるというの!?」
「でもね」
シエロは笑う。
「きみが一度目に死んだ時、わかったんだ。きみには奇妙な光があるって」
「……え?」
「だから僕は、きみを世界に引き戻した」
ティリアは浅く息を吐く。なるほど、自分が助けられた理由はわかった。しかし。
……それが善意からくるものだとは思えない。
「私は、何ができるの?」
「これまでとは違う儀式が」
信じるべきか、信じざるべきか。判断がつかないまま、ティリアはじっとシエロを見つめる。判断に悩んでいる――そのことは彼も感じるのだろう。だからそのまま、わずかに言葉の速度を落として、続けた。
「魔力には個人差がある。そしてそのほとんどは生まれもった資質だ。だから神子の一族は、一族の中で婚姻し、血統を守り続けてきた。ただ、突然変異というのも起こり得るものだ」
「じゃあ、私が――」
「そう。神聖なまま保たれてきた神子の持つ癒しの力に、さらなる力が加わった。どこまでも純潔で、崇高で、透明な力だ。それは、ゴーレムにとって非常に相性の悪い魔力でもある」
「じゃあ、ゴーレムを倒せるということ!?」
「倒す、までいくとどうかな。誰もやったことがないからそんなに都合よくいくかはわからない」
「……それなら、何の役に立つの」
忌々しいゴーレムがいなくならなければ、神子の一族はこの役目から降りることはできない。フィーロを苦しみから解き放つことも出来ないのだ。だったら自分に特別な力があったとしても何の意味もないというのに。
その不満は顔に出ていたのだろう。シエロはケラケラと笑うと、期待外れでごめんね、と嘯く。
「でもね、全く意味のないことはないんだよ。きみが二度死んだことで、ようやくふたつの発見をした」
「ふたつ?」
「そう。まずひとつ。きみが命まで落とさなくても、儀式の場でわずかな血を与えることで、数年間の猶予を得られる」
「……え?」
「つまり、アインより生まれしゴーレムを数年長く眠らせることができるんだ」
「本当に!?」
思わずシエロの腕を掴み、彼を引き寄せる。
「本当に、神子を殺さなくてもゴーレムを眠らせることができるの!?」
「うん、理論上はね。ただしそれは根本の解決にはならないよ。恐らくそれが可能なのは一度か二度。そう長く使える方法じゃない」
「……なら、結局いつかは生け贄を捧げなければならないの?」
「そうなるね。それで……ひとつ確認しておきたいんだけど」
シエロはそのままティリアの腕を掴み返し、口角を上げる。
「きみが守りたいのはフィーロ兄さんであってる?」
「ええそうよ。もう……あの人の手を血で染めるようなことはしたくない。もちろん、お兄様のことだって」
「了解。つまり、きみの手の届く範囲にいる人のことだ」
「……うん。だって、わからないもの、他の人たちのことなんて」
「まあ、そうだろうね。健全だと思うよ。未知のものを救おうだなんて、そう簡単に至れる境地じゃない。けど、そういうことならちょうどいい」
そっとティリアの手を取ったシエロはゆっくりと下降していく。高い空の上から、ゆっくり、ゆっくりと、地上にある屋敷へ向かって。
「きみの血を使って、ゴーレムを数年間眠らせる。その間にきみは――」
ティリアはバルコニーに降り立った。それでもシエロは宙に浮いたまま、まるでこの世のものではないかのように、漂っている。
そして、告げた。
「子どもを産むんだ」
「……子ども?」
「そう。きみの特別な魔力は、一族の者と交わることで、更に純度が上がる。その子を生け贄に捧げれば――」
シエロはティリアの耳元で、囁いた。
「ゴーレムは姿を保てなくなり、消滅するよ」
「……え?」
――つまり、それは、どういうことなの?
ゴーレムを消滅させられる。世界は脅威に怯えることもなくなって、神子も血を流す必要はなくなる。
最後のひとりを犠牲にすれば。
……自分の子どもを、犠牲にすれば。
シエロは三日月に目を細め、ふわりと高く舞い上がった。
「結論は急がないよ。だから、しっかり考えて決めて――きみは何を守るべきか」
「待って!」
だが、シエロはそのまま空へ空へと舞い上がった。そうしてやがて、姿が消える。
そこに残ったのは真っ白に満ちた月だけだった。
「私が……守るべきなのは……」
ティリアはその場に力なく崩れ落ちる。
それからどれくらいそこにいたのか、ティリアには、わからなかった。
それから何日が過ぎただろう。
時間の感覚も曖昧になるほど考え込んでいても、ティリアには結論が出せなかった。ゾハールの屋敷に移っても考え込んで塞ぎ込んで、ずっと寝室に籠もっていた。
その間ずっと、ケテルのオーブを見つめ続け……
――ノックの音を聞いたのは、そんなある日のことだった。




