第19話 精霊
――あなたは、一体誰なの?
そのティリアの問いに、シエロはニヤリと微笑んで小首を傾げる。
「……部屋に入れてもらってもいい? ここで話して、誰かに聞かれたら困るから」
「ええ……」
ティリアは頷き扉を開く。そうして彼を招き入れると、微かに風が吹いた。刺すように冷たく、それでいて、柔らかい。不思議な感触を持ったそれに、思わず息を呑む。
寝室の手前にある応接スペースまで歩み寄ると、ティリアはそっとソファを指差す。シエロは無垢な笑みを浮かべてそこに腰掛けた。ティリアもまた、向かいに座る。
「さて……何が聞きたいんだっけ?」
「……まずは、あなたの正体を」
「正体?」
「知っているんでしょう? 私が隠された一族の歴史を知った神子だということを」
本来、生け贄となる神子には一族の歴史や神子の本当の役割は伝えられない。命を奪われるその瞬間まで秘匿され、そうすることで逃げ出さないように細心の注意を払われている。
だがティリアは知っている――そのことを、シエロは恐らく、気づいている。
彼はにっこりと目を細めると、その前に、と身を乗り出す。
「ティリア姉さんは、これからどうするつもりなの?」
「……どういうこと?」
「だって、全部を知っているんでしょう? それでもここにいるっていうことは、何か企んでいるからじゃないの? 僕はそれが知りたいんだ」
今すぐにでも教えろとばかりにシエロは結論を急かしてくる。だが、ティリアはそのことに違和感を覚える。気になるというのはわかる。だが、ここまで性急に結論を求める理由はどこにあるのか。
「私のことを聞く前に、あなたのことを教えて」
「……結論を急ぐね」
「それはあなただって同じでしょう? だいたい、最初に質問したのは私だもの。順番は守って」
きっぱりと言い切ると、シエロは驚いたように目を見開いてから、あはは、と声を上げて笑い出した。
「すごいな。確かにその通り、姉さんが正しいよ」
ケラケラとひとしきり笑ってから、彼は足を組み、頬杖をついて口角を上げた。見た目こそ幼い少年だというのに、その表情に幼さはない。むしろ何千年も生きているような、不気味ささえ感じさせる。
彼は恐らく、人ではないのだ――その気配に身構えながら、ティリアはシエロの言葉を待つ。
「そうだな……」
少しだけ考えてから、シエロは右の手のひらを上に向け、そこにフッと息を吹きかけた。
その瞬間、ティリアの視界がぐらりと揺らぐ。
「なに、これ――」
「大丈夫だよ、ティリア姉さん。あなたを今から――」
――――声が、一瞬、途切れ――――
次の瞬間、ティリアの視界が無限に開けた。天には星が輝き、足元には大地が広がる。どこまでも遠く、遠く、木々が広がり、草原が広がり、時々家屋がある。大きな屋敷もあれば、小屋のような小さなものも。ほのかに明るいものもあれば、暗く沈黙するものもある。
自分は今、空にいるのだ。まるで、鳥のように。
「驚いた?」
ふわふわと漂うシエロが、ティリアの正面に現れる。彼もまた、宙に浮いていた。まるで当たり前のことのようにくつろいで。
「……あなた、私に何をしたの?」
「僕の正体を伝えるために、僕の視点を知ってもらおうと思って」
「視点、って――」
ティリアは辺りを見回す。空から見下ろすということが、彼の視点だというのだろうか。だとしたら、
「あなたは……鳥?」
「残念、ちょっと違う。羽根はあるけど鳥ではない」
「それなら、幻?」
「それはないよ。だって姉さんは僕に触れたでしょ?」
「じゃあ……」
「精霊」
――その単語を、ティリアはすぐには理解できなかった。精霊。それは、普段意識することがあまりにも少なかったせいだ。
言葉を失ったティリアに柔らかく笑みを向け、シエロはまるで歌うように語り出す。
「きみたち人間には魔力がある。その質も量も人によってバラバラだけど、誰にでも流れているものだ。その魔力を上手に形にして、様々な形で放出するのが魔術――そこまではいいね?」
「……ええ」
「じゃあ、魔術ってどうやって形になっているかは知ってる?」
「え? それ、は……」
魔術がどのように形になるのか。たとえば火を起こし、水を湧き出し、風を吹かせ、花を咲かせる。魔力はどのように魔術に変化しているのか――
「……考えたこともないわ」
「だろうね。意識している人は少ないし、そもそも意識する必要もない。でも、その理由は確かに存在する」
「……一体、どうやって形になるの?」
「それはね、精霊が人間の魔力に反応するから」
そう言ってシエロはティリアの真横に並んだ。
「手を出して」
言われるがまま、ティリアは両手をそっと差し出す。シエロは静かに瞳を閉ざすと、ティリアの手のひらにフッと息を吹きかけた。
瞬間、ティリアの体内で魔力が一気に流れていく。まるで引きずり出されるように手のひらに集中したかと思うと、七色に輝き、吹き出すように光が溢れる。その輝きは天を駆け上り、まばゆい虹となって――数秒後、消えた。
唖然として口をぽかんと開けるティリアに、シエロは「ね?」と笑いかけた。
「こうやって、人間の魔力を魔術に変えるのは、精霊の力なんだ」
「ま……って。なら、あなたは……精霊?」
「そうだって、さっき言ったじゃん。僕は精霊。きみたち神子の一族を長く見守っている、守護精霊だよ」
にわかには理解がし難い。だいたい、精霊というのは物語の中にしか存在しないものだったのだ。フィーロやラウルスが与えてくれた本の中で、悪戯好きな子どもとして描かれていただけの、想像上の生き物のはずだ。
なのに、今、目の前にいる少年は自分が精霊だと名乗った。……それを簡単に信じられるはずがない。
「ねえ、姉さん」
「……なに?」
「突然のことでびっくりするのはわかるよ。でもさ、冷静に考えてみてよ。姉さんはもっとびっくりするようなことを経験してるでしょ?」
「え……?」
「だって、おかしいじゃない。一度死んだ人間が、死んだ記憶を持ったまま、過去に帰って来るなんて」
――頭がおかしくなりそうだ。
シエロの言うことは確かに正しい。死んで、まだ死にたくないと願ったら、一年前に戻ってくる。そんなこと、おかしな話だとわかっている。もしもそれが当たり前に起こることなら、フィーロもラウルスもあんなに苦しんだりしないはずだ。たとえ神子一人殺しても、死なずに元に戻るのだから。でも、現実はそうではない。だから誰もが傷ついている。
それなのに、ティリアだけは戻ってくる。一度ならず、二度までも。これがおかしくないなどと、一体誰が思えるというのか。
だからって、シエロの言葉の全てを飲み込めるわけがない。
「……どうして、知っているの?」
震える唇がようやく紡いだのがその問いだった。
「私が、死んで、戻ってきたって。記憶を持ったままここにいるって、どうしてあなたが知っているの? ずっと寄り添っていた精霊だから!?」
「落ち着いて、落ち着いてよ、姉さん。そんなに一気に言われても答えられないよ」
ケラケラと笑うシエロは、ティリアの混乱を楽しんでいるようにさえ見えた。ひとしきり楽しげに笑い、クルクルとティリアの周りを回って――それから空中で逆さまになったまま、ティリアの顔を覗き込んだ。
「まずはどうして僕が知ってるか教えてあげる。でもね、答えは簡単だよ」
まるで純真な赤子のように透明な笑顔で、シエロは言った。
「僕があなたをこの世界に連れ戻したからだ」




