第2話 『十九歳』の誕生日
「ティリア、起きていますか?」
部屋の外で声が聞こえ、ティリアはベッドに半身を起こした。耳馴染みのある声と、自らの身体に傷のひとつもないのと、同時に確認してティリアは大きく息を吐いた。何が起きたのかわからない。まだ胸元を深く貫かれたあの感触も、血の臭いも、何もかも残っているというのに。背中に冷たい汗が伝う。あれは夢だったとでもいうのだろうか。
「ティリア、入りますよ」
反応出来ないままぼんやりとしていたせいだろうか、扉の向こうで声をかけていたその人が痺れを切らして行動に出る。扉が開く音が聞こえ、足音が近づいてきた。ティリアは息を呑んだまま音のする方へと顔を向ける。
「なんだ、起きているんじゃありませんか」
「お……兄様……」
「どうしたんです? 魔物にでも出会ったような顔をして。怖い夢でも見ましたか?」
「いえ……」
「まさか、朝から兄の顔を見たのが不満だとは言わないでしょうね?」
「そんなこと思っていないわ、勝手に部屋に入って来たのは不満だけど」
「ふふ、そうですね。ですが、あなたが悪いんですよ」
兄は――ラウルスは、クスクスと笑いながらベッドから離れていく。彼がカーテンを開くと、明るく輝く太陽の光が部屋の中に降り注いだ。
「いつまでものんびりはしていられませんよ。もう準備は整っているんですから。彼はゆっくり寝かせてやればいいと言ってくれましたが、兄としては妹をしっかり躾ける義務がありますから」
「……私、そんなに眠っていたの?」
「もうとっくに、約束の時間は過ぎています」
「約束……」
混乱する頭を抑え、ティリアは必死で記憶を辿る。約束、一体、何の約束をしていたのだろう。顔に出せば、兄を心配させてしまうかもしれない。だからできるだけ平然としたまま、これから何をする予定だったのか、探りを入れていかなければならない。準備とは何か、ティリアを寝かせてやればいいと言った「彼」とは誰か。だが、なかなか思い出せない。
「……今日って、遅れたらよくない日だったかしら」
「何を言っているんです。当然でしょう? また説教をされたいんですか?」
「そ……ういう、わけではないのだけど」
「まったく。いずれにしても、今は時間がありませんから。早く婚約の儀式の準備をしてください。寝坊のお説教はまた後です」
「え……待って。今、なんて言ったの?」
「説教は後だ、と」
「いえ、その前」
「……ティリア、何かありましたか?」
ラウルスは急に不安そうにティリアの元へとやってくる。ティリアの手を取り、手首を握り、頬を包んで目を覗き込み、首筋に手を当て、小さく息を吐く。
「体調不良はなさそうですが……もしどこか不調があるようなら、婚約の儀式はまた後日にしても構いません。しきたりでは十九歳の誕生日当日とされていますが、数日ずれたところで問題はありませんから」
十九歳の誕生日――ティリアは、息を呑む。
自分は確かに死んだはずだ。二十歳の誕生日を迎えたその瞬間に、婚約者だったはずのフィーロに殺されて。だがラウルスは十九歳の誕生日だと言った。兄はつまらない冗談を言うようなタイプではないはずなのに。
その瞬間、脳裏に言葉が甦る。
――じゃあ、変えてみたら? きみの運命を。
男の声か、女の声か、それはよくわからない。ただ、確かにそう言われた。その直後に目が覚めたのだ。死の感触を残したまま。
つまり、一年前に戻っている――
「フィーロに伝えてきます。彼も、あなたが不調なときに儀式をすることに同意はしないでしょうから」
「待って」
心配そうに離れていこうとするラウルスを、慌てて止める。もしも今気づいたことが正しいのなら、すぐにでも確認したい。確かに自分は婚約の儀式をした。幼い頃からずっと自分のそばにいた、従兄のフィーロ。その彼と婚約し、ケテルのオーブを渡されたのがこの日だった。
それが一年後、自分の命を奪う鍵となるのも知らず。
「すぐに準備をするわ」
「ですが……」
「大丈夫。眠りが深くて、混乱していただけだから。お説教は後でいいんでしょう?」
「……わかりました」
ラウルスはティリアの変化に何か違和感を覚えてはいるのだろう。それでも深くは踏み込まず、そっと頭を撫でてくれた。
「すぐに準備をして、儀式の広間に来てください。すぐに出来るようにしておきますから」
そう告げて、部屋を出ていった。兄はいつもそうだった。ティリアとは十三も年が離れているというのはあるだろう。父も母も他界しているティリアのことを、まるで親のように育ててくれた。大切に、少しのわがままは許しながら、聞いて欲しくないことには踏み込まないように、慎重に。
だが、だからこそ疑問が残る。
兄も知っていたのだろうか――一年後、ティリアが殺されるということを。
敵か、味方か、わからない。だからこそ、慎重に動かねばならない。
ティリアは静かに息を吐き、寝間着を脱いだ。肌を晒し、改めて胸元に手を添える。やはり傷は、どこにもない。
生きている。
それならば、見極めるだけだ。なぜ自分は殺されたのか、誰がそのことを知っていたのか、誰のどんな意志だったのか――そもそも自分は、なぜこの世に産まれたのか。
贄として捧げられるための存在だなどと、認めていいわけがない。
ティリアは強く拳を握った。
身支度を調え、儀式の広間の扉を開く。
純白の大理石の床、真っ白な柱、中央には無機質な祭壇――ただ、泉だけは貼られていない。
存在しないはずの傷が疼き、ティリアは胸元に手を添える。そんなティリアを、青みがかった癖のある短髪を揺らしながら、あの人が振り返った。
「おはよう、ティリア……待っていたよ」
――フィーロの浮かべる柔和な笑みに、ティリアは深く息を呑んだ。




